東西ドイツ統一前後の時期、最も勢いのあったバンドが、プリンツェン Die Prinzen であることには、誰もが首肯するでしょう。彼らの多くは、ライプツィヒの聖トーマス教会Thomaskirche の聖歌隊出身ですが、ライプツィヒにはもう1つ、東ドイツの民主化において、それを抜きには語れない教会、ニコライ教会 Nikolaikircheがあります。統一後、10年たって訪れたライプツィヒは、まだ落ち着かない(よく言えば活気のある)街でしたが、ニコライ教会を訪れた時の感動を忘れることができません。そこでわかったのは次のようなことでした。
ニコライ教会では、1980年代から若い人たちを中心に平和のための祈りの集会が続いていました。それはやがて、月曜の17:00に毎週行われるようになり、様々な団体が集うことになりました。当時、東ドイツには公の場において自由な空間はなかったため、国の変革を求めて増えていく様々な団体の集会を、教会の性格の中にとどめておくことは容易なことではありませんでした。しかし一方で、教会は聖書のメッセージの中に時局性を認めてもいました。
やがて、月曜集会において、教会の庭が違法な集会の場として警察によって排除されるようになると、緊張が一気に高まっていきました。しかし、ライプツィヒの多くの人が改革に賛同し、日中には教会の窓には花が飾られ、夜には数多くのろうそくが灯されたのでした。最大の強みは、イエスの「山上の垂訓」にあるように、非暴力と平和を愛する精神が活動全体に貫かれているということでした。1989年10月初めには、広場や通りが何千人もの人で埋め尽くされるほどになっていきました。
「ニコライ教会は全ての人に扉を開く ― offen für alle ― 」 この言葉が、東ドイツの全ての人をまとめていきました。1989年5月8日以降、ニコライ教会へ通じる通りは警察によって規制・封鎖され、平和の祈りの間ライプツィヒへ通じる幹線道路およびアウトバーンの出口は通行が禁止され、平和の祈りに関連し多くの逮捕者を出したにもかかわらず、人々は教会に殺到したのでした。運命の10月9日の模様をフューラー牧師 C. Führer は次のように述べています。
「恐るべき暴力による鎮圧が、軍隊や労働者戦闘部隊、警察そして役人によって画策されていました。しかし。10月7日、東ドイツ40年目の建国記念の日、東ドイツの歴史の中に刻み込まれる日となったこの日、すでに始まりは告げられていたのです。10時間もの間、警察が無抵抗、無防備な人たちを攻撃し、トラックで彼らを運び去りました。そのうちの数百人がマーククレーベル Markkleeberg の馬小屋に監禁されたのです。ちょうどその時、新聞に次のような記事が掲載されました。
― もし必要ならば武力をもって、結局はこの“反革命”も鎮圧されるにちがいない ―
10月9日の出来事でした。約1000人のSED党員がニコライ教会へ行くように指示をうけました。すでに14時頃には教会の中廊は約600人ものSED党員で埋め尽くされていました。彼らは、平和の祈りの中にいつも存在するたくさんのシュタージ(国家秘密警察)と同様の任務を負っていました。しかし、結局は何も計画されず、なにも企てられませんでした。つまり、彼らは、同時に教会の話、聖福音集とその考え方に直接接していたのです! そして、私は、多くのシュタージが毎週月曜日にイエスの山上の垂訓の幸福論を聞いていたのをいつも肯定的に見ていたのです。彼らは他にいったいどこでそれを聞くことができたというのでしょうか?
SED党員をも含めたこれらの人たちは、彼らの知ることのなかった聖福音集を、彼らがなに一つ興味を示さなかったこの教会で聞いていたのです。
彼らはイエスの言葉を聞いたのです。
イエスは言います。 “貧しい人をいたわりなさい!” イエスは、富める者が幸せだ、とは言っていないのです。
イエスは言います。 “あなたの敵を愛しなさい!” イエスは、敵対者を倒せ、とは言っていないのです。
イエスは言います。 “始まりが終わりとなるのです!” イエスは、すべてが古いまま留まる、とは言っていないのです。
イエスは言います。 “命を賭して、命を失う者が、勝利するのです!” イエスは、あなたがたに猜疑心を持て、とは言っていないのです。
イエスは言います。 “あなたがたは地の塩です!” イエスは、あなたがたに驕り高ぶれ、とは言っていないのです。
非常な静寂と集中の中でこの平和の祈りは盛大に行われたのです。終わりの少し前、主教の祝福の言葉の前に、ライプツィヒのゲバントハウス管弦楽団の指揮者マズーア Masur 教授たちのアピールが読み上げられました。そして、それは非暴力を貫く私たちの呼びかけを支持したものだったのです。このような緊迫した状況の中での双方の連帯、教会と芸術、音楽と福音書、双方の一致した考えは、大変意義深いことだったのです。主教の祝福の言葉と印象深い非暴力へのアピールとともにこの平和の祈りは終わろうとしていました。そして、2000人を越える人たちが教会を出たとき、 ― 私はこの光景を一生忘れることはないでしょう ― 広場には数千人の人たちが私たちを待ちかまえていたのです。彼らは手に手にろうそくを持っていました。人はろうそくを持つとき、両方の手を必要とします。そうして、ろうそくの火が消えるのを防がなければならないのです。同時に、これはその手には石もこん棒も持つことができないということを意味しているのです。
そして奇跡が起こったのです。
非暴力のイエスの精神が多くの人々をとらえ、実質的で平和的な勢力へと展開していったのです。軍隊、労働者戦闘部隊、警察をも取り込み、彼らを話し合いの中に導き、撤収させたのです。そしてそれは、勝者が賞賛されることもなければ敗者が面目を失うこともない、いわゆる勝者もなければ敗者もない、イエスの精神の帰結でもあったのです。そこにはただ寛大な気持ちのみが存在していたのです。
非暴力の運動がわずか数週間続いた後、党の独裁とその支配的な世界観が崩壊していったのです。
“イエスは支配勢力を覆し、打ちひしがれている人たちを勇気づけました。”
イエスは言います。 “それは軍隊や権力によってではなく、自らの精神によってなされたのだと。” つまり、私たちは共に経験を共有したのです。教会に集まった数千人もの人たち、市の中心部や通りに集まった何十万人もの人たちと共に。ウィンドウガラスが割られることはありませんでした。非暴力の中で私たちは信じられないような素晴らしい経験をしたのです。東ドイツ政府中央委員会に所属していたジンダーマン Sindermann は、死の直前次のようなことを言い残しました。
“我々は全てを計画していた。我々は全てに対して準備を怠らなかった。そう、ろうそくと祈り以外は。”」