2013年4月13日土曜日
「コミュニケーション新世代」
若い人に対する私の印象は極めて良いものです。自分が若かった頃よりずっと明るくコミュニケーションがとれている人が多い気がします。それは時代の雰囲気と要請の結果だろうと思うのですが、昔はシリアスに悩む青年像が規範としてあり、暗く鬱屈した状態でいても咎める人がおらず、むしろ若者のあるべき姿として認められていたからです。それでも仕事をするようになれば、それなりに切り替えて、快活な人付き合いを身に着けていくことができました。
就職した若者の「コミュニケーション能力が足りない」ということが盛んに言われだしたのは、十年くらい前のことだったと思います。ゲームやインターネットの影響などが取りざたされましたが、一番の原因は、自分からコミュニケーションをとろうとしなくても困らない環境でずっと育ってきたことにあると思います。子供がじぶんなりに考えて何か言っても、相手が子供であるという事実それだけで、「生意気言うんじゃない。」で終わりだった時代はいまいずこ、当世においては周囲がなにくれとなく気を回してくれ、話を聞いてくれるのが当たり前の状況になったのです。その後、学校は「面倒見が良いこと」が最大の売りとなり、その流れはむしろ加速しているようです。
一方で、「就職にはコミュニケーション能力が必須」という説が定着し、これも一つの技能として養成されるようになりました。訓練によって身に付く技能は確実にあり、自然なコミュニケーションが反射的にできるようにもなります。
先日、学食で並んで食事を受け取った時、トレイを持ち上げようとした瞬間に後ろの学生が、
「それ、みそ汁も付くんじゃないですか。」
と声をかけてくれ、厨房の人が気づいて渡してくれるということがありました。
また、前に並んでいた学生が、その前の学生の背中をつついて自分の首の後ろを指さし、「襟が折れている」ことを教えてあげているところを見たこともあります。(この二人は見知らぬ者同士のようでした。)
小さなことですが、自分の利益になることでもないのに、今の学生はこんなに自然に人と接することができるのだなあと感心しました。逆に言うと、もうこのレベルのコミュニケーション能力がないとやっていけない社会になったのかもしれないと思いました。これに関しては、特に中学・高校時代から携帯電話を持ち始めた世代において顕著である気がします。アドレス帳に、数十ではなく数百の単位で知り合いがいる付き合いというのは私には想像がつきませんが、当然コミュニケーションの質も変化せざるを得ないのでしょう。若い人にとってこの流れに乗らないという選択肢はまずないでしょうから、片時も周囲へ気配りを怠ることができない生活というのは疲れるだろうなあと同情してしまうのです。