2025年3月6日木曜日

「紙関係の断捨離」

 羽根布団のリユースをきっかけに、片づけ熱に火が付いた。久しぶりに大掛かりに片づけを行う。夏は暑くてとても無理だし、この作業は気が乗った時にしかできない。もはや無用の「物」の処分ではあっても、過去の記憶と密接に結びついている間はなかなかしづらい。それでも不思議なもので、歳とともに「ああこれ、いらなかったな」というものが明瞭になって来る。それはもはや大きく心を揺さぶるようなものではなくなっているからで、今が処分時なのである。

 今回は、ノートや原稿用紙、テキストや書籍、海外旅行の資料や記録、それに手紙やはがきといった、「紙」関係のモノばかりである。お便り類はともかく、今までも本やノートは部分的にかなり処分してきたが、まだ残っているものは何らかの理由で捨てられなかったものである。が、今となっては「もういらない」とはっきり分かる。書籍類は普通にひもで縛り、ノート類は個人情報部分が分からぬようにして、やはりひもで束ねてゴミ置き場へ持っていく。と書けば一言で終わるが、厚さが4センチほどもある同窓会名簿などは住所氏名が特定できないほどに切り刻んで普通ゴミに混ぜたりもしたし、何しろ大量で大変だった。紙がどれだけ重いか改めて知らされ、スーツケースに入れて何度も家とゴミ捨て場の間を行き来した。

 一方、まだ残しておく書籍もある。これは、「読み物」としてではなく、 「思い出の品」としての分類で、特に十代の頃読んだ本ばかり。これらが不要になるのは何年後であろうか。

 これだけでも二日がかりだったが、続いてお便り類に手を付ける。何しろ気温急降下の寒い日は絶好の断捨離日和。実はお便りの処分は今まで手を付けてこなかった。メールが一般的でなかった時代、通信手段は手紙なり葉書なり全て郵便だった。相手が手ずから書いたものだと思うとどうしても捨てられなかった。それらが大きな段ボールに3箱ある。一箱に三百通は入るから多分千通くらいあるだろう。気が遠くなる。

 ここで家に電動シュレッダーがあったことを思い出し、ガサゴソ引っ張り出してくる。音声読書器にはミステリを数冊入れて準備完了。これで気が滅入らずに作業できるだろう。今まで処分するに忍びなかったものを前に気持ちを切り替える。考えようによってはこれらが残っては困るのだ。まだ気力と体力があるうちに処分しなければと決意を固める。問題はこれらが個人情報の塊だということである。実際は便りの内容にしてもそんな大げさなことは何もないのだが、やはりこのまま捨てることはできない。この時ほど電動シュレッダーを処分しないでおいてよかったと思ったことはない。普段は小さな手動のもので事足りていたから、シュレッダー自体、「もう要らないかな「と思っていたのだ。皮肉な話だが、処分者の私自身はもう中身を容易には読めない。が、やるしかないだろう。

 どう考えても何日もかかりそうである。ざっくり言って、送り主の半分は連れ合いのヘルベルトである。だからこれについては、一番後回し。また数はさほど多くないが、父や母、及び親族が送ってきた便りがある。これは当面取っておく。残りの半分のうちその5分の3は恐らく筆まめな友人からのもので、メールになる前の、15~20年前くらいのものであろうか。あとは本当に多くの様々な方からのもので、いかに自分が多くの方々との関係性の中で生きてきたかを感じずにはおれない。ただただ感謝である。

 大まかな攻勢を把握したところで既に疲れを感じたが、頑張って課題に向かう。作業の要諦は「中を開いてはいけない」ということである。しかし、読むつもりはなくてもあまりに懐かしい名前や生徒からの便りなどは、「もうしばらく取っておく」に分類してもいいかなと、やや日和る。お便りの処分はなかなか辛いが、「残っても困るでしょ」と自分に言い聞かせながら心を鬼にして行っている。「それらはもう全部今の自分の中にあるのだから」、と。