2013年1月13日日曜日
「正しい人、正しいこと」
韓国初の女性大統領が誕生するとのニュースを聞き、どんな方だろうとそれとなく注目していました。理性としっかりした見識を感じられる素敵な人という印象でした。それにもかかわらず、気持ちがずんと重くなったのは、2006年に当時官房長官だった安倍晋三と会談した時の言葉を聞いた時でした。
「過去の歴史問題で、今後100年たっても、1000年たっても変わらないことは、日本が加害者で韓国が被害者だということです。」
正しいのです。とてつもなく正しいのです。しかし、おそらく本人が望んでいるような日本との関係、「歴史問題をどのようにしても私たちの世代で解決し、現在多くの理解と交流をしている世代に過去の重荷をこれ以上渡さず、ここで終わらせたい。」という願いは実現しないだろうと感じて、心が重くなったのでした。
私たちは1000年、いや永遠に罪に定められたのです。これは何に似ているでしょうか。構造的にそっくりだと思うのは、イエスの時代に生きていた大多数の民衆です。社会的、経済的制約のゆえに正しいことをしたくてもできないように定められていた彼らは、過去に起こったことであるがゆえに過ちを取り消せない私たちと同じです。
一方、律法学者は神の律法に従った正しい生活をしていましたが、民衆に救いを与えることはできませんでした。律法学者たちは正しかったけれども民衆を救えなかったのではありません。正しかったから民衆を救えなかったのです。だから、ここには救いがないのです。正しい人と罪を犯した人、両者の間にどんな接点があり得ましょうか。正しい人にふさわしいのは裁くことであり、許すというのは次元が違うことです。そもそも人に対する罪を人が許すということが可能なのでしょうか。私は懐疑的です。
筆禍事件にならぬよう付け加えると、私は韓国が律法主義的だと言っているのでは毛頭なく、人間の罪を巡る許しと救いについての原理的困難を述べているのです。また、「韓国は日本を許すべきだ」と言っているわけでもありません。それを口にすることは私たちの側には許されていないのですから。
時間というファクターがさらに降り積もっていくなかで、「正しい人」が罪を犯した人を許すという奇跡が、韓国と日本の間に起こるということがあり得ましょうや否や。