2013年1月31日木曜日
「毎日の過ごし方」
「毎日何やってるの?」と聞かれると困ってしまいます。夏休み中の小学生に「毎日何やってるの?」と聞くのと同じです。「夏休みの友」と「自由研究」さえ終われば何をやってもよかったあの懐かしい日々・・・。団塊の世代の大量退職で定年後の過ごし方に注目が集まっていますが、「何かをしよう」という意気込みや「何かをしなければ」という焦燥感には違和感を感じてしまいます。そんなに気合いを入れなくてもやることは山ほどあるのではないでしょうか。
勤めていた時も一日24時間では足りなかったのですが、それ以上時間があっても体力がついていけないという点では24時間で充分でした。今は急かされないぶん一つ一つのことに時間をかけられるので、逆に時間が足りないと感じ、しかも体力の余裕も出てきたので一日24時間以上あってもいいなと思います。
小学生と違うのは、「夏休みの友」と「自由研究」がさほど簡単には終わらず、好きなことばかりもしていられないことです。体調を維持すること、きちんと生活すること、できるだけ家族と過ごすこと、その他これまでなおざりにしてきたことが多く、余った時間で好きなことをするという程度です。
それでも、毎朝あまり変わりばえのしない生活が始まるはずなのに、起きるのがうれしいというのはありがたいことです。最高の贅沢と私が感じるのは、その日やるべきことがおおかた片付いた夕刻、西日の差し込むまだ明るいうちにお風呂でゆったりすることです。これは勤めている間は絶対にできないことでしたので、今でもまだほとんど背徳的なうしろめたさを感じてしまうほどです。
2013年1月30日水曜日
「タイムカプセル」
母の死とともに私は自分の晩年を意識するようになりました。そしてそれまで意識的に避けてきたこと、すなわち自分の半生を振り返るということに取り組み始め、封印していた昔の記録を取りだし読むようになりました。
中学卒業の時、私たちはは背表紙が1.5センチにもなる文集を作りましたが、その中で級友がこう述べています。
「(入試の時、)迷って悩んで解答用紙に何やらかきこんだあの時に、今までの三年間が決まったのかと思うと、何かすぐには信じられないような、○○先生をはじめ3年3組のみんなと生活したことは、もっとずいぶん昔から決められていたような、そんな気がしてしまうのです。」
こう書いていたのは、担任と折り合いの悪かった我々のクラスを腐心しながらまとめていた「我等が永遠の委員長」です。クラス最高の頭脳の持ち主で、高潔にして温和な人柄で知られ、先生と生徒の双方から絶大な信頼を得ていた嘘っぽいほどの優等生でした。彼の書いている通り、中学時代に関して、これ以外表現のしようがありません。
私は文集とは別に、サイン帳にクラス全員から卒業の言葉を書いてもらってもいましたが、それを長いこと押し入れに眠らせていたのは、後ろを振り返っていたら前へ進めないからです。不思議なもので、三十年たってもこのノートを平静な気持ちで読み進めることができません。それは、正真正銘のタイムカプセルでした。
委員長のページを読むと、2ページびっしり人間ワープロのような美しい文字が並んでいます。彼らしい。いつも暖かい陽射しの中心にいて、本当に同い年かと思えるほど大人だったから、私はなんとなく気後れして彼と話した記憶がほとんどありません。実際、我々の希望そのもののような人だったのです。だから、文集に「僕自身、自分の将来に絶望したことも何度かありました」という一文を見つけた時は仰天しました。彼ときちんと話さず仕舞だったのは、今思うと本当に残念です。
サイン帳には部活やテレビ番組等のたわいない話題とともにこんな言葉が書かれていました。
「何か底知れぬあなたの力、底のない沼の下から下から常に何かが
グイグイとあがってくるような感じ、だけどその周辺は静かな草原や
森林、そのはずれにある町でカーニバルが開かれてるそんな感じ・・・・・・
あなたを見てるとそんな感じがします。」
子供時代を共有するとはこういうことか。今なら家族か親しい友人しか知らない私のふざけた本性がきれいに見抜かれていました。きっとクラス全員に明々白々のことだったにちがいありません。
サイン帳にある委員長の言葉は、今後の自分の決意と私への激励及び助言で終わっていました。今、私は結果的に自分が彼の助言に従っていたことを知ってうれしく思います。
嘘っぽいと言いましたが彼は本物でした。あの頃、皆そうだったように、彼もブラック・ジャックに憧れていた(と思う)のですが、その後東北大学の医学部に進み、本当に外科医になりました。きっとDr.コトーのような患者を想う医者になっているに違いありません。彼ばかりではありません。文集の中で他の先生が「個性派ぞろい」と評した我がクラスは、後で聞いた担任の言葉では「史上最悪のぼっこれ(壊れた)クラス」でした。実際、途中で異例の担任交代があったことを考えると、この表現はたぶん誇張ではありません。出会いの不思議さを思います。偶然の出会いなどないのです。あの時出会った47人は、同じ空の下、それぞれの場所で懸命に生きていることは疑いありません。そう思うと、私の心は言いしれぬ幸福感に満たされてくるのです。
2013年1月29日火曜日
「食品についての不思議」
食についてはこれまで極めていい加減な生活でしたので、少し集中的に本を読んでみました。そしてわかったのは、「統一見解はほとんどない」ということでした。どんな説でも別の本にはほぼ逆の記述が載っており、普通に聞いてもどうかと思う「卵は毎日2個以上食べてもよい」「日本人は塩が足りない」をはじめ、牛乳や砂糖に関する見解はとくに錯綜しています。
調理法も同様で、「野菜は皮の部分に最も栄養があるので皮ごと食べましょう。肉は表面を焼いて肉汁が出ないようにしてから調理しましょう」があるかと思えば、「野菜は農薬(これにおそらく今は放射能も加わる)を落とすために、よく洗い皮をそぎ落としましょう。肉は食品添加物を落とすために湯煎しましょう。」という論調もあり、実際に調理する時はその都度どちらかを採用しなければなりません。
唯一一致した見解として認められたのは、「マーガリンは自然界には存在しないトランス脂肪酸でできたプラスチックである」という説です。フランスでバターの税率は5.5パーセント、マーガリンの税率は19.6パーセントなのは、バターは酪農品だがマーガリンは工業製品だからだそうです。「一致した見解」と言いましたが、それはこの説に反する記述がないということより、多くの本が「この話には触れない」という形でしか対抗していないという点で、間違いない事実だということです。そういえばマーガリンのコマーシャルが流れなくなったなと思っていましたが、家庭用マーガリンを捨ててもコンビニ等のお菓子類に使われていたり、外食産業ではトランス脂肪酸で揚げ物をしたりということがあるようで、そうなると信用できるものを買うか、食べ物はできるだけ自分で作らないといけなくなり、これはなかなか大変です。
食品成分表を見ていると、よくできているなあというか、当たり前ですがどの食材も成分が違うのでそれぞれ補い合ったり効果を倍増しあったりするのに、「なんでもまんべんなく食べる」というごく常識的な結論に落ち着くのです。サプリ等は逆に体内の栄養バランスを崩すようなので極力とらないこと、昔から伝わる献立や食べ合わせは間違いないことなどを再認識しました。
あとはあまり神経質にならずほどほどにして、おいしくいただくことですね。
2013年1月27日日曜日
「紅春 11」
りくは子供のころは茶の間で寝ていたのですが、最近は季節や状況によっていろいろなところで寝ています。たいていは父の寝室に一緒に行き、母の遺影のある座卓の前の座布団の上で寝ますが、冬は寒いので父を寝かしつけてから(本当です。父が寝たのを見届けると戻って来るのです。)茶の間に戻り、余熱のあるこたつで寝ます。
私が実家に来ているときは全く状況が変わります。茶の間から私が私室としている客間に来て、ドアをカシャカシャして開けてもらおうとしますが、私が入れないとまた茶の間に戻るということを何度か繰り返します。
「明るくなる頃なら入れてやってもいいか、昼間は入って来るんだし・・・。」
と考えたのが運の尽きでした。夏なら5時にはもう明るくなりますが、冬は真っ暗です。そのうち、
「まだ暗いけど、4時半だから・・・まあ、いいか。」
となり、それが4時になり、とだんだん来る時間が早くなっていきました。やがて3時になり、2時になり、こちらも睡眠を中断されボーっとした頭で毎回時間を確かめるわけではないので、ついに12時より前にやってくるようになりました。入れなければいいのですが、カシャカシャがだんだん激しくなるのでそうもいかないのです。
それだけではなく、はじめは足元のじゅうたんの上で寝ていたのに、次第に布団の上に侵食してくるようになりました。冬は寒いのか顕著にエスカレートしていきます。ついに我慢の限界を越えたとき、私は父に窮状を訴えました。
「お父さん、見てください。あそこにりくが寝てるんです。」
私の布団のほぼ中央にあるクレーターのようなくぼみを見て、父は言いました。
「こ、こんなド真ん中に・・・これはひどい。」
「でしょう。私は左右どっちかに寄って小さくなって寝ています。あのくぼみの真下に電気あんかがあるんです。」
「ほうっ。」
「ひさしを貸して母屋を取られた気分です。お父さんからもりくに言ってください。」
「りくはあんかの上で寝てるのか。あったかいところにいるんだな。そのへんがやっぱりりくは違うな。」
だめだ、話の焦点が完全にズレている・・・。 父による解決は望み薄だ、何か手を打たないと。
その後、実家から自宅に帰って夜になり、なんだか自分がウキウキしていることに気づきました。そのわけを心の中でたどってみてわかりました。
「あー、手足を伸ばしてゆっくり寝られるのはいいなあ。」
2013年1月26日土曜日
「路傍のチェス対決」
外国を旅行していて、その時間、その場所でしか出会うことのない幸福な瞬間に出くわすことがあります。インスブルック Innsbruckの夏の夕方でした。夕方6時といっても陽は高く、そぞろ歩きにはまだちょっと早い時刻でしたが、やや涼しい風が吹いてきた時分でした。街の公園には、思い思いに楽しむ人々の姿がありました。
そこに等身大のチェス盤があり、腰の高さほどもある駒を動かして、チェスの対局をしている老夫婦がいました。まわりには孫と思われる子供たちがいて、声援を送っています。オーパ Opa vs. オーマ Oma です。Opaの実力がまさっていて、圧倒的に優勢です。気の強そうなOmaは、頭から湯気を出さんばかりの意気込みでがんばっているのですが、Opaが容赦なく攻めていくので、どんどん負けていきます。Opaの圧勝で対局が終わりました。
なんとも微笑ましい光景でした。その場を離れる時、孫たちが、
「もう1回、もう1回」
とコールしました。ヘルベルトが、
「もう1回はむごいよね。」
と言ったので、私は大笑いしました。美しい夏の夕方でした。
そこに等身大のチェス盤があり、腰の高さほどもある駒を動かして、チェスの対局をしている老夫婦がいました。まわりには孫と思われる子供たちがいて、声援を送っています。オーパ Opa vs. オーマ Oma です。Opaの実力がまさっていて、圧倒的に優勢です。気の強そうなOmaは、頭から湯気を出さんばかりの意気込みでがんばっているのですが、Opaが容赦なく攻めていくので、どんどん負けていきます。Opaの圧勝で対局が終わりました。
なんとも微笑ましい光景でした。その場を離れる時、孫たちが、
「もう1回、もう1回」
とコールしました。ヘルベルトが、
「もう1回はむごいよね。」
と言ったので、私は大笑いしました。美しい夏の夕方でした。
2013年1月25日金曜日
「福島教会のこと」
東日本大震災の後、東北新幹線の全線復旧までには一カ月以上かかり、結局私が福島に入れたのは4月末のことでした。ヴォーリズ設計の建堂100年を超す美しい煉瓦の礼拝堂はすでになく、だだっ広い敷地が茫漠と眼前にあるばかりでした。私は声もなく、涙もなく、ただ茫然とその前にたたずんでいました。何の感情も湧いてきませんでした。一言でいうと、あるはずのものがないことを受け入れられず途方に暮れたのです。
震災から半年たった9月、幸い残った伝道館で続けられていた礼拝に私は出席しました。牧師のいない困難な時期でしたが、それでも様々な教会から毎週牧師は派遣され、信徒によって礼拝は守られていました。久しぶりに会う懐かしい顔は、あらためて見ると、みな白髪を頂いていました。その日の説教者はかつて私に洗礼を授けた牧師のご子息でしたが、その方もすでにご高齢で引退されていました。
その時、ふいにわかったのです。もし一週でも礼拝が途切れていれば今日の日はないこと、この時まで牧師および信徒により連綿と信仰が守られてきたこと、もし神が「ここに教会を建てなさい」と言われてできた教会なら、どういう仕方でかはわからないけれども、どうあっても再び礼拝堂は建つだろうということが。
恩寵に満ちた時でした。その頃私は東京で安穏と教会生活を送っており、一年もしないうちに、自分が教会籍を福島に移すことになろうとは思ってもみませんでした。不思議なことです。
2013年1月24日木曜日
「田舎者」
父のお相伴で、見るともなしについていたテレビを見てしまうことがあります。先日は、おそらく福島でしかやっていないと思われる、とても田舎くさい番組を見てしまいました。
私の知らない白河出身の女性お笑いタレントが、徒歩で日本一周の旅をする企画もので、週に一度放送されるようです。関東圏から東海、関西、四国、九州そして沖縄縦断、また戻って、日本海側を北海道まで歩くという結構大がかりな企画です。福島の復興を願う願掛けの意味合いもあるお遍路のようで、行く先々で出会う人との交流があり、福島の宣伝をして手作りのカードなどを渡したり、ご当地名物の差し入れをいただいたりというあたりが見どころなのでしょう。
最初見た時、この巡礼者はピンクのTシャツに「福島」というゼッケン姿でこれ以上はない田舎くささを醸し出していて、「これだから田舎もんは・・・」と、あやうくテレビを消しかけました。田舎者ほど田舎っぽいことが我慢ならないのです。(これは、開業当初の東北新幹線の車体に、米どころ東北の田んぼをイメージして緑色が採用された時、東北人からは「東北を虚仮にしている」とたいそう不評だったことからも知られます。他の地域の人には思いのほか好評だったのを知り、へぇっと思いました。)
ところがこの田舎者が
「私にできるのは歩くことだけだ。今日もがんばって歩くぞー。」
と言っているのを見たあたりから、ちょっと見方が変わってきて、「こうして歩くことに何の意味があろう。」という気持ちはあるものの、出会う人にためらわずありのままの福島を伝えていこうとする姿に、「とにかく、この人は今自分にできることをしようとしている。」と、妙に感動してしまったのでした。こういうことを実直にできるのが、田舎者の強みかもしれません。
2013年1月23日水曜日
「記憶のツボ」
人の記憶に関して私が経験的にわかっていることは2つしかありません。
1つは、誰もが思い当たるように、名前よりも顔や声の方が記憶に残るということで、見覚えのある顔、聞き覚えのある声、でも名前は思い出せないということが日常茶飯事です。
もう1つは、人それぞれ記憶のポイントがまるで違うということです。共通に体験したはずのことについて話していて、私にとっては間違えようもないことが相手の記憶では別なものになっていたり、相手が具体的に記憶していた出来事を私はそんなことがあったことすら全く覚えていないということはよくあります。
先日、ある人と話していて、ひょんなことからどうやら共通の知り合いがいることがわかったのですが、二人とも名前が思い出せませんでした。男性、職業、眼鏡使用、髪型も一致し、「たぶんあの人だ」と双方思いながらも、親しい知り合いでなかったため、なかなか決め手がありませんでした。
そのうち、彼女が「ヴァイオリンを弾く方」であったことを思い出しましたが、私の記憶にはヒットしません。彼女の娘さんは音楽をなさる方だったのです。さらに時間をかけるうち、私はその人について知っている唯一のことを思い出しました。
「ひょっとして、バラを育てていらっしゃる方では?」
「そうよー、バラよ~。」
ようやく出た決定打に、手を取り合って喜びました。
人は自分に興味のあることしか覚えていないのです。
名前の方は・・・いまだに思い出せません。
2013年1月22日火曜日
「聴書」
文字を読むのがきつくなってから、読書は次第に聴くものに取って代わりつつあります。ひところは「活字が読めないのではもう楽しみがない」と思いましたが、音声ソフトのおかげで救われた感じで、今はこれなしの生活は考えられません。
データ化さえしてあればだいたい何でも読んでくれますし、電子化された本も大量にあります。著作権が切れたものに関しては、日本語ならば「青空文庫」、外国語ならば「Gutenberg」で読み放題ですから、なんと幸せなことかと思います。「Gutenberg」はもともと大型汎用コンピュータへのアクセスを許された学生が「お返し」として始めた電子書籍図書館で、多数のボランティアの働きにより収集資料数万点という巨大なものです。この図書館は登録不必要、閲覧無料で、公表するテキストに対して新たな著作権を主張せず、商業的利用でなければ制約なしに自由に複製、配布できるという、グーテンベルクの名に恥じない途方もないプロジェクトです。
著作権の保護期間は書物の場合、著作者の死後50年が一般的ですから、その間のものが読めないのは残念ですが、今では「古典とは言わぬまでも読むべき本はすでに書かれた」と割り切っています。めぼしいものだけでも死ぬまでに到底読み切れない、いや聴ききれない量です。
近年のどうしても読みたい本は時間をかけてゆっくり読むしかありませんが、今日的な情報の類であれば、インターネットでいくらでも得られますからほとんど不自由を感じません。私が使用しているのはPC-Talkerですが、最近はワードに変換しなくてもインターネットのページを相当程度読んでくれるので本当に助かります。
ただ、これに関して一つ体験を述べておくと、比較的簡単にできるだろうと思っていたブログの設定がどうしてもうまくいかず、問い合わせても理由がわからないということがありました。遠隔操作で見てもらっても「できているはずだ」と言うのです。あらゆる可能性を試し、「ひょっとして」と思い当たり、PC-Talkerを停止させたところ「できた!」のです。結局、別のサイトで作成しましたが、ここでもやはり部分的に干渉し合うらしく支障をきたすことがあります。いずれにしても便利なありがたい時代に生きていることに、万感の思いを込めて感謝しています。
2013年1月21日月曜日
「紅春 10」
お風呂が好きな犬がいるのかどうか知りませんが、りくはお風呂が嫌いです。今でこそあまり嫌がらなくなりましたが、それでも気配を察して毎回勝手口まで逃げてゆきます。朝一番の散歩に行った後、冬場は寒くないようにお湯を暖め返してからりくを湯船に入れます。最初は怖がって暴れましたが、なだめすかして入れました。
「朝からお風呂に入れる犬なんていないんだよ。小原庄助さんみたいだね。」
それからいっぺん出してシャンプーし、
「かゆいとこあったら、今言ってね。あとからやっぱりここもかゆかったと言われても困るよ。」
(風呂に入れた直後に体を掻いているのを見ることほど、がっくりくるものはありません。)
最後の脅し文句は、
「きれいにしてないと八重丸君に嫌われるよ。」
泡を流した後、もう一度湯船に戻してきれいすすいで入浴終了。吸水タオルで拭いて、晴れてお役御免となります。
お風呂の後は人が(犬が)かわったようにハイになり、たいてい茶の間で大運動会になります。それがひとしきり済んでもまだ7時、兄が起きてきていつもは廊下で「おはよう」を言うとすぐ行ってしまうりくが、まとわりついているので不思議に思い、そして気づきます。
「あ~りく、お風呂に入ったのか。いい匂いするなあ。」
りくはこれを言ってもらいたくて、嫌なお風呂も我慢しているのです。
2013年1月19日土曜日
「雪かき」
東北の田舎暮らしの醍醐味は、ふつう醍醐味とは言わないでしょうが、不便な点にあります。しっかり生きないと生活できないのです。冬の朝の気温は都会のマンションと10℃は違います。ストーブに火を入れ、お湯を沸かしているうち、「さあ、一日が始まるぞ。」と気持ちが高まります。
思わぬ大雪の日は朝食後にまず雪かきです。新雪なら踏み固めないようにしてそおっと土の見えるところから持ち上げて捨てると、陽が差せばすぐに雪は消えて道ができます。陽が出ないと残念ながら雪はしばらく残り凍ってしまいます。とにかくまず道路までの道をつけないとどこにも行けません。
天気が非常に変わりやすいので、あらゆることを時機を見てやらなければなりません。犬の散歩、洗濯物干し、買い物等ころあいを逃すとあっという間に吹雪いてできないという事態になることもしばしばです。実家から大きなスーパーまでは歩いていくには遠いので、もとは魚屋だがだいたい何でも扱っている比較的近くの万屋に買い物に行き、リュックに背負って雪道を帰ってくると体はポカポカになっています。あのお店のおかげで買い物難民になるのを免れているお宅も多いことでしょう。
大変そう、事実大変です。でも都会の生活だって大変でしょう。雪かきしてもまた雪は降ります。生活のほとんどはその繰り返しです。だから田舎暮らしをしていると、「奮闘努力の甲斐もなく」一日を終え、それでも「また明日頑張ろう」としている全ての人にエールを送りたくなってしまうのです。
思わぬ大雪の日は朝食後にまず雪かきです。新雪なら踏み固めないようにしてそおっと土の見えるところから持ち上げて捨てると、陽が差せばすぐに雪は消えて道ができます。陽が出ないと残念ながら雪はしばらく残り凍ってしまいます。とにかくまず道路までの道をつけないとどこにも行けません。
天気が非常に変わりやすいので、あらゆることを時機を見てやらなければなりません。犬の散歩、洗濯物干し、買い物等ころあいを逃すとあっという間に吹雪いてできないという事態になることもしばしばです。実家から大きなスーパーまでは歩いていくには遠いので、もとは魚屋だがだいたい何でも扱っている比較的近くの万屋に買い物に行き、リュックに背負って雪道を帰ってくると体はポカポカになっています。あのお店のおかげで買い物難民になるのを免れているお宅も多いことでしょう。
大変そう、事実大変です。でも都会の生活だって大変でしょう。雪かきしてもまた雪は降ります。生活のほとんどはその繰り返しです。だから田舎暮らしをしていると、「奮闘努力の甲斐もなく」一日を終え、それでも「また明日頑張ろう」としている全ての人にエールを送りたくなってしまうのです。
2013年1月18日金曜日
「実録 2001年8月4日 フランクフルト国際空港 Flughafen Frankfurt am Main 」
北ドイツからの帰り道、空港で起こっている事態を私たちは知りませんでした。フランクフルトまでまだだいぶあるアウトバーンA5を走っていると、カッセル Kassel からは激しい雨になりました。だんだん車がつまってきて渋滞となり、Friedbergあたりから、全く動かなくました。その日、私はそのまま日本に帰国する日でもありました。
「いつも30分くらいで流れるようになるから。」とそのままアウトバーンに乗っておりましたが、どうもいつもと違う様子なので、ラジオをつけると空港でのニュースを報じておりました。
それによると、移民法の改定に反対する人権派のデモ隊が出て、空港周辺が混乱している模様。「500m先のインターでとりあえず一般道へ降りましょう」と私は言い、アウトバーンからBad Homburgへの国道へ向かいました。後で聞くと、その時降りていなかったら飛行機に間に合わないかもしれないような事態になっていたかもしれないとのことでした。
一般道も込んでいましたが、ニュースを聞いてわかったのは、車で空港には入れないということでした。タクシーも入れないと言うのです。フランクフルトまで十分近づいて、Sバーンの駅の標識が見えたところで、Herbert は車を乗り捨てました。
「ここに車置いていいの?」
と聞くと、
「ここは大丈夫、後で取りに来るからいい。」
と言います。それから、私のスーツケースを持って、Sバーンに乗りました。列車も混雑し、ピリピリした雰囲気に満ちていました。
空港に着き、Terminal 1 から入ろうとすると、黄色いゼッケンをした警官2名がドアのところに立っていて、飛行機のチケットを見せるように言います。ヘルベルトが私のチケットを見せて入ろうとすると、警官は、
「あなたのは? なければ入れません。」
ヘルベルトは、自分は見送りに来たこと、デモ隊とは関係ないことを話しましたが聞き入れてくれません。搭乗時間までまだ2時間以上あるけれど、ここでお別れかと思っていると、
「それはだめだ。」
と言って、私の手を引き、もう片手にスーツケースを持ってその場を離れました。
空港周辺は、旅行客とデモ隊でごった返しています。ヘルベルトはそのまま迷わす、バス乗り場に向かいました。普通はシャトルで、日本航空の搭乗カウンターのあるTerminal 2 まで行くのですが、中に入れないのでシャトルバスに乗ろうとしたのです。行き過ぎようとするバスを、ヘルベルトは走って止め、私たちが乗り込むとバスは空っぽで誰も乗っていませんでした。
「Termenal 2へ行く?」
「行きますよ。何もかも大混乱で・・・ここ数日ずっとこんな調子でもういやになっちゃいますよ。」と運転手はため息混じりにいいました。
「大変ですな。ま、これで何か冷たいものでも・・・」
「や、これはどうも。」
チップ5マルクを渡すのが見えました。チップなどいらないのですが、二人はずっと話し続け、ヘルベルトは彼から空港に関する最大限の情報を引き出したようでした。
ドイツでは戦後まもなく作られた移民法がずっと施行されてきたのですが、誰も来たくなかった荒廃した時期に作られた法律が、誰もが住みたい大国となったドイツでいつまでも通用するわけがありません。大量の移民の流入でにっちもさっちもいかなくなり、法律の改定が行われたのです。
Terminal 2 の入り口にも警官が2名いました。やっぱりだめかと思っていると、ヘルベルトは私の航空券を握りしめて警官に向かい、
「これ、チケットね。私は見送りです、この人、一人じゃ手続き無理だから。」
と言いました。私はなぁんにもわかりませんという顔で、アルカイック・スマイルを浮かべていました。警官は顔をしかめて、無言のまま「入れ」というようにあごをしゃくりました。
“Danke.”
「ダンケ・シェーン。」
ほとんど、007の世界です。
中に入って驚いたのは、相当な数の警官とそこいら中に巻かれた有刺鉄線で、とてもドイツの空港とは思えないような光景に慄然としたのでした。すぐにチェックインしてマックで一息つきながら、JALが着陸するのを確かめました。午後5:57。これが折り返し私の乗る夜行の帰国便になるのです。あとはいすに座って2時間おしゃべりしながら待つのみと考えていましたが、ヘルベルトは私を連れてどんどん歩いて行きます。歩きながら、
「さっきは入れなかったのに、どうして入れたのかな。」
と聞くと、
「人によるんだよ。何でも人による。あと、不法移民を強制帰国させているルフトハンザへの反発のデモの意味合いが強いから、Terminal 1は警備が厳しいのもあるな。」
と答えました。
私が心底驚いたのは、ヘルベルトがそのままTerminal 1 へ向かうシャトルに乗ったことでした。なんという大胆不敵な行動でしょう。わざわざ敵地に行くようなものです。Terminal 1にはさらにおびただしい数の警官がいました。すれ違いざま警官の一人に呼び止められ、チケットの提示を求められドキドキしましたが、ヘルベルトは平気の平左で、私のチケットだけで切り抜けました。二人分のチケットがないといけないはずで、警官もちょっと怪訝そうでしたが、空港内に入っている以上何か事情があるのだろうと思うのか、それ以上は尋ねませんでした。
それから、空港のシャワー室の前で言いました。
「Terminal 1にしかないんだよね。どうぞ。」
あっけにとられました。いつもは家でゆっくりシャワーを浴びたり、軽食をとったりしてから空港に来るのですが、今日は家に戻れないからというのです。
「たかがシャワーのために火中の栗を拾うような行動をとるとは・・・」
私はその場にへたり込みそうになりました。
それから Erika に電話し、
「今、空港にいるんだけど」
と話し始めると、エリカは、
「空港? 確か今入れないはずじゃ・・・」
「詳しくは後で話す。未知に代わるね。」
私はエリカに楽しい旅行だったこと、これから帰国することを告げて電話を切りました。
それで終わりではありませんでした。極め付きは、その後の時間をユーロピアン・シティ・クラブEuropean City Club の待合いで過ごしたことでした。もちろんユーロピアン・シティ・クラブの会員ではありませんから、一時的にそこを利用するためにヘルベルトはカードを使いました。
「これが今できる全てだな。次からは前日に帰ってくるようにするね。」
飲み物とお菓子が食べ放題で、搭乗までの時間をゆったりしたソファで過ごしました。お金とはこういうふうに使うものだという見本のような日でした。現実感のない、不思議な時間でした。
2013年1月17日木曜日
「ガーデニング好き」
衝動買いを自制する頻度で一番多いのが、お花の鉢です。見るとほとんど反射的に買いたくなってしまうのです。
以前は樹木でした。椿や金木犀、コニファーなどの鉢をルーフバルコニーに置き、育つと大きな鉢に植え替えということを続けていたら小さな森のようになりました。鳥たちにもちょっとした休み場として知られていたようで、よく羽を休めに来ていました。
しかし、集合住宅の大規模修繕の時期になり、バルコニーにあるものを全て撤去しなければならなくなり、泣く泣く全部処分しました。もう自分で動かせるような大きさではなくなっていたので苦労しましたが、何より一番大変だったのは土の処分です。これは業者に引き取ってもらうしか手がなく、「もうガーデニングはしない」と決心しました。
とはいえ、ラティスを1つ残しておいたところをみるとやはり未練があったのでしょう。「お花がないカフェなんて・・・」と理屈をつけ、ラティスを室内に移し小さな花のポットを掛けています。大きな水差しの中に入れてあるので、家を空けてもなんとか生き延びてくれてほっとしています。土より扱いやすい水ならばと、小学校以来となるクロッカスやヒヤシンスの水栽培もしていて、春が来るのが楽しみです。目下の悩みは、どんどん増えそうになる鉢をなんとか増やさぬよう我慢しなければならないことです。
2013年1月15日火曜日
「フェミニズムってなあに?」
高校2年の時だったと思うのですが、市内各高校の仮装行列がありました。高校在学中には1度きりでしたから、その1回限りのものだったのか、3年に1度行われる催しだったのか判然としません。それは2年生の間では前もって話題に上ることはなく、唐突に当日を迎えた感じでした。
当時は、日常生活で女装した男を目にすることはほぼ皆無でしたので、近所の男子校の生徒がかぐや姫の仮装をしているのを見て本当に驚きました。
「明らかに女よりきれい、こんな美しい男が・・・」
というのが、一般の女子学生の感想でした。
我が校の生徒で参加していたのは上級生だけでした。家に帰って仮装行列の話を母にすると、
「ああ、それで・・・」
思い出し笑いをしながら話してくれたのは、美容院から制服で頭を桃割れに結った女学生が恥ずかしそうに出てきて、もう一人の友達と二人乗りで自転車をこいでいったという話でした。ハイカラさんの仮装です。
しかし、一番注目を引いたのは、赤い着物を着て下駄をはいた10人位のひとかたまりの集団でした。彼女たちの妖艶な姿もさることながら、びっくりしたのは先頭の制服姿の女子生徒がもつプラカードの文字、「売られた女の人権は?」でした。
「すごいね・・・」
「うん、三年生ってすごいね、・・・」と、友達と言い合ったのを覚えています。
私はこれまでフェミニストの言説に共感できたことが一度もないのですが、それはただ育った環境によるものでしょう。父は母にいつも減らず口をたたいてはいたものの、心底では母を崇拝しているのがありありと見てとれましたので、たとえ一銭も稼がなくても、我が家では母を頂点とする不動の家族内秩序がありました。
また通った高校は質実剛健を旨とする昔からの女学校で、女であることをあまり意識しない自立心旺盛な生徒が育っていました。おまけに私がついた職業は、おそらく日本で男女同権が最も徹底した古典的職業でしたから、そうでない社会の実情に触れる機会がほとんどなかったのです。
身勝手なようですが、それはそれでよかったと思っています。
「紅春 9」
その人が土手の道を自転車をこいでゆっくりやってくるのを見たとき、「ああ、この人か」と思いました。話に聞いていた「ジャーキーおじさん」です。ズボンの両ポケットにビーフジャーキーを大量に入れていて、散歩中の犬を見るとくれてやるのです。最初は警戒したのですが、ただの犬好きのおじさんで、犬に食べ物をあげるのがうれしくてしかたない人なのでした。
おじさんの左右のポケットには種類の違うジャーキーが入っています。一つはスティック状の細い犬用のジャーキー、もう一つは太くて短い人間が食べるようなジャーキーです。父が散歩中に、りくは両方いただいたそうです。
しばらくして、やはり父の散歩中にまたおじさんに会いました。おじさんは細いジャーキーをりくに差し出しましたが、りくはお座りの姿勢のまま微動だにしません。
「あ~、この犬はおいしい方しか食べないのか~。」
とおじさんは叫び、りくに短くて太いジャーキーを差し出しました。こちらは躊躇なく、パクッと一口で食べたそうです。りくは一度あったことは全部覚えているので、お座りの姿勢でおじさんに、「おいしい方をください」とお願いしたのでした。
「この犬だけです。」
とおじさんはしきりに感心していたそうですが、父は家に帰ってきて、
「りく~、お父さんは顔から火が出るほど恥ずかしかった。」
と嘆いていました。
りくをグルメ犬にしたのは、他ならぬあなたですよ、お父さん。
父は自分がおいしいと思うものをかまわずりくにあげるので、りくの舌は肥えていくばかりです。
私の気持ちを察したのかどうか、私がおじさんに会った時は、りくは両方のジャーキーをもらっていました。
2013年1月13日日曜日
「食事と睡眠の効用」
脳についての話を聞いて深く納得したことがあります。
「脳は糖を備蓄できないため、体から血液によって運ばれてきたものを消費する。ブドウ糖は血液全体に5グラムしか蓄えられず、脳は1時間に5グラム消費するので、血液で運ばれる糖は1時間しかもたない。そこで肝臓にある糖のグリコーゲンが少しずつ分解されブドウ糖になって血液に移る。しかしグリコーゲンも脳が1日に必要とする糖の半分しかないので、半日しかもたない。従って、最低12時間ごとに食事が必要ということになる。脳は臓器の重さとしては全身の2%しかないが、消費するエネルギーは筋肉全体の消費エネルギーとほぼ同じであり、すなわち、全エネルギーの半分は脳で消費される。睡眠中、体のエネルギー消費量は8割ほどに低下するが、脳の消費エネルギーはほとんど変わらない。すなわち、寝ている間も脳は休んでいない。」
私は子供の頃から起床・就寝および食事の時間がずれると、てきめんに弱ってしまい元気をなくしました。朝食が入らず抜くという人の気がしれなかったし、昼食や夕食の時間がくると何かに熱中していても、「とりあえずご飯だな」とあっさり中断しました。
頭の方は午後は4時ころになるともう働かず、午後9時ともなれば何かを考えることが全く無理な状態になり、差し迫った課題があっても「とりあえず寝よっ」とあっさり寝ていました。最近は年のせいかこの傾向がますます強まり、早寝早起きが加速しています。
朝起きると、毎日同じメニューでも朝食が楽しみだし、頭の方はその日やることがスッキリ整理されています。スッキリした頭で考えるというのではなく、何をどういう手順で行うかがすでにできあがった状態でそこにあるのです。「寝ている間も脳は休んでいない」という解説は、私の実感にまさしくしっくりくるものでした。脳はどうあっても休めなさそうですが、せめて情報を入れずに整理するための時間として睡眠が必要だったのですね。
「とりあえず食事」「とりあえず睡眠」でよかったのだなと、大いに安心しました。
「正しい人、正しいこと」
韓国初の女性大統領が誕生するとのニュースを聞き、どんな方だろうとそれとなく注目していました。理性としっかりした見識を感じられる素敵な人という印象でした。それにもかかわらず、気持ちがずんと重くなったのは、2006年に当時官房長官だった安倍晋三と会談した時の言葉を聞いた時でした。
「過去の歴史問題で、今後100年たっても、1000年たっても変わらないことは、日本が加害者で韓国が被害者だということです。」
正しいのです。とてつもなく正しいのです。しかし、おそらく本人が望んでいるような日本との関係、「歴史問題をどのようにしても私たちの世代で解決し、現在多くの理解と交流をしている世代に過去の重荷をこれ以上渡さず、ここで終わらせたい。」という願いは実現しないだろうと感じて、心が重くなったのでした。
私たちは1000年、いや永遠に罪に定められたのです。これは何に似ているでしょうか。構造的にそっくりだと思うのは、イエスの時代に生きていた大多数の民衆です。社会的、経済的制約のゆえに正しいことをしたくてもできないように定められていた彼らは、過去に起こったことであるがゆえに過ちを取り消せない私たちと同じです。
一方、律法学者は神の律法に従った正しい生活をしていましたが、民衆に救いを与えることはできませんでした。律法学者たちは正しかったけれども民衆を救えなかったのではありません。正しかったから民衆を救えなかったのです。だから、ここには救いがないのです。正しい人と罪を犯した人、両者の間にどんな接点があり得ましょうか。正しい人にふさわしいのは裁くことであり、許すというのは次元が違うことです。そもそも人に対する罪を人が許すということが可能なのでしょうか。私は懐疑的です。
筆禍事件にならぬよう付け加えると、私は韓国が律法主義的だと言っているのでは毛頭なく、人間の罪を巡る許しと救いについての原理的困難を述べているのです。また、「韓国は日本を許すべきだ」と言っているわけでもありません。それを口にすることは私たちの側には許されていないのですから。
時間というファクターがさらに降り積もっていくなかで、「正しい人」が罪を犯した人を許すという奇跡が、韓国と日本の間に起こるということがあり得ましょうや否や。
「初めての日本」
もう20年近く前のことですから、ひょっとしたら今では事情が違っているかもしれません。その頃ドイツで近所の方やヘルベルトの知り合いと話していて、私が日本から来たとわかると、きまって次のようなことが起きました。
「私、上海に行ったことがあります。」
「私は北京に。」
「ニイハオ。」
「いえ、それは中国で・・・」
これが度重なると訂正する気力も萎えてしまい、「ああ、ドイツと日本の関係は、完全に日本の片思いなのだなあ。」と実感したものでした。
普通のドイツ人は、いきなり「日本に行ってみよう」と思うことはまずなく、ヘルベルトも当初、「あなたがいなければ行くはずがない。 Why Japan? 」と言っていました。
実際に来てみると、ドイツ人の感覚からすると驚くことがたくさんあったようです。開店直後のデパートでは、店員が勢ぞろいでお辞儀をしながら客を迎えることに、「王様みたいだ」と仰天していました。私も、開店直後にデパートへ行ったことなどありませんでしたから、「毎日こんなことが行われているのか」と少なからず驚きましたが、確かにドイツのサービス業のレベルとは雲泥の差があります。
新幹線では、車内販売の売り子さんが、車室に入る時と出る時に、お辞儀をすることに対して、「エレガントだ」という印象を強く持ったようです。
また、些細なことですが、「日本では、ヨーグルトのふたの銀紙をはがした時、中身が飛び散ることは決してない」と感心していました。この手のことは枚挙にいとまがありません。
細部まで行き届いた日本の住みやすさは、来日すればすぐにわかってもらえるようでした。東京は、たぶん大きすぎて(フランクフルト Frankfurt がドイツ有数の都市といっても市としての人口は70万に満たない、広域の都市的地域でみても230万程度です。)、彼の性に合わなかったようですが、「福島ならいつでも住みたい。」と言っていました。福島のその後を見ずに済んだのは、ある意味、幸せだったかもしれません。
2013年1月9日水曜日
「紅春 8」
生後半年頃だったでしょうか、歯が抜け替わる時、りくが何でも噛んだ時期がありました。ある日、私が昼寝している間に、りくが電動自転車の充電器のコードをかじり、ちぎれた黒いコードの破片がぼんやり見えた時、私は卒倒しそうになりながら「ああ~」と叫んでいました。
りくを見ると、目を輝かせながら、「分解しました」と得意げな顔です。
「りく~、なんてことしたんだ。」と絶叫すると、途端にりくは自分が何かまずいことをしたのがわかって、すっかりしょげてしまいました。私は、ちょっと叱りすぎたかなと後ろめたい気持ちになりました。
それから2時間くらいたった頃、父がふと言いました。
「今日はりくはおとなしいなあ。」
ああ、やはりそうなのか。
「私に叱られたから・・・」と正直に言うと、事情を知った父は、「犬が物を噛むのは当たり前だ。そんな大事な物を床に置いておいたお前が悪い。」と言いました。
おっしゃる通りです。
「りく、姉ちゃん悪かったな。・・・仲直りの散歩に行こうか。」
まだ気落ちしている様子のりくを、「行こう、行こう」とせきたてて散歩に出ると、20分ほどでようやくいつものりくに戻りました。
りくが何かを壊したのはその時だけです。
2013年1月7日月曜日
「初笑い」
御茶ノ水の地下鉄へ降りる長いエスカレーターに乗っていたある夏のことです。数段下からこちらをふと見上げた若者が近寄ってきて言いました。
「川辺野先生ですか。」
2年余り前に卒業した担任生徒でした。在学中は向こうから声をかけてくることなど考えられなかったので、2年もたつと大人になるのだなあと思ったことでした。
よく無断早退をして家に電話し、電話に出た母親が平謝りするので、
「お母さんが悪いのではありません。本人の責任です。」
と告げ、翌日、本人を呼んで説教するということを幾度となく繰り返しました。しかし、のれんに腕押しで、女子にまで、
「先生、もうあんな奴ほっとけばいいんだよ。」
と見捨てられる始末。とにかく、顔を見れば説教した記憶しかありません。
成績は悪くなかったのでどこかに受かるだろうと思っていたのですが、やはり日頃の行いがたたったのか、受験した大学すべてに落ち、しかも普段が普段なので相談にも来られない状態でした。
ある日事務室から、調査書の申請に来ていると電話連絡を受け、
「すぐ行きます。そこに留めておいてください。」
と言って階段を駆け下り、怯えた顔の本人を連れて進路室で今後の相談をしました。3月末まで受けられる大学を受験しましたが、受験生が殺到し難度が上がったため、結局浪人となりました。予備校に推薦書を書いて、私は異動のためその後どうなったか知らずにいました。
「今どうしてるの?」
「大学2年生。」
「どこの大学?」
志望大学の一つでしたのでよかったと思いました。そばでなんだか不思議そうに会話を聞いていたのは、大学でできた友人でしょうか。
実は別れて電車に乗った途端、名前を思い出し、名前を呼んであげられなかったことをちょっと後悔し、うちに帰ってはがきを書きました。
「声をかけてくれてありがとう、大学生活を有意義に過ごしてください、留年しないように、お母さんによろしく。」と。
それきりそのことは忘れていましたが、翌年お母さんから年賀状をいただきました。
「大変にお世話になりました。」という言葉とともに次のように書かれていました。
「受験日に先生の写真を持って行ったそうです。気持ちが落ち着くと・・・。」
はがきを手に大爆笑しました。その年の初笑いでした。
2013年1月5日土曜日
「カフェの人々」
ウィーン以東の東欧はカフェ文化を抜きには語れないでしょう。コート掛けや新聞置き場のあるたばこの煙でかすんだ純正のカフェでなくても、生活に密着したカフェが至る所にあります。市街の中心部、シュテファン大聖堂 Wiener Stephansdom 界隈にはとりすましたホテルだけでなく、気が置けない手ごろなホテルがあり、そのカフェには観光客だけでなく地元の人も多いのです。
何日か宿泊すると同じ顔に出会います。朝食をとりながら新聞を読み、午前のお茶を(もちろん珈琲ですが)飲みながら、雑誌を読む、お昼を食べながら仲間とおしゃべりし、午後のお茶(珈琲です)をしながら書き物をしたりする。そしてもちろん夕食も・・・
「あの人たち、いつも来てるよね。」
「来てるんじゃないよ、カフェに『住んでる』んだよ。”Das Leben ist grausam.” (人生はつらい)って言ってね。」
この人たちはいったい・・・。
いえ、嫌いじゃないですよ、こういう人たち。
2013年1月4日金曜日
「会津の人」
中学に入る時、父が「英語だけは毎日やらないと。」と言ったのを覚えています。これが父から受けた勉強に関する唯一のアドバイスでした。
父がそう言ったのには訳があり、大学時代に会津出身の父と山形出身の級友はなまりがひどく、英語の教師から「お前たちは英文を読まなくてもいい。そんなの英語じゃない。」と言い渡されたというのです。今そんなことを言ったら問題になるでしょうが、本当なのだからしかたありません。それで父は東京教育大の寮があった駒場から渋谷を越えて青山まで歩いて、青山学院の夜学で英語を習っていたとのことでした。
この話を聞いたのはわりと最近のことです。父は農業の先生になるべく勉強していたのですから、英語ができなくてもどうということはありません。しかし昔の人はそうは考えなかったのです。自分に足りないものがあることを受けとめ、なんとかそれを埋めようとした努力を、私はとても可憐だと思います。
会津の近代史はあまりに壮絶なのでこれまで敬遠してきたのですが、先日思い立って「ある明治人の記録」(石光真人著)を読みました。柴五郎の手記ですが、全編にわたって辛酸の限りを尽くすような記述が淡々と綴られています。とくに下北に流刑のような扱いとなった箇所は、「武士の情けはないのか」と落涙するを禁じ得ず、死線をさまようとはこういうことかと胸が痛くなりました。よくぞ生きてくださったという思いです。
かつて賊軍の出身でありながらただ一人陸軍大将にまで上り詰め、北清事変(義和団の乱)では誠実な態度で敵軍にも接し、陣頭指揮をとって4千人が50日を超える籠城に耐え抜くという功を成し遂げました。「北京籠城」は柴五郎自身が淡々と事実を綴ったもので己の自慢などいっさいありません。始めは全く目立たなかった彼のもとに、各国の軍属や公使が必ず意見を求めにやってくるようになったのもむべなるかなと思います。会津魂の化身のような人でした。のちに成った日英同盟は、この時の英国公使マクドナルドによるヴィクトリア女王への進言によるところが大きいと言われています。
本を読んでわかるのは、陸軍幼年学校に入ってからも、それまで勉学の機会なく、また授業がフランス語だったこともあり常に最下位という屈辱の中でも投げ出すことなく、兄弟・親族との関係を大切にまもりながら刻苦勉励していたことです。唯一ほっとするのは、後の方にあるのフランス語の作文の場面で、ただ一人、「作文とはこのように書くものなり。」と褒められるようになった箇所でした。うれし涙が出ました。
2013年1月2日水曜日
「紅春 7」
りくが子供のころ、学校帰りの子供たちが「りくと遊ばせてください。」と言って、時々大挙してやってきました。 りくは大人気なのです。無理もありません。誰とでも仲良くできる気だてのいい子で、りくを見ているとほんとにトクだなと思います。いつも「近寄ったら噛むよ。」というオーラを出している犬と比べたら、りくは何の努力もなしに、みんなから「りくちゃん、りくちゃん、かわいいなあ。」と言われます。
*背景は一度も入ったことのない犬小屋。自分は入らないのに猫が入っていると猛烈に怒ります。
おまけに見栄えが良く、なおかつ小憎らしいほど賢いのです。今は床まで届くのれんを使っているので、りくは茶の間と廊下の行き来が自由にできますが、以前は戸をガタガタさせるたびに開けてあげていました。兄が洗面所で歯を磨いていると、戸をガタガタさせているので行ってみると、戸は開いていたということがありました。りくは兄がやって来るのを見越して戸を揺すっていたのです・・・ため息。
飼い主の欲目もあるでしょうが、りくは三拍子そろっています。天は二物を与えずといいますが、与えすぎではないでしょうか。
「子供らが来てるときは、危ないから見てるようにしている。」
ある時、父が眉間にしわを寄せて言いました。
「りくは噛むような犬じゃないから大丈夫じゃない?」
「この前、りくを蹴った子がいて、そいつには『お前はもう来んな!』と言った。」
逆の心配でしたか。父は人間への信頼をなくすような行為を何より恐れたのです。
りくは子供のころ特によく遊んでくれた近所の子を覚えていて、その子が学校の行き帰りに外を通るのを見ると、大人になった今でも、「いってらっしゃい。」「お帰りなさい。」と家の中から声をかけています。たまたま外にいる時は、頭をなでてもらえます。
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