私にとって第二の転機は、故郷のために為した一つの貢献だった。中津に洋学校を建てたのだ。その学校のために書いた設立趣意書が評判になって、三田の印刷所から出版してみたところ、国中で売れに売れ、ベストセラーになった。これほど多くの民が新たな時代に自分の生き方を模索していたことに、私は大いに驚きまた畏れた。無論、期待はあった。自分なりの工夫と思惑もあった。手本となったのは、かつて時代の移行期に、知識階級に向かってやんわりと気を吐いた大僧正である。「おほけなく浮世の民におほふかな我が立つ杣に墨染めの袖」と詠まれたお気持ちは私も同じ、痛いほどわかるのだ。身の程知らずであろうとも、洋学者としてできることはやらねばならない。それは私に課せられた使命だった。西洋列強が迫る中、まず国の独立を保たねばならぬ。だが、それは目的ではない。文明世界に貢献できる国であることが大事なのだ。長い道のりだが、私が浮世を生きる民のために何かできるとしたら、まずは「勉強して力をつけ、良い国民になれ」と告げ知らせることしかない。
あの書の中で私は、もともと人民と政府との間柄は、職分が違うだけの同一体であって、政府が人民に代わって法を作り、人民は必ずこの法を守ると固く約束したのだと書いたが、無論実際は、人民は政府と約束を取り結んだりしてはいない。しかし、こういう社会契約の概念を所与のものとして前提した方が、そうでない場合より住みやすい社会を作るに有益なら、そう考えるに差し障りはない。万人が上下の別なく平等の権利があることを天賦のものと考えるのと同様である。万人が万人に対して敵対的に向き合って争うより、法律を仲立ちにして互いに契約を結ぶ方がずっといいに決まっている。私は無秩序が大嫌いであるが、それは単に人命と時間と活力の無駄という至極現実的な理由からである。国が四分五裂して戦った幕末にいいことがあっただろうか。争いは論争だけでいい。もっとも、奴隷問題からアメリカで国を二分して戦う内戦があったおかげで、日本は破局的事態を免れたのではあるが。
それにしても、『愚管抄』には度肝を抜かれた。知的世界の頂点に君臨する比叡山延暦寺の天台座主ともあろう方が、カタカナを用いて書くなどあり得ぬことだ。その当時、学問する家柄に生まれた者でさえ、漢文で書かれた書物を読まない、読めないというのがもし本当なら、それは文字通り末期的状況である。平安貴族から鎌倉武士へと権力が移りゆく時代、慈円は間違いなく体で乱世を感じ取っており、それゆえ、何とか歴史に目を向けさせようとしたのであろう。しかし、乱世というなら今こそその時ではないか。平安から鎌倉への移行など国の在り方そのものには何ら変化を及ぼさない。だが今は、日本の治世が他国民の手に渡るかもしれないという瀬戸際なのだ。インドを見よ。英国留学の馬場君からの報告では、自国民による治世の可能性は法律に則って巧妙に排除されている。中国を見よ。アヘン戦争以来この方、国中が野獣に食い荒らされているような様相だ。それも正当な手続きに則ってである。我が国だって、思わぬファクターのちょっとした作用で中国の二の舞になり得るのだ。それだけは何が何でも避けなければならない。民が賢くならない限り、国の指導者が民を導くだけでは駄目なのだ。だが、後々のことを考えて優れた采配のできる指導者もなくてはならない。そのことを理解するには会津という地を見れば十分だ。会津戦争とその戦後処理はあまりに過酷だった。最終的には下北へ移住の沙汰となり、辛酸の限りを味わった会津の者たちは、死者も生者も彼らの仕打ちを忘れないだろう。せめて鳥羽・伏見の戦いの引金となった庄内藩に対して、西郷が示したような寛大な措置があったなら、これほどのしこりは残らなかっただろうと思わずにはおれない。しかし、そんな泥水の中からでも美しい花は咲く。人間というのは計り知れないものだ。
話が逸れた。惻隠の情はいつも私を熱くしてしまう。私は慈円の手法に倣った。ただしカタカナではなく、学者にあるまじきひらがなを用いて書いたのだ。本当に新しい時代の文体が出来上がるには、さらに十数年かかった。表記法以外にもう一つ私が考慮したのは、フランス語で何といったか、そうそうエクリチュールだ。それまで国中の民に向かって「教師のエクリチュール」で語りかけた者はいなかった。私のあの説き勧めが「教師のエクリチュール」を用いて書かれた日本で最初の書である。私はそれを意識的に行い、確立できたといっても言い過ぎではあるまい。教師が揺るがぬ信念を自分の言葉で述べる時、そしてここが大事なのだが、教師自身がその言葉のままに生きている時、教師の言葉はほとんど無敵である。事実でないことを言おうが、論理に飛躍があろうが、関係ないのだ。『学問のすゝめ』は啓蒙文学と呼ぶべき書なのである。私は相当きつい言葉を用いたが、それにもかかわらず、無為に過ごしていた人々に「勉強したい」という彼ら自身思いもかけなかった欲望を起動させてしまった。あれから全国津々浦々の地域で沸き上がった上京熱はすごかったな。
さて、『学問のすゝめ』はもともと初編のみで完結するはずだったのだが、そうもいかない事情が出てきた。それは明六社なるソサエチーに誘われた事だった。あのような新政府の官吏の集まりみたいに見える結社に名を連ねるなどまっぴらだ。何より発起人が「国語を英語にしろ」などという大馬鹿者なのだから、これは困った。そして、彼らが政府の中枢に食い込んでいるとなれば、座視するわけにはいかなかった。それで明治六年の十一月から毎月のように続編を刊行することにした。政府のお役人がいくら増えてもミドル・クラスは育たない。民間による産業の勃興こそが今必要なのだ。官に取り込まれないためにも、私は続編の四編で洋学者の職分の何たるかを示した。思った通り反論が出て大議論になり世間の耳目も集めたし、私が徹頭徹尾「民」に依拠することが満天下に知られたから、目的は果たせた。
まずは然るべき立場の指導者が民を導く方がよいと考える洋学者もいるが、何様のつもりだ。後見人にでもなったつもりだろうか。こういう考えは、この際言っておくが、次善の策などではなく、はっきりと有害なのだ。理由は簡単、民の成熟を妨げるからである。カントも言っていたではないか、「自ら招いた未成年の状態、すなわち、他人の指示なしに自分の理性を使うことができないのは、理性が無いからではなく、自分の理性を使う勇気が持てないからなのだ」と。結局のところ、人は考えない方が楽なので、他人の指示に従う選択を自らするのであり、それが「蒙」の状態にあるということなのだ。「蒙」を「啓く」呪文の言葉は、一言「サベーレ・アウデ 知る勇気を持て」だ。ホラティウスの格言では「知る勇気を持て。始めよ。正しく生活すべき時間を先延ばしする人は、川の流れが止まるのを待つ田舎者と同じだ」である。別の言い方をするなら、そうだな、‟Stay hungry. Stay foolish.”とでも言おうか。聡明であるために愚かにならなくてはならないとは、不思議なものである。だが、真実はその通りなのだ。そうして私の後に続いてくれた者が出たから、この国は今現在生き残れているのではないだろうか。
明六社に連なった人々に関してもう一つ許し難かったのは、日本語の扱い方についての根本的な倒錯だった。国語に関する私の考えは、すでに私の起こした私塾に関する明治三年の『学校の説』に書いた通りだが、何しろ『明六雑誌』の創刊号は西先生と西村先生による国語のローマ字表記論だというのだから、放っておくわけにはいかなかった。馬鹿げた喧嘩を売られたものだ。私は決意した。手始めに、『明六雑誌』が出る前に先手を打って、続編の五編で「原書をどんどん翻訳して日本国中に流通させるのが洋学者の責任である」と表明した。それは「できるだけ早くこの結社を解散させなければならない」との判断によるものだった。もちろん、穏やかに、全ては状況の変化に見えるようにして…。福地君は文久の遣欧使節で洋行を共にした仲だから、私の意図を察してくれた。そうそう、福地君と言えば、昔私が江戸に来て旗本のようなものになって幕府に出仕していた時、こんなことがあった。江戸では将軍にお目見えが適わぬ御家人を「旦那」、お目見えができる旗本を「殿様」と呼ぶのだが、かようなことは家の者は知らぬから、福地君が「殿様はご在宅か」と言ってうちに来た時、「いーえ、そんな者は居ません」と下女と押し問答になったっけ。私は幕臣になって手柄を立てようという気なぞさらさらなかったが、福地君も出世欲のない男だった。大蔵官僚から新聞界に転身したのは彼の進取の気性のなせる業だが、多少は勇気が要ったことだろう。「知る勇気を持て」という内なる声に従ったのだ。『東京日日新聞』での読者とのやり取りはちとやりすぎの感もあったが、ジャーナリストとしての彼の感覚は的中した。政府が取り締まりに乗り出してきたのだから。「高上なるソサエチー」とは明六社のことだとすぐわかったが、ソサエチーに「社会」という語を当てたのは福地君のクリーン・ヒットだ。ピンときた、私が続編の五編で用いた「社中会同」を縮めたものだということは。それ以来、私は自分の訳語「人間交際」を捨て、「社会」に乗り換えた。「社中会同」略して「社会」、うむ、簡潔でわかりやすい。昔から「椀屋久右衛門」は「椀久」であったし、日本語のフレーズの短縮パターンは決まっている。「紅葉露伴」は「紅露」、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」は「デカンショ」、同様に、「社中会同」は「社会」というわけだ。そして、あの「ペルソナルアタック」やら、「ペルソナルプロテスト」やらのカタカナ語の乱れ打ちは、はっきり一人の人物を彷彿とさせる。彼の漢語力、国語力はどれほどのものか、これは興味ある案件だ。最後の続編十七編でこのことは書いておいた。嫌味だったかもしれないが、あんまり腹に据えかねたんでね。「日本の言語は文章も演説もできぬ不便な言語だから、英語を使い英文を使え」とは、日本語に対して失礼だ。そんなことを口にするのは、日本に生まれていまだ十分に日本語を使えない男だ。国の言語というものは新しい事物を飲み込んで消化し、新たな言葉を作り出し、何不自由なく使えるはずのものではないか。だから私は、ちゃんと日本語を勉強しなさいと忠告したまでである。まあ、二十歳前に渡英し、英語は自在に操れるようになったものの、優れた翻訳者なら身に着けているはずの漢語力、国語力がないからそんな戯言を言うのだ。気の毒と言えば気の毒だが、西洋と対抗して並び立つために日本の課題を乗り越えるには、国語しかないのだ。私は民の力を信じる。
ここでどんなに高く評価してもしきれないのは、やはり二葉亭君の達成なのである。彼は一般大衆が自由に使える新しい文体を創ってくれた。それまでの漢語は誰でも自在に使いこなせるものではなかったから、これでやっと全国民に対して啓蒙可能な条件が整ったのである。カントの論理で検証しよう。最初に置くのは「『理性の公的な利用』だけが、人間に啓蒙をもたらすことができる」という命題である。
次に、以下の三つの命題を考える。
一、「学者だけが、『理性の公的な利用』を行える」
一、「学者とは、何からも制約を受けずに思考でき、それを文章で表明できる者の
ことである」
一、「国民全員が自分の自由な考えを文章で表明できる」
この三つの命題が各々真であると仮定して、そこから導かれるのは次の命題である。
「国民全員が『理性の公的な利用』を行える」
これを最初の命題に代入して得られる結論は
「国民全員に啓蒙をもたらすことができる」
である。これは、最初の命題が真である限り、真である。最初の命題はカントが提出した命題であるから、否定するのは容易ではない。とすれば、「国民全員が自分の自由な考えを文章で表明できる」、を達成できさえすれば、全国民を啓蒙できることになる。こう考えると、日本語における自由自在な表現を可能にする新しい文体を生み出した二葉亭君の貢献が、どれほどすごいものだったか分かるだろう。事実、言文一致体が書き言葉として日本語に定着しなければ、全国民の啓蒙は難しかったであろう。「こうすれば、こうなる」という理論上の仮定が実現するのは、現実的方策によってそれが支えられたときだけである。そして、この「理論を可能にする方策」なるものは、他人には「何をやっているのかわからない」と思われながらも、自分の心と直感に従って努力し続ける人間から、不意に与えられる無償の贈り物なのである。