2025年12月11日木曜日

冬の家内作業

  寒い日の家内作業は冬の風物詩。昔の人は囲炉裏端で母さんは手袋編みや麻糸つむぎ、お父はわら打ち仕事と決まっていた。私にとって寒い冬の家内作業は何と言っても断捨離である。これは暑い夏には絶対できない。あちこち動き回って処分品を掘り出したり、シュレッダーはじめ書類の断裁等は少しやっただけでも汗ばむほどの作業である。一連の仕事はまず45ℓのゴミ袋を調達するところから始まる。ゴミ袋の買い置きはあるのだが、心置きなく物を捨てるには余分なゴミ袋がいくらでもあるという気分的余裕が必要なのだ。

 毎年重点箇所を決めて少しずつ整理してきたが、まだ手付かずの場所がたくさんある。断捨離は収納できないで溢れているところから手を付けるため、とりあえず収納庫に収まっているものはかなりの程度スルーしてきた。今回はまず一辺が70cmほどの立方体の引き出しの内部の処理が最初のミッションである。はるか昔に購入したこの家具は自分でも「なんでこんな大きな引き出し買っちゃったんだろう」と思う代物である。おそらく衣装箪笥というか、衣類の収納用に作られたものであろうが、これまで衣装を入れたことはない。ほぼ中身は書類と雑貨である。テレビがあったころはテレビ台にもなったし、テレビがない今はその上にプリンターや段ボール箱が積み上がっている。

 この3段組の引き出しにどれほど大量の書類や雑貨が収納されているか、考えるだけでも眩暈がする。何しろ重すぎて引き出しがなかなか引き出せない。以前、滑りが悪いのかとかんなをかけたこともあるのだが、そういう問題ではなかった。単純に詰め込み過ぎなのだ。

 書類の5分の4はもう要らないものと分かったが、そのまま捨てるわけにはいかない、ひたすらシュレッダーである。使い過ぎると熱で自動停止するので、冷えて再び使えるようになるまで、また要不要の仕分けするのを繰り返しながら進めるが、1段当たり4~5日を要する仕事量である。時折「データにして取っておこうかな」と思うものもあり、そうするとスキャナーを使っての読み取り作業が入る。これは結構疲れる。一方、単純作業はすぐ飽きるが、その時は別の家事をしたり散歩や買い物のため外出する。そうしないともたない。そもそも急ぐ用向きではないのだ。

 雑貨の何割かはアクセサリー類で、若い時のもの、ここ30年ほど使っていない。価値のあるものではないのでそのまま捨ててもよいのだが、箱を捨ててジッパー付きの透明の袋にとりあえず入れておく。ネックレスはともかく、今となっては煩わしいとしか思えないイヤリングをしていた時期もあったんだなあと感慨深い。服飾や工作など別の用途でも使用可能だから欲しい人がいたら上げたいくらいだ。人形やぬいぐるみを作る人なら、その飾りにすると可愛いかも。

 こうして部屋はシュレッダーの周りに処分品とゴミ袋が散乱しており、毎日何袋もゴミを出しているが、一向に終わる気配はない。引き出しが終わっても他に片づける場所はいくらもある。部屋を見渡したり収納庫を開いてみたりすると、目に入る物の片づけて順が頭に浮かび、それだけで疲れて「はぁ~」とため息が出る。長丁場である。今のところ脳内で夢見るのは、或る程度さっぱりと片付いた家のイメージである。立春頃に少しでも近づけていればうれしい。こうして毎年少しずつ断捨離して、特に残してはならない個人情報を処分していけば、後々安心である。千里の道も一歩から、がんばろうっと。


2025年12月4日木曜日

老年時間、若年時間

 「ダニエル書」を読んだせいかどうか、夢のことが気になっている。私はあまり夢を見ない(あるいは見ても覚えていない)方だと思うが、若い頃には見たことのない夢を最近たまに見る。と言っても、解き明かしを必要としない、ごく単純な夢で、「遅れる」夢である。シチュエーションは不明ながら、何かの始業時間に遅れたり、乗り物に間に合わなかったりしているのである。

 職に就いていた頃には遅刻する夢を見たことがないのに、現在その手の夢を見るのは不思議である。時間を守ることは社会生活の基本、振り返ってみても学校なり職場なりの始業に遅れたことは、交通機関による不可抗力以外ほとんど全く無かったように思う。せっかちなので早く着きすぎるきらいがあったほどだ。学校も職場もない今、自分を時間的に制約するものは、基本的に他人に迷惑をかけない範囲のものばかりである。遅れようができなかろうが誰も困らないのである。それにもかかわらず、このような夢を見るわけは精神科医ならずとも明らかであろう。現在おこなっている(自分にしか関わらないが、自分にはそれなりに大事な)諸々の事柄について、「今まで通りの準備では間に合わない」と本人が自覚し、それが或る種自分を脅かすものになってきているということなのだ。

 若い時は毎日時間がなかった。いつも時間に追われていた。一日24時間では足りないが、それ以上あったら確実に過労だからこれでいいのだという日々だった。今の若い人がタイパを追求するのは心情的にとても理解できる。その頃は、お年寄りにはゆっくりした時間が流れているように見えて、「いいなあ」とうらやましく感じていたのである。

 しかし、老年期の多くの人が吐露しているように、歳をとると日常を成り立たせる一つ一つのことをするのに、若い頃の数倍の時間がかかるようになる。老人は一日暇な時間が十分ありそうに見られがちだが、主観的には全く違う。「一日があっという間に終わる」のである。仮に何かをするのに若い頃の2~3倍の時間がかかるとすれば、一日のうちにできることが二分の一、三分の一になるということである。ラジオを聞いていると、年末の大掃除を11月末頃から少しずつ、毎日スポットを決めて行うという老年リスナーの投稿を結構よく聞く。そうしないと大晦日までに終わらないのである。

 一日一日過ぎ去るのが速い。速すぎる。「光陰矢の如し」という格言は遥か昔を振り返って言う言葉ではなく、半年前、一年前に対する老年者が味わう感慨だと思う。いよいよ師走に入ったが、このことがとても信じられない。「ついこの間正月が終わったのに…」と思う私にお構いなく、時は高速で過ぎていく。


2025年11月27日木曜日

「ダニエル書」前半の雑感

  東京で通っている教会では月に一度、一年以上にわたって「ダニエル書」の講解説教をお聴きしている。「ヨハネの黙示録」ほどではないにしても、「ダニエル書」も黙示文学であり、普通に読んでいても分からないことが多い。礼拝時の聖書個所として「ダニエル書」が選ばれることはまれで、一般にユダヤの信仰者についての不思議な話という印象を持つ人が大半だと思う。話の中身として、主人公は燃える炉の中や獅子の穴に投げ込まれても神に守られて無事だったとか、王様が見た夢を解き明かして重用されたとか、超自然的、戯画的な記述が続き、出てくる幻の訳の分からなさが終盤に向かっていや増していく。「ダニエル書」の礼拝説教は大詰めを迎えているが、まだ最後の11章、12章(ここはそれまでにも増して凄いヴィジョンのオンパレード。自分で読んだだけでは全く分からない)を残しているが、ここまでで感じたことを記す。

 「ダニエル書」は紀元前6世紀のバビロン捕囚時代を描いているが、作者は紀元前2世紀にセレウコス朝のアンティオコス4世による圧政に苦しむユダヤ人である。国土喪失という民族最大の悲劇が起こって四百年たった当時でさえ、残ったユダヤ人にとって「バビロン捕囚」はいつもそこへと回帰する原風景なのである。国を失い土地からも切り離されてなお、自分たちの原点を忘却していないこと自体、私などからすると驚異的なことに思える。強国の狭間でもみくちゃになって生きてきた民が、まだ自らのアイデンティティを保っているとは信じがたいことである。


 「ダニエル書」には超自然的な事柄やヴィジョンが次々と出てくるが、これはかなり緻密に構成されているのが分かる。第1章から第6章まで読むと、徐々に困難さを増す状況に対し、ダニエル他ユダヤの残された者たちが何に依って立っていたかが鮮明に描かれている。

 「ダニエル書」の第1章は、バビロン王ネブカドネザルがイスラエルの有能な若者を選別し、宮廷で重用したこと、そしてこれらの4人の若者が生殺与奪の権を握られた立場でも神の戒め(この場合は食物禁忌)を守ったことが記されている。


 「ダニエル書」2章は、ネブカドネザル王が何度か見て不安で眠れなくなった夢の話である。王は夢の解き明かしどころか、「夢そのものも言い当てよ」という無理難題を課し、それをダニエルが言い当てる。山から切り出された石が、金、銀、青銅、鉄、陶土でできた一つの巨大な像を打ち壊す夢は、これから起こる国々の勃興や消滅について王に知らせるものだった。ここではダニエルがひたすら祈ったため神が彼に秘密を明かしたこと、この功績によりダニエルは王宮に仕える者となり、他3名はバビロン州の行政官になったことが記されている。


 「ダニエル書」3章はダニエルではなく他の3人の行政官が不敬罪のターゲットになった事件である。彼らはネブカドネザルの建てた金の像の除幕式にその像を拝まなかったことにより、燃え盛る炉に投げ込まれることになった。3人は縛られたまま炉に投げ込まれるが、何の害も受けなかったばかりでなく、ネブカドネザルは炉の中に神の子のような姿をした4人目の者を目撃してしまう。彼らの神による救いを目の当たりにした王は「彼らの神をたたえよ。人間をこのように救うことのできる神はほかにはない」と言う。

 3人に明白な身の危険が迫った場面で、彼らは自分たちの神が必ず救ってくださると公言し、さらに「たとえそうでなくとも」、王の神々に仕えたり、王の建てた金の像を拝んだりしないという命知らずの宣言をする。ご利益主義信仰の全否定である。神への信仰のためには恐れを知らない人たちであり、彼らには飴も鞭も通用しない。この厳しさは豊饒な神々との間で持ちつ持たれつの関係にあった周辺の民族の宗教にはない、突出した特徴だろう。

 ネブカドネザルがユダヤの神を賛美したことを含め、これがどれくらい史実を反映した話なのか分からない。しかし、続く第4章を読むと、ネブカドネザルは支配する王国の統治に関して柔軟な考え方ができる王だったのかもしれないと思えてくる。


 「ダニエル書」4章はさらに進んだ段階の夢とその説き明かしの話である。この時ネブカドネザルの見た夢は、鳥や獣を養っていた大きく立派な木が切り倒されるという夢である。ただし、切り株と根は地中に残され、鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置かれる。切り倒された木から次第に人の心が失われ、獣の心が与えられ、七つの時が過ぎるという。

 ダニエルによる解き明かしはこうである。これはネブカドネザルの身に起こる幻で、全地を治め豊かに養っている大木は彼自身であるが、やがてそれは倒されて人間社会から追放される。獣と共に住んで七つの時を過ごすうち、ついに彼は人間の王国を支配するのは神であり、御旨のままに誰にでもそれを与えるのだということを知る。そのことを悟れば、切り株と根が残された木(王国)は彼に返される。それから、理性が戻って来たネブカドネザルが、「いと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた」こと、そして、彼が再び王国に復帰したことが記されている。

 独裁者であろうはずのネブカドネザルにこのような回心があったとにわかには信じがたいが、「ダニエル書」の作者にそう書かせるだけの何かがあったのであろう。しかしこの時代の他の独裁者から見れば、ユダヤの神をほめたたえるようになったバビロニア王のこの話は見過ごせないリスクがあるに違いない。なにしろ古代イスラエルは強国の間で踏みにじられて右往左往しながら生きてきた弱小民族である。大帝国の王が自民族の神ではなく、被支配者の神を称えるようなことがあってはならないはずである。そう考えると、「ダニエル書」はここまでで十分危険な書と見なされ得るだろう。


 「ダニエル書」第5章は、レンブラントの絵画『ベルシャザルの饗宴』(ナショナル・ギャラリー―・ロンドンNational Gallery London)で有名な壁に文字を書く指が現れる不思議な話である。三十年以上まえ、母と英国旅行をしたとき母はこの絵の前で、「ああっ、この絵は…」と大興奮だったのを思い出す。私はと言えば、聖書の話なのは分かったが、どの書に書かれた話であるか分かっていなかった。長い年月が経ったものである。

 この章では王はネブカドネザルから息子ベルシャツァルに代わっている(正式に即位した王ではないらしい)。エルサレム神殿からの分捕り品の金銀その他の祭具で酒を飲んでいた大宴会中に、壁に文字を書く人の指が現れるというぎょっとする場面が印象的である。この文字を読み、解釈する者に王国の第三の位を授けるというベルシャツァルの命にダニエルが召し出された。

 強権的で横暴な王に比べて、これくらいの飽満な振る舞いなら害がないように思えるが、それは浅はかな人間の考えであろう。ダニエルは神殿の祭具を弄ぶ享楽的な王に対し、「あなたは命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない」との言葉を突きつけ、謎の解き明かしをする。すなわち、文字は「メネ、メネ、テケル、そして、パルシン」、意味は「神はあなたの治世を数えて(メネ)それを終わらせ、あなたを秤にかけて計って(テケル)不足と見なした。あなたの王国は二つに分け(パルシン)られて、メディアとペルシアに与えられる」ことを示した。

 この解き明かしにより、ベルシャツァルは約束通り、ダニエルに王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出したが、まさにその夜ベルシャツァルは殺されたと「ダニエル書」は記している。まことに厳しい結末である。暴虐の限りを尽くす王も享楽に浸る王も、「神を畏れ敬う」心がないという点で何の違いもないのである。父王ネブカドネザルに王国が返されたのは、ひとえに彼がいと高き永遠の神を拝し、称える者になったからだということが一層浮き彫りになる。


 「ダニエル書」第6章に出てくる王はメディア人ダレイオスに代わっており、王国におけるダニエルの地位はさらに上がっている。ダニエルは各地の総督から報告を受ける3人の大臣の一人であったが、王がダニエルに王国全体を治めさせようとしたところから他の高官の奸計の標的になってしまう。彼らは神に対するダニエルの信仰に狙いを定め、彼を陥れるために王を計略にかける。すなわち、王をして「向こう三十日間、他の人間や神に願い事をする者は誰でも獅子の洞窟に投げ込まれる」という法律に署名させることに成功したのである。国の制度や法律が整備されると、王といえどもその制約を受けるようになる。しかしどのような体制、どのような法であろうとも、それが良い方向に作用するかどうかはそれを運用する人間によるということは、現在我々が日々見聞きする事象により明らかであろう。

 さて、ダニエルはいつも通りに振る舞い、エルサレムに向かってひざまずいて、神への三度の祈りと賛美をささげたため、獅子の穴に淹れられることになる。この時王はダニエルを何とか救いたいと思いながら、自分の発した命令を反故にできずどうすることもできない。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」と言うばかりである。

 翌朝、獅子の洞穴に無傷でいるダニエルを見て、王はダニエルを救った神の不思議な御業を賛美し、「この王国全域において全ての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない」と定める。


 ここまでは「ダニエル書」の中で比較的分かりやすい部分であり、ダニエルと彼が仕える王との間での出来事である。このあと以降はダニエル自身が見た夢の内容が語られ、それが一段と黙示的な絵巻物、壮大なスペクタクルといった様相を呈する。一般的に、黙示文学はその時代を取り巻く環境の中では憚りがあって書けないことを記すための常套手段であろう。大枠だけ区切ると、7章はバビロンの王ベルシャツァルの治世元年に眠っているダニエルに現れた夢、8章はベルシャツァル王の治世第三年にダニエルが見た幻、9章はダレイオスの治世第一年に文書を読んでエレミヤの預言を知り、イスラエルの罪の告白の祈りをするダニエルに現れた幻、10章はペルシアの王キュロスの治世第三年に嘆きの祈りをしているダニエルに与えられた啓示である。

 すなわちこれらは全てダニエルの見たヴィジョンであり、その説き明かしをするためダニエルは深く自分の内部に沈潜しなければならない。次々と生じては消える王国の盛衰を見て、リバイアサンが荒れ狂う現状に生きる中で彼らが行き着く先にあったのは何であろうか。後半部分はまだ整理できないが、ダニエルが自らと自らの民族の中にはっきりと「罪」を認めたことは確かだと思う。それこそがユダヤの民の出発の原点となったのである。


2025年11月20日木曜日

裁判外紛争解決手続

  今年意図せずして巻き込まれてしまったことの中に、「裁判外紛争解決手続」がある。日本の様々な制度はアメリカの後追いであることが多いが、これなども法科大学院制度や裁判員制度と同様、司法制度改革審議会による司法制度改革の一環であり、一般にADR(Alternative Dispute Resolution)と呼ばれている。Alternativeは代替的という意味であるから、この場合に当てはめると「裁判に代わる」紛争解決方法ということになる。ウィキペディアには「訴訟手続によらない紛争解決方法を広く指すもの。ADRは相手が合意しなければ行うことはできない。平成16(2004)年に成立。紛争解決の手続としては、『当事者間による交渉』と、『裁判所による法律に基づいた裁定』との中間に位置する。紛争解決方法としては、あくまで双方の合意による解決を目指すものと、仲裁のように、第三者の判断が当事者を拘束するものとに大別される」と記されている。

 発足から二十年たってかなり制度として整ってきたようで、これを行う機関として司法機関(簡易裁判所、家庭裁判所、地方裁判所等)、行政機関(例えば国民生活センター、消費生活センター、労働基準監督署、労働相談情報センター、建設工事紛争審査会、原子力損害賠償紛争解決センター等)ばかりでなく、様々な民間機関(例えば日本スポーツ仲裁機構、日本弁護士連合会交通事故相談センター、日本知的財産仲裁センター、事業再生実務家協会、全国銀行協会、生命保険協会、日本損害保険協会、日本不動産鑑定士協会連合会等)もある。生命保険協会、日本損害保険協会に関しては2010年に金融庁の指定により創設されたようである。

 確かに、普通に暮らしているだけで事故や事件に伴う紛争に巻き込まれてしまう時代である。裁判により決着を図ろうとすれば、相当なお金と時間がかかる。裁判所だって数が膨大過ぎて手に余るであろう。この制度は一般庶民が少なくとも為すすべなく泣き寝入りすることは避けられる制度である。私が思うにこの制度の第一の関門は、相手が紛争の訴えを受けて紛争解決手続を行うことに合意することであり、第二の関門は双方が自らの主張への思い入れをいったん脇に置いて、解決の道を探る気があるかどうかということなのではないだろうか。すなわち、お互い我慢しながらも落としどころが見つけられるかということである。

 最近ADRに関するお仕事小説を読んだ。裁判を扱った小説はよくあるが、ADR関係の小説があるとは思わなかった。それほど一般化してきたということか。その話の中で、本当に存在するのかどうかは分からないが、ADRを専門に扱う弁護士が出てきた。ADRの場合、庶民が大企業や巨大組織に蟷螂の斧を振るう図式になりやすいが、小説の中では弁護士が依頼主の思いを外れて行動しながらも、最終的には依頼者に最もよい結末を導き出していた。驚いたのは、「責任を取らせたり、罰を負わせたりせずに事件を解決すること」を主眼としていることである。裁判であれば「どちらに正義があるか」ということが一番重要な争点のはずである。小説の中のADR専門の弁護士は、「目指すのはトラブルの当事者双方が納得する妥協点。どっちが正しいとか正しくないとかは重要じゃない」と言い切っていた。私は最初これをどうしても飲み込めなかったが、例えば司法取引のような合理性を重んじる頭脳であれば、「双方をそれなりに和解させ、手ぶらでは帰さない」という思考になるのかもしれない。おそらくその前提は、正義の所在を争点にすると、絶対に落としどころが見つからないという、人の世の常への深い洞察なのだろう。

 そう言えば、それを裏書きするかのように、ADRにはもう一つ顕著な特徴がある。それは関連事項については全て「当事者外秘」ということである。裁判ではその過程や判決が明らかにされ、事件の概要によって前例なども考慮されるが、ADRにはそれが無い。見方を変えると、この秘匿性は双方にとって大きなメリットになり得る。それが大企業や巨大組織がADRでの紛争解決に応じる理由かもしれない。さらに、紛争解決手続が公表されないということは、一件一件が一回限りの独立した案件ということになり、その時々の判断がその後に起きる別の案件の解決策に縛りをかけることがないということだ。こうして見ると、「正義」ばかりか「公正」もさほど重要な視点ではないらしい。とにかく目指すのは「撃ち方止め!」ということなのか。なるほどねぇ。


2025年11月13日木曜日

高齢生活、困難さの盲点

 先日郊外に住む叔母を訪問した。ご高齢で体のあちこちに不具合はあるが、総じて自立した生活を送っている方である。これまでいろいろ治療はしてきたが、体の痛みは医者も和らげる手立てがないとのこと、現在は月に一度の在宅訪問で一般的な体調チェックを受けている。

 この方はいわゆる高齢者詐欺などに遭わぬよう、警察に相談して電話に撃退用の細工をしてもらうなど、非常に用心してお暮しであるが、一番の悩みは腰の痛みのため思うように歩けなくなってきたことだろう。お話を聞くうち分かったのは、買い物の不便さと現金引き出しの不便さである。ごく近くのお店にはなんとか買い物カートを押していくことができるが、毎日の必需品は週一回来るヘルパーさんにお願いしている。しかし購入できる店舗(スーパーなど)が契約で一カ所に決められているとのこと。すなわち、そこで売っていない物は頼めない。

 それなら通販でと思いがちだが、通販は何故か電話の注文はしているもののメールでの注文には抵抗があるとのこと。それぞれ安心を感じるポイントが違うのだと思う。ただ、パソコンも扱われる方なのでやろうと思えばメールでの発注は可能だろう。

 全国の高齢者の半数が買い物難民化していると聞くが、これは特に地方の市町村において顕著である。大型小売店の撤退などでお店自体が消えていく心細さと困難さは並大抵ではない。それに比べれば叔母の場合は、確かに歩いて様々なお店に行けないため制約はあるものの、買い物という観点からはまだ良い環境の中で過ごせていると言うべきだろう。

 ところがもっと困ったことが起きた。近くにあった銀行が閉行になってしまったのである。これには覚えがある。家の近くのメガバンクの支店も閉行の知らせがあった。どこもかしこも人員整理と合理化で支店をつぶしているのだ。叔母の家の近くではその銀行のATMが1.5キロくらい離れたところにあるスーパー内に移転したとのことで、これも簡単には行けなくなってしまった。行くときは家からタクシーを呼べばよいが、帰りはどうすればよいのか。その場にタクシーを呼ぶために、一度解約した携帯をまた購入しなければならないかしらと当惑されていた。

 現在は現金をほぼ使わない生活が広範に広がってきたが、ヘルパーさんに買い物を頼むような時は、カードを渡すわけにもいかず現金が必要である。そのため、近くの銀行が閉行になる直前にまとまったお金を降ろしに行ったところ、詐欺被害を疑われ、「そんな大金はお渡しできません」と言われたという。「今までそんなに一度に降ろしたことがない」とか「支店長と話してください」とか、果ては「警察呼びますよ」とまで言われたのである。認知症の老人には親切な対応かも知れないが、頭のしっかりした(なかなか遠くまで移動できない)人には大迷惑である。すったもんだの末、なんとか目的は達したそうだが、銀行は力の入れどころが間違っていないだろうか。

 これについても身に覚えがある。いまやATMでの送金は100万円までに制限されており、私が「限度額を上げたい」と銀行に赴いた時、「本部対応となります」と言われ、奥まったブースで電話対応をさせられた。もうその支店での裁量ではなく、どこにあるかも知らない本部とやらと話さなきゃいけないのかとビックリした。自分のお金を自分で使うのがこんなに大変なことになっているのだ。そのくせ「ネット・バンキングなら制限はありません」とのことで、「詐欺被害ならネットの方が断然危ないのに…」と不思議で仕方ない。

 とはいえ、物を購入する時の支払いはカードでできるが、現金を手元に引き出したいのなら、今のところATMもしくは銀行窓口に行くしかない。今まで歩いて行けた銀行の支店がなくなるのは大問題である。銀行が遠い、歩けなくなった、交通の便がよくないとなると、お金を降ろしに行くという単純なことが途端に困難になる。自宅まで持ってきてもらう等のサービスもあるようだが、いろいろ込みで月10万円だとか。ひぇー!

 以前なら、元気な家族にカードを託して「お金降ろしてきて」と言えば済んだが、もはやそういったことは贅沢な頼みになってしまった。何気ない用事をしてくれる信頼できる他人がいないのだ。今は高齢者と言えば詐欺被害の防止に焦点が絞られているが、もはや問題はそこじゃない! 多くの人が困っているのは「信頼できる他人」という特殊な人材難なのである。


2025年11月6日木曜日

「秋晴れの郷里」

  今年も11月の第一日曜がやって来た。この日は逝去者記念礼拝および墓前礼拝の日で、いつも10月末には帰省する。この日程は新しい手帳に換えたとき真っ先に書き込むスケジュールである。今年の帰省日は雲一つない秋晴れの日だった。おそらく郷里では年に何日もないような上天気である。ローカル線の駅まで兄に迎えに来てもらい、途中農協の直売所に寄っていく。梨(王秋)が6つで324円、リンゴ(ほおずり)が5つで400円、甘柿が9個で280円と、目が点になる安さ。家に着いてすぐ食すとどれも甘くて当たりだった。これぞフルーツ王国の醍醐味。

 午後はあまりに気持ちが良いので土手道を散歩に出た。吾妻山に向かってどんどん歩く。一つ箸を越え、まだまだいくらでも歩ける感じだったが、行った分だけ戻って来なきゃいけないという当たり前のことにはっと気づき、どこまでも行きたい気持ちを抑えて適当なところで引き返す。

 家の近くまで来て、「バウワウ」とすごい勢いで吠えられる。いつもは小屋の中に入っているのに、やはり気持ちが良くて出ていたのか。「ブンちゃん!」と呼びかけると、ピタッと声が止まる。「誰? 知ってる人?」とかたまるブンタ。「ブンちゃん忘れちゃったの?」と話しかけるがじっとこっちを見ているだけで、思い出したそぶりはない。無理もない。りくを散歩させながら両者を出併せていたのはもう4年近く前のことだもの。「ブンちゃんまたね」と言って帰る。実に良い日だった。

 翌日の午前中はずっと気になっていた障子の張り替えをした。数年前に他のところを張り替えた時、「ここはきれいだからまだいいか」と端折ってしまった場所が、見た目にもよれよれになり限界だったのだ。天窓も含めきれいに張り替えてとても気分が良い。午後は疲れが出て休む。

 三日目はお墓のお掃除。教会墓地にうちは三人お世話になっている。入った順に、母、ヘルベルト(分骨)、父である。お掃除を頑張らねばと思う。教会員のお一人が車で迎えに来てくださり、もう一人を拾い、信夫山の教会墓地に着くと墓地委員のお一人がもう待っていらっしゃった。そこへあと二人が車で到着し、総勢六人で取り掛かる。私もゴム手袋、草取りの道具、ハサミ、ペットボトルの水等を持って行ったが、なんと草取りはもう済んでいて敷地はきれい。今年は便利屋さんに頼んだという。だから後は墓石を拭き、担当の方が用意してきたお花を献花台に差すだけ。なんと楽ちんなことか。そのあと持参した飲み物やお菓子をみんなで食べる。こっちが主目的だったりして。雲はあったが前日同様本当に気持ちの良い秋の日だった。

 私は知らなかったのだが、実はこの後みなが楽しみにしているイベントがあった。それは野生の柚子の実を集めること! 山に生えている柚子の木にたわわに実が実っているのである。一人が長い枝切り鋏(✂)を用意していて、みんなで運動会の玉入れみたいな籠にどんどん入れていく。唯一の問題は柚子の枝にはトゲが付いているので怪我をしないようにすることだった。番外編も楽しめて、一日いい日であった。その日のお風呂はもちろん柚子湯、あ~いい匂い。

 さていよいよ日曜となったが、なんとこの日は町内会のお掃除の日でもあった。朝7時から町内総出で草刈りと側溝の泥上げを行う。ずっとしゃがんだままだと腰が痛くなり、適当に立ち上って腰をトントンしながら頑張る。車道の割れ目から出ていた芝もカギ張りのような道具できれいにする。作業しながら話していると、相手が小学校の同級生の姪御さんと判明したり懐かしい情報交換もできた。2時間ほどで終わる。

 すぐ着替えて教会へ向かう。牧師先生の説教箇所は詩編23編の「主は我が羊飼い」であった。詩篇23編は「賛歌。ダビデの詩」であり、詩編の中でも最もよく知られた箇所である。(詩編23編1~6節)

主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。

主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。

主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。

たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。

私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。

命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。/私は主の家に住もう/日の続くかぎり。

 礼拝ではこれにヨハネによる福音書11章のラザロの復活を絡めて、説教がなされた。途中何故か文語訳の引用があった。牧師先生にはそれがしっくりくるらしい。ラザロの姉妹のマルタとマリアは「人をイエスに遣わして『主、視よ、なんぢの愛し給ふもの病めり』と言わしむ」と。確かに味わい深い文である。主イエスはここではラザロの病を癒しに行くことなく、彼が死んで周囲の皆がそれをはっきり認識した時になって言葉を発する。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く(ヨハネによる福音書11章11節)」と。もちろん主イエスは人としてのラザロの命は取り去られたことを踏まえたうえで「私は彼を起こしに行く」と仰ったのである。そしてイエスが「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれ(同上11章43節)ると、「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た(同上11章44節)」。

 キリスト者の中にも復活を信じきれない者は少なくないように思う。しかし復活について懐疑的な者もおそらくほぼ全員が、既に天に召された愛しい者たちが天国で主イエスと共に安らいでいるのを確かなこととして信じているようである。この世の命が終わってからのキリスト者の復活とはおそらくこのラザロの復活のようなものなのであろう。そして羊飼いなる主イエスはその「愛し給ふもの」らを必ず導いて「命あるかぎり恵みと慈しみが私を追う」と言い切れる人生を送らせ、私を日の続く限り主の家に住まわせてくださるのである。

 礼拝後、有志が車に分乗して信夫山の教会墓地に向かう。前日きれいにした場所で賛美歌を歌い、牧師先生の短い説教をお聞きし、お祈りをする。またしても気持ちのよい秋晴れの天気。11月3日は晴れの特異日と言われるが、私の滞在中10月31日以外は秋晴れだった。本当に有難い神様からの贈り物である。今回の帰省はかなりの強行軍でまだ腰が痛いが、なんと恵みと慈しみに満ちた時間だったことだろう。神様に心からの感謝をささげる。


2025年10月30日木曜日

「ハンズ・オン・フィーリング」

  ランサムウェアによるシステム障害が続発している。以前、病院、信販会社、出版社等が被害に遭ったと記憶しているが、つい最近またビール会社、ほどなくして物流大手企業が感染した。こういうサイバー攻撃には絶対に身代金を払ってはならないので、まだまだ全国的に配送や注文受付等の目途が立たないようである。最高の効率と最低のコストを目指してシステムを構築し、それぞれ専門の部署や子会社に任せてしまえば、一朝事ある時にはどうする手立てもない。

 ウェブサイト、メール、外部記憶等の感染経路を全て押さえれば被害は減るだろうが、人間が操作する限りゼロにはならないであろう。このようなシステムで動いていた場合、急に紙ベースで業務を取り仕切るのはかなりの難題だと思う。かといって万一の危機に備えて、どこか別個の場所にデータの完璧なバックアップを用意したり、あるいはそれこそ紙ベースで必要書類を保管できる倉庫を持つといったことを、無駄とみなさない企業は多くはないだろう。平時には閑職と見下げられているが、いざというとき活躍するお仕事小説のような部署が本当は必要なのだ。

 システムはいったん止まってしまうと、ブラックボックスの内部を知らない者には何一つできることがない。私はこれが苦手である。先日友人と話していてのけぞりそうになった。彼女は私よりはるかに活動的で、毎日忙しく動いている人なのだが、後期高齢者になったらもう老人ホームに入りたいと言う。叔母さんの入居したホームでの生活を見てそう思ったらしい。そこは食事がおいしく、ホームの活動に参加せず部屋にいてもよいらしく、掃除もしてくれる、ホテル暮らしのようなものなのだそうだ。彼女も料理定年を目指しており、確かにその点は楽そうである。

 しかし私には無理だと思う。無論そのような超高級老人ホームは財政的に無理だが、そうでなくても今気兼ねなくできていることができなくなる、もしくは気を遣うことになるだろうから。好きな時にぶらっと散歩に出たり、焼き上がりの時間を見計らって焼き芋を買いにお店に行ったり、思い付きで通販の商品を次々注文したり・・・(本人は必要だから購入するのだが、箱を捨てられない箱フェチなので、ただでさえ狭い部屋が足の踏み場もなくなる可能性がある)、もちろん足腰の立つ限り毎週教会の礼拝には行く。こういった外出についてその都度申し出たり、説明したりしなければならないなんてうんざりである。自分の行動は全部自分で制御したいし、ほんの少しでも余分なストレスを心にかけたくない。コロナ禍の時、こういった介護施設にどんな制限がかけられたか(すなわち外出許可が下りなかったこと)を思い出せば、たとえ人がうらやむような優良介護施設でも入りたくないと思うのである。

 自分について全てをコントロールするという中には当然健康上の判断も入る。コロナ禍には三密を避けるルールに従い、細心の注意をして過ごしたが、法的な外出禁止令が出なかったのは本当に有難かった。気を付ければ買い物には行けたし、散歩はよい気分転換になった。これまでの経験で私の場合、ワクチン接種は命の危険をもたらすものであったから、未接種で過ごした。移動や旅行の要件にワクチン接種があっても移動や旅行をしなければそれで済んだ。しかし、職に就いていれば当然のこと、施設の居住者にもワクチン接種は半ば強制的であった。人によっては感染症よりもワクチンの方が命の危険があるということは恐らく顧みられなかったろうと思う。

 話が飛んでしまったが、システムに組み込まれるということは、利便性を享受できる代わりに危険なことでもある。自分について「制御しきれていない」という感覚を持ったら、立ち止まって考える必要がある。手直しで何とかなればそうする。駄目ならシステムから脱却する、あるいはシステムに属さないと決断することは、その人にとって死活的に重要ではないだろうか。私がこれまで生きながらえて来られたのは、このハンズ・オンの感覚によるのだということは確かなように思える。 


2025年10月23日木曜日

「小さい秋を楽しむ」

  日の出が遅くなり、つい寝過ごしそうになる中、ハッとして飛び起きる。こうしてはいられない。朝のルーティンが終わったら散歩に行くのだ。予定のある日や雨の日は別として、神様がこんなよい気候をくださっているのだから、逃す手はない。ラジオで「師走並みの気温」と言っていても、東京の寒さはウォーキングに最適である。ご飯を食べ、短く聖書を読み、お祈りをする。その後ラジオ体操を済ませたら準備万端である。保温ポットに淹れ立てのコーヒーを持って家を出る。すでに心は半ばピクニック気分。

 大好きな公園には交通機関を乗り継いで行く。公園に着くまでは混んだバスに揺られ、事故に遭わぬよう気を付けて舎人ライナーに乗る。実はこれもよい刺激となる。これから仕事や学校に向かう方々の程よく張り詰めた緊張感が私をシャキッとさせてくれるのだ。「気を付けて行ってらっしゃい」と心で思う。

 公園駅に着く。深い森林の連なる風景を見渡し、どっと気分が弛緩する。交通の危険を意識せずウォーキングできる場所は本当に有難い。ここは或る種の理想郷、都立公園ではあるものの、我が区の宝である。とても広いので、毎日違う方面を歩く。降りる階段を決め、行きたい方向に歩き出す。ジョギングする人とすれ違い、池の周りの太公望を横目で眺め、井戸端会議中のワンちゃんたち(話しているのは飼い主さんたち)の傍を歩く。リードを離れてこっちにくる子もいる。犬は犬好きな人を必ず嗅ぎ当てる。本当にかわいい。橋を渡った別の園には大型犬用のドッグランもある。ここではシェパードに吠えられたりするが、あれは「おっ、新入りか。一緒に遊ぶ?」と言っているのだろう。他に花壇があり、野球場、陸上競技場があり、別の園には子供の遊び場や水辺の生き物の観察場もあるから、十人十色の楽しみ方ができるはず。

 私は専ら森林に惹かれてその辺りを歩く。紫外線を避けるためにもよいが、何と言っても森林浴が最高。今日もまた一度も歩いたことのない小道を見つけた。夏の間に足が弱ったなと実感しつつ、取り戻さなければと力が湧く。歩くのはよいが、膝が痛くてジョギングはまだできない。駅では意識してなるべく階段を使いながら、程よく疲れて家に戻るまで、ほぼ1時間半。何と感謝な一日の始まりであろうか。


2025年10月16日木曜日

「少し上向き」

  10月上旬、ラジオを聞いていたら速報でノーベル賞受賞のニュースが入った。ろくなニュースがない昨今、久々に気が張れる明るいニュースだった。自然科学の分野での日本人の受賞はしばらくなかったので、「もう取れないのかな」と思っていたところだった。本当にうれしい。しかも、生理学・医学賞で坂口志文氏、化学賞で北川進氏の、2賞受賞という快挙である。

 生理学・医学賞における「免疫の制御機構」の解明は、自分の関係する自己免疫疾患に直接かかわっているのだから、解説を聞くにもつい力が入る。制御性T細胞なる言葉は初めて聞いたが、こういう長年の基礎研究があってこそ臨床における有効な治療につながる。化学賞は、金属有機構造体の開発に関する研究である。穴だらけの金属内にガスや二酸化炭素を閉じ込め回収することで、環境分野に革新をもたらした。この穴のことを北川氏は「無用の用」と述べていた。何よりうれしかったのは、両氏を取り囲む学生や若手研究者の声が弾んでいたことである。お二人の受賞がどれだけ彼らの励みになることかと、受賞の喜びに沸く声が響く中、陰ながら応援する気持ちで涙が出た。

 この30年ほどを考える時、大方の日本人は「ひどい時代だった」と感じることだろう。新自由主義の嵐が吹きすさぶ中、日本はバブルの崩壊と金融危機に対処できず、新しいビジネスモデルの構築にも出遅れ世界の波に乗れなかった。また、1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災ほか多くの災害に襲われ、国土と国民の暮らしが大きく傷ついた。企業の倒産やリストラで弾き出された人々の困難さは嫌というほど聞いたし、終身雇用を前提としていた日本社会の仕組みが根底から崩れ、世界の常識である非正規雇用が一般化した。これによって経済的基盤が整わず、家庭をもてない若者が増え、少子化が進行した。大変だったのは現役世代だけではない。年配の労働者も定年が逃げ水のように先延ばしになり、職にありつけない、あっても賃金はよくて7割ほどという苦汁を飲まねばならなかった。それまでの老後の設計が崩れたり、突然「老後資金2000万円」問題が持ち出されたりして、将来を悲観する人が増えた。

 この間、国は消費税を導入(1989年4月、3%)し、1997年4月に5%、2014年4月に8%、2019年10月に10%と引き上げていった。さらに相続税改定による大増税(2015年1月)および健康保険、年金、介護保険等の徴収料を増やしていったため、国民は年収の半分を税と社会保障費に持っていかれるようになった。農民が年貢として収穫物の約40%を領主や幕府に納めていた江戸時代の「四公六民」よりひどい重税と言われるゆえんである。その一方で、公共サービスを縮小していったのだから、何一ついいことがない国民の不満が募り、疲弊していったのは当然だったのである。

 しかし数年前に明らかに潮目が変わった。最適化した労働で最低価格の商品を提供するという手法で、新自由主義者が国境を越え、世界を股にかけて傍若無人に好き放題し続けた結果、様々なひずみが生じ、これ以上放置できないことが明らかになった。市場原理に従って富の極端な偏在が進んだため、持続的な社会の維持が困難になったのである。リーマンショックがよい例で、新自由主義者は破綻した企業が国民に及ぼす被害には無関心で、国家が財政出動して破綻した経済を回復させるほかなかったのである。このような無責任な経済的手法は結局のところ長続きできない。

 これにコロナ感染症とウクライナ戦争が拍車をかけ、政治主導の世界秩序が完全に復権したと言える。いわく「自由主義経済が浸透し世界の経済的相互依存が進めば、戦争は起きない」、いわく「自由主義経済が行き渡って国が豊かになれば、民主主義国となる」・・・。新自由主義者の尻馬に乗った者たちが言い広めた言説を、今苦々しく思っているのは、ドイツであり、アメリカであろう。ロシア産天然ガスの供給を受け、電気自動車によるEU域内制覇を試みたドイツの思惑はうまくいかなかったし、アメリカとの交渉において、中国は体制を揺るがす可能性のある構造改革には手を触れさせなかった。

 日本は、無為無策と言えばその通りなのだが、ゼロ金利とデフレを通して、或る意味みんなで等しく痩せ細り貧乏になったと言える。前述したように、現役世代も高齢世代も皆不満があり、生活に困難を感じている。よもや国も好き好んで公共サービスを減らしているわけではあるまい。人口動態を勘案すればそうするしかなかったのであろう(と思いたい)。結局のところ日本は、落語にある「三方一両損」を選んだのではあるまいか。グローバル経済によって格差が拡大したのは事実である。だが、収入の低下は低所得層に限ったことではなく、中流層も地盤沈下した。年収が上位20%に入る水準が1996年には974万円であったが、現在は800万円程度だと聞いた。言ってみればみんな揃って低きに落ちたのであって、諸外国における上位層と下位層および底辺層の所得格差はこの程度のものではないのである。

 「これまで試された他の全ての形態を除けば、民主主義は最悪の政治形態である」と言ったのはチャーチル W. L. S. Churchillであるが、私も同感である。始終命の危険や理由なき拘束に怯えたり、自由が大幅に制限されるのを甘受しなければならない日常には耐えられそうにない。世界を見渡せば基本的人権が保障されない地域はたくさんある。また、民主主義を標榜していても、鶴の一声で生活環境が根底から変わるような国も御免こうむる。「よりマシな国はどこか」という観点で眺めれば、「日本はそう悪くない」と思えてくる。最低限の「健康で文化的な生活」を送れるよう憲法で規定されているのだから。

 日本はデフレを脱却し、物価上昇の時代となり、大企業では新卒初任給の大幅アップや春闘でのベースアップも回復しつつある。よい兆候である。あとは中小企業の賃上げと産業界全体の生産性の向上が達成できれば、ゆっくり上昇できるはずである。何と言っても労働人口が減少していく中で、若者の就労に関しては売り手市場のため、将来に希望を持って人生設計をしていただきたい…。などと考えているうち、なんだか今は低迷状態にある日本が愛おしくなり、気持ちが上向いてきた。自分の利益だけを声高に叫ぶ人は確かにいるが、年配者を思いやる若者や若い世代を気遣う高齢者が非常に多いと感じている。

 長かった。ここまで皆で我慢しながら縮んできたのだから、そろそろ明るい展望を持ちたい。政府に要望したいことを一つ挙げるなら、「消費税の廃止」、これに尽きる。それによって日本の内需の落ち込みが大きく改善され、日本経済の力強い復活を後押しすることを、一消費者として確信している。今度は車輪が逆回転し、消費者、企業、政府の「三方一両得」となるだろう。


2025年10月9日木曜日

「猛暑からのリハビリ」

  コロナウィルスの感染症騒動はすでに過去の管があるが、あの頃盛んに言われたのは「コロナ禍の日常」とか「コロナ後の世界」とかいう言葉だった。たとえコロナが去っても、コロナ禍を境に世界はそれまでとは別物に変わってしまっていることを当然と考えていた。

 のど元過ぎれば何とやら、今となっては私にとって猛暑の方がさらに一段つらく、まさに猛暑禍であった。問題はこれがこれから気候のデフォルトになるということである。ほぼ4か月、一年の三分の一が生活に支障をきたす暑さとなるのである。

 猛暑禍の私の日常は悲惨なものだった。まず外での運動、ウォーキングができない。せいぜい朝7時に開店するスーパーに行き、まだしも耐えられる気温のうちに買い物をすますくらいである。あとはとにかくバスを使う。近くのバス停まで150メートルほど歩き、バスを降りてから駅へ、お店へ、病院へ、図書館へと最低歩行距離で済ます。これではいくら家でスクワットをしてもフレイルになりかけるのは避けられない。

 食事はなぜか米飯がのどを通らなくなり、朝はいつもそうめんだった。そうめんの湯で時間は2分、これが限界。5分の蕎麦は言うまでもなく、湯で時間3分のひやむぎも無理。あとはパンやお赤飯を冷凍保存しておいたもの、もしくは冷凍パスタをレンジで解凍して食した。何しろ極端に食欲がなかった。主食以外の栄養摂取もとにかく火を使わず、生野菜やレンジで蒸し野菜、豆腐や納豆、卵、牛乳・チーズ・ヨーグルト、たまにお店の惣菜などで何とかしのいできた。

 猛暑禍の日常の中で卵については発見があった。私はそれまで専用の両面焼きフライパンでイージーオーバーを焼いて食べるのを慣例としていたが、火を使う調理が無理になったため、温泉卵に切り替えてみた。のど越しをつるっと通る美味しさに加え、何と言っても割るだけという手間いらず。折しも卵は高騰中、そのせいか温泉卵はさほど割高感がない。以来、生卵をやめてずっと温泉卵を買い続けている。また、それまで家で作っていたパンやヨーグルトはお店での購入を躊躇しなくなった。何かを作ろうとする気力が失われたのである。これはもう、料理定年へ一直線ではないか。

 猛暑が終わって最初に秋の空気を感じた時、真っ先にしたことは大好きな公園でのウォーキングである。これだけは復活させないと動けなくなってしまう。歩幅を大きくとって大腿四頭筋を鍛えることを意識する。この歩行練習は家ではできない。だが、猛暑禍の日常の全てが終了したわけではない。公園の散歩は楽しいが、駅からの道は今まで通りバスで帰りたい。

 料理をしようとする気は、涼しくなれば少しは復活するかもしれないが、大きなフライパンを持とうとして、もはや片手では持てないことに気づく。箸より重いものを持てなくなる日も近いかもしれない。パンを焼く時の分量や手順も怪しくなっている。心技体すべてが劣化したことを認めざるを得ない。

 読書もそうだ。夏の間読書はほぼ推理小説だった。暑さにぼーっとした頭でも集中できるのはやっぱりミステリ。涼しくなって頭を別仕様に戻そうとしても、上手くいかず・・・要するに全てが楽な方に流れているのである。猛暑後遺症ってこういうことだったのか。一年の三分の一もの間続けられた習慣は果たしてどれくらいで修正されるのだろう。


2025年10月2日木曜日

「百年は長すぎる」

 猛暑疲れが出る時期である。ラジオを聞いていると、たまに「人生百年」という文言が聞こえてくる。NHKラジオ第1の「人生百年プロジェクト」という番組案内で、「人生100年時代に、健康、趣味、学び、そして心の持ち方をリスナーのみなさまと考えていきます」というのがその趣旨らしいのだが、「それ、あんまり連呼しない方がいいんじゃないの?」と率直に思う。ラジオ第1はバラエティに富んだ様々な企画があって感心することが多いが、やはりリスナーには高齢者が多いためこのような企画も出たのであろう。聞けばきっとためになる面白い番組であろうことも予想できる。

 しかし私はこの「人生百年」を聞くたびに、なんとなく気が沈むのである。長寿は喜ばしいことであり、そこに大きな価値を置く方々がいるのも大変結構なことだと思う。しかし、私自身はとっくに還暦を過ぎているにもかかわらず、直感的に「人生百年か、長いな」と思ってしまう。寿命に比して健康寿命は恐らくずっと短いことを思うと、特に介護人材を望めない私の世代の見通しは暗い。同世代の友人・知人はみな「介護保険料は取られるだけで終わる」ことを覚悟している。

 先が見えてきた世代でさえこうなのだから、若い方々には百年はどれほど遠くに感じられることかと思う。数年前のことだが、或る政治家が若い人に「政治に望むことは何か」を尋ねたところ、「安楽死する権利を法制化してほしい」と言われたという話を聞いた。私は絶句した。そうなのか。今の苦しい現実を生きている20代の人にとって、自分が100歳まで生きるということは想像するだけでも耐え難いことなのであろう。

 老後資金2000万円問題以来、若い人にも長期的な視野に立った資産形成が強く意識付けられたと言ってよいと思う。しかし、今の年配者でそんなことができた人はいったいどれくらいいるのか。若い時は目先のことで手いっぱいなのが普通で、それを一つ一つこなすことで何とか今に至るという人が大半ではないだろうか。若者に八十年先のディストピアをリアルに意識させてどうする。その年代からあまりに遠い未来を視野に考えても、大多数は思考停止になり気が滅入ってしまうのではないか。誰でも自分の若い頃を思い出せば納得するはずである。

 私は小学四、五年生の頃、特に大きな悩みは何もなかったのだが、近所の高校生のお姉さんを見て「悩みがなさそうでいいなあ」と思っていた。小学生にとって高校生はかなりの大人であり、そこにたどり着くまでは遥か遠い道のりと思っていた。実際には高校生には高校生の悩みがあり、また大した大人ではないと分かった。結局人はその時々の課題や困難に取り組んで乗り越えていくしかなく、その意味では人生はいつも現在形である。「将来のことが心配」と言う高齢者に対して「あとは死ぬだけだろう」と答えた某高名な解剖学者くらい飄々としていなければ、とてもこの先乗り切れない気がする。かつて一時期日本社会にあった根拠なき楽観的気運はもうどこにもない。いま私たちがいるのは、これから起こる悪いことをかなりの精度で言い当てることができる社会であり、事によってはもっと破滅的な世界になる可能性がある地点である。

 がん専門医、里見清一が『医学の勝利が国家を滅ぼす』 (新潮新書)を書いて世間を震撼させてからもう9年になろうとしている。この本が社会に与えた波紋についてもっと正確に言うと、みな薄々そうだと気づいていたことを、医者の立場から歯に衣着せぬ言い方で公然と述べたため、社会に一石どころか爆弾を投じることになったのである。その後、『「人生百年」という不幸』(新潮新書、2020/1/16)および『患者と目を合わせない医者たち』(新潮新書、2025/6/18)も出て、医療を巡る困難な問題は改善するどころかより深まっているのが分かる。海外ではずっと前から当然のことだったのであろうが、日本でも人の命にかかわる医療の分野に「働き方改革」の波が及んだのでは、別の困難な事態が生じるのは必至であろう。一方、医療財政の抜本的な改革なしに医学が進歩し続け、家計及び国家財政における医療費の増大はすでに限界を超えている。そして現在、寿命が少しでも延びるのであれば投薬料だけで年に数千万円かかる治療を誰も止められない。治療を望む患者も治療を施す医師も薬を作る製薬会社も、誰も悪くないのである。私も大いに医療の世話になっており、神様の定められた天寿を全うするまで生きたいと思っている。ただ、「人はいつか死ぬべきもの」という真実を忘れずに、その時を見極められたらと思う。

 推理作家ハリイ・ケメルマンHarry Kemelmanの軽妙な短編に『九マイルは遠すぎる(The Nine Mile Walk)』がある。“A nine mile walk is no joke, especially in the rain”というたった11語の何気ないセンテンスから、ありとあらゆる推理を駆使して実際に起きた事件を解決してしまうというこの話は、読み手にとって間違いなく喝采物である。だが、八十年近く前に書かれたこの鮮やかな作品をまねて、「百年は長すぎる」と言ってみても、もはやミステリにはならない。医療どころか気候変動一つとっても、“A  hundred-year lifespan is no joke, especially in such a tragic world”は、もはや相当数の人の頭を離れない現実になっているからである。


2025年9月25日木曜日

「竹馬の友」

  「9月に帰省するけど、会えない?」というメールをもらった。遠く関西に住んでいる友人からである。彼女と私は中学・高校と一緒に福島教会に通った幼幼なじみである。一緒といっても彼女は学年が一つ下だったので学校での接点はなく、毎週教会でだけ顔を合わせる間柄だった。明るく快活で外向的な人なので、彼女がいるといつもパッと花が開いたような楽しい雰囲気になった。

 母に連れられて幼児の時から教会に行っていた私と違い、彼女は中学になって突然友達と教会にやって来た。「自分から進んで教会に来るなんてすごい」と私は感嘆していた。彼女と一緒に来る友達は日によって違ったけれど、彼女は常に変わらず、一人になっても教会に通い続けた。

 その頃も教会に中高生は数名しかおらず、それだけに懐かしい記憶がくっきりと思い出される。分級の時間に、その当時副牧師館と呼ばれていた、ちょっと薄暗い畳の部屋で、聖書を少しずつ読んで牧師先生のお話を聞いたこと、いわゆる讃美歌とは違うが、その頃若者向けに盛んに作られた讃美のためのフォークソングやゴスペルを歌って楽しかったこと、聖書の学びや飯盒炊さんをしてテントで寝た、夏の中高生ワークキャンプの一コマなど、一緒の思い出が頭に浮かぶ。

 彼女との関係がにわかに密になったのは東日本大震災の時である。被災したため取り壊しとなった教会堂の再建のために、教会員一同皆で頭を悩ませ、祈っている頃だった。私は東京在住であったが、教会籍を福島に移して何かできることはないかと考えた結果、個人事業者となって手作り品をネット販売することにした。彼女も会堂再建について深く案じていて、私の事業に手を貸してくれた。まさに関西支店の営業部長のような大きな力を発揮して働き手となってくれたのである。後で聞いた話では、関西婦人会連合のバザーのブースで、「福島教会会堂再建支援」の幟を立てて、孤軍奮闘してくれていたらしかった。かたじけない。私たちの献身は会堂再建のためのわずかな拙いものであったが、彼女との絆が思いがけず強まったのは誠に感謝であった。

 コロナの頃はもちろん会えなかったし、そうでなくてもお互い自分のスケジュールで動いているので帰省の時期が一致することはめったになかった。だが、今回は予定を一週間ずらして会うことができた。数年ぶりの彼女は一見全く変わっていないように見え、久しぶりに礼拝を共にすることができて、とてもうれしかった。揃って母教会で礼拝に出席できたことは神様からの大きな恵みである。彼女は久々の帰省なので教会のみんなに声を掛けられて、「やっぱり福島教会はいいなあ」と言っていた。

 礼拝後少し話をしたが、お互い年齢相応にそれぞれ病があったり、悩みがあったりすることが分かったが、「全てを委ねて安心していられる神様が与えられていること以上の恵みはない」という点で一致した。「竹馬の友」という語を念のため調べて驚いたのだが、この「ちくば」というものを私は恥ずかしながら「たけうま」の事だと思っていた。二本の竹竿の途中に横木がついたアレである。だが実はそうではなくて、「竹の先に木などで作った馬の頭の形を付け、またがって遊ぶ玩具」であるという。軽いカルチャー・ショックである。そうなるとこれはかなり幼児的な遊びであろうし、せいぜい小学校低学年くらいまでの玩具ではなかろうか。私は間違っていた。彼女と私は「ちくばの友」というより「たけうまの友」だったのだ。あの頃はきっと二人とも、「たけうま」に乗って歩くような、たどたどしくヨチヨチ歩きの信仰であった。その頃に培われた友情なのだとつくづく思う年代である。


2025年9月17日水曜日

「モリドンのアリバイ」

  例えば、「この屋根は雨漏りしない」ということを証明するにはどうしたらよいだろうか。普通は大雨の被に屋根から雨漏りがあるかどうか見るだけでよいはずである。一日たっても何もなければ、「屋根には雨漏りがない」と証明されたと言ってよいだろう。

 ところがである。一晩中雨が降り、翌日も一日雨だった日に撮影した「雨漏りのない天井裏スラブ」の写真を送ったにもかかわらず、次のような答えが来たらどうすればよいであろうか。

 「雨漏りについては、雨の降り方(横殴りの雨か否か、雨量の多寡等)や、屋上の排水状況(清掃の有無等)によっては、必ずしも水濡れの状況を確認できない場合もあり、その日の降雨で雨漏りがなかったからと言って、それ以外の日に雨漏りが発生しなかったとは言えない。」

 奥深い言葉である。この発言は、①水平の屋根に落ちる降雨量が、垂直に降る雨か斜めに降る雨かで変わり得るということ、②屋根の上が濡れていれば、目には見えない水濡れが天井裏にもあるはずだということ、③雨漏りを放置しておいても自然に直る屋根があり得るということ、を前提にしなければ言えない内容である。そして、現に雨漏りがないという事実を全く無視している。

 さらに驚くこととして、このような主張をするのが、誰あろう、弁護士なのである。私はいま保険会社と紛争の最中にある。単純な水漏れ事故をどうあっても認めようとしない会社と不毛な争いをしている。情けないことである。代理人弁護士というものは、これほど理不尽な主張を臆面もなくするものかと呆れてしまう。皆が皆そうではないだろうが、もしそうならなんとつまらない仕事だろうと思う。今ほど詩編の詩人の嘆きが分かったことはない。


主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。

貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。

わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。

主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

(詩編27編11~14節)


 この一件について友人に話したら、「雨漏りってその日の気分次第なの?」と興味を示し、ネット検索してモリドンのことを教えてくれた。それによると、雨漏りについて長野県の伝承では、「雨漏りがするのはモリドンという悪者が屋根から家に侵入するため」と信じられているらしい。ってことは、「家の屋根にはモリドンはいない」ということを証明しなきゃいけないわけ? モリドンの不在証明ということになると一筋縄ではいくまい。でも受けて立つ、もし代理人弁護士がモリドンの存在を証明しさえしたらね。それは神の存在証明と同じくらい難しいだろうけど。


2025年9月11日木曜日

「姉妹の訪問」

  ひらがなで書く「きょうだい」という言葉を最近目にするようになった。いつからある用法なのか知らないが、少なくとも私は学校で習った覚えのない書き方である。大人になってかなりたった後でも見慣れぬ言葉だから、割と最近意識されて使われるようになったのかもしれない。

 ネットで検索すると、「同じ両親を持つ兄弟姉妹のこと」で「血縁関係にある兄や姉、弟、妹をまとめて表す言葉」とのことである。

 この説明だと、例えば家族について質問する時、「兄弟姉妹はいる?」とは聞かず、「きょうだいはいる?」と聞くような感覚なのかと思う。兄弟姉妹という語は長くて扱いにくいからである。 

 ところが「きょうだい」という語は別の使い方もあるようなのだ。それに気づいたのは、藤木和子著『きょうだいの進路・結婚・親亡きあと:50の疑問・不安に弁護士できょうだいの私が答えます』という本を読んだ時である。この本で「きょうだい」という語は、兄弟姉妹の中に障碍者がいる場合の用法として使われている。この本は自身も障害のある弟をもつ身として、長い人生のうちに生じてくる問題を同じ境遇にある方々と共有することを意識して書かれている。そんな「きょうだい」の用法があるのかと目を開かれた思いだった。

 この語について私が最初に意識したのは、聖書協会共同訳の聖書において「兄弟」と「きょうだい」が区別されていることに気づいた時である。いわゆる血縁関係にある場合は「兄弟」と書き、同じ神を信じる同胞(やがては異邦人をも包含する)を「きょうだい」と書いて区別している。例えば、次のような記述がある。

● そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、二人をお呼びになった。(マタイによる福音書4章21節)

● イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」 そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。(マタイによる福音書12章46~49節)

 さて、教会では古くから教会に集う信徒同士、互いに「兄弟姉妹」と呼ぶ観衆がある。主なる神に「アッバ、父よ」と呼びかける者はみな兄弟姉妹である。ただ、面と向かって「兄さん」とか「姉さん」と呼び合うことはなく、主に書面で表す時に「〇〇兄」とか「△△姉」等と書き表すことが多い。年齢にかかわらず、「〇〇弟」や「△△妹」を使うことはない。世の方々には少々薄気味悪く感じられるかも知れない。

 8月末の聖日、東京で通っている教会員の方が福島教会に来訪された。この教会は、福島教会の会堂再建に際して多くのご支援をいただいた教会である。もう十数年経つとはいえ、当時多くの教会員が福島教会を訪れて力づけてくださったこと、また、福島教会の長老が相手方教会を訪問して、良きお交わりをいただいたことは忘れ得ぬ出来事である。

 今回来てくださった姉妹は、仕事関係で仙台で行われた研修会に来られたのであるが、わざわざ一泊して帰りに寄ってくださった。「ぜひ一度福島教会の礼拝に出席したかった」との思いからである。私も帰省日程を合わせてお迎えできて本当によかった。出迎えの時は喜びの声で満たされ、当時の経緯を知る者たちは長年のつながりを神様に感謝した。

 私は礼拝を彼女の隣でご一緒したが、彼女が選んだ席は前方右手の講壇横であった。私は初めてその席に座ったが、座る位置によって礼拝の印象も変わるものだと感じた。その日の聖書の箇所はまさしく上記マタイによる福音書12章46~49節であった。遠くから「きょうだい」が訪ねてきたのである。喜ばずにいられようか。礼拝後、講壇の前で記念写真を撮った。その夜彼女から、「しみじみとした感謝と喜びに満たされて帰宅しました」とのメールがあった。


2025年9月4日木曜日

「子供の睡眠」

  朝方ぼんやり目覚めると、「ラジオ深夜便」の4時台、「言葉の力」が流れていた。次の話は覚醒前の頭でうつらうつらしながら聞いたことなので、半分くらい正確ではないきがするが、印象に残ったことだけ書き記す。ゲストは成田奈緒子という発達障害を研究する大学の先生で、もともと小児科医だった方である。

 子供の発達障害は診断基準の変化や社会の認識の向上、早期発見の進展等の理由で増加しており、現在日本では子供の6~7%が発達障害と診断されている。しかし、少なくとも2%以上は本来の発達障害ではなく、適切な時期に適切な成長の機会を与えられなかったことによる症状であり、それはこれからの生活習慣によって改善できるものである。

 子供の脳の発達には「体の脳」と「心の脳」の2段階がある。まず、小学校入学くらいまでの幼児期に徹底して習慣づけることは「夜8時に寝ること」で、これが子供にとって死活的に大事なことである。そして子供のうちは一日11時間の睡眠が必要である。昔の子供は夜8時に寝かされるのは普通の事であったが、今これを遵守するのは至難の業である。

 そのため子育てに際して彼女がおこなった方法が紹介されていた。夜7時45分に子供と一緒に帰宅しても8時に寝かせていたというのである。お風呂でゆっくりできなくても死にはしないから、絞ったタオルで頭や体を拭いておしまい。一日三食の内あとの二食をしっかり食べていれば夕食は手抜きで構わないから、冷凍ご飯と納豆で夕食はおしまい。風呂や夕飯よりも、子供にとって何よりも重要な「8時就寝」を死守したという。寝る時は親も一緒に就寝し翌日まで眠るが、大人は7時間睡眠で足りるので午前3時に起きて、昨夜やり残した事や当日の準備をする。子供が寝ていて静かなので仕事がはかどると言っていた。

 」体の脳」が確立した後、子供が小学校の高学年になるころから「心の脳」の成長に力を入れるとのことだった。そのやり方は、一つには家事の役割分担(彼女の子供は朝食作り担当)を持たせること、もう一つは例えば「ラジオ英語を聞きながら朝ご飯を用意する」といったマルチタスクを与えることであった。他にも何か言っていたと思うが、話の中身に圧倒されて、それくらいしか覚えていない。

 世の中にはすごい人がいるものである。自分のことを振り返れば、夜8時に寝せられていたまでは良かったが、それ以外はあまりにのほほんと育ってしまった。今でも一度に一つの事しかできず、物事をてきぱきと処理することができない。今からではいくら生活習慣を変えても改善は見込めないだろう。その代わりと言っては何だが、歳をとって8時どころか6時半には疲れて横になるようになった。大人にとっても睡眠時間の大切さは変わらないとの話を聞いた。だが私の場合、夜中に何度か目覚めるのでトータルで8時間眠っているかどうかは怪しい。トホホである。


2025年8月28日木曜日

「7本の日傘」

  深夜目覚めてふとラジオをつけると、世界の主要都市の天気を最低気温・最高気温とともに伝えていた。それによると、香港や赤道近くのシンガポール、またニューデリーといった、緯度の低いどの都市よりも、東京の気温がダントツで高いことが分かった。この夏はギラギラ輝く太陽を避けるためにも日傘は外出時の必需品である。最近は男性にも日傘が普及しているようで、とても良いことだと思う。

 私のお気に入りの日傘は長傘で、紫外線100%カットで遮光率や遮熱率の高い、かつ柄の長さが60cmで持ち手が極めて細い傘である。裏地はシルバーコーティングが望ましい。これだけ条件が厳しいと、ふらっと当てもなくお店に行ってもなかなか出会えない。そのためこれまで通販で厳選した中から選んで使っており、その日傘の良さが分かってからは、念のため同じものをもう1本購入しておいた。

 ところが、或る人を訪問するのにめったに乗らない電車に乗った時、この傘をいつのまにか失くしてしまったのである。もちろん遺失物係等に連絡したが見つからず、しばし茫然、この時の喪失感は大きかった。思えばこれがけちの付き始めだったのかもしれない。

 しかし同じ傘はまだもう1本ある。気を取り直し、私は新しい傘を使っていた。ところが…である。バスに乗って教会に行く途中、さした傘をすぼめようとして何度か違和感があった後、ついに開いたまま閉じられなくなった。まさかと思った。購入して保管したまま時間がたったことや、暑すぎる気温がいけなかったのかもしれないが、とにかく通常の仕方ではすぼめることができない。仕方なく外面から抱き込むようにして何とか骨組みを抑え込み、取り敢えず傘立てに押し込んだ。そうしないと開いてしまうからである。この傘は蚊さ紐をきっちり巻いてスナップを留め、何とか持ち帰って集合住宅のゴミ捨て場に捨てるほかなかった。これも悲しかった。

 3本目の日傘が手元にある由来は次のとおりである。お気に入りの長傘2本をなくして落ち込んでいた時、こういった事情を全く知らない友人が、何故かしら「紫外線や熱を100%カットする日傘を見つけたから送るね」と言って、傘屋さんから立派な傘が送られてきた。この友人はいつも自分がいいと思ったものをおすそ分けみたいに送って(贈って)くれる。私がお返ししようとしても間に合わないほどよく送って来るので、今はもう有り難く頂戴している。さて、この日傘は長傘ではないが、二つ折りにしていつもの大きな鞄に入れて持ち歩けるのでなくす心配が少ない。鞄から出せばすぐ開いて使える。驚くべきは傘の布地の厚み。「これはどんな光線も通れないだろう」と思わせるサンバリアの安心感がある。大事に使わせていただいている。

 4本目と5本目の日傘は非常に残念な経過をたどった。手元に亡くなったお気に入りの長傘を以前と同じ通販元に注文したところ、極めて似てはいるが別の品が届いたのである。最初の時は「何かの手違いかな」と思って返品したが、2度同じことが起こるとさすがに腹が立った。おそらく同じ広告の商品説明として掲載してはいるが、その製品はもう無いのであろう。新しいバージョンの日傘にとってかわられているのである。仕方なくこれも返品せざるを得ず、「無い製品は掲載しないでください」と申し添えた。ただでさえ多忙な配達人の手を煩わせただけに終わったのが本当に申し訳ない。

 6本目の日傘は、以前購入した3段階で折りたためる小ぶりの傘である。この傘のいいところはとにかく軽いことで、これは歳を重ねるごとに有り難い利点である。ただ、軽いだけに骨組みが弱い気がして、風がない日だけ使用している。長く使うためには無理をさせないに限る。

 7本目の日傘は、最近量販店で購入した長日傘である。裏がシルバーコーティングなら最高なのだが、それ以外の紫外線カット等の条件が希望通りだったので試しに購入した。長傘は閉じた時、足元を確かめる杖のようにも使えるため、やはり一本持っていたいのである。

 ここ短期間のうちに関わった7本の日傘について述べた。このうち今手元にあるのは3本だけである。使い慣れて気に入っていたものを失うととても悲しく気が沈むし、逆に予想外の贈与はなんともうれしい。一瞬だけ手元にあってすぐ消えていったものが立て続けにあったことには考えさせられた。ずっと手元で大事にしたいものがあり、また新たなものとの出会いもあった。物も人も同じだなと思う。消えていくものが多い中で、今手元に残っているものを大切にしたいと強く思う。


2025年8月21日木曜日

「働き方と社会保障」

  自分が勤めから遠ざかって今更だが、社会保障のことが気になっている。社会保障とは、「国民の生存権を確保することを目的とする保障」と辞書にはある。してみると、これは憲法25条を基とする法的概念である。

日本国憲法二十五条

 1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


だが、そうは言っても不思議なのは、今「社会保障」と聞いて誰もがイメージするのはこれが「労働」と極めて密接に結びついた概念だということではないだろうか。

 即ち、「働き方」によって受けられる「社会保障」があまりに違い過ぎるのである。真っ先に思い浮かぶのは労働に関わって怪我した時の労災保険である。会社員(会社と雇用契約を結んで働く人)なら「労災保険」が適用され、自己負担なしで治療できるが、自営業者は全額自己負担となる。

労災保険は正規・非正規に関わらず雇用関係を結んだ労働者には適用されるが、業務委託契約は適用外である。個人事業主であるウーバーイーツの配達員が労災保険に入れないのは実情に合わないため、最近彼らも特別加入の対象にはなったが、加入はもちろん任意であり、保険料の半額を会社が負担する会社員と違い全額自己負担なのだから、どれだけ不公平な扱いかは誰の目にも明らかである。

 また、会社員は強制加入となっている「雇用保険」にしても、自営業者に適用はない。育児休業中や介護休業中という、働けない間の所得補償があるかないかは生活にダイレクトに影響する。そして、一口に会社員と言っても、非正規職員の中にはこういった社会保障が適用されない場合もあり、自分がどういう働き方の区分にいるかで天と地ほども受けられる恩恵が違う。

 細かい方を先に書いてしまったが、社会保障の双璧はもちろん医療保険と年金保険である。まず医療保険についてであるが、現在国民は必ずどれか一つの公的医療保険に加入することになっている。

 健康で働けることが会社にとっても被雇用者にとっても、まず第一に優先される必要事項であることは論を待たない。したがって会社と雇用契約を結んで働く人のための医療保険は戦前からあった。国民健康保険の原形も戦前からあったものの、大きく改定されて1958年に現行の国民健康保険が制定された。これにより自営業者や無業者が加入する医療保険ができて、国民皆保険が達成されたのである。

 ただし、国民健康保険には「傷病手当金」と「出産手当金」がなく、怪我や病気、あるいは出産で労働に支障をきたした場合の補償はないのである。「労災保険」や「雇用保険」同様、「傷病手当金」や「出産手当金」の適用がある会社員と自営業者の格差は歴然である。

 さらに大きな格差はやはり年金であろう。年金制度のなかった明治時代の小説等を読むと、いかにして自分の老後を安定させるかに腐心する姿がうかがえる。退職した軍人や官吏へ国が支給する恩給はあった。その後、1941年に主に民間労働者(ブルーカラー)を対象とした労働者年金制度ができ、1944年には 職員(ホワイトカラーや女性)に対象を拡大した厚生年金制度ができた。

 戦後1950~1960年代に、公務員、公社、私立学校職員の共済組合(公的年金および公的医療保険を担う)が創設され、休息に年金制度が整えられていく中、1959年 国民年金制度がつくられた。年金と言うものはその性質上、国民の人口ピラミッドに大きく左右されることから、1985年には国民全員が基礎年金に加入し、そのうえで厚生年金、共済年金に追加的に加入する形になった。そしてこれが2015年、被用者年金一本化により共済年金が厚生年金に統一された。 だから現在、職域ごとの共済組合には公的医療保険だけが残っている。

 厚生年金の受給者は国民年金の上に追加的に厚生年金(もしくはかつての共済年金)が受給できるのであるから、通常国民年金だけの受給者より2倍以上の年金額となるのは当然で、この点でも会社員と自営業者との差は広がるばかりである。

 なぜこうなってしまったかと言えば、全ては歴史の歩みの中で創られた制度だからと言うほかない。戦前および戦後初期の自営業者と言うのは、家族・親族一丸となったファミリー・ビジネス事業であったり、あるいは端的に農林業従事者であったから、家族や親族自体が互いに不測の事態を保障し合う役割を担っていたと言えるだろう。戦後の復興期は、とにかく会社を興して国の発展を推し進め、外貨を稼ぐしかなかったから、会社と雇用契約を結ぶ労働者のための社会保障の整備が急務となった。だからこそ高度成長期には会社と雇用契約を結んでいない被雇用者の配偶者も、「銃後の守り」、「内助の功」が評価されて、国民年金制度に「3号被保険者」という分類が存在しているのである。即ち社会保障はまず勤労を称揚するために発展したのであって、それから外れると考えられた部分はそのあと補足的に整備されていったに過ぎない。

 なお、社会保険としてこの他に、40歳以上の国民全員が保険料を負担する介護保険(2000年に制定)があるが、年金受給額によって使える介護サービスが左右されるという点で、年金格差は高齢者の生活を直撃することになろう。

 ちなみに、社会保障と労働の関係については、勤労の義務のみならず権利をも規定した(おそらく世界でもまれな)日本国憲法27条との関連を示唆する人もいるが、これに関する分析は到底私の力の及ぶところではないため、条文を指摘するに留める。

日本国憲法二十七条

1.すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

2.賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。

3.児童は、これを酷使してはならない。 


 以上、働き方によって受けられる社会保障の違いについて概観したが、これ以外にも社会保障はあり、分類的に言えば、「社会手当」、「社会福祉」、「公的扶助」がある。これらはその人の働き方とリンクしておらず、例えば「社会手当」は、保険料なしで何かあった人にお金を給付する(児童手当、児童扶養手当、特別児童扶養手当)。また、「社会福祉」は、税金を用いて困った人にサービスを給付する(障害者福祉、児童福祉、高齢者福祉)。そして「公的扶助」は、税金を元に困窮した人にお金やサービスを給付する(生活保護)。

 子供に安全、安心な環境を与え、その成長を助けるのは国の義務であり、また人は予期せぬ事故や不運によって困窮したり、障害を負ったりすることがある。さらに歳をとれば誰もが高齢者になって助けを必要とするであろう。だからこのようなセイフティ・ネットはどうしても必要である。これらは状況に応じて与えられる社会保障である。

 すると、やはり問題は、労働する人々にとっての先述したようなあまりにひどい社会保障格差と言うことになるだろう。国がこれを問題視し、格差の縮小に努めなければならないのはもちろんであるが、これだけ誰の目にもわかる差があれば、仕事に就く前に身の振り方を考えることも御座なりにはできない。私が生きてきた時代は、まさしく社会保障制度が整えられていく時代であったが、その時代を生きていた人の多くの念頭には、働き方による社会保障の差など思い浮かばなかったと思う。であるから、好奇心の赴くままに興味の対象を追っていけた時代だった。そして恐らくそのようにがむしゃらに突き進む人が束になっていたからこそ、日本の社会に多くの達成がもたらされたのだろう。しかし今や、先行きの分からぬまま破天荒に突っ走るような生き方は、日本ではまずできないのではないか。それがまた社会の活力を失わせてしまうのではあるまいかと思うと、ますます閉塞感を感じるこの頃である。


2025年8月14日木曜日

「健康保険」

  この3月に定年退職した友人から聞いた話でびっくりしたことがある。彼女は最初4月からすっぱり仕事はやめて第二の人生に入るはずだったのだが、健康保険料が重すぎて、やめるわけにはいかなかったというのである。今までの組合保険に任意継続被保険者として加入するにしても、国民健康保険に加入するにしても、どうも年間で百万円くらいの保険料がかかるらしいのである。そのため今までのところにこれまでとは違う勤務形態で勤めることにしたという。

 健康保険の保険料というのは、前年の所得に応じて金額が決まるものであるから、高額の保険料が無収入に近い身に降りかかって来るのは不条理ではあるが、致し方ないことである。私が体調不良で退職した十数年前もそうであった。私は組合の任意継続保険に2年間加入し、それから国民健康保険に移ったのだが、組合の任意継続保険の保険料は思わず二度見するほど高額(さすがに百万円はしなかった)だった記憶がある。しかし、何しろ健康保険であるから否応なしに支払うしかなかった。

 ただ調べてみると、2021年ころから、保険料の算出基準額が標準報酬額から退職時の報酬額に変わったようで、それまでは基準が加入者全体の平均報酬額だったのに、それが個人の退職時報酬額になったことで、以前より4~5割くらいは増額になっているのかもしれない。即ちそれまで源泉徴収されていた額の2倍くらいになると考えられる。

 国民健康保険はもっと大変である。国民健康保険は当初は自営業者や農林業従事者の加入が多くを占めていたのだが、国民皆保険を維持するため、退職して無職になった者、年金生活者、非正規雇用者等を包含することになり、現在ではそちらの方が半数を超えるようになった。

 健康保険はそれぞれの加入者内で運営するのが基本であるが、このような現状では国民健康保険内で収支を合わせることはもはや制度的に無理である。もちろん国民健康保険の加入者は他のどの組合よりも高額な保険料を支払っており、特に国が国庫負担金を減らしている現在は誰もが収入の1割以上の負担となっている。それでも賄いきれず、市区町村の税金を投入しなければならず、これが他の健康保険組合から白眼視される理由でもある。

 若いころ、また働き盛りの頃は病気になる人は少なく、ほとんど医療の世話になっていないのに、毎月所属する組合から高額の保険料を取られていると不満を募らせ、一方退職したり年老いたりすれば病気をすることも増えるが、その頃には国民健康保険の被加入者になっており、所得に比して保険料は高いし、なおかつ他の健康保険組合からは金食い虫のように非難される。つまり、全員が「保険料が高すぎる」という不公平感、不遇感を抱いているのである。

 私は医療の世話になっている身なので肩身が狭いが、少しでも医療費を削減できるよう個人も努力していくしかないと思う。どの健康保険組合も年々保険料が上昇する傾向にあるのは間違いないし、もう保険料が家計の限界を超えていたり、保険証があっても窓口の支払いができないので医療を受けられないという人も増えている。病院経営という観点とは相いれないかもしれないが、とにかく無駄な治療や投薬を少しでも減らすしかないだろう。また、被保険者も重症になってから来院するのではなく、できるだけ初期に受診すること、そして予防に努めるよう心がけることかなと思う。しかし、それも焼け石に水かも知れず、事はもうそんな段階ではないのかもしれないと心の底では恐れてもいる。


2025年8月7日木曜日

「食欲不振の夏」

 世の人々はこの暑さの中、いったいどうやって健康を保っているのだろう。いったい何を食べて暮らしているのだろう。これが最近の私の真剣な問いである。

 全国で40℃超えの地点が14カ所あった8月上旬(最高は伊勢崎の41.8℃)は、さすがに「違う段階に入ったか」と思われる災害的危険を体感した。それまでにすでに食欲は落ちていたが、この日は気持ちが悪くなり、もう食欲は全然なくなった。「何でもいい、とにかく食べられるものを口に入れなければ」と、栄養その他の要素は度外視して、スイカやゼリー、プリンなどを食べていた。米飯はこのところ全く口にしていない。食べられる気がしないのだ。その代わりそうめんや冷やし中華ならなんとか食べられている。少し涼しくなるまで米の高騰問題について考えずに済みそうである。

 食事を作る気が起きないのなら外食すればよいかと言えば、まず食事のできるお店に行くことすら自信がない。暑すぎて倒れずに行きつけるか分からないのである。辿り着いたところで、食べたいものがあるかどうか、一人前を食べきれるか、注文して半分くらい残すことにならないかと思うと、とてもお店には行けない。それよりは買い物に出て、少しでも心が動くものを買って来る方がいい。幸いバス停が近いので、これをフルに活用している。夏野菜や果物なら食べられるし、普段はまず買わない冷凍食品も試してみたら、どうしようもない時は「これもありだな」と思った。

 そうこうするうち、友達から夏レシピが送られてきた。私は大豆製品や乳製品、魚、卵でたんぱく質を摂ることが多いのだが、「肉を食べなきゃダメ!」とのこと。そのレシピによると、ネギ、みょうが、しょうが、青じそ等の薬味をたっぷり用いて特性の調味料を作り、豚肉・もやしを痛めて、最後に調味料で整えるというものだった。普段なら美味しく食べられそうであるが、今の私に肉は無理。でもこれまでも、そうめんや冷やし中華に薬味はたくさん入れていた。これがあると食欲がわずかなりとも増進する、有難い食材である。

 いつまで続くか分からないこの酷暑は恐怖である。その間、言ってみれば終末期の食事をとっているようなものだ。「体にいいから」という観点は消え、「これなら食べられる」というものを食べて命をつなぐしかない。体調に影響しないわけがないと思いつつ、どうしようもないのである。


2025年7月31日木曜日

「呼吸器内科」

  十日ほど全身がだるく家で横になっていることが多かった。咳も続いており、やっとのことで帰省したものの、結局、送り迎えや食事の用意など滞在中はずっと兄の世話になっていた。あろうことか咳については、一度肺炎になったことのある兄から受診を勧められ、滞在を切り上げて、自宅に戻ってきた。帰省中39.2℃を経験し、しんどかったこともある。

 これだけ命にかかわる暑さの中では体調を崩さない方が難しいだろう。体温が平熱の範囲ではあるが通常より高く、体のどこかで炎症が起きている感じはしていた。翌日クリニックを受診、人生で初めて呼吸器内科にかかった。診察前に血圧を測ったら、いまだかつて見たことのない低い数値だったので、生命力が弱っているのかもしれないと、ぎょっとした。。

 診察してくれた医師は非常に快活な方で、問診表に書いた通院歴を見て、「あ、僕も普段はこの病院にいるんですよ」と、私の担当医のこともよく知っておいでだった。私の病気についてもよくご存じで、「今お薬は何ミリですか」等、尋ねられた。それから胸部X線を撮ってもう一度診察、「肺はとてもきれいです」と言われてほっとした。

 今とくに子供の間で流行している百日咳でもなく、「まあ夏風邪ですね」とおっしゃった。ひとまずよかったと言うべきであるが、風は万病の元でもあり、ウイルスが上気道に何らかの感染を引き起こしていることは確かである。「アデノウイルスかな」とぼそりと口にしていたが、もちろんそれを確かめる必要はない。咳が治ればいいのである。

 結局、喘息の人が用いるL字型のスプレー式吸入薬を1つと抗生物質5日分を処方された。ウイルスなら抗生物質は要らないはずだが、絶対に細菌性のものではないとは言い切れないのかもしれない。その時、「コーヒーは飲みますか」と問われ「はい」と答えると、「もし何か変だなと思ったら飲まないで」とのこと。私が「コーヒーをですか」と言うと、医師は大笑いして、「それもいいんだけどね、お薬ね」と言う。よく分からなかったが、やはり抗生物質は必ず飲む必要はないのだと理解した。

 診察から丸一日たって、心なしか元気になってきた。お薬はきちんと処方通り服用している。受診とは関係なく、そろそろよくなってくる時期だったのかもしれない。診察を受けることの意義は「何でもなかった」と知って、安心することにある。つくづく行ってよかった。何より、午後1時という最も暑い時刻にクリニックに行くだけの体力があったことに感謝する。


2025年7月24日木曜日

「世代交代」

  政治に関心は全くないが、選挙の投票には欠かさず行っている。一種の習慣である。「一応各党の公約を聞いて…」と思ったら、まず党名からして知らないところが多かった。その主張を聞き、「えっ、今日本の政治はこんなことになっちゃってるの?」と、少なからず驚いた。

  現在日本の現役世代は恐らく世界で最も重税(社会保障費その他別名での実質税を含む)を課された人たちである。だからこの世代の負担軽減に異論はない。「まだそんなこと言ってるのか」と旧態依然たる主張を繰り返す政党に負けず頑張ってほしいとも思う。しかし一方で、「そんなことを堂々と言える国に日本はなったのか」と心がざわつく主張をする政党も着実に育っており、世界各国で見られるポピュリズムの嵐に日本もさらされている。政治問題の世代交代はしばらく注視の必要がありそうだ。

  全く別な話だが、私は所属している教会の会報委員会でつい先ごろ世代交代を経験した。前回不在にした会議に出たところ、年長のお二人が抜け、新たに入られた方のお一人が非常に若くて、委員会の平均年齢が十歳以上若くなったと感じた。私は脚韻なのでお気楽な立場ではあるが、抜けられたお二人がオブザーバーとして残られると思い込んでいたため、委員会の中で自分が一挙に年長組になってしまったことを知り、愕然としたのである。

 そしてその一番若い新人がこの会の委員長をお引き受けくださったので、会の雰囲気は文字通り一変した。これは今までの会とは別物と考えた方がいい。今までも和やかな会であったが、きゃぴきゃぴ度が違う。若い方々が実に楽しそうで素晴らしい。やはり平均年齢が若返った分、にわかに物が言いやすくなった雰囲気なのである。また、皆さんデジタル機器を駆使できる方々で、話がサクサクと進んでいく。

  その月発行の会報の校正を終え、次号の編集方針やもっと長期的な視野に立った課題についても話し合うことができた。とてもよい時間が持てた。若い方々にすっかりお任せし、ロートルは下校正を丁寧におこなおうと決めた。世代交代を効果的におこなおうと思ったら、メンバー全体の若返りはもちろんだが、やはり「長」となる人に若い方を抜擢するのがよいと、つくづく感じた次第であった。


2025年7月17日木曜日

「そんぽADRセンターへの書類送付」

  保険会社との闘いは第2段階に入った。保険会社から「却下」の文書回答が来たのである。前回は電話による知らせだったので「なぜこのように大事なことを電話で?」と訝しく思ったのだが、今回は封書である。電話での通告は恐らくこちらの様子伺いであり、それに対して送付した反論文を読んで、課長名で文書が送付されて来た。文面が示されているのなら反駁しやすく、望むところである。

 また、ご丁寧にもその判断に意義がある場合に申し立てる場として、そんぽADRセンターについてのパンフレットが同封されていた。それによると、どこの保険会社であるかを問わず困りごとを訴えることができるという。「相談」「苦情」「紛争」という形式のどれかを選んで異議を申し立てると、当該保険会社の本社での対応になるらしい。このパンフレットを送ってくるくらいだから、 当該部署と本社は結託しているのだろうと推察されるが、取り敢えず「苦情」を訴えることにした。異議内容を記した書類をそんぽADRセンター宛に送ると、そこから本社に解決依頼が届き、そんぽADRセンターの見守りの中で2か月たっても解決しない時は、「紛争」へと進むことができるらしい。その書類づくりに着手することにした。

 さて、保険会社からの文面を一読して驚倒、思わず「これはすごい!」と叫んだ。よほど論理力がないか、日本語が理解できない人にしか書けない文なのである。

 ざっと述べると、送付された文面は大きく5つの要点にまとめられていた。その中で自社の主張については、「調査に伺った鑑定人・調査員が〇〇〇〇について確認しました」と書き、こちらの主張については、あちらの推論に基づいて「調査に伺った鑑定人・調査員が〇〇〇〇について確認できませんでした」と書いている部分が多い。「確認したもの」についても「確認できなかったもの」についても、自社の推論から導き出した結論の証拠として述べられており、まさしくその証拠が別の、もっと合理的な推論を証拠立てるものだということに、保険会社は思い至っていない。まさしく自分で認めた証拠こそが、やがてブーメランのように自分の主張を切り裂くものになることをつゆ考えていないお気楽な文なのである。

 第一、冒頭で、給湯管配管の場所について「〇〇〇〇とお見受けしました」と書いてあるのだが、そもそもこれが事実誤認なのである。そんな基本的なことを「お見受け」しただけでいいはずがない。「そういう給湯管破損についての根本的なことを調査に来たのではないのか。いったい何しに来たのか」との疑念を禁じ得ない。

 したがって、反論文は相手の土俵を利用して、ほぼ一文ごとにこちらの反論を展開するという形式でおこなった。保険会社の主張とこちらの見解が交互に並べられているので、読みやすいはずである。

 もう一つ気を付けたことは、これまで保険会社がいかにでたらめな主張をしてきたかということが伝わるように、これまでの経緯をそれなりに詳しく述べるということである。繰り返しをいとわず、いかに保険会社が自分に都合の悪いこちらの反論を無視してきたか、について詳述することにした。

 今回は反論の第2段階であるため、これまで以上に建築に関する専門的な知識を要した。もちろん私にはないものである。これについては我が家のリフォームを成し遂げてくれた建設会社の工事責任者の助けを仰いだ。殊にこの4か月の間ずっと支えていただいた方であり、超多忙の中、時間を見つけては来訪して、様々な計測をしたり、精密な床下構造の解説図を作成したり、集合住宅全体の竣工時図面を調べたりしてくれ、また床下に溜まった水の量を計算した「工事責任者見解書」を作成してくれたのである。この方に対してはどのような感謝の言葉でも足りないだろう。ただもう深謝のほかはない。

 この方のレクチャーを受けて、私もだいぶ家の構造について分かるようになった。だから自信を持って反論文が書けたのである。悲しい事件だったが、水漏れ事故によって生じた我が家の被害は、寸分の隙も無く自然法則に従った当然の結果だったということを、初めて深く悟った。

 「無理が通れば道理が引っ込む」とはよく言ったもので、保険会社の「無理」と私の「道理」を分けたのは「事実に基づいているかどうか」という一点に尽きる。先方の保険会社は「そんなに多量の滞留水があったはずがない」という根拠のない仮説から出発してその後の論理を組み立て、「だから、生じた被害は別の理由による」と強引に結論付けたのに対し、当方は「実際に多量の滞留水があり、大きな被害が出た」という事実から出発したことによって、一見不可思議に思われる被害の現れ方のメカニズムを解明できたのである。大きな学びができ、これもまた神様に感謝である。

 書類の完成までには校正に長けた友人の助言も役立った。私は多くの助けをいただいてここまで来たのである。保険会社から封書を受け取ってからおよそ2週間で提出書類は整った。我ながら会心の出来である。これを郵便局から郵送し、本当に晴れ晴れした気持ちになった。これで終わりならいいなと思いつつ、たとえそうでなくても最後まで闘う気持ちを固めている。


2025年7月11日金曜日

「寄り掛かり動物人形」


 ガチャガチャで手に入れるオモチャの中に、「寄り掛かり動物」なるシリーズがあるらしい。私は全く知らなかったのだが、或る人から「お座りした柴犬」の置物をいただいた。それは4cmほどの立方体の中に納まる大きさで、りくを知る方が持ってきてくださったのである。ガチャガチャなら狙ってもこれを当てることはできない。文字通り「有り難く」とてもうれしい。

 その可愛さをつくづく眺めた。世の中には頭のいい人がいるものである。これは普通にある動物の置物をわずかに傾けたことで、全く新しい価値を創造している。決して倒れることはないのだが、何かの傍らに置きたくなるのである。もしこれが実物大の大きさなら、私は迷わずそのオブジェの傍らに身を置くだろう。「りく、姉ちゃんに寄り掛かっていいんだよ」と言って。

 実際のりくはりりしい立ち姿や、正体もなくごろ寝していた姿がすぐ思い浮かぶ。また、このオブジェのように、てれっとお座りの姿勢を崩していた時には「りく、そのだらしない格好は何ですか」などといっていたのを思い出す。うとうと舟をこいでいた姿は明確に覚えていない。私の隣に引っ付いていたことはよくあったが、寄り掛かっては来なかったな。きっと飼い主に似たのだろう。


2025年7月4日金曜日

「windows 11 …恨みます」

  windows 10のサポートが今年の10月14日で終了することは知っていた。windows 11への無料アップグレードの知らせも時々現れたので、そろそろちゃんと考えなければと思っていた。まず適合機種かどうかアプリをダウンロードして調べたところ、家にある機種は残念ながら要件を満たさない機種だと分かった。予感はあったがショックである。windows 11へのアップグレードに不適合なら、パソコンを買い替えねばならないことになり、これは多大な出費を要する。家計泣かせの横暴なOSのグレードアップである。

 そもそもなぜwindows 11へ乗り換えなければならないのかと言えば、ざっくり言って以下の機能を備えていないwindows 10のパソコンがあるからなのだ。即ち、「CPUに仮想化という技術に関連する特定の機能があること」、「パソコン本体のファームウェアがセキュアブート機能に対応すること」、「TPM 2.0という高いシステム要件を満たすこと」。これによってゲームパフォーマンスやマルチタスク機能およびセキュリティが向上するらしい。しかし、ゲームも凝った作業もせず、危ないものには近寄らずにパソコンを使用している者にとって、それらの機能が向上したところで無用の長物であり、アップグレードすることに益がない。

 もちろんwindows 10のサポートが終了しても、windows 10は使える。実家にある古いパソコンなどはなんとwindows 7であるが、時々開いて確かめると、メールなどはちゃんと受け取れている。サポートの終了後にwindows 10を使い続けることによって生じる問題は、ただ更新プログラムが提供されないということである。セキュリティや不具合を修正するプログラムが受け取れない。それに伴い、パソコン本体および周辺機器やアプリ等を提供している企業が、もうwindows 10には対応しなくなっていくということだろう。

 実際、windows 10のサポート終了と時を同じくして、マイクロソフト・オフィス(ワードやエクセルおよびアウトルックclassics)等のサポートも終了する。これらを中心的に使用している身にとってこれは本当に困る。思い返せばwindows 8.1からwindows 10に変わる時、何か嫌な予感がした。それまでのwindowsのサポート期間は「基本5年」+「延長5年」の固定ライフサイクルであった。だから、「まあ10年も使えば買い替えてもいいか」という気になったのである。ところが今は(モダンライフサイクルと言うらしいのだが)、windows 10やwindows 11の中で細かいバージョンアップを繰り返し、それぞれの細かいバージョンごとに短いサポート期間が設定されるようになった。これから先、もはや嫌な予感しかしない。

 とはいえ、取り敢えずwindows 11のノートパソコンを手に入れることにした。もちろん新品には手が届かない。中古である。よく整備されているので問題なくすぐ使えたが、使ってみて特に何の感慨もなかった。強いて言えば、ずっと意味の分からなかった画面左側を埋め尽くすタイル状の表示がなくなってせいせいしたというくらいか。私はずっとスクリーンリーダーとしてPC-Talkerを用いてきたが、windows 10のものを読み込ませようとしたらパソコンが受け付けなかった。本格的にwindows 11を使うなら、これもいずれ新たに購入しなければならないだろう。いや、そうこうするうち、windows 12が出るのかもしれない。ああ、なんと無情なことだろう! せめてプリンターをインストールするドライバーが見つかっただけでもよしとするしかないのか。

 OSが変われば結局何から何まで買い替えなければならなくなるのだから、全く弱い者いじめである。インターネットの世界における必須の技術はもう行き着くところまで行った感があり、凡人に必要な道具としての機能はこれ以上要らない。企業は無理やりな手法で稼ぐしかない世知辛い時代になったとも言えるだろうが、このままでは多くの一般人を置き去りにすることになるだろう。私の友人も「パソコンの買い替えは大変。もうパソコンは(なくても)いいかなあ」と言っており、完全にスマホに移行しそうな気配である。マイクロソフトよ、ビジネスパーソンはともかく、こんなにも一般人との間の世間を狭くして何とも思わないのか! 初心を思い出してほしい。


2025年6月27日金曜日

「ばね指」

  朝はだいたいラジオ「マイあさ」を聞いているが、今週の「健康ライフ」は「手や指におこる痛みとしびれ」のシリーズを放送していた。「変形性指関節症」や「手根管症候群」という聞きなれぬ症状名を聞いたが、この番組はまさしく私のための放送だと感じた。しばらく前から、私は片方の手がいわゆる「ばね指」になってしまっていた。しかし、もっと大きな問題(家のリフォーム)があったため、目をつぶってきたのである。他にも外せない通院があり、体調に変調を来さない限りなるべく受診はしたくないという事情もある。経験的に言って多くが加齢によるものだからである。

 しかし一定の年齢になれば、整形外科は別建てで考えるほかない。内科の病気とは別に、関節や骨及び腱の不具合は避けがたく生じる。ラジオの話に背中を押され、さっそく整形外科を受診した。私の場合痛みはひどくないが、弾発現象が強く、自力で指が伸ばせない。あっさり「ばね指」の診断で、特に加齢ということでなくてもよく使う指はそうなるとのこと。治療法として、塗り薬、注射、手術を提示された。手術までは全く考えていなかったので、取り敢えず注射を選択、一週間後に治っていなければ手術と言うことになりそうな気配である。

 帰宅して手術について調べると、「皮下腱鞘切開術」というらしく、医者が言っていた通り10分から20分ほどで終わる手術で、腱鞘を切開して腱がスムーズに通過できるようにする手術だと書いてあった。手術の動画は怖くて見られなかったが、簡単な手術であるようだ。

 「注射したところを濡らさないように水仕事は手袋をしてください」と言われ、注意を払いながら過ごしてみると、実際、手を使わない雑事はないことを実感した。いつもするちょっとした動作(デイバッグを背負う、ポットからコーヒーを注ぐ、食品の上蓋となっているシールをはがす、タオルを絞る、キーボードをたたく、草むしりをするなど)を、指に負担をかけずに行うことはまず無理である。家事など手抜きで過ごしているから、毎日それほど負担をかけている気はしなかったが、自分の身体への感謝をなおざりにしてきた。労わってあげなければと思う。加えて、私は整形外科のよいところをすっかり忘れていた。他の病気と違って「治る」ことが結構あるのだ。やはり整形外科は別建てで考え、「これからはなるべく軽いうちに受診しようかな」という気になっている。


2025年6月21日土曜日

「幾何級数的に増える選択肢」

  商売に携わる方々はさぞ大変だろうなと思う。報道番組は朝から晩まで「トランプ関税」の話題である。ジョン・K・ガルブレイスの『不確実性の時代』(TBSブリタニカ/講談社)が世に出たのは1978年で、現在同じく「不確実性の時代」と言っても、もはや隔世の感がある。思えばあの頃はまだ確実なものがちゃんとあった。今は、これから先すべてにわたって不確実なことだけが確実なこととして眼前にあるのである。

 商売と無縁の一般人も社会・経済状況に振り回されるほかない日々を送っている。米価はいつ落ち着くのか、取り敢えず早めに注文した通販の米はいつ到着するのか、この暑さでお米は冷蔵すべきか、E8系の故障で運休の東北新幹線は安心して乗っていいのか、こういった問題が解決しないと帰省時期も不確定なのである。暑さがおさまらなければ、お米を受け取って冷蔵庫に入れてから出発しなくてはならないし、届くのが朝ならその日のうちに出発できるが、夕方なら翌朝出発にならざるを得ない。運行状況にも注意を払って、新幹線にまた不具合があればしばらく待機、または出発を延期せざるを得ない。

 以前は当たり前にできていた「予定通りに出発」ということさえ、いくつもの場合分けをして考えないといけない状況になっている。その場合、採用されるのはたった一つの選択肢だけで、あとの全ては考えるだけ無駄となる。これがビジネスとなれば、将棋の対局並みの先読みをそれこそ気が遠くなるくらい重ねなければならないだろう。

 結局予定通りの帰省日に出発できたが、原因不明の車両停止事故以来、E8系の車両を単独で走らせてはいけないらしく、無人の「つばさ」何両かを先頭に、「やまびこ」を連結させたおかしな新感線に乗るはめになった。座れたのがせめてもの幸運。福島駅では山形新幹線に乗り換える人が、反対側のホームとはいえ、何百メートルも歩かなければならないようだった。お年寄りや荷物の多い人は本来しなくていい移動のために、大変だろう。故郷は6月半ばからもう真夏の暑さ、夕方ざあーっと夕立が来た。こういう自然現象は変わらない。8月の子供の頃の夏休みを思い出した。あの頃は何でも単純でよかったな。


2025年6月14日土曜日

「老後の備え」

  家のリフォームが終わり、これまで別の部屋に退避させておいた荷物を片づけ戻している。品物の半分は前に置いていた場所を忘れているから、部屋の中は前とはまた違った様相を呈している。片づけの移動時に要らないものを相当処分し、今また片づけ戻しに伴い、さらに要らないものを捨てた。確かにまだ部屋には物品があふれている。しかし、今回の模様替えで分かったのは、それらは「あれば便利」というに過ぎないのであって、実際はなくても一向にかまわないものだということである。老後がまた近づいた。

 先日、クリスチャンの精神科医の講演を聴いた。後期高齢者か少なくとも七十代の方々を念頭に置いた話だったのかもしれない。ただ、私にとっては全て「その通り!」と納得できることばかりで、目新しい気付きはなかった。そんなふうに言うとずいぶん生意気に聞こえると思う。だがそれもそのはずで、私が「晩年を迎えた」とはっきり意識したのは、母が亡くなった四十代前半の時だったからである。即ち、私は老後について二十年以上考え続けてきた。これから先、まだ二十年以上生きるかもしれないと心の準備をしつつも、明日命が取り去られてもいいように日々生きているつもりである。

 住まいの心配というのは生きている間だけのことである。まだ気力・体力のあるうちに、水回りのリフォームという、家の中では最も重要な設備を中心に、「安全・安心」な更新ができたことは、示唆的だと思う。一番よい時期を神が与えてくださり、また成し遂げてくださったのは、詩編127編の1節にある通りである。

主が家を建てられるのでなければ、/建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、/守る者のさめているのはむなしい。

 この三か月、あまりに事態が急激に進み、あれよあれよという間に完結したので、正直なところまだ実感がない。ただ、そこに至るまでの気の滅入るような困難を乗り越えて、また一つ必要な老後の備えを神様がなしてくださったことは疑いようがなく、そのように私を顧みて、慈しみをくださったことに心からの感謝をささげる。


2025年6月7日土曜日

「工事の終了」

  1か月にわたるリフォーム工事が終わった。最後の週は仕上げや追加の小規模な工事だったので、私ものんびり過ごせた。圧巻だったのはその前の週である。この週は家具屋さんの工房から運ばれた家具の据え付けと、クロス貼り職人さんによる壁紙貼りが大きな作業だった。

 プロのクロス貼りというのをはじめてみたが、集中力がすごかった。お昼も食べずに黙々と仕事しており、リビングのクロス貼りは離れたところから見ることができた。背後から見たので手元は良く見えなかったが、思うにクロス貼りに不可欠な特質は精密さと思い切りのよさなのではないかと思う。目標を定めては迷わず貼り、カッターか何かでズバッと切り裂く胆力が要りそうである。あっという間に壁一枚が貼り上がった。お見事というほかなく、ため息が出るほど美しい。

 大工さんの方は家具の据え付けという気の張る仕事である。大きな収納家具が3つもあり、こちらも細心の注意をしながらすごい勢いで作業している。寸分の狂いなくぴったりと収めるための奮闘が続く。後で「どうしてこんなにぴったり入るのですか」と聞くと、「ぴったりに造ってあるからでしょう」と禅問答みたいな答えが返ってきたが、そんなに簡単なことであるはずがない。もちろん元々の計測は決定的に大事であるが、実際には微妙に大きいサイズを少しずつ丁寧に削って嵌め込むようである。誠に美しい出来栄えである。

 クロス貼りの職人さんと大工さんは、この仕事に二日間かかりきりで、それこそ鬼のように働いていた。そして、この作業が済むと居室はもうすっかりリフォームが終わったかに見える趣となった。

 漏水による修繕工事とは別に、浄水器の取り付けと網戸の改修をお願いしているほかは、清掃作業が入って終了である。網戸の改修というのは、集合住宅の一部に使われるプリーツ網戸のことで、もしかすると引き戸にできない部分の網戸として採用されているのかもしれない。しかし、これは見栄えは良いが機能的には重大な欠点のある製品の典型である。プリーツの性質上上下に隙間があり、防虫に全幅の信頼をおけないし、とにかく網目がやわで弱い。この点は清掃に来ていた方とも話したが、清掃もしにくく業者泣かせのようである。私はキッチンや浴室の窓の網戸を枠ごと造り換えて、手前に引く普通の型にしてもらった。些細なことであるが、私にとっては長年悩みの種だったので、ここが新しくなるのはとてもうれしい。

 このようにリフォーム工事では実に多くの方々のお世話になった。ディスクワークだけでなく実地にきびきびと作業する方々を見て、「お仕事頑張ってください」と、素直に労働の尊さを感じられた。誰もが良い仕事をしたいと思っているのである。もちろん私も良い仕事をしていただきたい。私ができることはわずかでも快適に働ける環境を作ることである。時期的にはあまり暑くならないうちで助かった。或る大学の先生が書いていたことだが、研究室のエアコンが効かず、研究用図書とともに扇風機を予算請求したら、その部分は削られたという話があった。研究書は直接研究に役立つが、扇風機は研究者の進退に働きかけるものだからという理由らしいが、この先生は「研究を支援するというのは即ち研究者を支援することである」という趣旨のことを言っていた。私はこの考えを全面的に支持する。人は心身が整った時にこそ最高のパフォーマンスを発揮するからである。これは研究者に限らない。もちろん職人さんもそうである。この場合、私にできる環境整備と言うなら、それはもう「お茶出し」、これしかない。いずれにしても、働く人を応援するのは自分の使命と心得ている。良きことのために働いている人々をきっと神様も祝福してくださるに違いない。


2025年6月1日日曜日

「保険会社の品格」

  昨年末から想定外のことが立て続けに起きている。ここまで続くと、もはや「想定外の事が起こることは想定内」になってくる。「次なる想定外は何か」と心の準備をしていたら、保険関係の事だった。申請していた保険の認定が却下されたのである。この保険会社(仮にT社とする)とのやり取りを通して、保険会社の在り方について考えたことを述べる。

 事のあらましは、11月に起きた給湯管破損による水漏れの被害が2か月以上たってから次第に明らかになったことに存する。時間的ずれがあることにより、T社が事故と被害の間の因果関係を怪しむ原因となったのである。そのためT社は保険鑑定人と保険調査員を派遣して現場調査を行い、リフォーム工事請負会社の担当者同席のもと、実地に建物の構造を解説し、その構造ゆえに被害が2か月以上たって顕在化した経緯を説明した。また、私自身は調査員から極めて不愉快で人権侵害的な人物調査をされた。結果を知らせる電話が来たのはその20日後である。

 電話口で担当者の話す却下理由を聞いて、私は即座に反論した。事実を無視した空論だったからである。電話をしてきた担当の方はディスクワークの人であるから、現場のことは何も知らない。私が言葉を尽くして現状について話しても、おそらくは保険鑑定人、保険調査員の報告をおうむ返しに口にするだけなので、まるでリアリティが感じられなかった。「この人、自分でも言っている内容を理解しておらず、実は困っているんじゃないか」と思ったほどである。この方には気の毒だが、「私はこんなでたらめを許さない」と堅く心に決めた。

 申請却下の理由として挙げられた4つのうち、1つは全く愚にも付かぬ理由(ユニットバス下の防水効果がなくなり漏水した可能性)なので外すと、大きく2つに集約される。

<理由1> 今回の被害箇所は給湯管の破損個所からは距離的にかなりはなれており、給湯管から漏れた水による被害とは言えず、屋根の工法に問題があって雨漏りによるものと考えられる。

<理由2> 給湯管の破損により漏れた水はすぐ下の階を通ってさらに下の階まで達するほど大量だったのだから、当該階にはそれほど多くの水が残っていたはずがない。

 自宅に派遣されてきた鑑定人、調査員は、おそらく保険会社の提携会社の方々で、今から思えば、彼らの頭の中には来る前から既に上記の筋書きが描かれていたに違いない。アリバイ的に現場を見に来ただけで、真相を解明しようなどという気は端からなかったのである。

 しかし、上記の①②については普通の常識さえあれば論理的にたやすく間違いだと分かる。①については、屋根裏に間仕切りがあるわけではないのだから、水蒸気は届く限りどこまでも広がるに決まっているし、②については、床下はユニットバスから洗面所の洗濯機置き場およびトイレにかけてピット構造という一段下がった構造になっており、即ち床に凸凹があるなら凹の部分に水が溜まるのは理の当然である。子供でも「おかしい」と分かる、即ち子供も騙せない主張をT社がするのはなぜかと考えれば、そこに明確な悪意を感じないわけにはいかないのである。

 保険会社の回答を聞いて私が真っ先に思ったのは、このように「事実を捻じ曲げようとする悪辣な態度を決して許してはならない」ということだった。しかも、この件では調査員から犯罪者扱いされた記憶がまだ生々しく残っている。私が「却下の理由は事実とかけ離れており、受け入れられない」と告げると、「証拠となる写真など、新たな検討材料がなければ・・・」とのことだったので、「工事担当者に聞いてみます」と返答して、この話は継続事項になった。

 施工担当者に伺うと、工事中撮影した写真を持ってすぐ訪ねて来てくれた。その中に、以下の決定的状況を収めた証拠写真があった。それは①「ユニットバス床下溜水排水ポンプ作業写真」、②「洗濯機置き場・トイレ床下溜水証拠写真」、③「間仕切り壁解体写真」である。①②は、ユニットバスから洗濯機置き場およびトイレにかけて床下のピット構造部分に、水が満水状態であり、水中ポンプを使用して排水作業をしている写真であり、③は洗面所とトイレの間仕切り板を解体した時の写真で、木材にカビが生じ、腐っているのが分かる。これはT社が却下理由として挙げた<理由2>を決定的に打ち崩す証拠であり、また<理由1>の「事故発生場所から距離的に離れており、被害原因とは考えられない」という主張を崩すものである。

 実は私も重要な写真を撮影していた。それは天井が解体されて露わになったスラブ(天井裏見上げ)を撮ったものなのだが、それが重要な意味を持つのは、一晩中雨が降った翌朝に撮影されたものだからである。無論雨漏りはしていない。この日は昼間も1日中雨だったが、雨漏りがなかったことは工事作業者によっても確認されている。第一、雨漏りしているならリフォームを継続するはずがない。雨漏りを止めなければリフォームする意味がないからである。この天井の写真と工事作業者の証言は、T社が却下理由として挙げた<理由2>が完全に過ちであることを示している。

 続いて文書の作成に入り、これは担当の方が専門家の立場でT社の却下理由一つ一つに明晰な反駁文を書いてくださった。あとは前後に私の思いと考えを書いて提出した。スピードを重視したため十分なことが書けなかったが、最後の部分は以下の通りである。


 今回の保険申請に関して、私が一番許せないのは、始めから却下の結論ありきの鑑定で、事実が歪められていることです。玄関上部の被害を雨漏りであると根拠なく決めつけ、そのほかにも荒唐無稽な仮説を主張し、真相を捻じ曲げて「補償に該当しない」と言いくるめようとする態度を放置するわけにはいきません。あらゆる可能性を考慮し、事実を解明しようとする姿勢が全く見られないのは何故なのでしょう。被害の現れ方というものは一件一件それぞれ建物や事故状況の違いで変わってくるはずです。保険会社としてこれまでの膨大な被害状況の蓄積をもってしても、「まだ自分たちが知らない被害の生じ方があるかもしれない」として、それを解明しようとする真摯な姿勢がないことは、顧客として残念無念この上ないし、保険会社の立場に立てば、「日本を代表する保険会社としての矜持はいずこに」と、恥ずかしい限りで、会社の将来を憂えます。

 保険というものは思いがけない被害にあった人を助けるためにあるものではないのですか。もしその人の置かれた窮状を我が事として想像してみることができないのであれば、保険の社会的意義は著しく損なわれます。私の事例は確かに特殊に見えるかもしれませんが、それは上記縷々述べたように、建物の構造によって完全に説明でき、間違いなく給湯管破損からの水漏れ被害です。このような事例にどう対処するかはその保険会社の存在意義を決めることになるでしょう。

 もう一つ、私が耐え難く感じたのは、保険鑑定人、保険調査員による聴き取りで、自宅にお迎えしておこなっているにも関わらず、身分証の提示を求められたことです。なりすましを疑ってのこととしか考えられず、これに象徴される「保険金詐欺の容疑者扱い」はあってはならないことでした。また、経過の中で重要な役割を果たした除湿器の現認、第三者による写真の日付の確認要求などすべてが指し示すことは、人の話を頭から疑い、「無辜の顧客を犯罪者扱いした」ということです。私の人格が傷つけられ、侮辱を受けたと感じています。これは許してはいけないことでした。これに関してはずっと考え続けており、このままにしておくべきではないとも思っています。

 ところで、鑑定人、調査員のマナー違反(無許可の建物その他の撮影)については糺していただけましたでしょうか。特に写真は完全に削除していただくよう指示してください。よろしくお願致します。

 私が保険に関して考えたことを述べさせていただきました。いかなる根拠、例証、証拠写真を提出しても、貴社におかれましては頭から疑いのまなざしで見られるのかもしれません。しかし事実は強いもので、どのような悪意ある(あるいは単なる研究不足による)障害の中からでも必ず立ち顕われてくるものです。お電話をいただいた時はあまりに実情を無視した理不尽なご説明に呆然としましたが、お約束通り反論文と証拠の写真を提出致します。解体中の写真ですので、これ以上被害原因が分かる証拠はありません。写真の日付は裏面に記しました。データは、お送りしても信じていただけなければ意味がありませんので手元に置きます。人体が解剖によって死因の解明がなされるように、建物は解体によって被害原因が明らかになります。どうか曇りのない目でよくご検討くださるようお願い申し上げます。


 T社のあまりにもひどい事実の歪曲とごまかしに対する義憤から、私は保険会社に立ち向かう決心をしたのであるが、この問題を掘り下げていくうち保険会社の手の内が分かり、次第に面白くなってきた。火災保険がおりない理由を調べてみると、①故意、重大な過失、法令違反による損害、②損害の原因が3年以上前の災害によるもの、③免責金額に満たない損害、【補償対象ではない場合】として④経年劣化による損害、⑤地震、噴火、津波による損害、⑥施工不良による損害、⑦該当する自然災害の補償に入っていない、⑧機能に支障をきたさない被害、⑨火災保険加入前の被害、⑩一度の火災保険がおりた時に修理しなかった、等が挙げられていた。

 これによると、2~3か月前の事故原因による被害の申請などはかわいいものである。T社が目を付けた項目はどれかと考えると、おそらく④経年劣化による損害および⑥施工不良による損害あたりであろうか。だから、床板が割れない限り床下に流水しないフルユニットバスにもかかわらず、「ユニットバス下のメンテナンスを一度もしておらず、防水機能が取れて漏水した可能性もある」などと、意味不明の机上の空論を弄したり、「天井上部の屋根部分の施工に問題があり、雨漏りによって生じた被害である」などと、言い逃れようとしたのである。

 しかし無理やり引き出した理由であるから、建物の構造を知りさえすればすぐ誤りと分かる説明になってしまっている。そしてその建物の構造をこそ鑑定人と調査人は調査に来たはずだった。いったい何を見に来たのか。ここから分かるのは、鑑定人、調査人というのは保険金の支払いを抑制し、経費を削減するために派遣されているということである。それが保険会社の指示または暗黙の密約によるものなのか、鑑定人・調査員が保険会社の意図を忖度して自発的におこなっているのかは分からない。分かるのは、この人たちにとって事実や真相などはどうでもいいということだけである。

 保険会社が真剣に事故と被害の因果関係を調査する気があるなら、自社の中に調査・鑑定部門を作り、建物の構造模型を作るなどして実験すればよいのである。またT社との電話の中で、「2~3か月程度でそんなにカビがひどくなるのか」との疑念を聞いたが、これも実際に自社の研究部門で実験してみればよいのである。私は図らずもリフォーム工事に着手するまで1か月間カビを放置することになったが、小さなカビでも百倍くらいに広がって黒々とこんもりしたカビになった。そういう実地に即した研究部門を作らずに、事実に基づかない空疎な仮説を弄してどうしようというのか。人間が分業によって産業革命を起こしたのは事実だが、サービス業足る保険会社がその心臓部である「被害認定」を外注してどうするつもりか。保険会社にとって「被害認定」は1丁目1番地であって、事務部門や会計部門を外注してでも、その調査に特化した研究部門を整備して社内に残すべき部署だろう。それなのに、最優先課題が外注された先は、専門知識と経験を欠く鑑定人および中世異端審問官並みの猜疑心に満ちた調査員を擁する会社なのである。

 T社の不実な態度、特に人格蹂躙を平気で行う鑑定人、調査員の派遣により、私のT社に対する信頼は完全に地に落ちた。今回のことで得た教訓があるとすれば、このようにお粗末な会社の実態を知り、次回更新時の保険会社選びに役立てるくらいのものだろう。こういう会社は自ら墓穴を掘っており、いずれ滅ぶ。願わくは保険業界全体にこのような退廃がなからんことを。

 T社からの返答が楽しみである。いい加減な回答なら次の段階へ進むことになる。何しろ私は想定外を想定して行動する習慣が身についてしまったのだから。


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 心穏やかならず眠りについた翌朝の聖書の箇所は、たまたま詩篇4編であった。(5~6節、9節)

怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。/床の上で心に語り、そして鎮まれ。〔セラ

義のいけにえを献げ/主に信頼せよ。

・・・・・・・・・・・・・・・

平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。/主よ、あなただけが、私を/安らかに住まわせてくださいます。


「ああ神様、やはり「『あなたは座るのも立つのも知り/遠くから私の思いを理解される』(詩編139編2節)のですね。何もかも全てご存じなのですね」と思い知り、御名を崇めたことだった。


2025年5月28日水曜日

「工事は中盤から終盤へ」

  どんな旅行でも、それが終わって自宅に戻ると、心底ほっとするのは私だけではないだろう。帰省先から戻って、私は「ああ、帰ってきた」と脱力した。家はリフォーム工事の真っ最中、壁がむき出しで木材が部屋に転がってはいるが、私はとても安らぎを感じた。

 不在中、工事の進展と変更点等についてお電話をいただいた。水濡れの影響が壁板と床板にも及んでおり、その修繕で工期が延びること、洗面台を取り付ける場所の構造上、少し床から上げる必要があることなどであるが、まず設備(上水管、ユニットバス、洗面台、トイレ)の設置が全部終わったと聞いて驚いた。それは工程表より1日早かったからである。追加の工事が入ったのに、私の上京日程はそのままで大丈夫というのも不思議だった。何としても水回りを仕上げ、他の玄関周りの仕事を後にしてくれたのである。

事実、帰宅した午後から、私は新しい洗面台とトイレを使い、夕方にはお風呂に浸かり、洗濯もすることができた。洗面台は床から高い位置にあるので前かがみになっても腰が痛くならないし、トイレは以前に比べてはるかに静音、また節水仕様である。お風呂は底面の栓が見当たらないので、「お湯を張れない」と少々焦った。取扱説明書を読んでボタンを押して開閉することを知った。バスタブのふちの隅にある金属が怪しいとは思っていたが、まさかあれが開閉のボタンだったとは。風呂の蓋にも戸惑った。蛇腹のような蓋ではなく、大きな楕円を二つに割った形状だった。置き場所を変えて何回か試したが、バスタブとの間に少し隙間ができてしまう。「最近のバスタブはきっちり閉まらなくてもいいのかな」などととんちんかんなことを考えていたら、担当の方が来て何気なく閉めると蓋はぴったり閉まった。手品のようだった。左右かつ裏表を組み合わせる必要があったとは。今まで置き所に困ったお風呂の蓋が、バスタブの頭上部分に収納できるのはとても便利である。

安穏な書き方をしてしまったが、施工にあたる方々は本当に大変だったと思う。私はとにかく怪我無く、事故なく無事終わればそれ以上のことはないのであるが、大工さんは傍目にもわかるほど毎日奮闘されており、相当無理なさっているのではないかと心配になる。施工担当の方は新たに必要になった家具や細かい設備についての私の希望を聞いてくれ、それぞれ迅速に手配してくれた。リフォームの発端となった肝心の上水管の敷設は、この業界で右に出るもののない会社の精鋭部隊4名が担当してくれ、私の今後の不安材料は焼失したのである。私のリフォームに関わってくださっている方々は全員熟練のプロであるから、どんな想定外にも対応でき、私が心配することは何一つない。したがって安穏となるのも道理なのだ。有り難いことである。

2025年5月21日水曜日

「青葉の頃」

  日が長くなって何とはなしに嬉しい季節である。庭には新緑が爆発し、ヤマボウシが窓辺でさわさわと木陰を作っている。ラジオによると仙台、東京の日の出は4時半前後、「マイあさ」が始まる頃にはもう明るくなっている。障子を開けるとまぶしいほどの光…。「りくがいたらいくらでも散歩してあげるのに」と思う。私がいない時には、りくは父の起床に合わせて6時過ぎ頃起きるのに、私が帰省している時は、いつも明るくなるとすぐやって来た。「姉ちゃん起きて!」と、手っこでふとんを掻くので、「おはよう」を言うと、りくはもうスタンバイ。うれしくてたまらない様子で、「早く、散歩」と急かしてきたっけ。こんないい季節、りくがいないのは本当に寂しい。

 日が出てじりじりと暑くなる前に草むしりをする。いっぺんにやるのは無理なので、まず道路に面したところの庭木、玄関前の雑草から始め、毎日少しずつ、ゴミ出しに行く小道、台所のある側面周辺の草をむしり、前庭の大きくなり過ぎたつつじを刈り込み、隣家との境、裏庭と片づけていく。蚊がいるといけないので、帽子の上に頭からすっぽりメッシュの上っ張りを被り、足は長靴履きの完全防備。むせかえるような草の匂いは悪くない。田舎でしか味わえない空気を土の匂いとともに胸いっぱい吸い込む。毎日1時間ほど仕事して、少しずつきれいになっていく敷地を見ると、やはり気持ちが良い。お腹が空いた頃、朝食となる。

 日曜は安息日、教会へ行く。5月18日はたまたま創立記念礼拝だった。福島教会は1886年5月23日に創立された。毎年その日に近い日曜を創立記念礼拝日として守る。ことしは創立後139年目に当たる。こんなに長い間、、この小さな群れをお守りくださったことを神様に感謝する。牧師がかわり、信徒がかわり、会堂がかわっても、変わらずに神の言葉は語られてきた。今もそれを求めて人々がここに集って来る。これほど過剰な言葉が横溢している世の中でも、教会でしか聴くことのできない言葉がある。

 この日の説教題は「あなたの重荷を主にゆだねよ」であり、これは詩編55編23節の前半部分の引用である。ちなみに23節全体は聖書協会共同訳では次のようになる。

「あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。」

 ここで重荷と言うと、何か思い煩いを伴う負荷のように感じるが、元来の意味は、カルヴァンによると、「くじ」、「賜物」といった趣きの言葉らしい。「くじ」や「ギフト」というのなら、人間の手の届かない事柄であるから神に任せるほかなかろう。なおかつ、今多くの人が押しつぶされそうなほど感じている思い煩いを神様に放り投げて、全て委ねることができたらどれほど樂であろうか。「一日の苦労は一日にて足れり(マタイ6章34節)」の御言葉通り、私たちの一日の苦労は神様がよくご存じで必ず嘉してくださる。神ご自身が私たちの苦労を知り、それを良しとしてくださるのである。次の日にはまた別の苦労があるが、決して変わることのない神の御言葉に聴き従いつつ、安心して140年目に向かっての歩みを始めるのである。


2025年5月15日木曜日

「工事の進展」

  先日は突然の「審判」というカフカ的不条理に見舞われた私であるが、工事の方は幸いなことに無事進んでいる。工事初日には玄関部分の天井板が剥がされ、屋根裏のスチールの骨組みや水道管や電気線等が見えた。以前東日本大震災で取り壊しとなった福島教会を再建する時、かなり建ち上ってきた礼拝堂の内部見学会に参加した時のことを思い出した。あの時は全て木造で木の香りが満ちていた。工事担当の方の案内でヘルメットを被っての見学だったが、上に向かって徐々にすぼんでいく大きな四角推の屋根を造るのに、何十という足場を組むのが大変だったというお話を聞いた記憶がある。

 私の自宅の解体工事では、屋根裏が水滴と水蒸気で満ちていた結果として、かび臭さと水による建材へのダメージが半端ないことを改めて目視できた。鉄骨が錆びておらず無事だったのが幸いだった。この日は玄関ホールのみならず、洗面所の壁紙も全部剝いてカビをこそげ落として終了となった。

 工事2日目からは造り付け家具の大規模な解体があった。玄関左手の下駄箱や物入れ、特にカビに侵された右手の物入れ、トイレ向かいの大きな物入れと、全ての収納庫の解体が始まり、家の様相が様変わりした。壁の石膏ボード等も必要に応じて解体され、ちょっと見には爆撃で破壊された戦闘地域の家屋のようである。壁にはボードを載せる高さの基準となる部分が各所に点在しているが、これは板を載せてから隙間に小さな穴をあけて断熱材を注入するとのことだった。こういうことも初めて知った。

 「大工さん、大変だったろうな」と今さら思うのは、住人が居住したままのリフォーム作業なので、一挙に解体という訳にはいかず、少しずつ解体したところへ適宜断熱材を貼っていく等の段取りが必要だったことであろう。これまで断熱材のなかった屋根裏部分にも相当厚い断熱材が張られるのを見て、本当に安心した。これだけ張れば真冬でも結露はほぼ生じまい。それにしても、天井に一分の隙もなく断熱材を貼るプロの手並みがすごい。簡単そうに見えるが、素人には絶対できない美しさである。上水管更新工事で水が使えなくなる前日まで、必要な水回りの箇所を残していただいたので、支障なく生活できて感謝であった。ほぼ室内だけの作業とはいえ、資材の運び込みには天候も作業の重要な要素で、また一戸建てなら資材の搬入はスペースさえあれば容易であるが、集合住宅の場合はオートロック解除、エレベーターでの上階までの運び上げ等、なにかと煩雑な手間が多いことであろう。

 このように工事が順調に進んでいくのは、もちろん全てを差配する人がいるからである。皆とこまめに連絡を取り合って指揮しているのは、そもそもの初めから施工を担当してくれている営業の方である。この方がいなければ何一つ始まってもいなかった。工事は最初にいただいた工程表に則って行われるが、時々刻々変化する様々な状況に応じて、臨機応変に手直ししながら進めることが必須である。据え置き家具の細部の確認があり、玄関ホール等の電灯の色味の確認があり、洗面所とトイレの床材の確認があり・・・と、サクサクと進んでいく。他にいくつもの案件を抱え、突発的事案にも対処し、それぞれの工程を同時並行で進めているのだから、この人の頭の中はどうなっているのだろうと思う。時間的制約の中で、必要な打ち合わせをしながら、それぞれの工事に関わる生身の人間の動きを全て勘案してスケジュールを日々組んでいくのは、列車のダイヤを組むくらい大変なのではないだろうか。大工さんにしてもこの方にしても、一つのお仕事に長年取り組んで来られた方は、到底他の人には到達しえない地平にあるようである。

 さて、給水・給湯管の交換で水道が使えない間は、さすがに田舎に退避せざるを得ない。水が使えないと、途端に人間の生活はまさにお手上げである。加えて浴室、洗面所、トイレの更新があるため、今回はいつになくロング・グッドバイである。帰省して「ああ、やはり」と思ったのは雑草の生い茂った庭である。明日から雑草との闘いが始まる。いつもあと少しのところで取り切れずに終わるが、今回は夏の繁茂期に向けて取り残しのないようにしたい。また、初夏を迎えるこの季節、とれたての野菜や果物を買いに農協の直売所に行くのが楽しみである。


2025年5月10日土曜日

「異議あり」

 保険調査の方との対面の後、保険についてつらつらと考えていた。考えてみれば、今まで入院時に生命保険の請求をしたことがあるが、建物に関する火災保険の請求は初めてである。手順に則って事実をありのままに報告し、復旧に必要な費用を請求する・・・あとはレッセ・フェール、為すに任せるほかはないと思っていた。

 ところが。どうも保険請求というものは、保険会社と被保険者の金額を巡る攻防を前提に成り立っているものらしいのである。保険屋は少しでも支払いを減額する材料をいつも探しているらしい。こういった世事に疎い私であるが、先日の保険鑑定人・調査員による聴き取りを受けて、嫌でも状況が分かってきた。もともと管理人さんから報告のあったマナー違反(無許可の写真撮影)については一言保険会社に言わねばなるまいと思ってはいたが、よくよく考えるとそんなのんきな事態ではなかった。聴き取りに同席してくれたリフォーム会社の担当者によると、今までの経験からしても「あの面談は異常、抗議すべき」という話だった。身分証の提示要求、重要な役割を果たした除湿器の現認、第三者による写真の日付の確認要求・・・どれをとっても、そして何度考えても、行き着く結論は「私は保険金詐欺の企図者と思われている」である。愕然とした。ショックであり、情けなかった。あろうことかニュースや推理小説でしか知らない保険金詐欺を行う輩と思われたのである。

 気持ちはず~んと沈み、丸一日そのことを考えていた。元来気が弱く、こういったことについて物言いをつけるのは私の最も苦手とするところである。しかし、事は私の人格に関わる。テレフォビア(電話恐怖症)の私は、意を決して震える手で受話器を持ち、保険会社に電話した。努めて抑制した口調でお話しする。私はクレーマーを忌み嫌っているのだが、正当な抗議はしておかなければならない。無事話し終え、担当の方は「不愉快な思いをされたのなら申し訳ありません。確認します」とのことだった。確かに、保険会社から保険調査員が派遣されたのには訳がある。事故と被害の間に時間があるからだが、それは建物の構造上そうなったのである。保険というものは思いがけない被害にあった人を助けるためにあるはずではないのか。もしその人の置かれた窮状を我が事として想像してみることができないのであれば、保険の社会的意義は著しく損なわれる。私のケースは保険会社の存在意義が問われる事例になるであろう。


わたしは二つのことをあなたに求めます、/わたしの死なないうちに、これをかなえてください。

うそ、偽りをわたしから遠ざけ、/貧しくもなく、また富みもせず、/ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。

飽き足りて、あなたを知らないといい、/「主とはだれか」と言うことのないため、/また貧しくて盗みをし、/わたしの神の名を汚すことのないためです。

(箴言30章7~9節 口語訳)


 私の願いも本当はただそれだけなのである。


2025年5月8日木曜日

「保険鑑定人、保険調査員」

  先日保険会社から電話があり、「1月以降の居室の被害が11月の水漏れ事故からのものとは、提出書類上からは判断できないので、現場調査をしたい」とのことだった。「5月の連休明けからもうリフォーム工事に入るのですが・・・」と告げると、相手は驚いて「調査員をすぐ手配できるかどうかやってみます」とのことで、結局工事初日にやって来ることになった。もちろん工事前の状態を調査するのが目的であるから、職人さんには申し訳ないが、午後からの作業を1時間余り待ってもらわねばならなかった。

 保険鑑定人と保険調査員の違いがよく分からなかったが、どうも前者は主に建物被害の鑑定、後者は保険申請者自身の調査という役割分担のようだった。まずはお二人と面談。これにはリフォーム工事施工担当者も同席していただいて、4人での顔合わせとなった。1時間程度で聴き取りをするには何か質問項目やレジュメのようなものが必要なはずだが、そういったものを出す気配がないので、私の方から自分が作っておいた、水漏れ事故後の半年間の経過を時系列にしたメモをお渡しした。それから、まず鑑定人が一つ一つの事項を辿る形で質問し、こちらはそれに答えていくというふうに進んでいった。専門的な問いには建物の構造をよく知る施工担当者が答えてくれた。問題の焦点である給湯管からの水が天井裏に水滴となって降り注いだメカニズムについては、特に鮮やかに解説してくださった。到底私一人では対処できない場面であり、本当にありがたかった。

 「なんか変だな」と思ったのは、屋根裏の水を家庭用除湿器で23ℓ輩出した話をした時であった。鑑定人が「その除湿器ありますか」と言う。私はすぐ持ってきて「2008年製、なんとナショナルの製品ですが、一週間連続で故障もせず頑張ってくれました。昔の日本の家電のすごさを改めて知りました」とお話しした。顔には出さないが、無論心はムッとしていた。鑑定人は、このような話さえ作り話の可能性があると考えているのである。私は少なくとも平然としていたつもりだが、隣の施工担当者は「最近の鑑定は裁判みたいだな」と、聞こえよがしにつぶやいていた。そして、続く質疑応答に業を煮やして、「実際に現場をご覧になった方がいいですよ」と、鑑定人を水回りの被害現場へと連れ出してくれた。浴室、洗面所、トイレ、玄関ホールと巡って、あれこれと説明している声が聞こえた。

 さて、私の方は調査員の聴き取りに応じることになったが、有り体に言ってあれは「事情聴取」もしくは「取り調べ」に近かったと思う。申請をした本人が住所に書いた自宅にいるのに、身分証明書の提示から始まったのである。そして仕事の有無、入居年数、これまでのリフォームの有無も訊かれた。私の場合給湯器交換のみだが、これはどういう質問なのだろう。メンテナンスをきちんとしてるかという趣旨なのか、それとも保険金を利用したリフォームマニアかどうかを知るためなのか謎である。それから先ほど話した内容の再確認と追加説明を求められた。これなどは「供述」内容の不審点の洗い出しなのだろうと思う。このように微に入り細を穿った聴き取り調査であった。

 あとは私のカメラとスマホの証拠写真(事故後の被害状況を収めた写真)を日付と共に何枚もご自分のスマホで撮っておられた。除湿器の写真さえ撮っていたのにはあきれを通り越して笑いが込み上げてきた。さらに仰天したのは、私が撮った証拠写真を「誰かに送っていないか」と尋ねられたことである。なぜそんなことを訊くかと言えば、もし私が誰かにその写真を送っていたら、その相手(第三者)に日付を確認できるからであろう。つまり本人が撮った写真はいくらでも日付を偽装工作できるとお考えなのである。自宅の被害写真を誰かに送る人などいるのだろうか。見ただけで憂鬱になる写真である。私など自宅被害のことは数か月友人にも話せなかったくらいだ。後で分かったことだが、調査員は管理人さん(第三者)からも写真を手に入れようとしていたことが判明した。第三者からの証拠によって当該者の証言の証拠固めをしなければならないことになっているに違いない。仕事とはいえ、ここまで疑われるとはさすがに腹に据えかねる。

 お二人がお帰りになってから、管理人さんからインターフォンで連絡があり、「保険屋の二人が、許可なく建物の写真を撮りまくっていた。エレベーター内の掲示物や掲示板の掲示物まで撮っていた。『どなたですか。いったい何ですか』と言ってやめてもらった。『保険屋です』と言っていたが、不動産屋かと思った」とひどくお怒りであった。もっともなことである。ちゃんとした会社の社員がこんなに態度が悪くてよいのだろうか。このことを施工担当者に伝えると、先ほど現場で話した鑑定人について、「あの人、何にも分かってなかった。『勉強になりました』と言って帰っていった」とのことだった。今回の体験から思うのはただ一つ、「二度とこんな不愉快な思いはしたくない」ということである。そのためにリフォームをするのである。これから長丁場になるが、今回の対応のような腹立たしさを経験した後では何ほどのことでもない。施工会社の方や職人さんは皆気持ちの良い方ばかりである。きっと言い訳の利かない実物と日々向かい合っているからだろう。


2025年5月1日木曜日

「まもなく工事開始」

  リフォーム準備の日々はまさに光陰矢の如し。決めることが多いのである。先日は請負会社の方とショールーム巡りをした。浴室関係はTOTO、洗面所関係はクリナップを訪れた。何しろリフォームなるものについてド素人の私のこと、ショールームでは浦島太郎状態。この数十年での設備の機能性の進化に、驚きと感嘆の連続であった。竜宮城ならぬショールームにいるうちにすっかり楽しくなってきたが、「いやいや分相応に!」と浮き立つ気持ちをセーブする。専門家の説明を聞きながら、自宅のサイズや自分の好みに合わせてカスタマイズしていく。あくまで「自宅がショールームのようである必要はない」と、自らを戒めつつ決めていくが、この楽しさは抑えがたい。

 話を聴いているうち、私のプランに一つだけまだ心配な点があることに気づく。それはトイレである。トイレは壊れていないので更新するつもりはなかったが、既に二十数年の年代品である。タンクが大きすぎるので、「もう少し節水仕様のものがいいな」と以前から気になってはいたが、盲点だったのは便器が置いてある床の強度である。長年のうちには床と便器の継ぎ目が破損して、重大事故になったケースが過去にあったという、恐ろしい話を聞いた。体重の重い男性の自宅での事例らしいが、この場合は下水事故なので、被害を与えた相手との揉めようは水道管破損の比ではないという。それはそうだろう。あらゆる水回りの事故の可能性を回避したい私は、トイレの更新も即決断。こういう時は迷ってはいけない。もう一度TOTOのショールームに連れて行ってもらい、必要十分の仕様を選んできた。リフォーム会社の方も「TOTOとクリナップを回って、またTOTOに戻るというのは初めてのケースです」と言っていたが、嫌な顔一つせずにつれて行ってくれた。一日がかりの製品選びだった。

 その後は何日かあけつつ、数日に分けて洗面所とトイレの床の選定、ドアの選定、壁紙の選定があった。壁紙の方はあまりに多種多様で、決めるのに半年かかった人もいると言う。担当の方は「10往復くらい見て選んでください」と、昔の電話帳2冊分くらいの厚さのカタログを置いて行かれた。それから毎日カタログをめくって決めようとするのだが、日によって付箋を付ける箇所が違う。素敵なデザインがいろいろとあるが、「機能性を重視して決定する」と心に決め、絞り込んでいく。機能性というのは、「抗カビ」「抗菌」「撥水」「表面強化」「消臭」「通気性」「ストレッチ」「吸放湿」「汚れ防止フィルム」「ウレタンコート」など様々あり、壁紙の進化も著しいようである。とにかく迷う。適材適所で用いればリフォームもし甲斐があるというものである。しばらくは壁紙のことが頭を去りそうにない。このように多忙ではあるが、楽しい忙しさである。一か月少し前には五里霧中の暗闇にいたことを思えばすべてが夢のように思える。


2025年4月24日木曜日

「2025年のイースター」

  このところ春は教会総会に合わせて帰省していたが、今年はカレンダーの関係でイースターに帰省することになった。その日、4月20日は光の春を迎えて、穏やかで良い気候に恵まれた日だった。兄に送ってもらい、早めに教会へ。静かな会堂でイースターの幸いをかみしめながら礼拝が始まるのを待つ。その日の聖書の箇所は「ヨハネによる福音書20章19~23節」で、説教題は『あなたがたに平和があるように』であった。ヨハネによる福音書20章はマグダラのマリアが早朝お墓で復活の主に出会う場面(1~18節)から始まる、私の特愛の箇所である。以前「信じる者とされるまで」に書いたが、ここまでヨハネ福音書をずっと読んで登場人物の足取りを追ってきた者にとって、人が神を信じるとはどういうことかが、一瞬の出来事としてこれほど見事に示される場面はないと思う。「私は主を見ました」と、復活のキリスト・イエスについて最初に告白したのはこの女性であった。

 説教の箇所はそのあとの、主イエスが弟子たちのところに現れた場面である。(ヨハネによる福音書20章19~23節)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエスが十字架刑で処刑された後、恐くてひとところに閉じこもっていた弟子たちに主イエスは現れる。そして真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われるのである。これは全くの、天から降ってきたような恵みである。主イエスの言葉は、「あなたがたに平和がある」とも解される言い方であり、「もう既にあなたがたには平安がある」と仰っていると言ってもよい。主の復活は全くの与えられた慈しみなのである。ここには喜びしかない。弟子たちは全ての罪赦されて、どれほど平安を感じたことだろう。

 さて、礼拝の後は、今回は祝会といった改まったものではなく、ミニバザー食事会。婦人会のお働きにより準備されたお食事をいただいてテーブルごとに懇談し、普段は話す機会がない方々といろいろなお話をした。とても貴重な楽しい時間となった。ミニバザーによる収益は会計の大事な一部となる。一昨年教会会計が大幅な赤字になったことから、この2年間皆で献金と倹約に励んできた。昨年は赤字幅が収縮した者のまだ赤字だった。「今年はどうかな」と思っていたら、その後牧師先生と言葉を交わした時、「次週の教会総会資料を見てください。わずかですが黒字に転じました」とおっしゃったので、思わず心の中で拍手。これも本当にうれしいことで、喜びが増したイースターであった。

 説教の中で牧師先生は23節の言葉が曲解されて用いられた不幸な歴史にも触れた後、その言葉が真に意味するところについて、「私たちがキリスト・イエスの十字架の死と復活を宣べ伝えずして、いったい誰が伝えるのですか」と言われた。その通りだと思う。


2025年4月18日金曜日

「リフォーム準備」

  ハードな日々が続いている。水濡れ事故の原状回復と今後の水漏れ事故予防を企図した全給水・給湯管工事のためである。先日は工事の契約書を交わした。このような大きめの契約は二十数年ぶり。どのような分野でもそうだと思うが、現代社会で一番難しいのは信頼できる人、信頼できる会社を見つけることだろう。ネットがこれだけ普及しても、これは年々一層難しくなっていると感じる。それさえ見つかれば後の苦労は報われる。今回、住宅関係の心配事を今後も相談できる相手が見つかったので、被った災い以上の収穫があった。神様のご加護としか言いようがない。

 いよいよ工期が決まり、ほぼ一か月にわたる大工事になることが分かった。始まるまでにそれほどの猶予はないこと、当初考えていた以上に大きな空間を空けねばならないことが判明し、結構焦っている。「要る」「要らない」を分ける時間がないものは、取り敢えず箱や透明な袋に入れて場所を移し、棚や引き出しを空にしていく。空いたスチール棚などは工事の及ばない場所に移動する。りくの手も借りたい状況である。実際にりくがいたら「遊べ、遊べ」と言って邪魔しに来るので、今以上に作業は遅れるのは目に見えているが・・・。それくらい時々気晴らししながらやらないともたない感じではある。

 何しろ水回りの工事なので、キッチンにある文明の利器は当面使えない。しかし、電子レンジと炊飯器、フライパンとやかん、あとは少しの食器類と水切り場さえあれば何とかなる。そう言えば、社会人になって初めて住んだ住宅の台所は狭くて、今のキッチンの三分の一もなかったなと思い出した。これでも避難生活をしている方々から見れば十分恵まれている。片づけをしていると、本当に必要な物はそんなに多くないと毎日気づく。これも神様の御恵みと思う。


2025年4月10日木曜日

「パソコン利用の矛盾」

  パソコンを巡る悩みはたくさんあるが、最近一番感じるのは「パソコン操作が不得手な人を置き去りにしようとしている」ということではないだろうか。試しに『日経パソコン』を読んでみたが、私などにはちんぷんかんぷん、関心のある人には生成AIの詳細は役立つ情報であり、まもなくサポートされなくなるウィンドウズ10から11への乗り換え情報も必要であるから、こういう雑誌は役立つであろう。しかし、マイクロソフトに言いたいのは、商品開発の方向性が恐らくはビジネスパーソン向けに限られていて、そもそも「パソコンは今のままでよい」という、デジタルに疎い多くの顧客のニーズを無視しているとしか思えないということである。

 もう一つは永遠の課題かもしれないが、個人情報に関するパソコンの使いやすさとセキュリティの問題である。個人情報を盗み取る詐欺的犯罪が増大するにつれて、セキュリティ設定も詳細で複雑になっている。パソコンは出荷時には危険と言っていいほど、個人情報が垂れ流しになる設定であるから、各人が設定を変えることになるが、この設定に関する説明が専門用語でなされているため意味が理解できない。本を読んだり、自分なりに調べたりしながら設定するが、それがうまくいくとは限らない。

 今までできていた音声図書館からのダウンロードができなくなり、私はここ何か月も頭を悩ませてきた。また、或るページを開こうとして「このページは表示できません」と表示されることもあった。どちらも解決法を捜してあれこれ調べ、「アカウントを変更したせいだろうか」「管理者の設定が間違っているのだろうか」と試してみた。が、余計状態が悪化して元に戻すことはあっても改善することはなく、全てが水泡に帰した。

 私が日ごろ使っている検索エンジンにはマイクロソフトエッジとグーグルがある。解決のカギは上記の事象が起きているのはエッジだけであり、有難いことにグーグルでは必要な用を足せていた。となると、両者の設定の違いが原因として考えられる。私としてはパソコン上に個人情報が残ることを極力避けたいので、検索エンジンの終了時には毎回履歴の削除を行っていたが、プライバシーとセキュリティの設定を見返してみたところ、思い当たることがあった。

 以前利用者のWebサイト閲覧履歴や設定情報などを保存するために使用されるCookieが問題になった時、私の頭には「Cookieは危険なもの」という刷り込みがなされた。利便性より安全性というわけである。しかし、或るページを開くには、現在アクセスしているWebサイトと同じドメインから送信されるファーストパーティCookieが必要な場合がある。危険なのは現在アクセスしているWebサイト以外のドメインから送信されるサードパーティCookieなのである。改めてエッジの設定を調べてみると、ブラウザの「追跡防止機能」を厳しく制限していたことが分かった。これを解除したところ、問題はあっけなく解決した。グーグルはこのあたりがまだ緩かったせいで、エッジが使えなかった間、助かっていたわけである。

 分かっている人には何でもないことなのだが、このことで私は何か月も悩んだ。この問題をウェブ上で解決しようといろいろな質問をしてみたが、AIによる回答も的外れで何度途方に暮れたことだろう。たぶん「いまさら聞けない」レベルの質問だったに違いない。もはやパソコン弱者にとっては、新たに便利な機能のあるパソコンの追求より、こういった当然分かっているはずの問題を簡単に解決してくれる機能が必要なのである。一般人は「安全で簡単」な機能を求めている。庶民をパソコンから遠ざけないためにもそちらの方面への尽力を是非お願いしたい。


2025年4月3日木曜日

「片づけに追われる日々」

  夜明けとともに起き、暗くなるまで作業する日が続いている。この歳になって時間に追われる生活になるとは思っていなかった。家のリフォームが必要になったのである。工程の詳細はまだ未定だが、今のうちから片づけ始めないと間に合わないことだけは私にも分かる。家の中の或る一定の空間を工事のために空けるのは大変なことだ。狭い家ならなおさらである。「引っ越しは最高の断捨離」と聞いたことがあるが、我が家はもう二十年以上何ら変わりなく、生活の歴史がそのまま溜まっている。小さなデッドスペースを見つけては全て保管場所として利用してきたので、その量は目に見える量の倍になる。

 毎日毎日片づけである。家具の移動には布や段ボールを底面にかませて引くしかない。そのためには、私の細腕で引けるほどには重量を減らさねばならない。大きな戸棚も動かすとなると、中身を全部出して捨てるものと取っておくものに分け、必要な物は工事が及ばない場所に移動する。整理してあるものを戸棚から出すと、信じられないくらい場所を取る。箱に収納しては別室に移していくと、どんどん部屋が狭くなり、エントロピー増大の法則に則りますます乱雑になっていく。もはや寝る場所を確保できるか・・・という悲惨な状態である。捨てるものも個人情報が絡んでいる場合はそれなりの処置をしなければならず、いくらシュレッダーにかけても終わらない。

「時間が夢のように過ぎていく」と言えば聞こえはいいが、生産的な作業ではないので気分は下向き。この合間に通院や年度初めの様々な申請準備、そしてもちろん体調を崩さぬよう食事にも気を配らねばならない。ラジオで桜の話題はずいぶん聞くが、とても花見どころではない。先日、日曜に教会へのバスの中から、初めて満開の桜を見て驚いた。礼拝は束の間の安息、力を得て、また怒涛の作業を続ける日々が続く。

2025年3月27日木曜日

「3月末、レントの時」

  鬱々と過ごしている。受難節だからこれはふさわしいこと。世の邪悪さに打ちひしがれても、本人にとっての大きな問題を抱えていても、主の御受難を思えば何ほどのものでもない。そして受難は必ず復活の喜びに変わると分かっているのだから、なおさらである。

 或るきっかけで、このところ主イエスご自身の洗礼について考えている。4つの福音書には、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが書かれている。それぞれ詳細の濃淡はあるが、4つの福音書全部に書かれているから、歴史的な事実と考えてよいだろう。ヨハネ自身は、自分が後から来て洗礼を授ける方の先駆けであり、その方に比べたらいかに価値なき者であるかとの自覚がある。なぜ罪なき神の御子が人間の一人にすぎないヨハネから洗礼を受けたのかについて、これまで私はあまり考えたことがなかった。

  一番あっさり書かれているマルコによる福音書では、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた(1章5節)」こと及び「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた(1章9節)」ことが簡潔に書かれている。

 マタイによる福音書では、ヨハネのもとに続々と集まって来る群れの中に、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て(3章7節)」、「差し迫った神の怒りを免れると思うな」との激しい言葉を投げつけていることと、自分のような者から洗礼を受けようとするイエスを、ヨハネが思いとどまらせようとした記述が特徴的である。

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(3章13~15節)

 ルカによる福音書では、人々一般に対して、厳しい言葉で「差し迫った神の怒り」と「悔い改め」の仕方についてこまごまと述べているのが特徴的である。イエスご自身に関する記述は、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると(3章21節)」と、簡潔である。

 ヨハネによる福音書は、例によって趣がかなり異なるが、イエスが洗礼を受けた直後に何らかの「霊」が降って来ることは他の3つの福音書と同じである。しかし、誰がそれを見たかについては書き方が異なる、特にヨハネによる福音書では、ヨハネがそれを見たことによって「この方がしかるべき方だ」と確信したという書き方になっている。つまり洗礼者ヨハネもそれまでは「イエスが神から遣わされた御子である」という確信が持てなかったのである。4つの福音書のその部分の記述は以下のとおりである。

マタイ3章16  イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

マルコ1章10~11節  水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ルカ 3章21~22節  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ヨハネ1章32~34節  そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 こうしてみると、主イエスが洗礼者ヨハネからの洗礼を受け入れた理由が分かってくる。水による洗礼はそれほど重要なものであるということなのだ。口で信仰を告白しても、それは洗礼によって示されなければならないということである。主イエスご自身が水による洗礼にこだわったからである。洗礼無しで済ませることをしなかったからである。信仰告白と洗礼はやはり一体のものであるということを、私自身は深く理解できたように思う。


2025年3月20日木曜日

「身近に見る職業倫理」

  昨年末の水難事件が片付きやれやれと思っていたら、これが次の水難を引き起こすきっかけとなっていたことが最近分かった。詳細は省くが、次の困難な事態が起きたのである。前の件が終わった直後だったのでさすがにがっくりきたが、前を向いて解決に向かわねばならない。何しろ今年の目標は「面倒くさがらずにやる」なのだ。頭の中は『365歩のマーチ』、これしかない。そう、こちらから幸せに向かって歩いて行かねば・・・。

 さて、最初に連絡を取ったのは管理会社のAさんである。この方は集合住宅の管理物件を数件抱えて大変忙しい方であるため、ほぼいつも管理人さんを通してやりとりしている。今回の事例は共有部分に端を発しているかもしれないことから、Aさんはすぐ建物・施設調査の手配をしてくれた。その時やってきた営業の方がCさんで、実にテキパキと調査をして帰って行かれた。問題の箇所は専有部分との結果だった。管理会社から私にはその正式な調査報告が届かず、ましてや解決方法を示されることもなかった。Aさんにしてみれば自分の為すべき仕事を果たし、「あとは個人の責任で対応」と思ったのであろう。こちらから聞かなければ結果の詳細を伝えてもらえなかったことを除けば、管理会社の社員としてごく普通の対応であろう。

 というのは、前回の水難事故で関わった共有部分の保険会社の代理店(仮にBさん)の対応はひどいものだったからである。電話の対応からのみの印象だが、語弊を承知で述べるなら、昭和のオヤジの最悪な部分を全面に漂わせ、顧客に対してもパワハラ体質が抜けないのみならず、やる気が全く感じられない人だった。「職業人以前に、社会人としてどうなのか」と思わざるを得なかった。Bさんの態度には私もAさんも閉口し、互いに苦労を共有したものである。結局、契約を果たしてもらったが、次回の共有部保険会社の選択時にはこの不愉快な体験について理事会に一筆上申書をしたためる所存である。

 このように管理会社はそれなりにきちんとした対応はしてくれたのだが、専有部分の問題と分かったとたんに、我関せずという態度で手を引いたことは納得できない。現在の問題個所が専有部分だからといって、それは必ずしも施工時に問題がなかったことを意味しない。なぜなら現在の問題個所は購入者が事前に知りえぬ部分だからである。問題が起きている箇所が法的には個人対応とされる場合でも、施工会社のアカウンタビリティが問われる案件もあるだろう。

 さて、そのようなことを踏まえたうえで、目指すべきは当面の問題解決である。こちらは無理無体なことを要求しているわけではない。問題解決の糸口が見えず途方に暮れていたのである。ここに、管理会社からの頼みで、こういった問題の解消に詳しいCさんが派遣されてきた。CさんはAさんから「電話で解決の方策を説明してやってほしい」と頼まれたのであるが、「これを電話で説明するのはとても無理なので」と言ってわざわざ来てくれたのである。

 Cさんは本当は説明するだけのつもりで来たのだが、あちこち現場を見て私の窮状を察してくれた。そして「早急な対応が必要」と判断したようで、あれこれ解決法を考えてくれたのである。私もいろいろ質問することができ、今後に向けての道筋が見えてきた。さっそく家にある家電を用いてその場でできる当面の対策を取り、近いうちにさらなる手当の手配をしてくれることになった。問題解決が2歩も3歩も進んだ感じである。これはひとえにCさんが、惻隠の情から、自分のしなければならない仕事の範囲を超えて助けてくれたことによる。Cさん自身多くの仕事を抱えた優秀な営業マンであるから、できればこれ以上余計な仕事は増やしたくなかったであろうが、やってくれることになったのである。このような人がいなければ世の中は保たれないことを深く実感している。しばらくは、落ち着いて家を離れられない状況だが、見通しがついたので気持ちは春の日差しのように明るい。

 いま頭に浮かぶ聖句はマタイによる福音書12章20節である。

「公正を勝利に導くまで/彼は傷ついた葦を折ることもなく

くすぶる灯心の火を消すこともない。」

 確かに助けは来た。天地を造られた主のもとから。心から感謝である。


2025年3月13日木曜日

「ハチの日」

   終わらぬ断捨離疲れを感じていた3月8日の朝、無類の犬好きの友人に誘われ私は、十年前にできた東大農学部の「上野先生とハチ公の像」の前にいた。3月8日は忠犬ハチ公の命日である。ラジオの「今日は何の日?」でアナウンスされるほど重要な日なのである。ハチが8日に亡くなったとは記憶しやすく、狙ってもできないことだ。8の付く日だけでもざっと10分の1の確率、8日限定なら30分の1の確率である。すごいぞ、ハチ。

 この日は真冬の寒さ。そのせいか、はたまた午前中だったせいか、あまり人も犬もいなかった。ハチの命日には犬たちも訪れるらしいのだが、私たちの滞在中に出会ったのは一家族、ご夫婦と四頭の秋田犬のみ。犬とお話しさせてもらったり触らせてもらったりして、テンションが上がり、もう可愛くて仕方ない。私が気づいた範囲ではそのうち二頭は身体に障害があったが、それを感じさせない身のこなしだった。とても事情は聞けなかったが、「四頭とも保護犬」とのこと。飼い主さんに頭が下がる。身体障碍を克服する動きができるようになった犬たちを見ていて、おそらく長い年月を要したであろう、飼い主さんとの愛情に満ちた生活を想った。幸せいっぱいでなければ、こんなにも人懐こく応えてくれるわけがない。もう一頭の子はお歳を聞いたら13歳とのこと。大型犬としては長寿に違いなく、なでながら「頑張ってきたね、エライ、エライ」と話しかける。この子たちに会えただけでも来た甲斐があった。それから資料館で、恐らくここでしか手に入らないハチグッズを買う。ボランティアの人かなと思う方々による、手作り感満載のコーナーだった。

 次に向かったのは上野つながりで国立科学博物館である。とにかく寒い日だったので一息つけた。土曜日で子供たちも多く混んでいたが、やはりハチのはく製は見なければなるまい。確か日本館の二階にあった。同じところに、日本の南極観測隊に同行したカラフト犬ジロもいた。タロはおらず、タロがいるべきところにはなぜか甲斐犬がいた。今年3月22日に日本のラジオ放送は開始から100年ということで、ラジオで時折当時の音声が流されるが、タロとジロの時はアナウンサーが「生きていた、生きていた」と叫んでいた。これもまた日本人と犬の親密な歴史を物語る音声記録である。館内の他の展示も回って満足、「ハチの日」を堪能した一日だった。立派な方々、立派な犬たちに会えて、胸が熱くなった。


2025年3月6日木曜日

「紙関係の断捨離」

 羽根布団のリユースをきっかけに、片づけ熱に火が付いた。久しぶりに大掛かりに片づけを行う。夏は暑くてとても無理だし、この作業は気が乗った時にしかできない。もはや無用の「物」の処分ではあっても、過去の記憶と密接に結びついている間はなかなかしづらい。それでも不思議なもので、歳とともに「ああこれ、いらなかったな」というものが明瞭になって来る。それはもはや大きく心を揺さぶるようなものではなくなっているからで、今が処分時なのである。

 今回は、ノートや原稿用紙、テキストや書籍、海外旅行の資料や記録、それに手紙やはがきといった、「紙」関係のモノばかりである。お便り類はともかく、今までも本やノートは部分的にかなり処分してきたが、まだ残っているものは何らかの理由で捨てられなかったものである。が、今となっては「もういらない」とはっきり分かる。書籍類は普通にひもで縛り、ノート類は個人情報部分が分からぬようにして、やはりひもで束ねてゴミ置き場へ持っていく。と書けば一言で終わるが、厚さが4センチほどもある同窓会名簿などは住所氏名が特定できないほどに切り刻んで普通ゴミに混ぜたりもしたし、何しろ大量で大変だった。紙がどれだけ重いか改めて知らされ、スーツケースに入れて何度も家とゴミ捨て場の間を行き来した。

 一方、まだ残しておく書籍もある。これは、「読み物」としてではなく、 「思い出の品」としての分類で、特に十代の頃読んだ本ばかり。これらが不要になるのは何年後であろうか。

 これだけでも二日がかりだったが、続いてお便り類に手を付ける。何しろ気温急降下の寒い日は絶好の断捨離日和。実はお便りの処分は今まで手を付けてこなかった。メールが一般的でなかった時代、通信手段は手紙なり葉書なり全て郵便だった。相手が手ずから書いたものだと思うとどうしても捨てられなかった。それらが大きな段ボールに3箱ある。一箱に三百通は入るから多分千通くらいあるだろう。気が遠くなる。

 ここで家に電動シュレッダーがあったことを思い出し、ガサゴソ引っ張り出してくる。音声読書器にはミステリを数冊入れて準備完了。これで気が滅入らずに作業できるだろう。今まで処分するに忍びなかったものを前に気持ちを切り替える。考えようによってはこれらが残っては困るのだ。まだ気力と体力があるうちに処分しなければと決意を固める。問題はこれらが個人情報の塊だということである。実際は便りの内容にしてもそんな大げさなことは何もないのだが、やはりこのまま捨てることはできない。この時ほど電動シュレッダーを処分しないでおいてよかったと思ったことはない。普段は小さな手動のもので事足りていたから、シュレッダー自体、「もう要らないかな「と思っていたのだ。皮肉な話だが、処分者の私自身はもう中身を容易には読めない。が、やるしかないだろう。

 どう考えても何日もかかりそうである。ざっくり言って、送り主の半分は連れ合いのヘルベルトである。だからこれについては、一番後回し。また数はさほど多くないが、父や母、及び親族が送ってきた便りがある。これは当面取っておく。残りの半分のうちその5分の3は恐らく筆まめな友人からのもので、メールになる前の、15~20年前くらいのものであろうか。あとは本当に多くの様々な方からのもので、いかに自分が多くの方々との関係性の中で生きてきたかを感じずにはおれない。ただただ感謝である。

 大まかな攻勢を把握したところで既に疲れを感じたが、頑張って課題に向かう。作業の要諦は「中を開いてはいけない」ということである。しかし、読むつもりはなくてもあまりに懐かしい名前や生徒からの便りなどは、「もうしばらく取っておく」に分類してもいいかなと、やや日和る。お便りの処分はなかなか辛いが、「残っても困るでしょ」と自分に言い聞かせながら心を鬼にして行っている。「それらはもう全部今の自分の中にあるのだから」、と。


2025年2月27日木曜日

「特大羽根布団のリユース」

  今年の2月は1週間近くの長い寒波が二度来た。それでも東京の昼間の気温は10℃前後あったから、出かけられないほど寒くはなかった。ただ、風が強くて危険と思われる日が何日かあり、そんな時は家仕事日和である。

 手を入れるべき箇所はいろいろあるが、今回目についたのはお客様用の羽根布団である。「これ使ったの、いつだっけ」と思い返して浮かんだのははるか昔のこと、私が引っ越してまもない頃、友人がお子さんを連れて泊まりに来たことがあった。狭くてとても客が泊まれるような間取りではないのに平気だったのは「ああ、若かったんだな」とつくづく思う。宿泊客を迎えることは金輪際ないと断言できる今は、この200cm×160cmという特大サイズの羽毛布団は不要である。空気が入らぬよう折りたたんでビニールの布団袋に押し込んであるためさほど場所は取らないが、さてこれをどうするか。

 こういう時、ばっさり捨てられないのが私の年代の「モッタイナイ」根性だろう。私の寝室は北向きの部屋でそこに寝具は揃っている。エアコンもあってすこぶる快適に眠れる部屋である。しかし、冬になると私は渡り鳥のように南の部屋にやって来て、そこで寝ることにしている。暖かいし、明るくなるのも早いからである。この部屋はそもそも多目的室で寝室ではないが、簡易ベッドを自作(!)し、部屋の真ん中にカーテンレールを通して一応安眠できるようにしている。白いカーテンを閉めるとまるで病棟かと錯覚するような、一人用の狭い空間となり、これはこれで安心できるから不思議で、冬の渡りの宿泊地としては十分である。

 この部屋用の掛け布団を作ろうと決心し、考えた末、特大サイズの羽根布団を120cm×160cmサイズと80cm×160cmサイズに分割することにした。首から下の身の丈を覆う長さは160cmで十分だからである。そしてこの大きい方を冬用にし、小さい方はほとんど掛け布団が不要な夏用にすればよい。布団にはミシン目が入って、いくつもの大きな正方形に分かれているので、これを3:2に分ければよいのであるが、片方はミシン目を生かすとして、もう片方は手縫いで羽根の飛散を防ぐ壁を作らなければならない。これは母が亡くなった時、何日もかけて母の使っていた羽根布団を多数のクッションに作り替えた折に学んだことである。あの時はほとんど羽根に埋もれそうになり、大変悲惨なことになった。

 さて、丸一日かけて2つの羽根布団ができた。2つに分割する前に相当念を入れて飛散防止のブロックを作ったつもりだったが、それでもかなりの羽根が飛び出てきたので引っ張り出して捨てた。特大羽根布団用のカバーも2つに分割し、大きい方はファスナーをそのまま利用し、小さい方はスナップで留めて全ての作業が完結した。現在出来上がった大きい方を掛け布団として用いているが、狭いベッドにぴったりサイズでとてもよい。親鳥の羽根にくるまれているような温かさである。何かが形になるのは本当にうれしい。不用品を生かせたとなればなおさらである。


2025年2月20日木曜日

「野鳥が気になる」

  現在、周辺で、あるいは世間一般の傾向か、「鳥」が静かなブームになっているのではないかと思うのは私だけだろうか。長年犬を飼ってきたせいで、これまで哺乳動物しか念頭になかったが、最近は鳥にも非常に心惹かれる。帰省時、冬場に渡来するオオハクチョウを見に行ったり、鳥類学者川上和人による、小笠原諸島の鳥の生態調査の話をラジオで聴いたり、日本野鳥の会関係者の方からグッズをいただいたりといったことが重なって、なんだかとても気になる存在になってきたのである。ラジオのリスナーからの、「ラジオ体操の時、うちのピーちゃんは指導者の号令に合わせてピーピー鳴いて、体操する励みになっている」といった投稿を聴くにつけ、飼い主との関係は動物も鳥類も変わらないなと思う。

 先日、国立科学博物館の特別展「鳥」を見に行ってきた。見るとは言っても私の視力では難しいと思いカメラを持参した。そのズーム機能を使って覗くと結構見えた。人は多く熱気があり、会場はとても賑やかだった。やはり一定以上の鳥ブームなのは間違いない。一括りに鳥といっても、種類によってその身体特徴や生態がこれほど違うのは、「ああ、なんと不思議なことだろう」と造化の妙に打たれてしまう。「なにゆえここまで…」と呆れるほどド派手な鳥はもちろん、どんな地味な鳥でも何かしらアクセント(切りそろえ忘れた頭髪のように一か所だけ羽毛が飛び出ているとか、体のどこかにごくわずかな赤い毛がある、とかね)を持っており、その多種多様な個性に、結局は神様の御業の素晴らしさに思いが及ぶ。とりわけ親近感を抱いたのは最後の方の展示にあったアホウドリ。「あ、このシルエットは…」と思ったらやはりそうであった。伊豆七島の鳥島で繁殖する特別天然記念物であるが、「コールリッジの『老水夫行(The rime of the Ancient Mariner)』にも出てきたっけなあ」と何だか慕わしい。

 帰り際に、置いてあったパンフレットやフリーのしおり(白黒でシックなシジュウカラ、青い背とオレンジのお腹が鮮やかなカワセミ、愛らしい顔で人気の白い妖精シマエナガの3種類あった)をいただいてきたが、その中に「ポケットサイズの『おさんぽ鳥図鑑』をプレゼント」というハガキもあった。出してみると、A4の四分の一即ちA6サイズの小冊子が送られてきた。これは表紙と背表紙を入れて24ページにわたる冊子で、身近な鳥についての緻密な絵と簡単な解説が書いてある、まさしくお散歩のお共にぴったりの小冊子である。ちなみに、これが送られてきた封筒には統一性のない切手が貼られていたが、同封の書類を読んで、この郵送の切手が寄付によるものだと分かった。こういう手作り感はとても好きである。もちろん私も寄付の切手を送った。送られてきた封筒には日本野鳥の会の活動紹介や探鳥会の案内もあり、体調のことがなければ入会したいくらいである。

 さて『おさんぽ鳥図鑑』によると、鳥を見分けるのに大事なのはまずサイズらしく、初めて知ったのだが、その基準となる鳥を「ものさし鳥」というとのこと。「ものさし鳥」には小さい順から、スズメ、ムクドリ、ハト(キジバト)、カラス(ハシブトガラス)がいて、なるほどなあと思う。スズメサイズを基準にするのはメジロ、ジョウビタキ、シジュウカラ、コゲラ、ツバメ、カワセミ、ハクセキレイ、モズ。ムクドリサイズを基準にするのはツグミ、アカハラ、カイツブリ、ヒヨドリ。ハトサイズを基準とするのはカワラバト、カケス、コガモ、キンクロハジロ。カラスサイズの鳥はハシボソガラス、トビ、カルガモ、アオサギである。これによって私の中ではツグミ、ヒヨドリ、カケス、カルガモのサイズ感は修正された(もう少し小さいと思っていた)。同じ姿形でも大きさが違うと印象が違うのは鳥も動物も同じである。日本で一番大きい鳥はオオハクチョウ、一番小さい鳥はキクイタダキ(体はウグイス色で体重5g、頭のてっぺんが鮮やかな黄色があるのでこの名が付いたか)だと分かった。この図鑑に出てくる細密画は、写真以上に特徴をとらえて描いてあるので、見ていてとても分かりやすく、何より楽しい。知れば知るほど同じ鳥類とは思えぬ姿形・生態であるが、皆それぞれに驚くべき合理性を身体化して、生活し子育てしている。いつも思うことだが、人間以外の生物のすごいところは、常に生きることしか考えていないことだろう。どんな状況でも生きようとする姿にいつも圧倒され、畏敬の念を禁じ得ない。


2025年2月13日木曜日

「共同宣教、共同牧会」

  今月帰省した目的の一つは教会懇談会に参加することだった。その日、礼拝後に教会員の作った美味しい昼食をいただいた後、会は始まった。懇談会の趣旨は、会津地区で既に始まっている実例の報告を聞き、自分たちの教会の在り方に照らして、これからの教会について話し合うことであった。2022年の資料では、日本の約17%の教会(もしくは伝道所)において専従の牧師がいない。これらの教会・伝道所では、比較的近くの教会の牧師が宣教・牧会を代務・兼務している。この割合は約30年前は11%であった。この数字は平均値で会って、予想されることだが、無牧の教会や伝道所の割合は地方の教区や過疎地域で高くなっている。

 報告された会津地区での取り組みは、今まで二人の牧師がそれぞれ自分の教会以外に1つずつ他の教会・伝道所を兼務していたのを、二人で4つの教会・伝道所を共同で担当する方式に変更したということであった。礼拝も二人の牧師がローテイションで4つの教会・伝道所を担当し、それぞれの教会・伝道所の役員会にも二人そろって出席する。そのため通常、礼拝後に行われる役員会は別の日に設定せざるを得ない。また、そこで話し合われた内容は4つの教会・伝道所で共有しているとのことだった。

 こうして書いていると、牧師の負担は相当なものになると思われ、二人の牧師がそれぞれ2つの教会・伝道所を担当していた時より明らかに大変そうな気がする。信徒同士は、最初は心的抵抗があるかもしれないが、お互いの内情がオープンになることで親交が深まるかもしれない。してみると、これを始めた牧師は人口減少の中で教会の今後を見通した時、これがどうしても必要だと感じ、自らの負担を顧みずこの大転換に専心しているのではないかと言う気がする。

 懇談会という性質上結論めいたまとめはなかったが、いろいろな意見が出てざっくばらんに話せたのはとても良かったと思う。私の感触では、①1教会に1人の牧師という恵まれた状況はもう望めないこと、②近隣の教会・伝道所と交流を深め、理解し合うことがこれまであまりに少なかったこと、③今ある教会・伝道所を拠点として、これを減らさずに宣教・牧会をしていく視点で考えることが急務であること等は、全体として確認されたように思う。

 私自身は時おり近隣の教会に出席することはやぶさかではない。避けてほしいのは、日曜の朝に教会に行ったら閉まっていて「本日は〇〇教会にて礼拝を行っています」というような事態である。牧師がそこにいなくても、何人かの信徒と共に集い、オンラインで4つの教会を結んで牧師の説教を聴き、讃美歌を歌い。聖餐式がもてたら、それ以上のことはない。いまいる母教会においても、次に牧師が来るかどうかは誰にも分からない。今が共同宣教・共同牧会の最後のチャンスかも知れないのである。人口ピラミッドから言って、2人の牧師が4つの教会を牧会するという在り方は、おそらく瞬く間に牧師一人で4つの教会を担当しなければならない事態へと変容するだろう。その時、前段階を踏んでいなければ、急に共同礼拝と言っても無理だと予測されるからである。

 こういった現象はキリスト教界に限らない。住職の稲井「無住寺院」や神職の稲井「兼務神社」の問題は日本中で顕在化している。これらは全て人口ピラミッドから説明できる減少である。とりわけ登録信徒の多かった宗教は影響も大きいだろう。変な話だが、日本のキリスト教徒はこれまで一度たりとも人口の1%を超えたことのない信徒数しかいなかったため、影響が顕著になるのはまさにこれからだろう。30年前に既にヨーロッパでは信徒のいない教会をたくさん見た。信徒数の減少で立派な教会堂を維持できず、公共の施設や芸術作品の展示等の目的で使われていた。ヨーロッパの教会の信徒減少は人口減少と言うより社会の「世俗化」によるものだったと思う。

 またまた変な話だが、日本では現世利益を求めて教会に来る人はいない。むしろ今の時代、生きる心の糧を求めて教会に来る人が多いように感じる。そしてまた、日本のプロテスタント教会にも様々な教派はあるが、何しろ八十年前の戦時下に無理やりひとまとめにされてしまっていたから、現在日本基督教団という一応の代表的組織があり、様々ありながらも話し合いが持てている。「もはや教派にこだわっている場合ではない」という、欧米では決してあり得ない共同宣教もでき得る足がかりとなるのではないだろうか。「宣べ伝えられているのがキリストであるならば、共同しよう」と決意できるアドバンテージが日本にはあると、私は希望を持っている。


2025年2月7日金曜日

「冬場の帰省」

  少し前にラジオでリスナーからこんな投稿があった。投稿者は北海道在住の母親。「昨年東京の大学に進学した娘が正月にも帰って来なかった。メールや電話は頻繁にしていて心配はない。しかし…先日した会話。娘:『朝の気温が4℃で寒くて起きられない』 母:『こっちはマイナス15℃だよ。4℃なんて春の気温だべさ』 そうして投稿は「娘よ、北海道を忘れないでほしい」と綴られていた。思わず、「おお、分かる。娘さんの気持ちも母親の気持ちも」と膝を打った。私も今年の1月は帰省していない。12月の帰省時期はクリスマスだったし、1月後半には通院予定があってまとまった期間を取れなかったからである。

  冬場の帰省は天候と気温の問題が常につきまとう。2月の帰省は12月からの間隔を考慮するとあまり後ろにずらせず、今季一番の寒波が来るというアナウンスの中、「えい、ままよ」と帰ってきた。自宅を8時過ぎに出るという冬場特有の時程で上野駅に到着。新幹線の時刻には余裕で間に合ったが、早速ホームで遅延のアナウンスを聞く。東京駅の出発が安全点検のため遅れていると言う。初めてのことである。長引かなければいいがと思いつつ待っていると、11分の遅れで到着。自由席も7割程度の混み具合でゆっくり座れてよかった。東京は雲一つない快晴で、これは宇都宮を過ぎても続いたが、白河を過ぎる辺りで外の景色は一変、いきなり真っ白になった。しかし、新幹線はごくわずかだが遅れを回復しつつ福島に着いた。有り難し。ローカル線の駅では兄が迎えに来てくれていた。辺りは雪だが、道路はアスファルトが見えているのでホッとする。これは寒冷地では願ってもない僥倖と言ってよい。

 寒さは生物にとってリスクであるが、それは歳と共に強まっていくように思う。母も父もりくも冬に亡くなった。兄が入院したのも冬、バスを待つのが寒かった記憶がある。特に普段暖かいところで生活している身には応え、帰省にはつい二の足を踏んでしまう。だが、冒頭のラジオの話ではないが、一片の真理として、時々現地に足を運ぶのは大事なのである。やはり人と直に会い、土地の環境に身を置くというのは特別なことだ。私の場合、月一の帰省の大きな理由の一つに母教会の訪問がある。普段「会報」などを通して、またお互い祈り合うことを通して親しんでいる教会の方々に会うのは格別で、内側から力づけられるのをしみじみ感じる。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133:1)」の御言葉の通りである。今回も無事帰って来ることができ、神様に心から感謝である。


2025年1月31日金曜日

「宅電とスマホ」

  私は電話が嫌いである。ほとんど「フォビア(恐怖症)の領域」と言ってもいいほどである。これは子供のころからのことでどうしようもない。したがって私の宅電(自宅の電話という意味。他にこの語を使っている人がいるのかどうか知らないが、「いえ電」を「家電」と書くと「家庭用電化製品」と誤解されるので、仮にこう書いておく)は35年前の骨董品と言える代物で、ナンバーディスプレィとか留守電機能とか、もちろんFax等は一切ない。家にいれば恐る恐る出て、「もしもし」くらいは言うことがあっても絶対に名乗らない。相手は変だと思うようだが自衛手段である。営業の電話はとんと無くなったが、あれば反感を買わぬよう丁寧な言葉で応答し、問答無用で切る。世論調査なども失礼してすぐ切る。安心して出られるのはかかってくることが分かっている電話だけである。この宅電のいいところは、外出中はどんな電話があっても知らずにいられることである。電話に何の痕跡も残らないので、あってもなかったのと同じなのだ。

 20年位前からは「携帯電話を持たねばならない」という社会的要請が次第に強くなり、仕事上では欠くべからざるものとなった。家の中に嫌いなものがもう一つ増えたのである。そして、全く迷惑な話であるが、近年は3Gから4Gへの移行としてスマホが必須になってきた。私はスマホを持ち歩くことはほぼない。その意味で私のスマホは携帯電話ではなく固定電話である。持って歩くのは人との待ち合わせと帰省の時だけである。つまり自分が困った時、自ら通話するための非常用である。私にとっては持ち歩く便利さより、紛失した時の恐怖の方がはるかに勝っている。自分がそういうことをしがちな人間であるという自覚があるからだ。

 スマホは自宅に固定してあるとはいえ、宅電と違い、不在の間の着信履歴が全て分かるので、帰宅後に一仕事となることがある。私がスマホを持ち歩かないことを知っている友人には、不義理しないように「今帰宅しました。あとはずっと家にいます」とメールしておく。電話が来ることもあれば、「明日電話していい?」という展開になることもある。不在中に届くメールの中には、応答を要する割と大事なものも結構あるので、それには丁寧に変身する。

 スマホが必須になってきたと感じるのは、2段階認証を求めてくる場合の電話番号として、宅電の番号を受け付けないということがある。これには本当に参ってしまう。もう一つは、私は基本的に電話番号欄は宅電の番号を書くことにしているが、病院などで念のため携帯番号を求められたり、工事関係の業者さん等に「できれば携帯番号を」と言われる時がある。確かに帰省時などの急ぎの連絡手段としては必要だろうし、不在時でも相手はメッセージを残せるから時間が無駄にならない。これもやむを得ないであろう。

 そしてスマホが必須となってきた事例のもう一つは、スマホにしかないアプリで何かをしなければならない時である。何といってもスマホはパソコンの進化系である。電話としての機能はその働きのごく一部にすぎない。つい最近、集合住宅の管理組合でweb会議やらweb議事録やらへの移行を考えているらしく、管理組合名で或るアプリをインストールしてほしい旨の文書が出た。私はアプリのインストールをほとんどしたことがなく、そのアプリを入れるのに必須の、その前段階のアプリさえ入れていなかった。何か大きな間違いを試送だったので、これは友人にお願いしてやってもらった。結果、アプリはダウンロードして使えるようになったが、使用者が使い方を知らないので宝の持ち腐れとなっている。そのアプリを使うと、定期総会の議決権行使書の記入をwebでできるのだが、なんと私はメールボックスに紙で届いた用紙に書いて提出した。後で自分の投票結果をwebで確かめられはしたが、「間違いなく入力してある」と思っただけである。会議や総会にスマホで参加したい人には便利だろうが、どうということはない。ただ、友人に丸投げしたとはいえ、管理組合からの要請に応えて、私のスマホにアプリは入ったのだから「義理は果たした」という思いである。

 最近近くのスーパーが別のスーパーに変わり、今まで使えていたスイカが使えなくなってしまった。思うに厳しさの増す経営戦略の中で、それぞれの企業で自社の電子マネーを用いるようになったためだろう。これ以上カードを増やしたくないし、スマホを使った何とかペイなるバーコード決済など、私には到底できようもない。かといって少額の支払いにクレジットでもあるまい。とすれば残るは現金決済! 何たることかここでも時代に逆行する私。その店でしか買えないものもあるので買い物には行くが、純粋に「自分が使用する決済方法がない」という理由で別の店に行く頻度は確実に増えた。

 私はまだやっとスマホを連絡方法として使用することに少し慣れただけである。アプリを使っての様々な作業にはとても付いて行けそうにない。一方、詐欺関係の悪事の件数は宅電の比ではないだろう。通信料が無料に近いのだから、世界中の悪者がやりたい放題である。スマホを握ったときは世界中の悪者との戦いの最前線にいる覚悟でいなければならないと思う。或る人にとって絶大な利便性を発揮するスマホは、使い方を知らない慣れない者にとっては危険物となる。かつてうちにも時々あった宅電のワン切りは今ではなくなり、宅電の危険性は急速に減少した。時代遅れのものにもいいところはある。


2025年1月24日金曜日

「若者が巣立つ社会」

  先日美容院に行くと、時々あることであるが、高校生かと思うほど非常に若い、恐らくインターンと思われる方がいた。まだ雑用や簡単な作業しか許されていないようであったが、私は染髪のためにお世話になった。ここから一人前の美容師になるまでには長い道のりがあるであろう。染髪時間をおく間に彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、何故か何とも言えない切なさで胸が詰まり、その行く末の幸を祈らずにはいられなかった。

 『先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち』(金間大介、2022/3/18 東洋経済新報社)を読んだ。現在の大学生の実態を知ることができ、途中でやめられないくらい面白かったが、舟津昌平の『Z世代化する社会』同様、衝撃的すぎてしばし口がきけなかった。だがしばらくたってよく考えてみれば、「出る杭として打たれぬよう悪目立ちしない」、「進学・就職においてはひたすら安全志向」、「挑戦や自発性の発揮よりとにかく指示待ち」等々は、少なくとも三十年昔からあり、それが高度に強化されただけと言う気もする。この三十年は日本がじわじわとしかし確実に縮んでいった時と重なる。

 その間に中流層の没落により社会に下降不安が蔓延し、一段と貧困化が進んだアンダークラスの過酷な現実があからさまになったのは誰も否定できないと思う。楽観的な国民性の国ならば別だが、日本人のメンタリティとして、若者が上記のようになるのも無理はない気がする。本の内容で私が一番驚いたのは、記されていた正確な言葉ではないが、「日本の若者は社会的富の分配において、必要に応じてでも、努力に応じてでも、もちろん能力や貢献に応じてでもなく、平等に配分されることを望んでいる割合が最も高い」ということだった。長年の平等主義教育の成果がここに極まっている。このような回答をする若者は現在世界ではまれであろう。その人たちから見ればまったく笑うべき考えであろうと思う。ただ、私はここを読んで、聖書の「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ福音書20章1~16)を思い出した。西洋ではなく日本の若者が最も天国に近い考え方をしているとは意外である。

 成長無きこの三十年の間に、貧困にあえぐ若者によって多くの本が書かれてきた。「もはや戦後ではない」と言われた1956年よりだいぶ後に生まれた私の子供時代も、そうは言いながら、社会全体が相当貧乏だったことを覚えている。その私の記憶をもってしても、今のアンダークラスの生活の悲惨さは読んでいて胸が苦しくなるほどである。それには共同体が壊れ、社会のセーフティネットが公的なものだけになり、或る種の情報を得て何とかそこまで辿り着いた人だけが救われるようなシステムだからである。

 取り敢えず、若者の貧困をこれ以上拡大しないために即できることは、大学までの全ての教育費を無償化すること、既に発生している奨学金の返済負担は国が引き継ぐことであろうと思う。一部の自治体でその中での居住や就職を条件として奨学金の肩代わりを行っているところ、またその予定を立てているところはあるが、財政状態の全く違う自治体にそれを任せるのではなく国として行うべきものだろう。可処分所得がほとんどないのでは、若者は自分の未来を描けるはずがない。大学進学率が半分を超えている社会なのだから、せめて十年早くそういう措置を取っていたなら今ほど酷い状態にはならなかったと強く思う。社会に出る時点で既に多額の借金を背負っているような事がないようにするのは、最低限社会の責任だと思う。社会に対して若者が敬意を持ち、縮こまらず恐れ過ぎず前向きに巣立っていける社会であってほしいと切に願う。