2012年12月31日月曜日

「イグノーベル賞落選作」


 自分にとっては極めて面白い話でも他の人にとっては面白くもなんともない話で、一人でもりあがってしまうことがあるなと自分でも気づいています。子供の頃からトンデモ話が大好きで、これはもう生まれつきの本性と言ってもよく、何かを思いつくと愚かな血が騒いでしまうのです。

 もう20年以上も前に母と英国を訪れ、ロンドンのウォータールーブリッジの上からテムズ河を眺めた時、母が言いました。
「これ、どっちに流れているのかしらね。」
「どっちって、下流でしょ。」
と答えながら、自分の答えに戸惑ったのは、一見したところ下流に流れているようには見えなかったからです。

 そして、職場近くを流れる小さな川を東京湾からゆっくり遡上する水の流れ・・・ コルマールのイーゼンハイム祭壇画「聖アントニウスの誘惑」・・・。  応募作品は様々な残像がつながっていく過程で書き上げられた文です。自分にしか面白くないだろうなあと、多少寂しい気持ちですが、年末年始にお暇な方はお付き合いください。もう手遅れですが、英文の添削もよろしくお願いします。



カトリック教徒としてのメッセージ、『ヴェニスの商人』
~カモフラージュに使われたのはエリザベス一世だった
 
「(あの私の鼻血騒ぎは)去年の復活祭あけの月曜日午前6時、ってことはつまり4年前の聖灰水曜日の午後のことだった。」
 これは全くのナンセンスとされるこの芝居の道化ランスロットの言葉であるが、そう考えるとしたらそれこそナンセンスであろう。「シェークスピアは無意味な台詞は書かない」というのが彼の芝居を知るものの常識であろう。ではこの台詞はいったい何を意味しているのだろうか。この謎解きをするために、我々は一足飛びにシェークスピアの時代のロンドンへ旅してみよう。

 まず最初に我々の興味をひくのはAndrew SaintとGillian Darleyによる The CHRONICLES of LONDON  (『図説 ロンドン年代記』)である。その中にプロテスタントで『殉教者伝』を著したジョン・フォックスが、1554年のメアリーの統治下にまだ王女であったエリザベスがホワイト・ホールからロンドン塔へ移される時の様子を描いた描写がある。
「次の土曜日枢密院の二人の卿(サセックス泊ともう一人)が来て、潮もちょうどいいのでエリザベスをロンドン塔へ連れて行こうとするのだが、エリザベスは『次の潮まで待ってもらえないか。その方が条件がよくなり楽に行けると思う』と頼む。・・・結局女王に手紙を書くことを許され、二人の卿は次の潮で王女を連れ出す用意を整えるが、次の潮は真夜中だったので王女が途中で誘拐されることを恐れて、再び延期した。次の日はシュロの主日だった。二人は9時頃に姿を見せ、出発の時ですと王女に告げた。」

「翌日はシュロの主日だった。」と書かれていることから、インターネットでCalendar 1554 及びEaster Date for 1554と検索すると、これが3月17日の土曜日であったことがわかる。この年の復活祭は3月25日であり、シュロの主日はその1週間前だからである。「潮もちょうどいい」とはどういうことなのだろうか。

『図説 ロンドン年代記』には、1498年にロンドンを訪れたヴェネチア人のアンドレア・トレヴィザンの言葉が記されている。 

「この島国のすべての美はロンドンに集約されているようだ。海からは60マイルも離れているが、港町になるにふさわしい条件を備えている。テムズ河はこの町のさらに何マイルか上流まで潮の満干の影響を受けるので、百トンの荷を積んだ船が埠頭に横づけできるし、どんな大きな船でも町から5マイルのところまでやってくることができる。それなのに、ロンドンの下流20マイルくらいまで淡水なのだ。・・・・」
ほとんど潮の影響を受けない地中海から来た彼にとって、潮が河を遡上するテムズ河は特筆すべき驚きに満ちた河だったのである。

テムズ河の潮の満ち干を知るには、まず月齢を知らなければならない。NASA - Moon Phases :6000 Year Catalogで1554年の月齢を調べると、満月は3月19日であることがわかる。王女エリザベスがロンドン塔へ運ばれることになっていた日はその2日前である。

 次にすべきことはテムズ河の潮の状態を調べることである。インターネットでPort of Londonと検索するとTide Tables があり、London Bridgeでの潮の満ち干の時間を知ることができる。2012年であれば、イースターは4月8日、前日の4月7日が満月である。その2日前というと、午前0:16に満潮、6:57に干潮、午後12:45に満潮、19:16に干潮となっている。(ちなみに満月時には午前1:49に満潮、8:52に干潮、午後14:17に満潮、21:03に干潮である)。

 さらにこれをもとにエリザベスの移送の場面を読み解くと、二人の卿が来たのは午後1時以降、下流のロンドン塔まで移送するのによい下げ潮が始まる時間であろう。移送に抵抗するエリザベスの主張する次の潮は真夜中の12時以降になってしまう。 結局、エリザベスの移送は翌日の午前9時頃となるが、二人の卿がシュロの主日のこの時間にやって来たのは、上げ潮が強くなる前に移送しなければということだろう。これでこの場面の描写を潮の動きとともに理解することができた。ロンドンでは季節によって若干の変動はあるが、満月の頃には大雑把に言って午前・午後とも2時前後に満潮を、9時前後に干潮を迎えるのである。

 もう1つだけ例を拾ってみよう。『図説 ロンドン年代記』には、異端の修道士で哲学者だったジョルダーノ・ブルーノが、1583年から1585年に英国で亡命生活を送った時に書いた『灰の水曜日の夕食会』(1584年出版)についての記述がある。この夕食会は、実際にホワイトホールのサー・ファルク・グレヴィル邸で開かれたもので、三人の客(ブルーノは「ザ・ノーラン」という仮名で登場している)が、ストランドからさほど遠くないホワイトホールまで行き着くのがいかに困難だったかを、極めてコミカルかつ辛辣に描いている。

 先ほどと同様に、インターネットでCalendar 及びEaster Date を検索すると、これが1583年の話であれば聖灰水曜日は(夕食会があったのはその前日の火曜であろう)2月13日、1584年の話であれば聖灰水曜日は3月4日で日付は大きくずれるが、月齢はどちらも1ないし2程度で新月に近い。

 ここで注意しなければならないのは、イギリスではまだユリウス暦を使用しているが、1582年からグレゴリオ暦が使用され10月4日の翌日は10月15日とされたということである。現在インターネットで使用されているカレンダーは1582年以降はグレゴリオ暦によっているので、ユリウス暦を用いる場合は日付は10日マイナスし、曜日も変更しなければならないということである。先ほど述べた日付はユリウス暦のもの、月齢はグレゴリオ暦から換算した実際の月齢である。

 つまり夕食会のあった可能性のあるこの両日の潮の動きはほぼ同じで、Port of LondonのTide Tablesによれば午後3時前後に満潮を、10時前後に干潮を迎えることになる。バックハースト卿の船着き場から上流のホワイトホールのサー・ファルク・グレヴィル邸へ夕食の時間帯(例えば8時)に行こうとすれば、下げ潮のほぼ一番強い時間帯であったろうから、船頭が漕いでも漕いでもたどりつけなかったのである。ブルーノには気の毒であるが、潮の動きを知らないとどうなるかという好例である。

 イングランドの暦について注意しなければならないことがもう一つある。イングランドでは、古くから1年の始まりを12月25日(キリスト降誕祭)としていたが、14世紀に3月25日(マリア受胎告知の日)が1年の始まりの日となり、これは1752年にグレゴリオ暦採用時に1月1日に変わるまで続いた。シェークスピアの時代には、1年の始まりは3月25日だったのである。

 例えば通例「エリザベス女王は1603年3月24日に死去した」という言い方をするが、これは月日はユリウス暦のまま、年は1月1日を始まりとする現在の数え方で表記するという便宜上の方法を使っているのである。これを当時のイギリス暦で言えば「エリザベス女王は1602年の大みそかに死去した」ということになり、また今日のグレゴリオ暦に換算すればその日は「1603年4月3日」にあたるのである。多少複雑ではあるが、これでシェークスピア当時の状況がかなり明確になり、ようやく『ヴェニスの商人』を読む準備が整ったようである。

 『ヴェニスの商人』は、貿易で財をなしたヴェニスの商人アントーニオと高利貸しのユダヤ人シャイロックとの人肉裁判という話の主筋に、アントーニオの友人バッサーニオによるポーシャへの求婚談や3つの小箱を使ったポーシャの婿選び、シャイロックの娘ジェシカとロレンゾーとの駆け落ちの物語、ポーシャとバッサーニオの指輪をめぐる茶番劇などを組み込んだ芝居である。初演がいつかという記録は残っていないが、blocking entry されたのが1598年7月22日であるから、その年のロンドンの観客になったつもりでこの芝居を見てみよう。日付は4月17日、復活祭明けの月曜と仮定してみよう。なぜなら、聖灰水曜日から復活祭までの40日間はレント(四旬節)であり、キリストの受難に与るという斎戒の季節であるため、枢密院のお触れにより建前上はその間の公演は禁じられていたからである。この月曜は復活祭に引き続き祝日であるが、教会の祝日ではないから芝居の初日として適当だったろうと思われる。

 芝居の冒頭で、アントーニオは「わけもなく憂鬱だ。」といって現われ、友人バッサーニオの結婚資金を用立てるため、自らの体を形に保証人となってシャイロックから3ヶ月の期限で3000ダカットの借金をする(第一幕)。これはいつの話だろうかと頭の片隅で考えながら芝居を見ていくと、第二幕でバッサーニオが主催する仮装舞踏会の話となる。「陽気な衣装を身につけて」「愉快に騒ぐのが目的の集まり」を行うのに最もふさわしいのは、聖灰水曜日前日の晩であろう。レントに入る直前の、カーニバルが最も盛り上がる火曜日である。つまり観客の頭の中では、この話は聖灰水曜日をはさむ前後90日間の物語としてとらえられるはずである。

 そして出てくるのが冒頭に書いたランスロットの言葉である。
 「(あの私の鼻血騒ぎは)去年の復活祭あけの月曜日午前6時、ってことはつまり4年前の聖灰水曜日の午後のことだった。」
芝居の表題に端的に示されているように、舞台となるヴェニスはカトリック国であるから今これをグレゴリオ暦を用いて読んでみる。(グレゴリオ暦が作成された1582年はわずか16年前のことである。)すると、「去年の復活祭あけの月曜」とは、1598年の4月17日にこの芝居を見ている観客にとって、1598年3月23日のことである。前述の通り、この時代のイギリスの暦では3月25日から新年となるからである。

 この時の月齢は16でほぼ満月、「4年前の聖灰水曜日」は1595年2月8日でこの時の月齢は29でほぼ新月である。前者は午前6時頃は下げ潮の一番激しい時刻であり、後者は午後いっぱい下げ潮となる。すなわち、ランスロットの鼻血騒動を潮汐関する言及ととらえれば謎が解けるのである。

 そもそもグレゴリオ暦とは、暦を天体の動きに一致させる改革であり、満月となった1598年と1595年の復活祭は、ユリウス暦に対するグレゴリオ暦の優位性を示す端的な年だったのである。復活祭が満月であればその46日前の聖灰水曜日は月の満ち欠けの周期からしてほぼ新月となる。満月時と新月時の潮の動きがほぼ同じであることはロンドン市民の常識であったろうから、1598年にグレゴリオ暦で満月の復活祭を祝う時、「3年前も満月だった」ことを覚えていれば、何の計算もいらずその年の聖灰水曜日の潮の動きがわかるのである。さらにこの両年は、グレゴリオ暦ではユリウス暦よりひと月前の満月で復活祭を祝ったという点でも、忘れがたい年であったろう。

 次に芝居の中で鍵となるのは、前々から準備されていたはずの仮装舞踏会が突然中止になるという描写である(第二幕第6場)。その事情は中止の知らせをまだ知らないグラシャーノを見つけたアントーニオが「もう9時だ。みんな君を待っているぞ。今夜の仮装は中止になった。風の向きが変わったのだ、バッサーニオはすぐにも船出するだろう。」と言うと、彼は「それはありがたい。今夜のうちに出航できるなんて。」と答える場面で示されている。彼はポーシャの侍女ネリサに求婚するためにバッサーニオに頼み込んで一緒にベルモントに向かうことになっていたのである。定期運行船で栄えたヴェニスでは風まかせということはありえない設定であろうが、ロンドン市民にとってはなじみの状況だったろう。

 これもグレゴリオ暦で読み込んでみよう。1598年の聖灰水曜日は2月4日、仮装舞踏会はその前日の2月3日であろう。この日の月齢は28でほぼ新月である。これはこの日少年の仮装をしてロレンゾーと駆け落ちするジェシカが「夜でよかった。こんな恥ずかしい姿をあなたに見られなくてすむ。」という言葉と一致する。新月の時は上げ潮が始まるのは9時過ぎ、強い潮となると夜更けまで待たねばならない。しかし都合良く風が吹いたので、バッサーニオは待ちきれずに仮装舞踏会を中止して、9時過ぎに出帆しようとしているのである。ユリウス暦ではこうはいかない。聖灰水曜日3月1日の月齢は4であるから、夕方から夜中まで下げ潮であり、とてもベルモントへ行ける状態ではない。

 その後の話はめまぐるしく展開してゆく。アントーニオの船が難破したらしいという知らせをシャイロックが握ってから2週間後、約束の3ヶ月目が来てすぐに裁判の手はずとなる。4月17日にこの芝居を見た観客は、芝居の冒頭で、アントーニオが「全くどういうわけだか憂鬱だ。」といって現われた理由に初めて思い至ったことであろう。3ヶ月前とは1月17日でこれは聖アントニウスの記念日である。聖アントニウスはエジプト出身の修道士で、貧者に財産を与えて出家し、苦行積んだ修行僧である。悪魔からの様々な誘惑に遭い苦しめられるが、信仰の力で切りぬけ聖者として崇められた。フランスのコルマールにある、グリューネヴァルトの「聖アントニウスの誘惑」の祭壇画は一度見たら忘れられないようなすさまじい描写で有名である。アントーニオがわけもなく憂鬱なのは、これから試練を受ける前兆を暗示しているのである。

 借金返済の期限が切れた4月17日は、グレゴリオ暦で言えば金曜にあたる。バッサーニオはポーシャと教会で結婚の誓いをした後、大急ぎでアントーニオのもとに向かう。なぜなら次の日が裁判の行われる日だからである。このことは裁判の場面で、「聖安息日にかけて」(第四幕第1場)というシャイロックの言葉と一致する。ユダヤ教の安息日は土曜だからである。この夜が美しい月夜だったことは第5幕第1場冒頭で何度も語られるが、これはグレゴリオ暦の4月18日が満月に近い夜であったことと一致している。

 次に、4月17日の金曜に教会で結婚の誓いをした後のポーシャの行動を見てみよう。彼女は大急ぎで夫バッサーニオをアントーニオのもとに向かわせてから、召使いのバルサザーをパデュアにいる従兄のベラーリオ博士のところを送り、裁判で彼に成り変わる手はずを整える。ポーシャは博士の書類や衣服を、「ヴェニス通いの船が出る渡し場まで」持ってくるよう命じる。その後ネリサとともに馬車で出かける場面となり、「・・・あとで全部話してあげる、私の計画を、馬車の中でね。さっきから待っているはずだから、庭の門のところで。さあ、急いでおくれ、今日は20マイル旅しなければいけないのだから。」(第三幕第4場)という言葉が語られる。(ポーシャが馬車でヴェニスへ出かけるのだととられかねない場面で、実際、福田恆存も小田島雄志も「20マイル飛ばさなければ」と訳しているが、原語は船にも使えるmeasureである。ここは船で行く場面なのだ。)

 いったいポーシャとは何者であろうか。莫大な富を持っているのは、バッサーニオから借金の額が3000ダカットと聞いても「たったそれだけ?」と聞き返していることに端的に示されている(第三幕第2場)。ベルモント(美しい丘)に住み、王族相手に結婚相手を探す機知に富んだ女性。彼女は自家用馬車を所有し(Gavin Weightman 著のLondon River (『テムズ河物語』)によれば、「馬車がイギリスに伝えられたのは1565年、オランダ人によってエリザベス女王に献上されたのが最初で、その後、馬車は上流階級の間で流行し、1600年を迎える頃には公私を問わず普及し始めた。」とのことである。)、ベルモント-ヴェニス間を船で行き来する女性。もうおわかりであろう。ヴェニスから20マイル離れた美しい丘とは、ロンドン上流20マイルにあるウィンザーに他ならず、天才的な政治手腕でイギリスを治めたエリザベス女王をポーシャに重ねて考えぬロンドン市民はいなかったであろう。

 シャイロックはどんな人であろうか。ポーシャ扮するベラーリオー博士がアントーニオとシャイロックを前に発した「その商人というのはどちら?どちらがユダヤ人で?」(第四幕第1場)という言葉から、外見では二人の区別がつかないことがわかる。また、安息日を無視して土曜に裁判をすることもユダヤ人にあるまじきことであろう。裁判では、ポーシャが機知にとんだ判断でシャイロックを言い負かした後、「財産の半分をアントーニオのものとし、あとの半分は国庫に入れる。」という裁定に対し、アントーニオは驚くべき提案をする。「国庫に入れる罰金は免じてやって、他の半分はしばらく私が預かって、彼の死後はその娘婿に譲りたい。その条件はシャイロックがただちにキリスト教徒に改宗することと、死後の財産は娘夫婦に譲渡する旨の証書を書くこと」を主張し認められる。有能な商人であるアントーニオにお金を預けて運用してもらえば今までと同じくらい裕福な暮らしができるのだから、シャイロックにとっては願ってもない話である。ヴェニスのキリスト教徒とはカトリックなのだから、この芝居はユダヤ教徒の高利貸しがカトリックへ改宗してめでたし、めでたしという筋なのだ。

 以上,手順を追って見てきたが、このように『ヴェニスの商人』はカトリックの世界観から描かれた芝居であって、それゆえカモフラージュされねばならなかった。英国国教会はその当時カトリックを迫害していたからである。『ヴェニスの商人』は1598年の7月22日に出版を阻止するための登記blocking entry がなされたが、わずか2年後の1600年には出版されている。この事実こそが、この芝居に埋め込まれたグレゴリオ暦のからくりを詳細に調べられるリスクを避け、シェークスピアが2年待ったという裏付けのように思えてならない。なぜなら、暦はひとたび過ぎ去ってしまえば誰も気にかけない代物だからである。

 シェークスピアはこの作品にカトリック教徒としてのメッセージを込めた。そしてそれをカモフラージュするためにポーシャという魅力的な女性を作り出し、注意を引きつけたのである。さくらとなったのは誰あろう、エリザベス一世であった。シェークスピアは全く食えない男である。