2020年10月27日火曜日

「悩みの類型とゆるしについて」

  読書の秋になり、肩の凝らない本を乱読しています。そして分かるのは、人間の悩みは限りがないものの、考えようによっては似たり寄ったりだということです。一般に言われる「生」「老」「病」「死」に関わる悩みについて、殊にあとの三つについては、様々な喪失感や端的な痛み、愛する者との別れに伴うもどかしい思いなど、誰もが直面する非常に似通った悩みがあります。これらは時期が来ると受け入れる心構えができたり、意外とテクニカルな問題だったりして、自然と解消することが多々あります。

 もう一つの「生きる」ことにまつわる悩みは大きなボリュームを占めますが、衣食住に関わる主に経済的な問題を除けばいくつかのパターンが見られます。

①生命にかかわるほどの恐怖で心的外傷を負い、思考や行為の全てにおいて必ずそこに戻ってしまう場合

②何らかの事情で自分を偽っている、本来の自分を発揮できない、自分が何者かわからない等の場合

③何事においても自分と他人を比べることによって自分の幸せや不幸の度合いを計ることを止められない場合

④苦しみの根源が他人(家族を含む)にあり、わだかまりを解消できない、どうしても相手を許せない等の場合

世の小説などで描かれる人間の悩みはほぼこのどれか、もしくはその組み合わせによって引き起こされているように思います。

①に関しては、私には解決方法は思い当たりません。本人が一番考えたくないのに考えてしまうのですから。これは精神科医にも治せない症状ではないでしょうか。

②に関しては、長い苦闘の末にいずれ自分を知り、外へ向かって明らかにする以外、解決方法はないように思います。うまくいけば、心の平安を取り戻せるかもしれません。

③については、私自身がほとんど理解できない心性なので、これという解決のアイディアはありません。自分が愛されていることに気づけばこの悩みは雲散霧消するのでしょう。

④について、これが一番解決し難いケースかもしれません。ゆるすことの本質は愛であり、それはおそらく人間の意志でもつことができないものだからです。世の中にはどう考えても、また世人の統一見解としても、相手が悪いとしか思えないケースがあり、それによって傷つけられた「自分」を抱えた人は決して癒されることのない地獄を生きざるを得ません。これも①の場合と同じく、常にそこへ回帰して居ついてしまい、堂々巡りを繰り返すのです。

 私とて人間のあからさまな悪意を垣間見て、心の中にどす黒いものが宿ることはよくあります。最近はそれが嫌で毎日のニュースもそこそこにしか聞けません。しかし、それなりの時間を生きてきて、自分が生まれてからずっと愛されてきたことを深く納得するようになりました。表面に現れた形としては家族や周囲の人々に愛されてきたのですが、結局のところそれらはすべて神から出たものだということを心から受け入れています。これまで人様に様々な傷を与えてきたに違いない私ですが、それでも私自身傷を負う身であり、「ゆるせない」と思うこともあるのです。神様に赦されている者として人をゆるさなければならないのですが、それができないのが日々の日常です。でも自分の所業を「ゆるしてください」と祈ると同時に、「ゆるせるようになりますように」と祈ることはできます。人の罪をゆるす権能をお持ちの方に祈ることができることで、私はかろうじて正気を保っているのです。私も日々接する様々な人と何ら変わらない人間なのです。ゆるせないことはつらいことです。「ゆるしたい」と思いながら生きることは赦されているからできるのです。そして、赦されていることは神の恵み以外の何物でもありません。