先日美容院に行くと、時々あることであるが、高校生かと思うほど非常に若い、恐らくインターンと思われる方がいた。まだ雑用や簡単な作業しか許されていないようであったが、私は染髪のためにお世話になった。ここから一人前の美容師になるまでには長い道のりがあるであろう。染髪時間をおく間に彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、何故か何とも言えない切なさで胸が詰まり、その行く末の幸を祈らずにはいられなかった。
『先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち』(金間大介、2022/3/18 東洋経済新報社)を読んだ。現在の大学生の実態を知ることができ、途中でやめられないくらい面白かったが、舟津昌平の『Z世代化する社会』同様、衝撃的すぎてしばし口がきけなかった。だがしばらくたってよく考えてみれば、「出る杭として打たれぬよう悪目立ちしない」、「進学・就職においてはひたすら安全志向」、「挑戦や自発性の発揮よりとにかく指示待ち」等々は、少なくとも三十年昔からあり、それが高度に強化されただけと言う気もする。この三十年は日本がじわじわとしかし確実に縮んでいった時と重なる。
その間に中流層の没落により社会に下降不安が蔓延し、一段と貧困化が進んだアンダークラスの過酷な現実があからさまになったのは誰も否定できないと思う。楽観的な国民性の国ならば別だが、日本人のメンタリティとして、若者が上記のようになるのも無理はない気がする。本の内容で私が一番驚いたのは、記されていた正確な言葉ではないが、「日本の若者は社会的富の分配において、必要に応じてでも、努力に応じてでも、もちろん能力や貢献に応じてでもなく、平等に配分されることを望んでいる割合が最も高い」ということだった。長年の平等主義教育の成果がここに極まっている。このような回答をする若者は現在世界ではまれであろう。その人たちから見ればまったく笑うべき考えであろうと思う。ただ、私はここを読んで、聖書の「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ福音書20章1~16)を思い出した。西洋ではなく日本の若者が最も天国に近い考え方をしているとは意外である。
成長無きこの三十年の間に、貧困にあえぐ若者によって多くの本が書かれてきた。「もはや戦後ではない」と言われた1956年よりだいぶ後に生まれた私の子供時代も、そうは言いながら、社会全体が相当貧乏だったことを覚えている。その私の記憶をもってしても、今のアンダークラスの生活の悲惨さは読んでいて胸が苦しくなるほどである。それには共同体が壊れ、社会のセーフティネットが公的なものだけになり、或る種の情報を得て何とかそこまで辿り着いた人だけが救われるようなシステムだからである。
取り敢えず、若者の貧困をこれ以上拡大しないために即できることは、大学までの全ての教育費を無償化すること、既に発生している奨学金の返済負担は国が引き継ぐことであろうと思う。一部の自治体でその中での居住や就職を条件として奨学金の肩代わりを行っているところ、またその予定を立てているところはあるが、財政状態の全く違う自治体にそれを任せるのではなく国として行うべきものだろう。可処分所得がほとんどないのでは、若者は自分の未来を描けるはずがない。大学進学率が半分を超えている社会なのだから、せめて十年早くそういう措置を取っていたなら今ほど酷い状態にはならなかったと強く思う。社会に出る時点で既に多額の借金を背負っているような事がないようにするのは、最低限社会の責任だと思う。社会に対して若者が敬意を持ち、縮こまらず恐れ過ぎず前向きに巣立っていける社会であってほしいと切に願う。