穏やかな年明けを願いながら、新年を迎えた。といっても、別段何をするわけでもない一日である。強いて言えば、大晦日は横になっても眠気が来なかったので、本当に何十年ぶりかで紅白歌合戦を聞いたのが普段と違うくらいで、元日は慣例踏襲。ピクニック気分でコーヒーとお菓子持参でのどかな区民の憩いの公園に行き、あとは好きなだけ読書していた。それだけでも、年頭から或る種の感慨(大方は諦念に近い気持ち)に襲われ、昨年のような大震災の悲惨な元日でなかったことだけで良しとする気になった。
テレビ音声も入るラジオで聞いた紅白歌合戦は、普段から音楽の視聴に執着がないせいで、ほとんどの歌を知らなかったが、気づいたことは、どうも現在は複数人でダンスしながら歌うというスタイルが定着しており、出演者は皆さんグローバルに活躍されているとても才能のある若者なのであろうということ、あたかも年齢制限があるかのように年配の歌い手さんがほぼいないということだった。ただ、「日本語バージョン」として披露されていた歌でもまるで早口言葉のようで、ほぼすべての歌詞を聞き取れなかったのがショック…。老化現象かと真剣に案じる羽目になった。他には、「そういえばラジオで流れたことがある歌が何曲かあるな」と思ったが、それらはやはり話題の歌だったのだと分かった。あっちのけんとさんとか、クリーピーナッツとか、藤井風とか…。びっくりしたのは往年の大ロックスターが軒並み出演していたこと。B'zは単なる登場にとどまらず、さながらコンサートの様相で3曲熱唱。これには度肝を抜かれたが、「あれ、こういう人たちはテレビに出ないんじゃなかったの?」の思いはあった。日本はここまで弱ったのか。ああ、もう日本にはとんがった人、ツッパる人がいなくなった。「ああ、挙国一致で国を盛り立てていかなければならないほど、日本は弱くなったのだ」と私ははっきり悟った。寂しいことではあるが、受け入れねばなるまい。
正月に読んで面白かったのは、『Z世代化する社会:お客様になっていく若者たち』(舟津昌平、2024/4/17東洋経済新報社)である。この本は今どきの若者論にとどまらず、若者に顕著に現れたように見える実態分析から、社会全体の変化を理論化し、説明している。自分が学生だった40年前には既に大学のレジャーランド化は言われていたが、今は「テーマパーク化」と評されている。その違いはと言えば、テーマパークはお金をかけて造り込んだ夢の世界、ただ楽しい場所ではなく、何しろ学生は大学のお客様なのだから、「不快なこと」を一切排した場所でなければならないらしい。
初等教育、中等教育で「よい子」とされているのは、まず何よりも「静かに座っていられる」生徒だという指摘はかなり衝撃的である。そのため大学においても、最も不評な授業は学生を当てる(指名する)授業だと言う。これではお話にならないではないか。ちょっと私語を注意するといった、教師の側からはまっとうな要請でも、生徒にとって不快なことと受け止められると駄目らしいのである。ご本人の体験かどうか記憶が定かでないが、「PTAに言いつけますがいいですか」と言う学生に、「大学にPTAはありません」と答えたエピソードに唖然。これはすごすぎるなあ。自分に対して発せられるアドバイスやコメントを全て「説教」としか受け止められず、何か批判されたかのように感じるとしたら、教師は透明人間になるしかない。あるいは「聞く耳のある者は聞くがよい」と聖書的に呼びかけるか。いや、これも「聞く気がないなら聞かなくていい」と曲解され、見捨てられたと言ってメンタル・ケア案件になってしまうのだろう。処置なしで或る。
同様の趣旨で、企業での話として、もう一「切若い社員を叱れなくなった」という話もあった。正確でないかもしれないが掻い摘んで言うと、「感情を爆発させて怒る」というのは以前から一般に受け入れられないものだったが、アンガー・マネジメントの思想が普及した現在では、「怒る」ということ自体、精神に問題のある症状ととらえられるらしい。そこまではまだいいとして、昔言われた「感情に任せて怒るのではなく、落ち着いて論理的に叱るのがよい」といったことも、現在は通用しない。或る大企業の管理職の言葉が引用してあったが、それによると「いやもうね、怒ると叱るは違うとか、もはやそういう問題じゃないんだよね。会社の研修でも『もう絶対怒らないでください。叱ると諭すとか関係なく、それに類すると思われるようなことは一切やめてください』って言われるよ」・・・・ということになっているようで、「諭す」も駄目となるともう一切何も言えない、相手と関わらないしかなくなるではないか。会社で社員教育ができないということはあり得ないと思うが、事実そうなっているのだとしたら、こういう会社は早晩つぶれるしかないだろう。心底日本の危機を感じる。
さらに高校生の野球の指導に当たっているイチローの言葉も引いていたので引用させていただく。「指導者がね、監督・コーチどこ行ってもそうなんだけど、『厳しくできない』って。厳しくできないんですよ。時代がそうなっちゃってるから。導いてくれる人がいないと、楽な方に行くでしょ。自分に甘えが出て、結局苦労するのは自分。厳しくできる人間と自分に甘い人間、どんどん差が出てくるよ」……大人が子供に何も言えなくなった先にはどんな社会が現出するのだろう。いや、もうその時は来ているのだ。
もう一つ読んだ本で気になったのは、『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(飯田朔、2024/1/17集英社新書)である。これはほとんど映画および文芸評論であり、成長が止まった世界での生き方について考えた書のようである。ゼロサム的な世界で有限のパイを奪い合って生き延びるのではない生き方の模索と言ってよく、筆者自身、就活する気になれずに今に至っている。この書の過半が朝井リョウの本の分析に当てられているが、筆者は『何者』を読んで、「そもそも就活ができない自分のような人間はこの書に出てこない」と感じたと書いていた。朝井リョウは本当に卓抜した才能とセンスを持つすごい作家だと思うが、この人の本を一冊読んだあとは、「もう当分しばらくは(読まなくて)いいな」と、何とも言えぬ疲労を感じていた私は、その理由が分かった気がした。描かれているのは社会そのものなのだが、そこは自分以外のもので横溢している。学生時代、私は教員採用試験を受けただけで就活というものをしたことがなく、どうやってするのかも全く関心がなかった。もし生まれる時代がずれていて、何らかの理由で就活をしなければならない状態になったとしても、私には到底できないだろうと思う。自分もその地平にいるのでこんなことを言える立場ではないが、こういう人が相当数存在する日本はこれからどうなるのだろうと考えざるを得ない。年頭からめでたい話題ではないが、置かれている時代状況がそうなのだから止むを得まい。今年もまた一段と社会の狂騒化が加速しそうな予感がして、端的に恐い。