大阪や旭川での医療現場の逼迫が懸念されています。旭川は国内最大の医療関係者のクラスター、大阪では満床のため患者が適切な医療を受けられず亡くなったと報道され、どちらも医療崩壊と言わざるを得ないでしょう。その地域に限らず、医療関係者が休みなしの体制で疲弊する状態が続く一方、旅行・観光および外食を奨励する政府の支援策も並行して行われている現状があります。「経済を回さなければ」と、この機を逃さずトクをしようという人々は多く、それなりの効果は出ているようです。しかし、一度価格破壊が行われると定価通りの正当な支払いがバカらしくなるのが人の常ですから、支援期間終了後、あちこちで閑古鳥が鳴いた英国のようにならなければよいがと思います。政府は「マスク会食」というどう考えても無理な方策まで提案していますが、誰も変だと思わないのでしょうか。矛盾する二つの要求を同時にかなえようとすれば人間なら精神を病んでしまうでしょうが、この「マスク会食」案はその事例かもしれません。たとえ「狂う」というリスクを冒しても、政府は誰も責任を取りたくないのでしょう。
労働によって元手に価値を加え、新たな価値を生みだすのが資本主義とすれば、業種や分野によっては感染症後の社会に適合するものを生産できる可能性は十分あります。しかし、広域での人や物の移動に制限があると、地域における経営の仕方が問題で、場合によってはうまく適応できない事業者もあるでしょう。多くの場合、大きな利潤を上げることが目指しにくくなるのではないでしょうか。利潤をあげられなければ、資本主義は継続できないのですから、感染症は資本主義を終わりに向かって加速させている感があります。
金融関係では、日本に限らず世界中で実質的にゼロ金利に向かっていますが、これは私には資本主義の終焉を示すものとしか思えません。リーマンショックによって明らかになったように、無理やり創出した株式市場の需要は複雑すぎて一般の人は手が出せず、特にこれが実体のない博打であると知っている現在は、せいぜい年金の運用が大損しませんようにと手を合わせて祈るくらいしかできません。
唯一、自然に働きかける農業は少し違うのかなと思います。自然というのは何千年も昔から特別なものだからです。
「人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
(マルコによる福音書4章26~29節)
商品としての農産物ではなく、人間が生きるのに不可欠な食物としての農産物を作る心持ちは、おそらく今も同じでしょう。農業ほどきつい仕事はないと言われますが、それでも農夫はこの変わらぬ不思議な働きに打たれて働いているに違いありません。売るためではなく、自分で食べるために農業をする時、もはや資本主義とは別の地平が見えてくるのかもしれません。そうしてみれば、上記の引用句が、「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである』に始まる言葉だということと考えあわせて、非常に意味深く思われてきます。