西洋の歴史は、領主たちが教皇から支配権をもぎ取っていった過程を記すが、やがて国民国家を形成していく転機は、やはりウェストファリア条約であろう。しかし、私の関心はそこにはない。私の問いは、ヨーロッパでは、各地域の村落共同体の集まりにすぎなかった社会集団を、いかにして国という概念にまで高めたのかということだ。戦争は大きなきっかけにはなるが、戦争を通じて自国意識を強化するだけでは足りない。一つ言えるのは、国という概念は不安を根底に形成されたということだ。生まれ育ったムラから出ることなく、そこで一生を終える人間が大半である場合には、近代的な意味での国は意識に上らない。江戸時代までの日本や領邦国家時代のドイツなどはそう言ってよかろう。カントは世界市民を構想していた。これは無論、理想的に過ぎることは本人が百も承知のはずだ。しかしそこまで考えて初めて、いくらかでも歪みの少ないネイションを形成できると考えたのだろうか。日本は文明化という点ではいまだ西洋に大きく遅れている。しばらくは西洋を目標にするしかあるまい。日本は島国だから、海岸線によっておおよその国土は地理的に確定できる。西洋に比べたら国を形成する歴史的な複雑さも少ない。私は「賢い国民になりなさい」と穏やかに語りかけるか、もしくは少し厳しく、「無学で文字も知らず、飲み食いと寝ることしか能がなくて、我が子の教育もできぬ馬鹿者には、不本意ながら力づくで対するしかない」と、泣く泣く説教することで、なんとか生きるための学力をつけさせ、国民の自覚と国力の向上が少しでも進めばと願った。国民という意識が基層民にまで浸透しなければ、国家は容易に瓦解する。急ごしらえでもそこは手が抜けなかった。
私がはっとさせられたのは、旧賊軍から陸軍中佐に進級し清国公使館附となっているあの男だ。会津魂の権化のような人間、あのような人材はもう二度と生まれぬかもしれぬ。義和団の武力抗争に端を発する八か国連合の北京籠城の最中、この窮状で指揮を執る者として、日本ばかりか関係欧米各国公使の信頼を一身に集めているという。それは陸軍幼年学校以来、どんなに劣悪な環境でも腐らずに勉励し、文字通り血と汗と涙の末にフランス語や英語に熟達していたからこその達成なのだ。もし賊軍から陸軍大将になる人物が出るとしたらあの男以外あるまい。私は以前「華族ヲ武辺ニ導ク之説」を建言したことがあるが、それは名望のある者による軍の統率が望ましいと思ったからだけではない。西洋において、下層民の中で明晰な頭脳と明確な野心をもつ子どもたちが皆、教区の教会組織に吸い寄せられたように、旧賊軍を主とする、いやそれに限らぬが、下級武士もしくは基層民の子弟で出世欲のある者が、己が才覚によって文官ではなく武官すなわち軍の頂点に立つ回路があるなら、そしてそれが何らかの手段で文民の上に立つ方法を見出すとしたなら…その先が私には恐ろしいのだ。どう転んでも禽獣世界では破壊と殺戮はまぬがれないであろう。だが今は、会津の希望を背負った男が小さな体で奮闘している。国のためではない。国家への馬鹿らしき忠義立てなどとうに捨て去っているのだから。彼が闘っているのは根本的にはただ故郷の名誉のためなのだ。故郷もしくは郷里はどんなに拡大しても国家という概念には重ならない。それどころか時には反対概念でさえあるのだ。しかし今、世界の注目は柴君の一挙手一投足に注がれている。ひょっとすると彼が国家の明日を決める突破口になるかもしれぬ。ヨーロッパ諸国のうち日本を対等なパートナーと認める国が出ないとは言えぬのではないか。夢物語だろうか。
会津人のことを考えているのに、なぜだかもう一人の男の顔が頭に浮かぶ。敵同士だったはずの薩摩の男だ。西南戦争で生涯を終えたのは惜しいことだった。彼にしかできぬ仕事がまだまだあっただろうに。そうか、薩摩のこの男も会津のあの男も、カントの言うところの「理性の公的な利用」ができた数少ない人間だったのだ。幕藩体制下のもとでは「理性の私的な利用」しかできず、立場上はどうあっても敵対するしかなかった二人だ。だが、二人ともいったんは地獄を見て何かを突き抜けたような…。地獄といって悪ければ、そうだ、一人は奄美大島・沖永良部島への二度の流罪、もう一人は悲惨な会津戦争の末路と陸奥国斗南への流刑のごとき暮らしによって…。二人とも大切な同士や家族を亡くしていた。彼らはそれぞれの地でどこにでもいる普通の民に出会い、その姿のうちに民の原像を見出したのだ。そこは死者と生者が交錯する異界であったかもしれない。彼らが立派にこの世を生きられるようになったのは、生きている者への義理立てから自由になってからなのだ。
最初に述べたように、カントも私も「学者として、すなわちいかなる制約も受けずに自由に考えることが理性を公的に使うということだ」という点では完全に一致する。そしてまた、「世界の永遠平和のためには、『自由・平等・博愛』ではなく、『自由・平等・自立』の理念が不可欠である」という点でも、私はカントと完全に一致するのである。個人が自由に考え、平等に機会が与えられ、自立した存在とならなければ、自由かつ平等な独立国家とは言えない。世界がそのような独立国家で形成されない限り、永遠平和は訪れない。私がカントと違うのは、理性の公的利用を可能にする方法に到達する手段だけである。カント氏は知識階級のために書き、私は民衆のために書いたということだ。してみると、日本において地域共同体をネイションの形に仕上げたのは、なんと私だったかも知れぬのだ。
現実には、この世に全くの平等社会などあり得るはずがない。ギゾーはフランス革命を書かなかった。だから、私も『ヨーロッパ文明史』を訳すことができたのだ。サン・バルテルミの虐殺は三百年も前のことだから気兼ねなく訳せたが、百年ばかり前に起こったフランス革命とは実は何だったのか、生々しすぎて彼には書けなかったし、私も本当の事はとても書けない。その数十年後の二月革命では、ギゾーは打倒される当事者側にいたのだから書けるわけがない。さらに二十年して達成されたパリ・コミューンは、打ち上げ花火のようにはかなく消えた。あれは史上最初の労働者による政権だったし、正しい革命だった。だが、到底無理な革命であった。元来、コミューンとは最小の行政単位、顔の見えるサイズの共同体ではなかろうか。パリはコミューンで治めるには大きくなり過ぎた。こう言ってよければ、もし彼らが本当に持続する政権を作るつもりだったのなら、清く正しく美しく仕上げることを目指すべきではなかったのだ。彼らは多数派だったのだから、もっと汚く、もっと徹底的に反対勢力を弾圧することに、誰も口実を求めなかっただろうに。たとえ薄汚くとも、それまでの官僚組織を使わずにどうするつもりだったのか。丸き水晶玉になら何か見えたのだろうか。いずれにせよ、今後パリ・コミューンを手本とする革命政権がないことは確かだろう。重ねて言うが、理想的な社会などどこにもない。国の有り様は、どこよりはマシかという相対的なものにすぎない。現在の全てを捨て去って新しい社会を作ることはできない。全く新しい社会を目指すならば、身の毛もよだつ流血を免れないだろう。いつも私の念頭にあるのは、最初の革命、アンシャン・レジームを廃して新しい体制を目指し猛進したフランス革命なのである。暴動の連鎖、流血に次ぐ流血、それが「自由・平等・博愛」という錦の御旗のもとに行われたのだ。どんな大義を振りかざそうと、あれほど文明から遠いことはあるまい。それにも関わらず、「人権」なる概念を生み出したのは事実であるから、おそらくこれに続く改革、革命を目指す国が続々と現れるのであろうな。だが理想の社会を目指すその努力の結末に関して、私はかなり悲観的である。人間の善性は時にすばらしい結果を生むが、不意に人間に悪が宿る瞬間がある限り、そして人間が愚かで弱いものである限り、欲望や嫉妬が人をとんでもない化け物に変えてしまうのだ。人間の歴史を振り返ると、私はいつも絶望的な気持ちになる。例証には、時勢を見抜けなかったがゆえに行われたテロル、たとえば攘夷運動を一つ挙げれば十分だろう。
今のところ最もマシと思えるのは、アメリカのようなデモクラシーの社会だろう。あの若いフランス青年がヨーロッパ人の目で見た分析の書は小幡君がずいぶん尽力して解き明かしてくれた。アメリカはまさしく新世界。移住民が原住民に対して為した蛮行の暗黒史はどう言い繕っても消し去ることはできないが、彼らは確かに民主主義国家を形成した。これも文明の一段階かもしれぬ。英国で刑務所の弊風を一掃し、囚人の待遇改善に努めたのはジョン・ハワードであり、奴隷制反対を唱えたのはトーマス・クラークソンであった。アメリカではリンカーンが奴隷解放宣言を、ロシアでは皇帝アレキサンドル二世が農奴解放令を出した。これらは皆、人間の長い歴史から見ればつい最近のことなのだ。文明が進歩するものかどうかわからぬが、人権という概念は昔はなかったのだ。
アメリカは一人の専制君主による統治ではなく、少数の階級上位者による統治でもなく、対等な国民の多数意見による統治を選んだ。このシステムの良い点は、絶対的な権力を半永久的に持つ者が現れないことである。国の最高統治者に選ばれた者が国民の多数意見に反することをすれば、次の選挙でその首をすげ替えることができるので、国民は被害を短期間で終わらせることが可能である。そしてここが肝要だが、国の最高権力者の意思が国民のそれと同程度のレベルに保たれることが意味するのは、アメリカのデモクラシーとは、国家が破局的事態を免れ得るように前もって制度設計された統治形態であるということである。これはジャクソン大統領という好例がある。彼のような凡庸で、またほとんど戦争犯罪に近いようなことをした指導者を最高権力者の地位につけてしまった場合でも、民衆が気に入らない政策を施行する統治者を選んだ間違いに気づけば、すぐに交代させられるシステムなのだ。たいした見識である。だから、この統治形態が実効性を持つための条件はただ一つ、国民が一様に或る程度のレベルまで成熟している必要があるということだ。
もちろん短所はある。トクヴィル氏の指摘するところでは、民衆は多数の声を自分の声と錯覚している場合が多々あって、それゆえ自由の国であるはずなのに、実際にはヨーロッパにおける以上に個人的な主張を控えるように見えるという。多数の意思と異なる意見表明はごく少なく、こうして実は孤独な群衆が生まれていると、彼は旅人ならではの視点で述べている。
アメリカは今や国家隆盛の時、そもそも東海岸に渡来したヨーロッパ人が西へ西へと開拓を続け、西海岸まで到達し、さらに西へと赴いて日本にも来たのだから、おそらく一周してヨーロッパに行きつくまでその動きを止めないのではないか。これはハリケーンが聖書と斧と新聞を伴って通過するようなものだから、途上の国々は大きな影響を被ることになる。
それにしてもアメリカは広い。アメリカは全土に鉄道網を張り巡らすには広すぎる。別な乗り物が発明されるだろう。それはどの国でも通用する乗り物のはずだから、アメリカはそれを地球上に売りまくることになろう。どこでどんな国が衝突するかわかったものではない。外国交際が話し合いで解決すればよいが、外交そのものを戦争の一形態と見る見方もあるのだから、もう地球上戦争だらけになるというわけだ。制服組の戦争なら見通しも立とうが、それが通用しない形態の戦争だって起こり得る。胃の痛いことだ。
明治という時代が来ていいことなぞ何もない。だが、来てしまった以上は立ち向かわねばならないのだ。遠い未来を見据えて、「来るなら来い。カム、ゲット・ミー」との構えで背筋を伸ばすのである。いや、一つくらい、いいことが無いとは言えない。遠い将来にはひょっとすると女には今よりだいぶマシな社会がくるかもしれぬ。家庭に入らぬ場合でも妾にならずに済み、一人でぼんやり生きても何とかなるくらいの幸せな世の中なら、まああるかもしれん。そして結局のところ、習俗をつくるのは女なのだから、それもやはり文明の進歩というべきか。いや、結論は遠い先の世の人々に任せよう。文明化に縁遠い未開の地に住む人々が何を考え、どんな幸せを感じているか、我々は何も知らないのだから。
私も歳をとった。いずれこの世から退場する。皆そうだ。ヤングメンに席を譲る時が来る。そして寿命が尽きる時にならねばわからないことが必ずあるのだ。これまでとにもかくにも、私は一日一日を懸命に生きて、考えるべきことは皆考えた。すべきことは皆やった。誠に愉快とはいかぬが、後悔は何もない。