2013年4月17日水曜日

「文化祭今昔」


 文化祭と聞くと誰しもなんとなくわくわくするものですが、今はこういう局所的お祭りが過熱しているように思います。確かに皆で力を合わせて何かに没頭しやり遂げることの中には、それ以外の方法では味わえない達成感がありますが、参加や貢献を促す力が次第に強くなりつつあると感じるのは私だけでしょうか。

 懐かしいのは、自然発生的に何かが始まり、目的も不明瞭、手段も行き当たりばったり、効率度外視のゆるい文化祭です。私の高校時代は、やる気のある何人かがやることを決め、ほとんど話し合いもなくその他大勢がついていくという図式で、文化祭はとても静かに準備されていました。できることがあればするけれど、大抵はたらたら見守っているという、とってもぬるい雰囲気でした。

 2年生の時、いつのまにか八ミリ映画を撮ることになっていて、夏休みのけだるい午後、たぶん来られなくなった誰かの代役だったのですが、急に呼び出しを受け学校に行きました。すぐに白衣を着せられ、検死官の役として短いセリフを述べ、撮影はあっという間に終了しました。

 話は刑事もので、ストッキングメーカーを巡る殺人事件でした。主筋は全く覚えていませんが、笑いを取るカットとして全員で撮ったコマーシャルシーンは鮮明に覚えています。主役が教室に入ると全員机につっぷしており、「みんなどうしたの?」と何度か呼びかけると顔をあげるのですが、頭にストッキングをかぶっており、「キャー」と言って主役が助けを求める先には、くだんのインドかぶれの教師が微笑んでいるという設定でした。今も昔も高校生の破茶滅茶な発想は同じです。あるはずもない次回上映作の思わせぶりな予告編で始まるこの八ミリは、当時映画館で体験する高揚感を見事に伝えていました。

 まだビデオのない時代でしたので、音声は別にカセットに録音しました。出演者や音響効果担当者が放課後残って、映像に合わせてマイクを奪い合いながら台詞を読んだり効果音を入れたりしていきます。台本棒読みのひどい大根役者もいて吹き出しそうになるのをこらえるのが大変でした。下校時間も近づいたころ、収録が終わったと思った瞬間、電源が入っておらず採れていないことが判明しました。
「ううっ・・・」
担当者は責任を感じて泣き崩れました。
「泣くことないじゃない。」
「そうだよ。もう一回とれば済むことでしょ。」
採り直しなしの一本勝負でした。気合いが入りよいものが採れました。頼りないその他大勢も、やる時はやるのです。