2013年4月25日木曜日
「ロボットの微笑み」
脳の研究が進むほどはっきりしてきた事実として、脳が人と物を明確に区別していることがあげられます。おもしろいのは、人というのは心を持ち、物はそうではないと脳が区別しているということです。だから、心を持つと脳が認識しているものは、物であっても或る意味「人」です。 その点からすると、私にとってりくはまぎれもない「人」であり、水をやる時毎日「はーい、ごはんですよ。今日もおきれいですね。」と話しかけている鉢植えも、ひょっとすると「人」なのかもしれません。
以前見たものでどうしても忘れられないものの一つに、學天則があります。1928年の京都博覧会に大阪毎日新聞の西村真琴が出品した東洋初のロボットと言われているものです。何ができるわけではありません。ロボットに通常期待されるような人の役に立つ仕事をするのではなく、机に座ってペンとライトをもったままただにっこり笑うだけなのです。學天則の顔が少しずつ様々な人種の特徴を呈しているのは、製作者の西村真琴が工学系の人ではなく生物学者であったせいでしょう。今考えると何という先見性かと思いますが、当時はその価値に気づいた人は多くはなかったのではないでしょうか。ただ微笑むだけのロボットに戸惑いを覚えた人も多かったでしょうし、物笑いに近い扱いだったかもしれません。
流行に疎いため、最終回の視聴率が40%を超えたというドラマ「家政婦のミタ」を、最近、田舎の再放送で見ました。家族がテーマなのでしょうが、「こ、これは・・・」と驚いたのは、人間とロボットについてぼんやり考えていた私の問題意識にまさしく沿ったものだったからです。主人公はあの鋼鉄の鎧を着たような出で立ちからして、明らかにロボットを体現しています。彼女の無機質な話し方、繰り返す決まり文句、自分の意見や感情は表明せず、業務命令は犯罪じみたものでも平気で実行する冷徹さは、ロボットそのものです。視聴者にとって何でも言うことをきいてくれる有能なロボットの存在は実に爽快で、また他人の気持ちを忖度しない無神経さは相手の気持ちを察することが不可欠のこの社会においてとても小気味いいのです。
彼女はロボットとして笑いを禁じられています。その彼女が崩壊寸前の家庭に関わることで、家族が再生してゆき、それによって今度は彼女自身が変えられてゆくという設定です。そして最後の業務命令は微笑むこと、彼女はロボットから人間に戻ってドラマは終わるのです。この作品は、學天則ひいては80年以上前に人間の本質を見抜いていた西村真琴へのオマージュであると私は確信しています。