2013年1月4日金曜日

「会津の人」


 中学に入る時、父が「英語だけは毎日やらないと。」と言ったのを覚えています。これが父から受けた勉強に関する唯一のアドバイスでした。

 父がそう言ったのには訳があり、大学時代に会津出身の父と山形出身の級友はなまりがひどく、英語の教師から「お前たちは英文を読まなくてもいい。そんなの英語じゃない。」と言い渡されたというのです。今そんなことを言ったら問題になるでしょうが、本当なのだからしかたありません。それで父は東京教育大の寮があった駒場から渋谷を越えて青山まで歩いて、青山学院の夜学で英語を習っていたとのことでした。

 この話を聞いたのはわりと最近のことです。父は農業の先生になるべく勉強していたのですから、英語ができなくてもどうということはありません。しかし昔の人はそうは考えなかったのです。自分に足りないものがあることを受けとめ、なんとかそれを埋めようとした努力を、私はとても可憐だと思います。

 会津の近代史はあまりに壮絶なのでこれまで敬遠してきたのですが、先日思い立って「ある明治人の記録」(石光真人著)を読みました。柴五郎の手記ですが、全編にわたって辛酸の限りを尽くすような記述が淡々と綴られています。とくに下北に流刑のような扱いとなった箇所は、「武士の情けはないのか」と落涙するを禁じ得ず、死線をさまようとはこういうことかと胸が痛くなりました。よくぞ生きてくださったという思いです。

 かつて賊軍の出身でありながらただ一人陸軍大将にまで上り詰め、北清事変(義和団の乱)では誠実な態度で敵軍にも接し、陣頭指揮をとって4千人が50日を超える籠城に耐え抜くという功を成し遂げました。「北京籠城」は柴五郎自身が淡々と事実を綴ったもので己の自慢などいっさいありません。始めは全く目立たなかった彼のもとに、各国の軍属や公使が必ず意見を求めにやってくるようになったのもむべなるかなと思います。会津魂の化身のような人でした。のちに成った日英同盟は、この時の英国公使マクドナルドによるヴィクトリア女王への進言によるところが大きいと言われています。

 本を読んでわかるのは、陸軍幼年学校に入ってからも、それまで勉学の機会なく、また授業がフランス語だったこともあり常に最下位という屈辱の中でも投げ出すことなく、兄弟・親族との関係を大切にまもりながら刻苦勉励していたことです。唯一ほっとするのは、後の方にあるのフランス語の作文の場面で、ただ一人、「作文とはこのように書くものなり。」と褒められるようになった箇所でした。うれし涙が出ました。