昨年末の水難事件が片付きやれやれと思っていたら、これが次の水難を引き起こすきっかけとなっていたことが最近分かった。詳細は省くが、次の困難な事態が起きたのである。前の件が終わった直後だったのでさすがにがっくりきたが、前を向いて解決に向かわねばならない。何しろ今年の目標は「面倒くさがらずにやる」なのだ。頭の中は『365歩のマーチ』、これしかない。そう、こちらから幸せに向かって歩いて行かねば・・・。
さて、最初に連絡を取ったのは管理会社のAさんである。この方は集合住宅の管理物件を数件抱えて大変忙しい方であるため、ほぼいつも管理人さんを通してやりとりしている。今回の事例は共有部分に端を発しているかもしれないことから、Aさんはすぐ建物・施設調査の手配をしてくれた。その時やってきた営業の方がCさんで、実にテキパキと調査をして帰って行かれた。問題の箇所は専有部分との結果だった。管理会社から私にはその正式な調査報告が届かず、ましてや解決方法を示されることもなかった。Aさんにしてみれば自分の為すべき仕事を果たし、「あとは個人の責任で対応」と思ったのであろう。こちらから聞かなければ結果の詳細を伝えてもらえなかったことを除けば、管理会社の社員としてごく普通の対応であろう。
というのは、前回の水難事故で関わった共有部分の保険会社の代理店(仮にBさん)の対応はひどいものだったからである。電話の対応からのみの印象だが、語弊を承知で述べるなら、昭和のオヤジの最悪な部分を全面に漂わせ、顧客に対してもパワハラ体質が抜けないのみならず、やる気が全く感じられない人だった。「職業人以前に、社会人としてどうなのか」と思わざるを得なかった。Bさんの態度には私もAさんも閉口し、互いに苦労を共有したものである。結局、契約を果たしてもらったが、次回の共有部保険会社の選択時にはこの不愉快な体験について理事会に一筆上申書をしたためる所存である。
このように管理会社はそれなりにきちんとした対応はしてくれたのだが、専有部分の問題と分かったとたんに、我関せずという態度で手を引いたことは納得できない。現在の問題個所が専有部分だからといって、それは必ずしも施工時に問題がなかったことを意味しない。なぜなら現在の問題個所は購入者が事前に知りえぬ部分だからである。問題が起きている箇所が法的には個人対応とされる場合でも、施工会社のアカウンタビリティが問われる案件もあるだろう。
さて、そのようなことを踏まえたうえで、目指すべきは当面の問題解決である。こちらは無理無体なことを要求しているわけではない。問題解決の糸口が見えず途方に暮れていたのである。ここに、管理会社からの頼みで、こういった問題の解消に詳しいCさんが派遣されてきた。CさんはAさんから「電話で解決の方策を説明してやってほしい」と頼まれたのであるが、「これを電話で説明するのはとても無理なので」と言ってわざわざ来てくれたのである。
Cさんは本当は説明するだけのつもりで来たのだが、あちこち現場を見て私の窮状を察してくれた。そして「早急な対応が必要」と判断したようで、あれこれ解決法を考えてくれたのである。私もいろいろ質問することができ、今後に向けての道筋が見えてきた。さっそく家にある家電を用いてその場でできる当面の対策を取り、近いうちにさらなる手当の手配をしてくれることになった。問題解決が2歩も3歩も進んだ感じである。これはひとえにCさんが、惻隠の情から、自分のしなければならない仕事の範囲を超えて助けてくれたことによる。Cさん自身多くの仕事を抱えた優秀な営業マンであるから、できればこれ以上余計な仕事は増やしたくなかったであろうが、やってくれることになったのである。このような人がいなければ世の中は保たれないことを深く実感している。しばらくは、落ち着いて家を離れられない状況だが、見通しがついたので気持ちは春の日差しのように明るい。
いま頭に浮かぶ聖句はマタイによる福音書12章20節である。
「公正を勝利に導くまで/彼は傷ついた葦を折ることもなく
くすぶる灯心の火を消すこともない。」
確かに助けは来た。天地を造られた主のもとから。心から感謝である。