同じ持病を持つ方が病状を記した書を読む機会がありました。私の方がずっと軽症なのですが、入院を避けて自宅でできるだけのことをしながら、丁寧に生活されているご様子に心打たれました。私から見て著者がお気の毒でならないのは、まだ十代の時に発症されたことです。本来ならできたはずのことを体調のために諦めなければならなかったのは、言いようのない無念だったに違いありません。大方したいことをやりつくしてから病気が判明した私とは比べものにならない深刻さがあります。一見健康に見えるので、公共の乗り物の優先席で、「若いんだから立ちなさい」と言われたことが相当トラウマになっているらしく、杖を持ったり、難病を証明できる証書を携帯したり、可能な限り座れる特急券を購入したりして自衛しておられるようです。
身につまされたのは、「一見元気に見える」ということから、本人自身も「気の持ちようなのではないか」とか「疲れているだけではないか」とか「暑さのせいではないか」と考えてしまうという記述で、この方もやはり「体がだるい」ということが主訴であり、この病の特徴だと再認識できました。一例として、投票に行けないことを挙げ、投票自体は往復で30分ほどでも、その前後に2時間は休みを取らないと体に障るということを書かれていました。「ああ、やはり」という感じで、私は近場の外出にはそれほど支障はありませんが、かなりの移動を伴う外出や何か行事予定のある日はその前後の日を空きにしておきます。以前は1日とればよかったのですが、近ごろは2日は必要です。夏場は前後に3日ずつ休まないと無理と言う状態で、これは週に一日しか予定が組めないことを表しています。その一日はもちろん日曜の礼拝に当ててあるのですが、それでもこの夏は朝起きて体に相談して休むという情けない事態が頻発しました。オンラインのライブ礼拝に何度助けられたことでしょう。
本を読んで感銘を受けたのは、体はきついはずなのに、著者が家でできる仕事をしながら自然体で暮らそうとしていることです。何度か入院を経験し、病院での生活を味わった末に選んだ暮らし方なのだと思います。彼女の精神の強さには比ぶべくもありませんが、一つ気を付けなければと心に刻んだのは「絶対、ケガをしてはいけない」ということです。殊に転んで歩けなくなったりせぬよう慎重に動こうと思いを新たにしました。気候のいい秋になりました。夏の時間帯で行動すると、朝のウォーキングから帰ってもまだ真っ暗です。もはや「こうあらねば」ということは何もないので、朝寝して昼間運動するのもありだなと考えています。
期間限定の朗報として、インターネットで登録したeチケットを用いて1か月前に予約すると、JR東日本の新幹線が半額になるサービスが出ています。券売機で切符を買う時にもたついて後ろの人に舌打ちされた経験のある私には、スイカのタッチで乗り降りできる新幹線は夢のようです。高速バスでの移動が体調的にややキツくなってきたので試してみようと思います。バスも載っているだけなので楽は楽なのですが、単純に乗車時間だけを比較すると、三分の一の時間で済むのは本当に有難い。
元気でいるに越したことはないですが、それが目的ではありません。元気でいるもよし、病を抱えているもよし、生かされていることに神を賛美し、喜んで生活できればよいのです。年齢とともにできることは確実に減っていきます。これも「できるもよし」、「できなくてもよし」、ではないでしょうか。たとえ何もできなくなっても、神の目から見て「私」の価が変わるわけではないのですから。