読書が「読む」ものから「聴く」ものになって、時間のある時は、手軽なエッセイや実用本も含めて、日に二、三冊の本が読めるようになりました。あまり難しくない学術書や入門書はよいのですが、最近何だか文学書を読むのがキツくなってきたなと感じます。その理由は、「どうしてそんなふうに考えるの?」、「なんでそんなことするの?」、「なぜそうなるの?」と、登場人物の思考や話の筋に共感できないどころか、理解もできないということが非常に増えたからです。読んでいるうち、出てくる人物の不愉快さや荒唐無稽な筋立て、主人公の置かれたあまりにストレスフルな環境などに付き合う必要があるのかという気持ちが募ってくるのです。もちろん、付き合う必要はなくて、「縁がなかった」と本を閉じればよいだけです。こういう本は若い時ならよんでいたかもしれませんが、それとて「読んでおけば人生に益するものがあるのかも」という気持ちだったはずですから、この歳まで生きてきて、何の役にも立たないような本は読む必要がないなと、はっきり悟りました。自分が知らない世界でもまっとうな方が書いたものなら益するところがあるでしょう。しかし、今感じるのは、こういっては語弊があるかもしれませんが、書いている方の多くが、またその読者層も、大変病んでいると感じます。もちろん人間である以上、自分も病んでいると自覚していますが、その病み方に重なり合うところが全くないのでは、読書していても虚しくなるばかりです。
その代わりと言っては何ですが、よくミステリーを読むようになりました。中には「その筋立ては無理でしょ」というものも散見されますが、謎解きという方向から光を当てれば「はずれ感」は薄まります。ミステリーは洋の東西を問わず歴史のあるジャンルで、およそ人間の営みのあらゆる方面を侵蝕しながら今日に至った感があります。以前、『少年少女世界推理文学全集』(あかね書房)について書きましたが、あの広大な分野をカバーする趣味の発掘全集の中で、一人だけ二冊本で紹介された作家がいました。ウィリアム・アイリッシュとコーネル・ウールリッチという別々の名で出されているので子どもの頃は気づきませんでしたが、これは同一人物です。少なくとも編集部にとっては相当に影響のあった作家だと言ってよいでしょう。この作家はサスペンスを醸成する手法に優れていますが、それにもまして都会で生きる孤独な人々の乾いた人間模様の描写が滅法うまい。その文学性に思わずはまったという人も多いようです。その後の数十年間のミステリーの発展は目覚ましく、今では謎解きトリックのバリエーション自体は底を打った感があります。そのせいか、現在では社会や人間の周辺部分および人物描写が充実し、文学とミステリーの境が限りなく無くなりつつあるのは確かなようです。別の言い方をすれば、現代では人間そのものがあまりに深い闇を抱えた謎になってしまったのです。