今月帰省した目的の一つは教会懇談会に参加することだった。その日、礼拝後に教会員の作った美味しい昼食をいただいた後、会は始まった。懇談会の趣旨は、会津地区で既に始まっている実例の報告を聞き、自分たちの教会の在り方に照らして、これからの教会について話し合うことであった。2022年の資料では、日本の約17%の教会(もしくは伝道所)において専従の牧師がいない。これらの教会・伝道所では、比較的近くの教会の牧師が宣教・牧会を代務・兼務している。この割合は約30年前は11%であった。この数字は平均値で会って、予想されることだが、無牧の教会や伝道所の割合は地方の教区や過疎地域で高くなっている。
報告された会津地区での取り組みは、今まで二人の牧師がそれぞれ自分の教会以外に1つずつ他の教会・伝道所を兼務していたのを、二人で4つの教会・伝道所を共同で担当する方式に変更したということであった。礼拝も二人の牧師がローテイションで4つの教会・伝道所を担当し、それぞれの教会・伝道所の役員会にも二人そろって出席する。そのため通常、礼拝後に行われる役員会は別の日に設定せざるを得ない。また、そこで話し合われた内容は4つの教会・伝道所で共有しているとのことだった。
こうして書いていると、牧師の負担は相当なものになると思われ、二人の牧師がそれぞれ2つの教会・伝道所を担当していた時より明らかに大変そうな気がする。信徒同士は、最初は心的抵抗があるかもしれないが、お互いの内情がオープンになることで親交が深まるかもしれない。してみると、これを始めた牧師は人口減少の中で教会の今後を見通した時、これがどうしても必要だと感じ、自らの負担を顧みずこの大転換に専心しているのではないかと言う気がする。
懇談会という性質上結論めいたまとめはなかったが、いろいろな意見が出てざっくばらんに話せたのはとても良かったと思う。私の感触では、①1教会に1人の牧師という恵まれた状況はもう望めないこと、②近隣の教会・伝道所と交流を深め、理解し合うことがこれまであまりに少なかったこと、③今ある教会・伝道所を拠点として、これを減らさずに宣教・牧会をしていく視点で考えることが急務であること等は、全体として確認されたように思う。
私自身は時おり近隣の教会に出席することはやぶさかではない。避けてほしいのは、日曜の朝に教会に行ったら閉まっていて「本日は〇〇教会にて礼拝を行っています」というような事態である。牧師がそこにいなくても、何人かの信徒と共に集い、オンラインで4つの教会を結んで牧師の説教を聴き、讃美歌を歌い。聖餐式がもてたら、それ以上のことはない。いまいる母教会においても、次に牧師が来るかどうかは誰にも分からない。今が共同宣教・共同牧会の最後のチャンスかも知れないのである。人口ピラミッドから言って、2人の牧師が4つの教会を牧会するという在り方は、おそらく瞬く間に牧師一人で4つの教会を担当しなければならない事態へと変容するだろう。その時、前段階を踏んでいなければ、急に共同礼拝と言っても無理だと予測されるからである。
こういった現象はキリスト教界に限らない。住職の稲井「無住寺院」や神職の稲井「兼務神社」の問題は日本中で顕在化している。これらは全て人口ピラミッドから説明できる減少である。とりわけ登録信徒の多かった宗教は影響も大きいだろう。変な話だが、日本のキリスト教徒はこれまで一度たりとも人口の1%を超えたことのない信徒数しかいなかったため、影響が顕著になるのはまさにこれからだろう。30年前に既にヨーロッパでは信徒のいない教会をたくさん見た。信徒数の減少で立派な教会堂を維持できず、公共の施設や芸術作品の展示等の目的で使われていた。ヨーロッパの教会の信徒減少は人口減少と言うより社会の「世俗化」によるものだったと思う。
またまた変な話だが、日本では現世利益を求めて教会に来る人はいない。むしろ今の時代、生きる心の糧を求めて教会に来る人が多いように感じる。そしてまた、日本のプロテスタント教会にも様々な教派はあるが、何しろ八十年前の戦時下に無理やりひとまとめにされてしまっていたから、現在日本基督教団という一応の代表的組織があり、様々ありながらも話し合いが持てている。「もはや教派にこだわっている場合ではない」という、欧米では決してあり得ない共同宣教もでき得る足がかりとなるのではないだろうか。「宣べ伝えられているのがキリストであるならば、共同しよう」と決意できるアドバンテージが日本にはあると、私は希望を持っている。