2025年3月27日木曜日

「3月末、レントの時」

  鬱々と過ごしている。受難節だからこれはふさわしいこと。世の邪悪さに打ちひしがれても、本人にとっての大きな問題を抱えていても、主の御受難を思えば何ほどのものでもない。そして受難は必ず復活の喜びに変わると分かっているのだから、なおさらである。

 或るきっかけで、このところ主イエスご自身の洗礼について考えている。4つの福音書には、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが書かれている。それぞれ詳細の濃淡はあるが、4つの福音書全部に書かれているから、歴史的な事実と考えてよいだろう。ヨハネ自身は、自分が後から来て洗礼を授ける方の先駆けであり、その方に比べたらいかに価値なき者であるかとの自覚がある。なぜ罪なき神の御子が人間の一人にすぎないヨハネから洗礼を受けたのかについて、これまで私はあまり考えたことがなかった。

  一番あっさり書かれているマルコによる福音書では、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた(1章5節)」こと及び「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた(1章9節)」ことが簡潔に書かれている。

 マタイによる福音書では、ヨハネのもとに続々と集まって来る群れの中に、「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て(3章7節)」、「差し迫った神の怒りを免れると思うな」との激しい言葉を投げつけていることと、自分のような者から洗礼を受けようとするイエスを、ヨハネが思いとどまらせようとした記述が特徴的である。

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(3章13~15節)

 ルカによる福音書では、人々一般に対して、厳しい言葉で「差し迫った神の怒り」と「悔い改め」の仕方についてこまごまと述べているのが特徴的である。イエスご自身に関する記述は、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると(3章21節)」と、簡潔である。

 ヨハネによる福音書は、例によって趣がかなり異なるが、イエスが洗礼を受けた直後に何らかの「霊」が降って来ることは他の3つの福音書と同じである。しかし、誰がそれを見たかについては書き方が異なる、特にヨハネによる福音書では、ヨハネがそれを見たことによって「この方がしかるべき方だ」と確信したという書き方になっている。つまり洗礼者ヨハネもそれまでは「イエスが神から遣わされた御子である」という確信が持てなかったのである。4つの福音書のその部分の記述は以下のとおりである。

マタイ3章16  イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

マルコ1章10~11節  水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ルカ 3章21~22節  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ヨハネ1章32~34節  そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 こうしてみると、主イエスが洗礼者ヨハネからの洗礼を受け入れた理由が分かってくる。水による洗礼はそれほど重要なものであるということなのだ。口で信仰を告白しても、それは洗礼によって示されなければならないということである。主イエスご自身が水による洗礼にこだわったからである。洗礼無しで済ませることをしなかったからである。信仰告白と洗礼はやはり一体のものであるということを、私自身は深く理解できたように思う。