2013年4月4日木曜日

「なぜ書くのか」


 先日、どなたからか「毎日楽しみにしてみています。」というコメントを頂きました。大変うれしく、お忙しい毎日であろうに本当にもったいないお言葉です。ブログを書こうと思った時、その理由を自分でもうまく説明できませんでした。なにかどうしても言いたいことがあるからでもないのに(そんなものが私にあるわけがありません。)、どうしてブログを書こうとしているのか、自分でもわからないまま書き始めたのです。今回のコメントがきっかけで、「もし誰も見なくてもブログを書いているかどうか」自問してみて、「ああ、そうだったのか」とようやく書く理由がわかったような気がしました。

 一つは、「書いてみなければ自分にもわからないことがある」ということです。これは、頭の中の思考は文字にして初めて自分にも理解できるということですから、自分以外に読む人がいなくても書いているはずです。

 もう一つは、「書けるうちに書き留めておかなくては」という焦りです。少し前まで、もういない連れ合いのことを心に思い浮かべるだけで体が痛み、たちまち体調に変調を来す有様だったので、もし今書けるとしたらそれは掛け値なしに僥倖というほかはなく、無駄にしてはならないと思ったのです。死者を追悼するという最も人間的な行為がやっとできるようになったのです。

 書いてネットに載せておけばそこに存在するので忘れても安心、ということは逆に言うと、「忘れるために」書くのだということです。書くことで事実を事実としてあらしめる、これは中島敦の短編『文字禍』に表されているように、文字の精が宿ればその事柄は不滅の生命を得るということです。ただこの話の中で、文字の精に書かされるという害毒を疑った主人公が、その復讐を受け命を失うという結末は示唆的です。気をつけなくては、くわばら、くわばら。また余談ですが、これと対をなすと思われる『狐憑』は、物語れなくなった主人公が人々から受ける仕打ちにより、物語るとはどういうことかを描いている興味深い話です。どちらも青空文庫で読みました。

 三つ目は、「ひょっとしたら広い世界には、私の考えたことや感じたことを正確に理解してくれる人がいるかもしれない」ということにわずかな希望を抱いていたのだということです。(もちろん同意ではなくて理解でよいのです。共感であれば望外の喜びです。) 子供の頃からなんとなく、自分の考えはかなり他の人と違うなと思ってきたのですが、いつのまにか「基本的に自分の考えを理解してくれる人はいない」ということを前提にしていたのだと気づきました。普段はあまり意識していませんでしたが、それが私に内面化されたメンタリティだったのです。それはこれまで私がメイン・ストリームに属したことがないことと関係があるでしょう。自分の考えが十分理解されていると感じているなら、わざわざ言語化する必要はないのです。ですから、今回コメントをいただいてとてもうれしく思ったのでした。