2012年12月31日月曜日

「イグノーベル賞落選作」


 自分にとっては極めて面白い話でも他の人にとっては面白くもなんともない話で、一人でもりあがってしまうことがあるなと自分でも気づいています。子供の頃からトンデモ話が大好きで、これはもう生まれつきの本性と言ってもよく、何かを思いつくと愚かな血が騒いでしまうのです。

 もう20年以上も前に母と英国を訪れ、ロンドンのウォータールーブリッジの上からテムズ河を眺めた時、母が言いました。
「これ、どっちに流れているのかしらね。」
「どっちって、下流でしょ。」
と答えながら、自分の答えに戸惑ったのは、一見したところ下流に流れているようには見えなかったからです。

 そして、職場近くを流れる小さな川を東京湾からゆっくり遡上する水の流れ・・・ コルマールのイーゼンハイム祭壇画「聖アントニウスの誘惑」・・・。  応募作品は様々な残像がつながっていく過程で書き上げられた文です。自分にしか面白くないだろうなあと、多少寂しい気持ちですが、年末年始にお暇な方はお付き合いください。もう手遅れですが、英文の添削もよろしくお願いします。



カトリック教徒としてのメッセージ、『ヴェニスの商人』
~カモフラージュに使われたのはエリザベス一世だった
 
「(あの私の鼻血騒ぎは)去年の復活祭あけの月曜日午前6時、ってことはつまり4年前の聖灰水曜日の午後のことだった。」
 これは全くのナンセンスとされるこの芝居の道化ランスロットの言葉であるが、そう考えるとしたらそれこそナンセンスであろう。「シェークスピアは無意味な台詞は書かない」というのが彼の芝居を知るものの常識であろう。ではこの台詞はいったい何を意味しているのだろうか。この謎解きをするために、我々は一足飛びにシェークスピアの時代のロンドンへ旅してみよう。

 まず最初に我々の興味をひくのはAndrew SaintとGillian Darleyによる The CHRONICLES of LONDON  (『図説 ロンドン年代記』)である。その中にプロテスタントで『殉教者伝』を著したジョン・フォックスが、1554年のメアリーの統治下にまだ王女であったエリザベスがホワイト・ホールからロンドン塔へ移される時の様子を描いた描写がある。
「次の土曜日枢密院の二人の卿(サセックス泊ともう一人)が来て、潮もちょうどいいのでエリザベスをロンドン塔へ連れて行こうとするのだが、エリザベスは『次の潮まで待ってもらえないか。その方が条件がよくなり楽に行けると思う』と頼む。・・・結局女王に手紙を書くことを許され、二人の卿は次の潮で王女を連れ出す用意を整えるが、次の潮は真夜中だったので王女が途中で誘拐されることを恐れて、再び延期した。次の日はシュロの主日だった。二人は9時頃に姿を見せ、出発の時ですと王女に告げた。」

「翌日はシュロの主日だった。」と書かれていることから、インターネットでCalendar 1554 及びEaster Date for 1554と検索すると、これが3月17日の土曜日であったことがわかる。この年の復活祭は3月25日であり、シュロの主日はその1週間前だからである。「潮もちょうどいい」とはどういうことなのだろうか。

『図説 ロンドン年代記』には、1498年にロンドンを訪れたヴェネチア人のアンドレア・トレヴィザンの言葉が記されている。 

「この島国のすべての美はロンドンに集約されているようだ。海からは60マイルも離れているが、港町になるにふさわしい条件を備えている。テムズ河はこの町のさらに何マイルか上流まで潮の満干の影響を受けるので、百トンの荷を積んだ船が埠頭に横づけできるし、どんな大きな船でも町から5マイルのところまでやってくることができる。それなのに、ロンドンの下流20マイルくらいまで淡水なのだ。・・・・」
ほとんど潮の影響を受けない地中海から来た彼にとって、潮が河を遡上するテムズ河は特筆すべき驚きに満ちた河だったのである。

テムズ河の潮の満ち干を知るには、まず月齢を知らなければならない。NASA - Moon Phases :6000 Year Catalogで1554年の月齢を調べると、満月は3月19日であることがわかる。王女エリザベスがロンドン塔へ運ばれることになっていた日はその2日前である。

 次にすべきことはテムズ河の潮の状態を調べることである。インターネットでPort of Londonと検索するとTide Tables があり、London Bridgeでの潮の満ち干の時間を知ることができる。2012年であれば、イースターは4月8日、前日の4月7日が満月である。その2日前というと、午前0:16に満潮、6:57に干潮、午後12:45に満潮、19:16に干潮となっている。(ちなみに満月時には午前1:49に満潮、8:52に干潮、午後14:17に満潮、21:03に干潮である)。

 さらにこれをもとにエリザベスの移送の場面を読み解くと、二人の卿が来たのは午後1時以降、下流のロンドン塔まで移送するのによい下げ潮が始まる時間であろう。移送に抵抗するエリザベスの主張する次の潮は真夜中の12時以降になってしまう。 結局、エリザベスの移送は翌日の午前9時頃となるが、二人の卿がシュロの主日のこの時間にやって来たのは、上げ潮が強くなる前に移送しなければということだろう。これでこの場面の描写を潮の動きとともに理解することができた。ロンドンでは季節によって若干の変動はあるが、満月の頃には大雑把に言って午前・午後とも2時前後に満潮を、9時前後に干潮を迎えるのである。

 もう1つだけ例を拾ってみよう。『図説 ロンドン年代記』には、異端の修道士で哲学者だったジョルダーノ・ブルーノが、1583年から1585年に英国で亡命生活を送った時に書いた『灰の水曜日の夕食会』(1584年出版)についての記述がある。この夕食会は、実際にホワイトホールのサー・ファルク・グレヴィル邸で開かれたもので、三人の客(ブルーノは「ザ・ノーラン」という仮名で登場している)が、ストランドからさほど遠くないホワイトホールまで行き着くのがいかに困難だったかを、極めてコミカルかつ辛辣に描いている。

 先ほどと同様に、インターネットでCalendar 及びEaster Date を検索すると、これが1583年の話であれば聖灰水曜日は(夕食会があったのはその前日の火曜であろう)2月13日、1584年の話であれば聖灰水曜日は3月4日で日付は大きくずれるが、月齢はどちらも1ないし2程度で新月に近い。

 ここで注意しなければならないのは、イギリスではまだユリウス暦を使用しているが、1582年からグレゴリオ暦が使用され10月4日の翌日は10月15日とされたということである。現在インターネットで使用されているカレンダーは1582年以降はグレゴリオ暦によっているので、ユリウス暦を用いる場合は日付は10日マイナスし、曜日も変更しなければならないということである。先ほど述べた日付はユリウス暦のもの、月齢はグレゴリオ暦から換算した実際の月齢である。

 つまり夕食会のあった可能性のあるこの両日の潮の動きはほぼ同じで、Port of LondonのTide Tablesによれば午後3時前後に満潮を、10時前後に干潮を迎えることになる。バックハースト卿の船着き場から上流のホワイトホールのサー・ファルク・グレヴィル邸へ夕食の時間帯(例えば8時)に行こうとすれば、下げ潮のほぼ一番強い時間帯であったろうから、船頭が漕いでも漕いでもたどりつけなかったのである。ブルーノには気の毒であるが、潮の動きを知らないとどうなるかという好例である。

 イングランドの暦について注意しなければならないことがもう一つある。イングランドでは、古くから1年の始まりを12月25日(キリスト降誕祭)としていたが、14世紀に3月25日(マリア受胎告知の日)が1年の始まりの日となり、これは1752年にグレゴリオ暦採用時に1月1日に変わるまで続いた。シェークスピアの時代には、1年の始まりは3月25日だったのである。

 例えば通例「エリザベス女王は1603年3月24日に死去した」という言い方をするが、これは月日はユリウス暦のまま、年は1月1日を始まりとする現在の数え方で表記するという便宜上の方法を使っているのである。これを当時のイギリス暦で言えば「エリザベス女王は1602年の大みそかに死去した」ということになり、また今日のグレゴリオ暦に換算すればその日は「1603年4月3日」にあたるのである。多少複雑ではあるが、これでシェークスピア当時の状況がかなり明確になり、ようやく『ヴェニスの商人』を読む準備が整ったようである。

 『ヴェニスの商人』は、貿易で財をなしたヴェニスの商人アントーニオと高利貸しのユダヤ人シャイロックとの人肉裁判という話の主筋に、アントーニオの友人バッサーニオによるポーシャへの求婚談や3つの小箱を使ったポーシャの婿選び、シャイロックの娘ジェシカとロレンゾーとの駆け落ちの物語、ポーシャとバッサーニオの指輪をめぐる茶番劇などを組み込んだ芝居である。初演がいつかという記録は残っていないが、blocking entry されたのが1598年7月22日であるから、その年のロンドンの観客になったつもりでこの芝居を見てみよう。日付は4月17日、復活祭明けの月曜と仮定してみよう。なぜなら、聖灰水曜日から復活祭までの40日間はレント(四旬節)であり、キリストの受難に与るという斎戒の季節であるため、枢密院のお触れにより建前上はその間の公演は禁じられていたからである。この月曜は復活祭に引き続き祝日であるが、教会の祝日ではないから芝居の初日として適当だったろうと思われる。

 芝居の冒頭で、アントーニオは「わけもなく憂鬱だ。」といって現われ、友人バッサーニオの結婚資金を用立てるため、自らの体を形に保証人となってシャイロックから3ヶ月の期限で3000ダカットの借金をする(第一幕)。これはいつの話だろうかと頭の片隅で考えながら芝居を見ていくと、第二幕でバッサーニオが主催する仮装舞踏会の話となる。「陽気な衣装を身につけて」「愉快に騒ぐのが目的の集まり」を行うのに最もふさわしいのは、聖灰水曜日前日の晩であろう。レントに入る直前の、カーニバルが最も盛り上がる火曜日である。つまり観客の頭の中では、この話は聖灰水曜日をはさむ前後90日間の物語としてとらえられるはずである。

 そして出てくるのが冒頭に書いたランスロットの言葉である。
 「(あの私の鼻血騒ぎは)去年の復活祭あけの月曜日午前6時、ってことはつまり4年前の聖灰水曜日の午後のことだった。」
芝居の表題に端的に示されているように、舞台となるヴェニスはカトリック国であるから今これをグレゴリオ暦を用いて読んでみる。(グレゴリオ暦が作成された1582年はわずか16年前のことである。)すると、「去年の復活祭あけの月曜」とは、1598年の4月17日にこの芝居を見ている観客にとって、1598年3月23日のことである。前述の通り、この時代のイギリスの暦では3月25日から新年となるからである。

 この時の月齢は16でほぼ満月、「4年前の聖灰水曜日」は1595年2月8日でこの時の月齢は29でほぼ新月である。前者は午前6時頃は下げ潮の一番激しい時刻であり、後者は午後いっぱい下げ潮となる。すなわち、ランスロットの鼻血騒動を潮汐関する言及ととらえれば謎が解けるのである。

 そもそもグレゴリオ暦とは、暦を天体の動きに一致させる改革であり、満月となった1598年と1595年の復活祭は、ユリウス暦に対するグレゴリオ暦の優位性を示す端的な年だったのである。復活祭が満月であればその46日前の聖灰水曜日は月の満ち欠けの周期からしてほぼ新月となる。満月時と新月時の潮の動きがほぼ同じであることはロンドン市民の常識であったろうから、1598年にグレゴリオ暦で満月の復活祭を祝う時、「3年前も満月だった」ことを覚えていれば、何の計算もいらずその年の聖灰水曜日の潮の動きがわかるのである。さらにこの両年は、グレゴリオ暦ではユリウス暦よりひと月前の満月で復活祭を祝ったという点でも、忘れがたい年であったろう。

 次に芝居の中で鍵となるのは、前々から準備されていたはずの仮装舞踏会が突然中止になるという描写である(第二幕第6場)。その事情は中止の知らせをまだ知らないグラシャーノを見つけたアントーニオが「もう9時だ。みんな君を待っているぞ。今夜の仮装は中止になった。風の向きが変わったのだ、バッサーニオはすぐにも船出するだろう。」と言うと、彼は「それはありがたい。今夜のうちに出航できるなんて。」と答える場面で示されている。彼はポーシャの侍女ネリサに求婚するためにバッサーニオに頼み込んで一緒にベルモントに向かうことになっていたのである。定期運行船で栄えたヴェニスでは風まかせということはありえない設定であろうが、ロンドン市民にとってはなじみの状況だったろう。

 これもグレゴリオ暦で読み込んでみよう。1598年の聖灰水曜日は2月4日、仮装舞踏会はその前日の2月3日であろう。この日の月齢は28でほぼ新月である。これはこの日少年の仮装をしてロレンゾーと駆け落ちするジェシカが「夜でよかった。こんな恥ずかしい姿をあなたに見られなくてすむ。」という言葉と一致する。新月の時は上げ潮が始まるのは9時過ぎ、強い潮となると夜更けまで待たねばならない。しかし都合良く風が吹いたので、バッサーニオは待ちきれずに仮装舞踏会を中止して、9時過ぎに出帆しようとしているのである。ユリウス暦ではこうはいかない。聖灰水曜日3月1日の月齢は4であるから、夕方から夜中まで下げ潮であり、とてもベルモントへ行ける状態ではない。

 その後の話はめまぐるしく展開してゆく。アントーニオの船が難破したらしいという知らせをシャイロックが握ってから2週間後、約束の3ヶ月目が来てすぐに裁判の手はずとなる。4月17日にこの芝居を見た観客は、芝居の冒頭で、アントーニオが「全くどういうわけだか憂鬱だ。」といって現われた理由に初めて思い至ったことであろう。3ヶ月前とは1月17日でこれは聖アントニウスの記念日である。聖アントニウスはエジプト出身の修道士で、貧者に財産を与えて出家し、苦行積んだ修行僧である。悪魔からの様々な誘惑に遭い苦しめられるが、信仰の力で切りぬけ聖者として崇められた。フランスのコルマールにある、グリューネヴァルトの「聖アントニウスの誘惑」の祭壇画は一度見たら忘れられないようなすさまじい描写で有名である。アントーニオがわけもなく憂鬱なのは、これから試練を受ける前兆を暗示しているのである。

 借金返済の期限が切れた4月17日は、グレゴリオ暦で言えば金曜にあたる。バッサーニオはポーシャと教会で結婚の誓いをした後、大急ぎでアントーニオのもとに向かう。なぜなら次の日が裁判の行われる日だからである。このことは裁判の場面で、「聖安息日にかけて」(第四幕第1場)というシャイロックの言葉と一致する。ユダヤ教の安息日は土曜だからである。この夜が美しい月夜だったことは第5幕第1場冒頭で何度も語られるが、これはグレゴリオ暦の4月18日が満月に近い夜であったことと一致している。

 次に、4月17日の金曜に教会で結婚の誓いをした後のポーシャの行動を見てみよう。彼女は大急ぎで夫バッサーニオをアントーニオのもとに向かわせてから、召使いのバルサザーをパデュアにいる従兄のベラーリオ博士のところを送り、裁判で彼に成り変わる手はずを整える。ポーシャは博士の書類や衣服を、「ヴェニス通いの船が出る渡し場まで」持ってくるよう命じる。その後ネリサとともに馬車で出かける場面となり、「・・・あとで全部話してあげる、私の計画を、馬車の中でね。さっきから待っているはずだから、庭の門のところで。さあ、急いでおくれ、今日は20マイル旅しなければいけないのだから。」(第三幕第4場)という言葉が語られる。(ポーシャが馬車でヴェニスへ出かけるのだととられかねない場面で、実際、福田恆存も小田島雄志も「20マイル飛ばさなければ」と訳しているが、原語は船にも使えるmeasureである。ここは船で行く場面なのだ。)

 いったいポーシャとは何者であろうか。莫大な富を持っているのは、バッサーニオから借金の額が3000ダカットと聞いても「たったそれだけ?」と聞き返していることに端的に示されている(第三幕第2場)。ベルモント(美しい丘)に住み、王族相手に結婚相手を探す機知に富んだ女性。彼女は自家用馬車を所有し(Gavin Weightman 著のLondon River (『テムズ河物語』)によれば、「馬車がイギリスに伝えられたのは1565年、オランダ人によってエリザベス女王に献上されたのが最初で、その後、馬車は上流階級の間で流行し、1600年を迎える頃には公私を問わず普及し始めた。」とのことである。)、ベルモント-ヴェニス間を船で行き来する女性。もうおわかりであろう。ヴェニスから20マイル離れた美しい丘とは、ロンドン上流20マイルにあるウィンザーに他ならず、天才的な政治手腕でイギリスを治めたエリザベス女王をポーシャに重ねて考えぬロンドン市民はいなかったであろう。

 シャイロックはどんな人であろうか。ポーシャ扮するベラーリオー博士がアントーニオとシャイロックを前に発した「その商人というのはどちら?どちらがユダヤ人で?」(第四幕第1場)という言葉から、外見では二人の区別がつかないことがわかる。また、安息日を無視して土曜に裁判をすることもユダヤ人にあるまじきことであろう。裁判では、ポーシャが機知にとんだ判断でシャイロックを言い負かした後、「財産の半分をアントーニオのものとし、あとの半分は国庫に入れる。」という裁定に対し、アントーニオは驚くべき提案をする。「国庫に入れる罰金は免じてやって、他の半分はしばらく私が預かって、彼の死後はその娘婿に譲りたい。その条件はシャイロックがただちにキリスト教徒に改宗することと、死後の財産は娘夫婦に譲渡する旨の証書を書くこと」を主張し認められる。有能な商人であるアントーニオにお金を預けて運用してもらえば今までと同じくらい裕福な暮らしができるのだから、シャイロックにとっては願ってもない話である。ヴェニスのキリスト教徒とはカトリックなのだから、この芝居はユダヤ教徒の高利貸しがカトリックへ改宗してめでたし、めでたしという筋なのだ。

 以上,手順を追って見てきたが、このように『ヴェニスの商人』はカトリックの世界観から描かれた芝居であって、それゆえカモフラージュされねばならなかった。英国国教会はその当時カトリックを迫害していたからである。『ヴェニスの商人』は1598年の7月22日に出版を阻止するための登記blocking entry がなされたが、わずか2年後の1600年には出版されている。この事実こそが、この芝居に埋め込まれたグレゴリオ暦のからくりを詳細に調べられるリスクを避け、シェークスピアが2年待ったという裏付けのように思えてならない。なぜなら、暦はひとたび過ぎ去ってしまえば誰も気にかけない代物だからである。

 シェークスピアはこの作品にカトリック教徒としてのメッセージを込めた。そしてそれをカモフラージュするためにポーシャという魅力的な女性を作り出し、注意を引きつけたのである。さくらとなったのは誰あろう、エリザベス一世であった。シェークスピアは全く食えない男である。






2012年12月30日日曜日

「昔の高校」


  その先生の名前は、おそらく今でもクラス全員、フルネームで言えるのではないでしょうか。立派な先生だったからではなく、あまりにも(よく言えば)個性的な先生だったからです。

 高校2年になって初めて習う数学の先生でした。何か伝えたいことがあったのでしょうが、最初の時間はインド旅行の話で始まりました。きっとここから、「零の発見」の話になり数学の授業に入るのだろうというおおかたの予想をあっさり裏切り、その日はインドの話だけで終わりになりました。次の時間はわざわざカセットデッキまで持参し、インドの音楽を聴く時間になりました。3時間目もインドの話で始まった時、クラス全員がはっきりと悟りました。「この先生に数学を習うのは無理である」、と。

 その日、私は街に2軒しかない大きな本屋をのぞいて当たりを付けた後、家に帰って母に言いました。
「数学の参考書を買うのでお金をください。」
「いくら?」
「八百八十円。」
「はい。お釣りは持ってきてね。」

 「うちは貧乏だから」というのが家族の合言葉のような家でしたが、本に関してだけは、書名を申告するだけでほぼ無条件で家計から出費されました。その頃、典型的な地方都市には、予備校や塾などありませんでした。あったのかもしれませんが、いや、やはりなかったろうと思います。誰一人そんな話をしているのを聞いたことがなかったのですから。学校で先生から学べなければ、自分でなんとかするしかなかったのです。

 ちょうど微積分を学ぶ時期でした。「世の中にはなんと頭のいい人がいることか」と思いながら、私は参考書を読みふけりました。そしてわかったことは「勉強は一人でもできる」ということでした。「授業評価」というものがない時代で本当に幸運だったと思います。自分のできなさを教師のせいにできる可能性が少しでもあればそうしてしまったかもしれませんし、生徒の指摘で授業が少し改善されたとしても、自分で学ぶことを知る以上の学びはできなかったでしょう。

 不都合なことや不便なことが人を考えさせ鍛えるということは否定できないと思います。ですから、世の中全体がこれほど便利になってしまうと、人間が弱体化していくのは避けられないのではないでしょうか。まあ、あのような先生だけでも困りますが(母校の名誉のために付け加えると、本当に立派な先生が多かったです)、ああいうのも悪くなかったなあと今思うのです。

 優秀な教師が多い学校はもちろんいい学校ですが、優秀な教師しかいない学校というのは、長い目で見れば、個人にとっても社会にとってもマイナスではありますまいか。卒業後出ていく社会には、それこそいろいろな人がいるわけですから。昔の高校生は、おあつらえ向きの「総合的な学習の時間」を体験していたのかもしれません。

2012年12月29日土曜日

「たわいない話」


 「あと一ヶ月しか生きられないとしたら、何する。」
「好きなことだけする。」
「あたしもー。勉強なんか絶対しないな。」

 授業が終わり教卓の片づけものをしていた時、目の前の女子生徒二人がおしゃべりを始めました。聞くともなしに聞いていると、そのうち一人が、がばっと顔をあげて、
「先生は? 余命一ヶ月って言われたら、先生、何する?」
と聞きました。急な質問でしたが、答えはわりとすぐに出ました。
「そうだな・・・、今までお世話になった人をひとりひとり回って、『ありがとう』って言いたい。」
しばらく沈黙があって、
「あ、なんか今、ジンときた。」
私は授業の用具をもって教室を出ました。数年前のことです。

 「人生わずか50年」と言われていた時代から、日本人の寿命はずいぶん延びましたが、やはり50年もたつとある程度体にガタがきます。また、近しい人が亡くなることも増えるので、一ヶ月先ではなくても、「そろそろ支度にとりかからないと・・・」という気になります。この世を去るという大事業の支度は、今からとりかかっても20年や30年はかかるでしょう。

 2012年の12月21日でマヤの暦が終わっているというので、その日が地球滅亡の日として騒動が起きていることが話題に上りましたが、それは、現在の生活環境や将来への不安によるところが大きいのだろうと思います。先ほどの生徒の話も、高校3年の秋、受験で最も精神的に追い詰められる頃でしたから。

 心静かにゆっくり備えていけたらいいなあと思います。

2012年12月28日金曜日

「都バス讃歌」


 メガロポリス東京を縦横無尽に走る都バスは、その規模と路線のユニークさにおいて世界でも類を見ない乗り物です。アメリカの交通事情を知らないので、完全な自信をもって言い切ることはできませんが、ヨーロッパに関してはそう断言できます。トラム(ドイツでは Straßenbahn) と呼ばれる路面電車を併用して形成される公共交通網もそれはそれで大変魅力的ですが、今の東京で現実的な選択肢ではないでしょう。

 特筆すべきはその安定したシステムで、これほど大量にバスを投入しながら、時刻が当てにならない乗り物の代名詞ともいえるバスを驚くべき正確さで運行させていることです。もちろん、時には5分や10分遅れることはありますが、大局的にみればそれは許容の範囲で、これだけの規模でかつ整然とバスを走らせることができるのは、日本をおいて他にありますまい。

 以前ナポリを訪れたとき、車やバイクがびゅんびゅん走り回る市街に信号がなく、道路を横断するのに命がけだったことに参ったのもさることながら、バスの時刻表がないのにも閉口しました。常に渋滞だとしても時刻表があれば、少なくともどれくらいの頻度でバスが来るかわかったはずです。それを思うと、都バス運行の緻密さには感嘆の声を上げざるを得ません。

 この他にも都バスの長所はたくさんありますが、ある地点から別な地点へ最短時間で移動することを目指すのが電車であるなら、都バスは全く異なったコンセプトで作られていることが挙げられます。

 東京の電車網はこれ以上ないほど発達しており、海や川という要因で電車よりバスの方が利便性の高い周辺部を除いては、電車で行けないところはありません。にもかかわらず、都バスは走っており、その路線の特徴は、「弧やループを描く路線」と「意表をついた起点・終点」の設定です。ほとんど埼玉に近い場所から池袋へ弧を描く1本の路線、王子から終点新宿へ行くのに西へ大きな輪を描いて延びる路線、荒川土手あるいは等々力から東京駅まで1本で行ける長い路線と、誰が考えたのかどれをとっても遊び心が感じられる路線です。都バスは寄り道することを目的として作られたものと言っても過言ではありません。

 格安の運賃で23区のほぼすべてをカバーし、乗り降りが楽なうえ、江戸時代の地名が残る停留所を通りながら人間らしいスピードで移動できる都バスは、これからの社会に最適な公共交通機関としての重要性をますます高めていくことでしょう。

2012年12月27日木曜日

「紅春 6」


 春になりました。庭の草木も花を咲かせ、自然の息づかいが戻ってきました。りくにも初めての春です。りくがすくすく育っていることは、家族のだれにとっても大きな喜びでした。その頃、父は庭仕事をするとき、いらない木材で囲った柵の中にりくを入れて、一緒に外におりました。

 ある日、草むしりをしていた父がふと振り返ると、いるはずのりくがいません。りくはもう柵を越えられるほど大きくなっていたのです。


「りくーっ。」

遠くには行っていない気配なのですが、怒られると思うのか出てきません。父が思案していると、たまたまそこに八重丸の飼い主さんが通りかかりました。八重丸はりくより2才ほど年上の柴犬で、散歩仲間です。
 犬にも合う犬と合わない犬があるのが不思議ですが、りくは赤ちゃんの頃から八重丸君が大好きです。八重丸君はりくよりさらにぽおっとした感じの子で、年長者の余裕かあまりりくを相手にしませんが、りくの方は散歩中出会うと大喜びでした。

 事情を知った飼い主は、
「今、八重丸連れて来っから。」
と言って帰られました。

 八重丸の到着とともに、事態はあっけなく収束しました。一緒に遊びたいりくはすぐ姿を現し、「ご用!」。その後父にみっしり叱られ、しばらくの間、りくは「脱走犬」と呼ばれていました。

 これが、我が家で年に1度は語られる、「りく脱走で八重丸緊急出動事件」の顛末です。

2012年12月26日水曜日

「プリンツェンのドイツ                               Deutschland nach die Prinzen in Deutschland」


 プリンツェンの歌のテーマはずばり「愛」です。しかし、これがひと筋縄ではいかない、実に屈折したものなのです。個人的で純粋な愛情と社会に対する愛憎が、彼らの中では渾然一体となっています。例えばごく初期に作られた曲の中に、”Abgehau’n”(「とんずら」とでも訳すのでしょうか。)という美しくも悲しい歌がありますが、この曲によって、東西ドイツの統一という歴史的な出来事が、これまで一緒に過ごしてきた二人に別離をもたらした現実を知らされるといった具合です。

 2010年にリリースされたアルバム「D」に、面目躍如たる曲があります。1つは「Thema Nummer 1」、もう1つは「Deutschland」です。
 前者は、雑事に追われる日常の中で、人生の第一のテーマ、最大の関心事は相手への愛だと信じるカップルを歌ったものであり、美しいメロディーにのせて純愛を歌うのは、ごく初期の曲から続く一本の柱です。

 後者は、自国の制度や社会のどうしようもないダメさ加減を皮肉たっぷりに告発し、自嘲的に歌い上げた曲で、こちらもごく初期からプリンツェンの歌を貫くもう一本の柱です。 ちょっと歌詞を見てみると、

「もちろん「賭ける?」(というテレビ番組)を考え出したのはドイツ人だ
楽しい時間をどうもありがとう
僕たちは世界でもっとも愛想のいいお客さん
控えめで――お金持ち
どんなスポーツでも一番
税金なんて世界記録
ドイツに来て ずっとここに住んでください
そんな人たちを僕らは待っているんだ
ここが気に入った人は誰だって住める
僕たちは世界でもっとも親切な民族
ドイチュ、ドイチュ……
でもひとつだけ間違ってることがあって
それは、シューマッハーがメルセデスに乗ってないこと」 (注:当時、フェラーリに乗っていた)

 二番の歌詞はさらに過激にエスカレートし、全部は書けませんが部分的に抜粋すると、

「人を殴ることにかけては特に上手
火をつけることだって信用していいよ
僕たちは秩序と清潔が好きなんだ
いつだって戦争の準備は怠らない
よろしく世界中のみなさん ほらこれでわかったろう
僕たちがドイツを誇りにできるわけが……豚野郎!」

 ちょっと聴くと震え上がってしまうような歌詞で、こんな歌日本にはありません。もちろん歌われている内容は世界のどこにでもある現実であり、ドイツがとりわけ邪悪な国というわけではありません。(それどころか地球規模でみれば、むしろ非常にいい国だと思います。) 

 でも彼らの歌はこれで終わりではないのです。私は才能豊かな彼らが、どうして英語で歌わないのかずっと不思議に思っていました。イタリア語で歌ったものはあるし、日韓共催のサッカーワールドカップの時には、日本語で歌った「オリ・カーン(オリバー・カーン)」が話題になりました。ラテン語でさえ歌っているのです。しかし、「Deutschland」を聴いてそのわけがはっきり分かりました。この歌はこう続きます。

「これらすべてがドイツ―これらすべてが僕ら
こんなところ世界のどこにもない―ここだけ、ここだけ
これらすべてがドイツ―これらすべてが僕ら
僕たちはここで生き、ここで死んでいく」

 圧倒されました。どうしようもなく母国を愛しているのです。そしてこの後に
「ドイチュ、ドイチュ……」という連呼が続いて終わります。憎むべき側面を持つ現実も自らの一部としてひっくるめて背負い、愛していくという覚悟の表明です。日本とはスタイルが全く違いますが、戦後このような若者を(もうすでに中年以上の域に達していますが)、生み出したドイツという国もやはりすごい国だと言わざるを得ません。

2012年12月25日火曜日

「無名性の恩寵」


 先日送ったものが届いたと会津の伯母から電話がありました。それから会津のりんごが届いていないか尋ねられました。毎年いただくのですが、今年はまだです。
「ああやっぱり。どこからも『届いた』っていう電話がないから・・・」
とため息をついていました。発送する野菜や果物の放射能の検査が追い付かず、検査場所に積みあがっているようなのです。(りんごはその後、いつもより2週間ほど遅れて届きました。)会津は放射能はほぼ全く心配ないのですが、福島県というだけでこのありさまです。

 東日本大震災の起こる数年前に思っていたことがあります。方々で地域興しが盛んになり、中には非常に成功して人が続々やってくる場所もあるとの報道を聞くにつけ、心の中で「私の故郷は手つかずでいてほしい」と思っていました。間違っても有名になって全国から人が押し寄せたり話題になったりしてほしくないし、なるはずもないと思っていました。

 なにしろ盛り上がりに欠ける県なのです。みんなで熱くなって何かに燃えるとかということが想像しにくい県民性です。宮城にも山形にもあるサッカーチームもないし(その後福島ユナイテッドというチームができ、今年はJFLに昇格したとのことですが)、また東北の夏祭りの中では福島のわらじ祭りは影が薄い。福島にはそおっと静かにひっそりとしていてほしかったのです。

 それなのにどうでしょう、今や福島 Fukushima の名は全世界に知らぬ者とてない場所となってしまいました。驚くのは、地震に関する専門家の意見に真っ向から異を唱え、原発を稼働させようとする人たちがいることです。事故というのはどんなに可能性が低くても起こる時には起こるものです。その事実に目をそむけてはいけないことを、これほどの犠牲を払ってもまだわからないのでしょうか。国どころか、山河が滅んでもいいというのでしょうか。



 はっきりしているのは、無名だったころの福島には戻れないということです。その意味で、幸福な故郷は失われたのです。

2012年12月24日月曜日

「幻の本」


 子供の頃読んだ本のことを思って胸がざわつくことが多いこの頃です。それも世界文学全集のようなものではなく、雑誌やほとんど出回っていないであろう本なのです。再びめぐり合う可能性はゼロに近いだろうと思うと、なおさら居ても立ってもいられない気持ちになります。いつ、どこで読んだのかどころか、タイトルやあらすじさえぼんやりした記憶しかないものもあります。へたをすると、あまりに時がたったので、そんな本が本当に存在したのかすらもはや自信が持てない始末です。いくつか書き留めると、

1.「魔法のランプ」
アラジンの魔法のランプを求めて旅をする子供の話だったと思います。すべての語尾に「思います」とつけねばならないほど記憶は曖昧です。結局、冒険の旅は徒労に終わるのですが、その時突如、主人公の胸の内に「もしこの目の前の使い古したランプが本物の魔法のランプであると強く信じれは、このランプはそうなる。」という思いが芽生えます。「青い鳥」の焼き直しのような話ですが人を引き込む切迫感がありました。

2.「影が歩く」
学研の「科学と学習」の「学習」の方の付録の冊子だったと思います。内容は茫漠として思い出せませんが、この影というのが不気味なインベーダーで社会が危機にさらされるという話ではなかったかと思います。

3.タイトル不詳
小学5、6年生の「学習」に掲載された連載小説ではなかったかと思います。タイトルが思い出せないのですが、「○○○が×××したよ」的な名前だったような気がします。○のところには「クラックス」とか聞き慣れないカタカナの名前が入り、×のところには「笑った」とか「歌った」とか動詞が入っていたと思うのですが全く違っているかもしれません。内容は学校での友達との交流や葛藤を描いた学園ものでした。表題のカタカナ名は、主人公の頭の中に住む不思議な存在で、主人公がピンチの際にはアドバイスを送る助け手となります。(その声はもちろん主人公にしか聞こえません。) この連載は、この時期の子供が体験する共通の悩みを考えさせてくれました。

  こうして書いていても、書いている本人にさえ何のことやらという感じなのですから、自分以外の人には何のことかさっぱりわからないだろうと絶望的な気持ちになります。でも、子供の頃読んだ本が40年たっても、いやたったからこそなのか、これほど気になるというのはどうしたことでしょう。子供の心の中では、いったい何が起こっているのでしょう。

2012年12月23日日曜日

「家族 不在と存在」


 りくを初めて迎えに行った3人というのは、兄と私とヘルベルトです。
「お父さんが一番長い時間一緒に過ごすんだから、いっしょに行こう。」と言ったのですが、父は
「お前たちで行って来い。」
と言いました。おそらく父には子犬を選ぶことなどできなかったのだろうと思います。

  父は時折、
「お母さんがいたら、りくはどんなにかわいがられたろうね。」
と言います。子供のころ飼っていた、我の強いお転婆犬でさえかわいがっていた母ですから、りくがどれほどかわいがられるか想像に難くありません。
 楽しい時に或る人の不在を感じるのは、その人が家族だからであり、家族の中に生きているからです。一方で私は、母が生きていたら、りくを飼うことはなかっただろうと思うのです。変な感覚なのですが、りくと母はとても似ており、母がいなくなって代わりにりくがうちに来たような気がします。犬川柳に、「神様に行っておいでと言われてた?」というのがありましたが、「ああ、まさに」という感じです。

  りくは兄の車が玄関につくと、「帰ってきたぞ」と全身でうれしさを表しながら家族に知らせ、迎えに行きます。その後茶の間で、兄にしかしない仕方で甘えます。兄の体に頭をつけ、1分以上、時には2、3分もじいっとしています。私には、1日あったことを話しているように見えます。その間、兄はずっとつきあっています。

 りくに関して何かあった時の私の決め台詞は、「私が『この子です』と言って、りくがうちに来たんだよね。」です。(それゆえ私は、人を見る目はともかく、犬を見る目はあると言われます。)これには兄も黙ってしまい、「ん、まあ、それはそうだな・・・」と同意します。でも本当はそうではない、私たちがりくを選んだのではなく、りくが私たちを選んだのです。少し離れたところからじっとこちらを見ていたのですから。

  父の口癖は、
「うちでは、一番小さい子が一番偉いんだよ。」と
「うちに来たからには、幸せになってもらわないと。」
です。私の目から見ると、時々「りくに甘すぎる!」と思うのですが、父は、私が一番りくに甘いのだと言います。
「なあ、りく、姉ちゃんなんかちょろいよな。」

  家族を隅々までコントロールして、漁夫の利を得ているりくです。

2012年12月22日土曜日

「疾風怒濤の日々 Sturm und Drang 」


 「けんか口論にまきこまれぬよう用心せねばならぬが、万一まきこまれたら、そのときは目にもの見せてやれ。相手が、こいつは手ごわい、用心せねばならぬと懲りるほどな。」 (『ハムレット』福田恒存訳)

 私の中学時代は発表形式の授業が多かったのですが、私は「博士」と呼ばれていた理屈好きの級友によく厄介な質問をされました。適当にやりすごしていましたが、全く目立たず教室の片隅に生息していてそうなる訳がまるで思い当たらず、気のせいかもと呑気に考えていました。私にわかっていなかったことは、彼らは六年間の附属小生活の中でお互いを知悉しており、中学から入ってくる在郷の外部生に好奇の目を向けていたということでした。つまりは、退屈していたのです。スマートで如才ない彼らにとって、がさつでダサい山出しの生徒はさぞや異質な存在だったことでしょう。

 ある日、数学の時間に証明を終えた後で、案の定意地悪な質問がきました。軽くかわすとさらに無理難題を突きつけてきました。「けんかを売られている・・・」と確信した途端、私は完全に切れました。羊のごとくおとなしく過ごしていて攻撃されるはずがないと無邪気に思い込んでいたとは、何たるおめでたさ。次の瞬間反撃に転じ、気づいた時には相手を完璧に言い込めていました。先生は呆然、クラスの連中はこの座興に大喜び。

 その後もごく小規模かつ単発的に博士との攻防戦がありました。必ず授業中に起きたのですが、それは授業以外の接点がなかったからです。私からしかけたことは一度もありません。そのため、私にとっては常に防戦でしたがいつも私の辛勝でした。ちょっと考えればわかるように、攻撃による勝利より防御による勝利の方がはるかに難しい。あらゆる攻撃の可能性に備えなければならないからです。いつどこからくるかわからない質問に備えて、平素の予習・復習が欠かせませんでした。この時期私の学力が通常ありえないほど伸びたのは、博士のおかげでしょう。博士に感謝せねばなりません。

 予期せぬ驚きは卒業間近の頃に来ました。私はクラス全員からサイン帳に卒業の言葉を書いてもらっていたのですが、博士からの言葉の中に「あなたに会えて本当によかった」という言葉があったからです。絶句とはまさにこのことでした。完敗でした。天敵にこんな言葉をかける度量は私にはありません。彼は本物の博士となり、現在某国立大学で教えています。

 だから、冒頭のシェークスピアの言葉に出会った時、私は我が意を得たりと思ったものです。以後迷わずそうしています。とても快適です。ついでに、それと対を成す言葉、「つきあいは親しんで狎れず、それが何より。が、こいつはと思った友だちは、鎖で縛りつけても離すな。」も、心に留めています。こういう言葉の前には素直にならないとあとで本当に後悔します。年をとればなおさらです。

2012年12月21日金曜日

「旅の風景」


 「友人のことを知りたければその人と旅行しなさい」ということわざがあったと思うのですが、いっしょに旅をしているといろいろなことがわかります。

 ヘルベルトは、小さな路地裏や教会の地下室など、私一人だったら入っていけないようなところ、入っていいのかどうかもわからないようなところへ、よく連れて行ってくれました。
「プライベートじゃないの?」
「ちがうよ、通っていいんだよ。」
ということが多く、ずいぶん見聞の幅が広がりました。

 ザッハトルテ Sachertorte で有名なホテルザッハー Hotel Sacher でお茶したとき、私が興味津々で光沢紙に書かれたメニューを見ていると、
「このメニューもらっていこうね。」
と言いました。
「そんなことしていいの?」
「ホテルザッハーのメニューはみんな持って行くさ。」
本当でしょうか。甘いザッハトルテを ポットのコーヒー Kännchen Kaffee でいただいたあと、私はメニューを手に、逃げるようにしてその場を後にしました。

 また、山間の小さな村の家族経営のレストランで食事した時、小学生くらいの子供が手伝いでお皿を運んできたことがありました。こういう時、ヘルベルトは必ずチップを渡します。子供は目を輝かせて親に報告に行きます。とてもいいなあと、私はうれしくなります。家の手伝いをして実際にお駄賃をもらえるというのは、まっとうな職業意識を養う計り知れない効果があるでしょう。

 ヨーロッパを旅行していて気づくのは、サービス業に従事する人との距離の近さで、とりわけ、何日か滞在して顔見知りになると、日本ではまずないような度合いまで会話が及ぶことがあります。ある時、ヘルベルトと私の会話を聞いていたウェイターが、
「彼女はドイツ語を話さないのですか。」
と問うと、ヘルベルトはにこにこして、
「僕が日本語を話せないので英語で話しているんですよ。」
と答えました。

 ヨーロッパ人がナイフとフォークを使う手さばきは、ほれぼれするほど見事です。まるで体の一部になっているかのような「芸術的」な動きで、私はよく見とれていました。日本でもナイフとフォークはよく使うものなのに、まるで別な用具を使っているかのようです。私がナイフとフォークでうまく食べられない料理があると、ヘルベルトはウェイターに言いました。
「箸がなかったらスプーン出してね。」
このダメ押しにウェイターは苦笑し、私は少し恥ずかしかったのを覚えています。

2012年12月20日木曜日

「転機」

 東日本大震災は大変なカタストロフィでしたが、淡々と日々の暮らしは続いていきました。グローバルスタンダードに照らせば、あってもおかしくない暴動や略奪が起きず、被災地の惨状に比べたら何でもありませんが、それなりの混乱や不便を強いられた都心部でも、互いを思いやる気持ちで過ごしつつ、微力ながら自分にできる可能な限りの支援を被災地に送ろうとする人が大勢いるこの国を、心底愛おしく思いました。少しずつ少しずつ、今日も一歩前へ・・・。復興の地域差が深刻になるのをどうすることもできない一方で、元の暮らしが戻りつつありました。

 ドナルド・キーンが日本に帰化することを決心したという報道の中で、高見順の「敗戦日記」から、東京大空襲後の上野駅で、役人の怒声に従いながらじっと汽車を待つ寄る辺なき人々を見た時にこみ上げてきた言葉を引いていました。「私はこうした人たちとともに生き、ともに死にたい」と。日本人は最も弱いように見えるときこそ最も強いのかもしれません。  

 世界中の国や地域から支援が寄せられました。あろうことか最貧国からさえも。もしかしたら、日本は世界から愛されていたのか・・・。考えてみたこともありませんでした。他国から疎んじられ、軽んじられているのではないかと心のどこかで思っていましたが、おそらくそうではなかったのです。世界中で働いてきた、また働いている日本人の行動や文化を好意的に受け入れてくれた人々もたくさんいたのです。考えてみればイスラムのテロがアメリカ追随の日本で起きていないのは不思議なことです。日本のすぐれた商品や技術だけでなく、アニメや歌やおもてなしの姿勢は、相手の心に響く何かをもたらしてきたのではないでしょうか。

 少し前に、Jポップを歌う外国人ののど自慢を見てあまりのうまさに度肝を抜かれましたが、あのレベルに達するにはよほど日本に入れ込まないと無理でしょうし、それがどうも物好きな一握りの外国人ということでもないようなのです。日本や日本語に出会ったきっかけは様々でしょうが、「とにかく日本が好き」という気持ちにあふれていて新鮮な感銘をうけました。出てくる外国人がそろいもそろって、日本的な感じのする人、控えめだが内に強い意志を秘めているような人だったのが印象的でした。

 近代史において日本が近隣諸国に対しておかした過ちを否定しようというのではありません。一度、してはいけないことをしてしまうと、文字通り「取り返しがつかない」ことを肝に銘じるべきです。しかし、戦後六十数年たった今でも、相手が「日本憎し」の教育を続け、事あるごとにそれを持ち出して国民を操る政治力を見せつけられると ー責めるつもりはありません。そんな権利はないことを知っていますし、逆の立場だったらそうしていたかもしれないのですから ー ひどい徒労感にさいなまれます。「これ以上どう反省すればよいのか」というのがおおかたの市井の人の偽らざる感覚ではありますまいか。こうしたことが度重なると、双方の関係を未来志向的に考えることには希望が持てなくなってしまうのです。解決に近づくわけではないと知りつつ、しばらく距離をとるしか手立てはないような気持ちになります。

 それより、未来志向的に考えるというのなら、日本がなぜアジアで唯一欧米の植民地化を免れたかを考えてみた方がよいように思います。無関係なことのように聞こえるかもしれませんが、これらは一つのことです。その理由は、もちろん、当時の幸運な国際情勢にもあったでしょうが、江戸時代の太平の世に形成された文化の高さを無視するわけにはいかないでしょう。戦後の長き平和の時代に作られた文化も同様です。世界において国の存立の根本を支えるのは軍事力だけではありません。日本が世界から愛される国であるとしたら、それはそれだけでも、ある意味、国の存立に寄与する力になるだろうと思います。

2012年12月19日水曜日

「紅春 5」


 りくは昼間は父と二人で過ごします。ですから、りくの教育係は父なのですが、りくはしつけや教育というものを超越していたように思います。できることは教えなくてもできるし、「できないこと」というのは端的に「やらないこと」なのです。

 例えば、「お座り」というのは礼儀作法ですから、人に頼みごとをするとき(「散歩につれていってください」「おなかが空きました。ごはんをください。」などの時)、全く教えなくてもりくは居住まいを正します。それに対して、「お手」というのは芸であり、ある意味、人に媚びる動作です。りくはいくら教えても「お手」をしませんでした。困ったような悲しげな顔をするのです。「お手」をする意味がわからなかったのだと思います。

 私は子供の頃、自転車で犬を散歩させている人を見て一度やってみたいものだと思ったのですが、その頃飼っていた犬は、普通の散歩でもものすごい勢いでぐいぐい引っ張るので、自転車で散歩など夢想だにできませんでした。
 私はまだ子犬のりくと一度自転車での散歩を試してみることにしました。驚きです。りくは最初の1回目から、こちらのペースに合わせて走れるのです。声をかけてやると、時々ちらちらこちらの動きを見ながら、集中してピタッとついてきます。「りくは天才!」と思いました。


 りくは子供の頃、毎晩寝る前に父とその日の反省をしていました。父とりくは向かい合い、ひざと前足をつきあわせての真剣な反省会でした。話すのは父です。
「今日もたくさん遊びました。でも遊んだおもちゃを片しませんでしたね。おもちゃはおもちゃ箱に片してください。」
りくは姿勢を正し、神妙な顔で父の話を聞いていますが、片しはしません。

2012年12月18日火曜日

「ドイツ、おかしな名所巡り」

 「妹が引っ越すと言うんで、いらないものを段ボールの箱で送ってきて、その中に萩尾望都があってね。」
ある日、隣の席の同僚がそう言いました。萩尾望都・・・ そのまま、素通りすることのできない名前です。(2012年、紫綬褒章受章おめでとうございます。) 

 しばらく萩尾望都談義に花が咲きましたが、私が
「傑作が多い中でも、彼女の最高傑作は・・・」
と言うと、相手は息をつめて次の言葉を待っていました。
「『トーマの心臓』」
彼女はゆっくり深くうなずきました。

 このコミックは中学2年の時、頼んだわけでもないのになぜか友達が貸してくれたのです。読んではいけない本を読んだような気がして、萩尾望都は私の中で封印され、それが解けるのに数年を要しました。

 その後、初めてドイツを旅したとき、私は「『トーマの心臓』名所巡り」を敢行しました。ライン Rhein のほとりにある古城やユースホステル、ウィースバーデン Wiesbaden のバス通りのずっと先にある主人公の実家、もう一人の主人公の実家のある大聖堂が見えるケルン Köln市街、話の舞台となる学校近郊のカールスルーエ Karlsruhe市街、そしてボン Bonn の神学校・・・

 もちろん架空の場所なのですが、勝手に「ここに違いない」と決めつけ、物語にどっぷり浸って楽しんだのでした。(レーゲンスブルク Regensburg では、これに『オルフェイスの窓』が加わります。特にヴァルハラ神殿 Walhalla ははずせません。)

 その話を同僚にすると、そんな愉しみ方があったのかと悔しがっていました。

 その後、何度目かのドイツで、ヘルベルトと暮れていくマールブルク市街 Marburg を長いこと歩いた時、彼が言いました。
「このまま歩くとギーセン Gießenだよ。」
ギーセンには行きませんでした、無論。

2012年12月17日月曜日

「母の背中」


 私の母は太平洋戦争末期に福島の女子師範学校に通っていました。しかし戦況が厳しくなるにつれ、空襲警報によりしばしば授業は中断され、また学徒動員で前橋飛行場に戦闘機の部品作り(ほぼ全てがお釈迦だったという)の手伝いに行かされるなどしていたため、全く勉強ができなかったとよくこぼしていました。この勉強への渇望こそがその後の母を駆り立てていたのです。

 終戦の翌年、母は初めて小学校の教壇に立ちました。1928年1月の生まれですから、18歳と3ヶ月ということになります。今考えると恐ろしい若さですが、どんなに若くとも教師は教師です。この時代、18歳の教師であっても何の問題もなかったろうと思います。立場が人をあらしめるのです。

 結局母は十年ほどで教職を辞し育児に専念することになるのですが、私の目から見ても母は本当に教え方が上手でした。全身から学ぶことの楽しさがわきあがってくるような人でしたから、面白くないわけがありません。

 一方で、母が書生机に向かって読書や書き物をしている時には、子供心にも声もかけられないような気迫がその背中に漂っていました。勉強するということの中にはよほどすごいものがあるに違いないと想像してみるより他なかったのです。でも、そこは子供のこと、一人で遊ぶのに飽きると、私は背中でぐいぐい母の背中を押し、勉強の邪魔をしていました。
「なあに?」
「なんでもない。」

またしばらくすると、同じことを繰り返し、
「なあに?」
「なんでもない。」
「・・・あら、もうこんな時間。夕飯の支度しないとね。」

 子供は父の背中を見て育つという言葉がありますが、私にとって忘れられないのは母の背中です。

2012年12月16日日曜日

「言語ゲーム シェークスピアとプリンツェン                         Shakespeare und die Prinzen 」


 十代の時に、ライブラリィの書架にあるシェークスピア全集を手にしたことのある人は、おそらく少ないでしょう。なぜって、ティーンエイジャーはどちらかというと『嵐が丘』や『ライ麦畑でつかまえて』なんかを読みたい年頃ですから。出版されてだいぶ時がたちましたが、あのグリーンの全37冊の翻訳者は小田島雄志です。以前よくマスコミに登場するのを見た限りでは、ただの芝居好きのおっさん、よくて文学的ボヘミアンですが、ひとたび原作を手にするや、その読みは冴えに冴え何の変哲もない活字から「あんたは魔術師か?」と問いたくなるようなエリザベス朝演劇の世界を現出してくれるのです。(この先生、予習してない学生をちょっと叱ったら「英語ができないのはそんなにいけないことですか」と言い返され、絶句したというエピソードがあったっけ。(英語ができないのがいけないのではなく、学問に対する謙虚さのない人が大学へ行っていることがミステイクなのです。)シェークスピアは古典語及び他の外国語を含む驚異的なボキャブラリーを自在に操り、地口ともじりでしゃれのめし、幾万の人の心を持つ男。あののっぺりしたポートレートからは想像もつきません。

 次にプリンツェンですが、こちらは旧東ドイツ出身の男ばかり5人のバンドで、王冠をかぶったかえるをシンボルにしています。今どきのアーティストですから、放送禁止ぎりぎりのロックも作るし、思わずほろりとさせられる美しいラブソングもうまい。しかし同時に、二等市民として扱われるコンプレックスや等身大の若者のぼやきをシニカルに歌っています。かと思うとファンキーな民族音楽調あり、かなりパラノイアックな現代人を描いた歌あり、さらに、ライプチヒのバッハがカントルを務めた音楽学校を出たというだけあって(ドレスデンの音楽学校出身の人もいます)、ラテン語でグレゴリウス聖歌風の中世音楽までものしてしまうすごさ。彼らのいかついフェイスに似合わず、まさに天上の歌声です。シンプルな単語を使いながら、言葉遊びが随所に埋め込まれていて、ただ者じゃないねとうならされます。英語で歌わないので、彼らがメジャーになることはないでしょうが。

 さて、「一文に少なくとも一つのカタカナ語(固有名詞を除く)を入れる」というルールで書いてみましたが、ここまで「ずいぶん横文字の好きな人だな」と読んでしまった方、シェークスピアとプリンツェンの言語ゲームにぜひ□□□してください。(□にはどんなワードがはいるでしょう?)

2012年12月15日土曜日

「紅春 4」


 りくが4ヶ月ころのこと、無類の犬好きである友人がりくを見たいと言いました。彼女とは、リチャード・ギア主演のアメリカ映画「Hachi」を一緒に見に行き、「思い切り泣こうね。」と言い合った仲です。(ああいう映画は犬好きとでなければ見に行けません。秋田犬の子犬は成長がはやいという理由で、子犬時代の撮影には柴犬が用いられていました。アメリカ人には区別がつかなかったのかもしれませんが、あれはどこから見ても柴犬です。)
 
 子犬の時代というのは短いものです。最初冗談かと思ったのですが、彼女は本当に東京からわざわざ、りくに会うためだけにやってきたのです。

 その日父から、
「遠くから客人がみえるのでしっかり接待するように。」と言いつかったりくは、お客様に挨拶をし、おやつをもらい、一緒に写真におさまり、寒い2月でしたが、川原のお気に入りの砂場に遊びに行きと、半日大変楽しい時間を過ごしました。


 友人の話によると、以前ゴールデンレトリバーの子犬を見に行ったことがあるが、りくのお行儀の良さは、かの犬とは比べものにならないとのことでした。

 昼寝をせずに半日遊んで疲れたのでしょう、夕方のずいぶん早い時間にりくは眠ってしまいました。いつもの寝床と違うところで寝ているので、
「りくの寝るとこ、こっちでしょ。」
と言いましたが、りくにはもう立ち上がる力は残っていませんでした。子犬なりに全力を尽くしたのでしょう。そおっと寝床へ移して寝かせました。

「よくがんばったね、ゆっくりお休み。」

2012年12月14日金曜日

「午後2時の食堂」


 旅行をしていると、食事の時間がよくズレてしまいます。朝はいいのですが、10時にお茶にしたりすると、昼食はどうしても2時くらいになってしまうのです。

 インスブルック Innsbruck でのことです。遅い昼食をとろうとレストランに入りました。そこはレストランというしゃれた感じの店ではなくて、食堂といった方がピッタリくる店でした。そもそも小さな街では、その時間帯に店を開けているレストランは多くはありません。

 店にはいると、ヘルベルトはそこで食事している人のところにまっすぐ向かって行き、食事ができるか尋ねました。少しやりとりがあって、手頃な食事にありつくことができたのですが、私には1つの疑問がありました。
 「どうしてあの人がコックさんだとわかったの?」
その人はコック帽をかぶっていたわけでも、エプロンをしていたわけでもなかったから、私は彼が客と話しているものとばかり思っていたのです。

「えっ、どうしてかな。」
彼には直感的にわかったらしく、その質問自体に驚いていましたが、ちょっと考えてすぐ答えました。
「誰が午後2時に予約席でハンバーグ食べてる?」

こういうのは、私にまったく欠けた種類の常識です。

2012年12月13日木曜日

「最近の若い人」


 「近頃の若いもんは・・・」という非難めいた言葉が数千年前の古代エジプトの文書にもあるという話を聞いた時、ユーモア大賞をあげたいような話だと、こみあげる笑いを禁じえませんでした。

 最近、若者論がかまびすしいですが、無下に「なっとらん」と切り捨てるのも(自分の若い頃を思い出せばそんなことできるはずがないでしょう)、逆に「かわいそう」の大合唱もどちらも違うのではないかと思います。いつの時代の若者もおそらくそう違わない気がします。

 先日購入した大きな家電を運んできた二人組の若者は、礼儀正しく、きびきびと手際よく家電を設置し、見ていてとても気持ちの良い青年でした。思わず「お仕事がんばってください!」と応援したくなりました。

 昔と今で唯一違うことがあるとしたら、昔の大人は若い人をまともに相手にしませんでしたが(だからこそ若者は早く大人になりたかったのです)、今の大人は若者を理解しようとしすぎることくらいではないでしょうか。

2012年12月12日水曜日

「ライプツィヒ ニコライ教会 Nikolaikirche, Leipzig 」

 東西ドイツ統一前後の時期、最も勢いのあったバンドが、プリンツェン Die Prinzen であることには、誰もが首肯するでしょう。彼らの多くは、ライプツィヒの聖トーマス教会Thomaskirche の聖歌隊出身ですが、ライプツィヒにはもう1つ、東ドイツの民主化において、それを抜きには語れない教会、ニコライ教会 Nikolaikircheがあります。統一後、10年たって訪れたライプツィヒは、まだ落ち着かない(よく言えば活気のある)街でしたが、ニコライ教会を訪れた時の感動を忘れることができません。そこでわかったのは次のようなことでした。

 ニコライ教会では、1980年代から若い人たちを中心に平和のための祈りの集会が続いていました。それはやがて、月曜の17:00に毎週行われるようになり、様々な団体が集うことになりました。当時、東ドイツには公の場において自由な空間はなかったため、国の変革を求めて増えていく様々な団体の集会を、教会の性格の中にとどめておくことは容易なことではありませんでした。しかし一方で、教会は聖書のメッセージの中に時局性を認めてもいました。
 
 やがて、月曜集会において、教会の庭が違法な集会の場として警察によって排除されるようになると、緊張が一気に高まっていきました。しかし、ライプツィヒの多くの人が改革に賛同し、日中には教会の窓には花が飾られ、夜には数多くのろうそくが灯されたのでした。最大の強みは、イエスの「山上の垂訓」にあるように、非暴力と平和を愛する精神が活動全体に貫かれているということでした。1989年10月初めには、広場や通りが何千人もの人で埋め尽くされるほどになっていきました。

「ニコライ教会は全ての人に扉を開く ― offen für alle ― 」 この言葉が、東ドイツの全ての人をまとめていきました。1989年5月8日以降、ニコライ教会へ通じる通りは警察によって規制・封鎖され、平和の祈りの間ライプツィヒへ通じる幹線道路およびアウトバーンの出口は通行が禁止され、平和の祈りに関連し多くの逮捕者を出したにもかかわらず、人々は教会に殺到したのでした。運命の10月9日の模様をフューラー牧師 C. Führer は次のように述べています。

 「恐るべき暴力による鎮圧が、軍隊や労働者戦闘部隊、警察そして役人によって画策されていました。しかし。10月7日、東ドイツ40年目の建国記念の日、東ドイツの歴史の中に刻み込まれる日となったこの日、すでに始まりは告げられていたのです。10時間もの間、警察が無抵抗、無防備な人たちを攻撃し、トラックで彼らを運び去りました。そのうちの数百人がマーククレーベル Markkleeberg の馬小屋に監禁されたのです。ちょうどその時、新聞に次のような記事が掲載されました。
― もし必要ならば武力をもって、結局はこの“反革命”も鎮圧されるにちがいない ―

10月9日の出来事でした。約1000人のSED党員がニコライ教会へ行くように指示をうけました。すでに14時頃には教会の中廊は約600人ものSED党員で埋め尽くされていました。彼らは、平和の祈りの中にいつも存在するたくさんのシュタージ(国家秘密警察)と同様の任務を負っていました。しかし、結局は何も計画されず、なにも企てられませんでした。つまり、彼らは、同時に教会の話、聖福音集とその考え方に直接接していたのです! そして、私は、多くのシュタージが毎週月曜日にイエスの山上の垂訓の幸福論を聞いていたのをいつも肯定的に見ていたのです。彼らは他にいったいどこでそれを聞くことができたというのでしょうか?
 SED党員をも含めたこれらの人たちは、彼らの知ることのなかった聖福音集を、彼らがなに一つ興味を示さなかったこの教会で聞いていたのです。

 彼らはイエスの言葉を聞いたのです。
 イエスは言います。 “貧しい人をいたわりなさい!” イエスは、富める者が幸せだ、とは言っていないのです。
 イエスは言います。 “あなたの敵を愛しなさい!” イエスは、敵対者を倒せ、とは言っていないのです。
 イエスは言います。 “始まりが終わりとなるのです!” イエスは、すべてが古いまま留まる、とは言っていないのです。
 イエスは言います。 “命を賭して、命を失う者が、勝利するのです!” イエスは、あなたがたに猜疑心を持て、とは言っていないのです。
 イエスは言います。 “あなたがたは地の塩です!” イエスは、あなたがたに驕り高ぶれ、とは言っていないのです。

 非常な静寂と集中の中でこの平和の祈りは盛大に行われたのです。終わりの少し前、主教の祝福の言葉の前に、ライプツィヒのゲバントハウス管弦楽団の指揮者マズーア Masur 教授たちのアピールが読み上げられました。そして、それは非暴力を貫く私たちの呼びかけを支持したものだったのです。このような緊迫した状況の中での双方の連帯、教会と芸術、音楽と福音書、双方の一致した考えは、大変意義深いことだったのです。主教の祝福の言葉と印象深い非暴力へのアピールとともにこの平和の祈りは終わろうとしていました。そして、2000人を越える人たちが教会を出たとき、 ― 私はこの光景を一生忘れることはないでしょう ― 広場には数千人の人たちが私たちを待ちかまえていたのです。彼らは手に手にろうそくを持っていました。人はろうそくを持つとき、両方の手を必要とします。そうして、ろうそくの火が消えるのを防がなければならないのです。同時に、これはその手には石もこん棒も持つことができないということを意味しているのです。

 そして奇跡が起こったのです。
 非暴力のイエスの精神が多くの人々をとらえ、実質的で平和的な勢力へと展開していったのです。軍隊、労働者戦闘部隊、警察をも取り込み、彼らを話し合いの中に導き、撤収させたのです。そしてそれは、勝者が賞賛されることもなければ敗者が面目を失うこともない、いわゆる勝者もなければ敗者もない、イエスの精神の帰結でもあったのです。そこにはただ寛大な気持ちのみが存在していたのです。

 非暴力の運動がわずか数週間続いた後、党の独裁とその支配的な世界観が崩壊していったのです。
 “イエスは支配勢力を覆し、打ちひしがれている人たちを勇気づけました。”
 イエスは言います。 “それは軍隊や権力によってではなく、自らの精神によってなされたのだと。” つまり、私たちは共に経験を共有したのです。教会に集まった数千人もの人たち、市の中心部や通りに集まった何十万人もの人たちと共に。ウィンドウガラスが割られることはありませんでした。非暴力の中で私たちは信じられないような素晴らしい経験をしたのです。東ドイツ政府中央委員会に所属していたジンダーマン Sindermann は、死の直前次のようなことを言い残しました。
 “我々は全てを計画していた。我々は全てに対して準備を怠らなかった。そう、ろうそくと祈り以外は。”」

2012年12月11日火曜日

「紅春 3」


 りくが来て2週間ほどしたある日、日本犬保存会というところから、りくの、いや、「福之紅春号」の血統書が届きました。父は「福之大次郎号」、母は「名城の福女号」で、さらに三代さかのぼる計30頭の名前が記されています。

父方の玄祖父母には、「二代豊錦号」(岐阜大黒荘)や「誉之錦姫号」(岩代誉洞)がおり(いったいどれほど美しい犬なのでしょう)、母方の曾祖父母には、「竜王号」(二光荘)や「春姫号」(讃岐水本荘)の名前が見えます。人間よりはるかに由緒正しい家系なのです。「武蔵の紅鈴号」という名も見えますので、りくはこのあたりの名前を一字ずつもらったのかもしれません。(それにしても、なぜ女の子の名前・・・?)

 さらに目を移すと、父犬の主な賞歴の欄には、
「平成17年春 栃木展 優良1席 若犬賞」、
「平成17年春 福島展 優良1席 若犬賞」、
「平成17年春 山形展 優良1席 若犬賞」
と、三県の若犬賞総なめの記録が・・・。思わずのけぞり、りくに、
「りくの父ちゃん、すごいな。」
と話しかけてしまいました。


 りくはおっとりした気のいい性格で、このおっとりさ加減がお育ちの良さを表しているのでしょう。家族一同、びっくり仰天の血統書騒動でした。うちのような庶民の家庭でよろしいのでしょうか、りく。

2012年12月10日月曜日

「ベスト・フレンド Best Friend 」


 家で電話を受けたのですから、休日だったのだと思います。相手は関西に住む産休中の友達でした。唐突に、
「『ちゅらさん』、見てる?」
と聞くので、仕事に追いまくられていた私は、うらめしげに
「いつ見るの?」
と答えました。

「そうだよね。でさ、その時、テーマ曲にKiroroの『ベスト・フレンド』が流れるんだけど、知ってる?」
「知らない。」
ぶっきらぼうに答えると、彼女は言いました。
「そうかあ・・・。私、あの歌聴くたびに、あなたのこと思い出すんだよね。」
その歌を知らない私は、何と答えていいかわかりませんでした。用件はそれだけで、あとは雑談をして電話を切りました。

 つらつら考えるに、朝の連続テレビ小説というのは、確か日曜以外毎日やっているはずだ、ということは、日曜以外毎日思い出してくれているということになる・・・。

 人は「忘れない」と誓っても忘れていくものですし、去る者は日々に疎しで、離れていればなんとはなしに心に隔てができていくものです。それなのに、週に6日も思い出してくれているとは、自分にそんな人がいるかどうか胸に手をあてて考えてみればわかるとおり、それこそ文字通り「有り難い」ことではないか。そして、そのことを言うためだけに久しぶりに電話してくれるとは、なんと率直な人だろうと深く感じ入ったことでした。

たぶん、今話しても、「そんなことあったっけ。」と言いそうな気がするけれど。

2012年12月9日日曜日

「ヘクセンアインマルアインス Hexeneinmaleins 」

 夕食後、赤々と燃えるストーブのわきの小さなテーブルで、兄と私とヘルベルトの3人でおしゃべりしていた時のことです。エリカ Erika (ドイツの母)はとても元気な人で、もう90歳に近いというのにダンスや水泳を趣味としています。それも、水泳といっても水遊び程度ではなく、100 mや200 mをガンガン泳ぐタイプです。彼女はクロスワードパズル crosswordも毎日の日課として楽しんでいたのですが、最近は「Sudoku」にハマったそうです。言わずとしれた「数独」は今や世界語となった日本発祥のパズルです。エリカは、
「できないはずないんだけど・・・ あ~だめだわ。きっと何か法則があるのよね・・・」などと言いながら取り組んでいるとのこと、本当にその姿が目に浮かぶようです。

 そのうち、Sudokuから話が発展して、
「1から9までの数字を、3かける3で並べて、縦・横・斜めどこを足しても同じ合計になる並べ方ってどうだっけ。」
という話になりました。
「足していくつになるのかがわかれば・・・」
「15か16じゃなかった?」
その後、3人とも紙と鉛筆を持って、めいめいあれこれと考えておりました。

足して15として、真ん中の5は中央でしょう・・・ 角に何を置くか・・・ なんとなく、1と9を置くとうまくいかない予感が・・・。
「あ~、できたかも。」と私が言うと、「どれどれ。」と2人が点検し、「合ってる」と。

  2  9  4
  7  5  3
  6  1  8

魔法陣のことをドイツ語ではHexeneinmaleins と言うのだそうです。
「これ、ゲーテGoethe のファウストFaustに出てくるよね。」
「そうなの?」

  後で調べると、「魔女の九九」は確かにありましたが、
 「1を10となせ、2を去るにまかせよ、3をただちにつくれ、しからば汝は富まん、4は棄てよ、5と6より7と8を生め。かく魔女は説く。かくて成就せん。すなわち9は1にして、10は無なり。これを魔女の九九という。」
とあり、ちょっと魔法陣とは違うような・・・。  夕飯後の楽しいキッチン・トークの思い出です。

2012年12月8日土曜日

「高校断章」


 「憤死ってどういうことかな。」
「憤りのあまり死ぬことじゃない?」
「憤りのあまり死ねる?」
 考えたこともなかったな・・・
「死ねないよね。」

 ボニファティウス8世アナーニ事件にて憤死・・・。恥の多い日常生活を送っていた高校生にとっては想像もつかない言葉でした。話の種はいくらでもあり、どんなくだらないことも友達と話しました。

 ある日、一人の級友が「ちょっと職員室に行ってくる。」と言って出かけていきました。学級日誌を取りに行く以外に、職員室に足を踏み入れたことのある生徒などほとんどいませんでしたから、何事だろうとみんなで彼女の帰りを待っていました。1時間ほどで彼女は意気揚々と戻って来ました。

「政経の先生に今の日本の教育がどれほど間違っているかということをお話したら、先生は私の話を聞いて、『お前の言うことは正しい』とおっしゃった。」
「おおぅ。」と歓声が上がりました。

 その頃、先生というのは、我々生徒とは別次元にいる存在で、なれなれしい口などきけませんでしたが、このような接し方で落ち着いた日々を過ごせていたのです。毎日が女子会でした。 

2012年12月7日金曜日

「紅春 2」


  「犬が来て買った育児書20冊」という犬川柳がありましたが、私もりくが来る前に、子犬の育て方に関する本を熟読しました。食事に関しては、「家庭内の秩序を崩さないためにも、犬の食事は必ず人間の食事が済んだ後に与えるようにしましょう。」と書いてあり、その通り実行しました。

 私たちが夕飯を食べ始めると、りくは「あれっ、僕のどこだろう。」というように空っぽのごはん皿をのぞきこんだり、廊下においてあるドッグフードの袋を見に行ったりするので、私は胸がしめつけられる思いでした。父はささっと食べて、「もう終わったから。」と言い、すぐにりくにごはんをあげていました。

 結局、全員食べた心地がせずこれでは身がもたないので、このやり方はこれきりになりました。育児書のためにりくがいるんじゃない!
 
「りく、ごはんだよ。一緒にごはん食べようね。」
それからは楽しい食卓となりました。

2012年12月6日木曜日

「ウィーンでの靴直し」

 ウィーンを旅行していた時のことです。サンダルのボタンが取れてしまい履けなくなったので、別な靴に履き替えてミスター・ミニットに行きました。店にいたややでっぷりしたおじさんはサンダルを一目見るなり、「部品がありません」と言って返してよこしました。靴はあるし、現地で購入してもよい、そうすればお土産にもなると、私は考えていました。

 ヘルベルト Herbertをうながして店を出ようとしましたが、彼はおじさんとまだ話しています。しばらく聞いていましたが、よくわからない話が続くので、
「さっき部品がないって言ってたよね。行きましょう。」と言うと、
「ちょっと待ってね。」と言うように目配せします。ヘルベルトは快活に話していて、二人の会話はだんだん盛り上がっていきます。ようやく話が終わり、サンダルを置いたまま出ようとするので、
「サンダルは?」
と聞くと、
「後で話すね。」
と小声で答えました。


 店の外で彼はこう言いました。
「ええと、明日の10時にサンダルが受け取れます。彼がどんな仕事をするか見てみよう。」
「いったいどうしたの?」
「彼の言葉にハンガリーなまりがあったから、ハンガリー語で話しかけてみたんだ。うまくいったよ。」


 言葉による交渉ごとが天才的にうまい人だなと舌を巻きました。彼はこのような困った状況になると腕が鳴るらしく、そういう事態を楽しんでしまうのです。

 次の日、おじさんは「どうだ」と言うように、サンダルを出してきました。以前よりやや大きめのボタンでしたが、しっかり留めることができました。これはどちらにとっても気分のいい体験ではないでしょうか。今思い出しても愉快な気持ちになります。

 

2012年12月4日火曜日

「プラハ Praha あるいはフランツ・カフカ Franz Kafka 」


 フランツ・カフカの「城」を読んだのはかなり昔ですが、たしか城から仕事の依頼を受けた測量士が、その村に到着する場面から始まり、なぜか足止めを食らううち、様々な雑事に取り込まれ、いろいろと策を弄するものの、霧の中に見え隠れする城にどうしてもたどりつくことができないという実にうんざりする話でした。確かにうんざりしたのですが、どういうわけか心を去らない類の話でした。

 この作品に魅惑されてプラハの城を訪れる旅人は後をたたないでしょうが、全プラハでいまや資本主義がわが世の春を迎えています。これはプラハ市民にとっては疑いもなく喜ばしいことでしょう。しかし、「カフカの生家はどこですか。」との真剣な問いに、「ここです。」と言って自分の店に引き入れようとしたTシャツ屋のおにいさん、あれはないでしょ、あれは。カフカと言えば国の誇りでしょうに。
 
今、城にいくには土産物屋の立ち並ぶ坂道を登っていくとあっという間に着いてしまいます。そう、カフカの「城」の世界はもはやどこにもないのです。現代の日本における日常の奇奇怪怪さの方が、よほどリアルな「城」かもしれません。
                                          2004年 夏

2012年12月3日月曜日

「故郷の山はありがたきかな」


  2010年 冬

 この時期、雪を頂いた山々はこの世のものとは思えぬほど美しい。中学・高校時代、いくら自転車をこいでも進まない吾妻おろしに苦しめられた故郷の山が、年々かけがえのない大切なものに思えてくるのは年をとったせいでしょう。

 年末年始に私の印象に残った番組はみなアスリートに関するものでしたが、それは日々の自己管理が端的に自己実現に表れる明快さのせいかもしれません。
第1はイチローの9年連続200本安打達成です。これに限らず、私は家でイチローのビデオを流しっぱなしにすることが度々あるのですが、だらけがちな状況でやるべきことをを自転車操業的に行うには、これくらいのカンフル剤が必要です。

 第2は荒川静香のトリノ五輪金メダルに至る道のりです。勝負はリンクで滑る前に既に決していて、勝利に偶然はないことを物語っていました。彼女の自己決定の強靱さと聡明さに心打たれましたが、私がストイックな人に惹かれるのは自分がデカダンをこよなく愛し、彼らの自制心を絶対にまねできないからなのです。

 第3は箱根駅伝を走った若者達の群像です。日々練習に打ち込んできた者だけが流せる汗と涙は、彼らにとって何ものにも代え難い人生の宝となるでしょう。きわだっていたのは5区で首位交代を成し遂げた柏原竜二です。走り以外は、木訥としてパッとしない福島の県民性を体現していましたが、「このスピードで最後までもつのか。」との素人の心配をよそに、まるで水を得た魚のように登り坂を快走しました。また、「ノー・プラン」というプランで彼を自由に走らせ、「目標に向かって鍛錬を積み、己を知る選手には、本人の気の済むようにさせるのが最上の策である」と、若くして達観した同県高校教諭出身の監督の采配も見事でした。山々に囲まれた土地で鍛えられた若者の活躍に、大いに沸いた故郷の正月でした。
                                       

2012年12月1日土曜日

「紅春」


 それは目の光の強い子犬でした。他の子犬とは全く違い、じゃれつきもしなければ吠えもしません。ただ、じいっとこちらを見ていました。

「この子です。」
私たち大の大人3人とその子犬は、一緒に家に帰りました。2006年もあと2日を残すばかりという年の暮れでした。

 10月生まれなのに福之紅春号という名のその子犬は、文字通り家に春を運んできました。縄文の昔から人間と暮らしてきた犬種です。片耳はまだ折れていましたが、二週間後に実家を訪れた時は両耳とも屹立していました。しっぽはこんもりとうず高く巻き上がってやけに立派でした。貴族のようなその名前は、家では単純明快に「りく」と呼ばれました。

 りくは不思議なくらい食に関心がなく、食が細い犬というのを初めて知りました。りくにとって大事なのは家族で、誰かが帰ってくると、ごはん中でもダッシュで出迎えに行きます。

 りくが来てから、二週間ぶりで初めて実家に帰った時のことです。
「ただいま。」と言って玄関の戸を開けると、いぶかしげな顔で廊下を歩いてきたりくは、私を見た途端、「あっ」というように口をぽっかりあけました。
「犬でもこんな顔するんだ・・・」と驚いていると、りくは大慌てで茶の間にとって返しました。家族の帰還を他のメンバーに知らせるためです。まだ生後3ヶ月の子犬にしてなんという記憶のよさと的確なふるまいであることか。その後の歓待の仕方は尋常ではありませんでした。私のことを「時々旅から戻る群の仲間」と認識しているらしく、帰る度に大歓迎を受けます。私の存在をこれほど全身で喜んでくれる生き物はいません。
                                    2007年 冬

2012年11月30日金曜日

ウィーンの或る教会 Kirche am Steinhof

 教会が第一の観光名所となるほどウィーンには壮麗なカトリック寺院が多いですが、中でもオットー・ワグナーt設計のキルヒェ・アム・シュタイン・ホフは特筆に値します。この教会は広い精神病院の敷地内にあり、患者さんが礼拝を守れるように建てられたものです。そのため一般の見学は土曜の三時からガイド付きのみで行われていす。

 その日、不慣れな土地のため五分ほど遅れた私と連れ合いは集合場所に息せき切って駆けつけましたが、もう人影はなく「直接、教会までおいで下さい」の貼り紙。といっても、教会の場所がわかいません。患者さんの一人に尋ねると、そのおばあさんは親切にも教会まで案内してくれました。おかげでガイドさんの説明に間に合い、中に入ることができました。

  説明によると、ワグナーは明るい会堂をめざしましたが、過度の採光・照明は病気に悪いとの医者の助言があり、金色を多用することできりぬけたことと、中央に描かれた絵画は、未熟な職人が途中で挫折したり、プロテスタントの妻を得たりしたため、結局三人目の職人が完成したこと、様々な曲折を経て従来の固定観念が破られ、ステンドグラスに髪がショートカットの天使が採用されたことなどがわかりました。

見上げた天井

 丸天井ははるかに高く、見上げるとまるで星空の下にいるようでした。また、患者への配慮から、壁にはカトリック特有の華美な装飾物は一切なく、いすなどの端は丸く削られていました。また、聖水で遊んだりせぬよう触れると水が数滴だけ出る仕掛けもあり、不慮の事態に床が水洗いできるよう、いすの足の最下部は金属製でした。礼拝中は医者2名と看護婦5名が待機し、万一に備えているとのことでした。

 ただ美しいだけでなく、患者さんに対する深い気遣いに感銘し、この病院における魂の癒しを祈らずにはいられませんでした。帰りに仲間の人達と丸くなって草地に座っている先ほどのおばあさんを見つけました。近寄ると彼女は
「教会はどうでしたか。」と明るい声で話しかけてきました。
「すばらしかったです。そのお礼を言いにきたのですよ。」と私たちは答えてその場を後にしました。                                  1993年 夏

2012年11月29日木曜日

6枚目の絵 「天文学者 Der Astronom 」


 この絵は、6枚の中で唯一実際に見ていない絵です。
ルーブルは2、3日かけてじっくり見たい美術館ですが、なかなか機会に恵まれず今日まできてしまいました。

 いつか、連れ合いと一緒に行くはずでした。しかし、それがかなうことはもうありません。彼が天に召されたからです。今後、私が一人でルーブルなりどこへなりへ行くことはおそらくないだろうと思います。 

 言葉の問題もあり、これまでフランスを訪れたのはほぼアルザスに限られています。覚えているのは、コルマールにあるグリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画 Isenheimer Alter を見に行ったことです。悪魔の誘惑を受けるアントニウスのすさまじい形相が忘れられません。その絵のことを私は知らなかったのですが、見ることができて本当によかったと思いました。どうして私が見たいと思うものがわかるのか不思議でした。

 フェルメール・カフェでは、「天文学者」と「地理学者」は西の壁面に仲良く並んでいます。対になる作品ですから、それが一番落ち着きがよいようです。

  傑作と呼ばれる世界の絵画は、人類共通の財産として美術館で鑑賞すべきものという考えもありましょうが、これら6点の絵画は、私にとっていつ眺めても思わず見入ってしまう、どうしても手元に置きたい絵画なのです。

5枚目の絵 「窓辺で手紙を読む女                                     Briefleserin am offenen Fenster」


 「真にドイツ的なものはみな旧東ドイツにある」とは、旅先で出会ったドイツ人の言葉です。
 真偽はともかく、東西ドイツ統一まもないドレスデンのアルテ・マイスター絵画館 Gemäldegalerie Alte Meister を訪れた時のことです。ここに、「やり手婆」があることは知っていたのですが、ここにあることを知らずに出会ったのがこの「窓辺で手紙を読む女」です。 ぜひとも見たいと思っていた1点で、「この絵はドレスデンにあったのか。」と、思いがけない幸運をとてもうれしく思いました。

 私には、この絵と「やり手婆」が同じ作者の手によるものとは思えないのですが、「やり手婆」が大きなキャンバスに描かれたものであるのに対し、こちらはとても小ぶりの絵画です。その落ち着いた色合いは、そこだけ時を止めるほどの静寂に包まれていました。 手紙を手にした女の構図は他にも何点かありますが、私はこの絵が一番好きです。

 のちにこの絵を注文したとき、「手紙を読む女の絵で、全体が薄緑色っぽい・・・」と説明すると、電話口の女性は「『窓辺で手紙を読む女』ですね。」と応じましたが、正確なタイトルを知らなかった私は、「あの・・・若い女の人で・・・あ、ドレスデンにある絵です。」と言いました。「そうです、そうです。」と相手の弾んだ声が聞こえ、話がすっとつながったのでした。同じ絵を見たというだけで、これほど親近感が沸くというのも不思議なものです。

4枚目の絵 「絵画芸術 Die Malkunst」


 私は長いこと、この絵のタイトルを「画家のアトリエ」だと思っていましたが、もっと抽象的な絵画のようです。
この絵は生活の一場面や人物の肖像を描いた作品とはかなり違っていますが、なんと美しい絵でしょうか。何一つ欠けたものも余分なものもない完璧な絵です。フェルメールが最期までこの絵を手放さなかった訳がわかる気がします。

 この絵はウィーンの美術史美術館 Kunsthistorisches Museum にあるものですが、ここにはブリューゲルの部屋ともいうべき一室があり、「雪中の狩人」「農民の踊り」等の逸品が数多くあります。私はブリューゲルも大好きです。

 ウィーンは連れ合いと初めて旅行した場所でした。彼はウィーン生まれで6才までそこで育ったので、子供のころ過ごした家を見に行ったのですが、とても懐かしそうでした。

 その集合住宅たるや、私がそれまでに見たこともないだだっ広い螺旋状の内階段とむやみに高い天井を持ち、現代の合理性というものをまったく排したハプスブルク帝国の象徴のような建物でした。

 オーストリア人の父と、ドイツ人の母がどこでどうして出会ったのか彼もよく知らないようでしたが、6才の時に家族でドイツに帰化したとのことでした。

 ウィーン時代の家は、プラーター Prater まで歩いて行ける距離にあり、よく行って砂遊びをしたこと、いつも帰りたくなくて母を困らせたことを話してくれました。童心に返ってリリプットバーン(子供用の機関車)に乗ったのを思い出します。

3枚目の絵 「地理学者 Der Geograph」

 
 私の連れ合いはドイツの人でした。

 毎夏、フランクフルトを訪れると、彼自身は絵画にさほど興味がないにもかかわらず、必ずシュテーデル美術館 Städelsches Kunstinstitut und Städtische Galerie に連れて行ってくれました。ここは静寂に満たされた館内で、私はほぼいつでも「地理学者」を一人で鑑賞できました。

「僕は向こうのソファーで休んでるから、好きなだけ見てていいよ。」と彼は言い、私は好きなだけこの絵を眺めました。幸せな時間でした。でも困ったことに、絵を見飽きるということがないので、やはりどこかで切り上げなくてはならないのでした。

 天気のいい日にはそれからリービークハウス Liebieg Hausまで歩いて行き、気さくなカフェの美しい中庭で軽食をとるのが毎年のならわしでした。

2枚目の絵 「真珠の耳飾りの少女                               Das Mädchenmit dem Perlenohrgehänge」

 *「青いターバンの少女」という方がわかりやすいかもしれません。

  早朝のマウリッツハイスでした。

  今から考えると信じられないようですが、その絵の前に私は一人で立っていましたその頃は、今ほどこの絵の名声が響き渡っておらず、その絵を独り占めすることができたのです。

 その瞬間、私は文字通り、まさにこの絵に魅入られてしまい、トランス状態に陥りました。まったく動くことができなかったのです。

 警備の方が緊張して私を見守っているのがわかりました。レンブラントの「夜警」に、スプレーが吹きかけられる事件が起きたのはこの翌年ですし(さらに前には切り裂き事件もありましたっけ)、イタリアのウフィツィ美術館が爆破されたのがその数年後のことで、世界の絵画や美術館はいつでもテロの対象になり得るからです。

  どのくらいの時間か、私は他の人が来るまでこの絵の前でユーフォリアに包まれておりました。それからようやく正気に戻り、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れたのでした。 。

1枚目の絵 「牛乳を注ぐ召使い Dienstmagd mit Milchkrug」

 
  フェルメールとの出会いは二十数年前にさかのぼります。 
  絵画にほとんど関心が無かった私は、母が少しずつ買いそろえた画集に時折陶然と見入っている姿を、なかば当惑しながら見ているような子供でした。
  ところが、オランダに旅行した折、話の種にと訪れたアムステルダム国立美術館でこの絵に出会ってしまったのです。一分の隙もない、完璧な絵でした。朝食の準備であろうか、牛乳を注ぐ揺るぎない動作。
  「ああ、この女の人はこの行為を何百回も、いや千年も続けてきたのだ。」と感じました。この絵には、過去から連綿と続けられ、未来永劫永遠に続いていく人間の営みの確かさが宿っていました。
 フェルメール詣での始まりでした。

2012年11月24日土曜日

フェルメール・カフェの紹介

 我が家の片隅に、「フェルメール・カフェ Vermeerscafe」もしくは「ルーエ・プラッツ Ruheplatz」と呼んでいる静かな場所があります。
 

 
 ここには、フェルメールの絵が6点あり、珈琲をいれて一息ついたり、考えごとをしたりするときの休憩場所になっています。

  絵画は、ジクレーによる複製ですが、私には区別がつかない以上、本物と同じです。朝な夕なにしばらく眺めていると、心が穏やかになっていきます。なんという静謐、なんという至福の時でしょうか。


 
 また、夜中に目覚めたとき、薄明かりの中に、ぼんやり浮かび上がる絵画もなんともいえず風情のあるものです。

 
フェルメール・カフェでは、美術館とはまた別の愉しみ方ができます。しばし、ゆっくり休んでいってください。珈琲をいれましょうね。