2025年1月17日金曜日

「信じる者とされるまで」

 最近知人の話を聴いたり書いたものを読んだりして、信仰には「信じたいのに信じられない」という葛藤が伴うことを改めて知った。「信じたい」から「信じる」という確信に至るまでの心の飛躍はどのようなメカニズムで起こるのか、ヒントになるかもしれない場面を「ヨハネによる福音書」の中に見つけた。

 それは、十字架の死を遂げたイエスが墓穴に葬られて、それですべてがお終いと誰もが思っていた後の次第を描いている20章以下の部分である。ヨハネによる福音書20章1~18節に書いてあることを私なりに箇条書きにすると以下のようになる。

1. 週の初めの早朝、お墓に行ったマグダラのマリアは墓穴の石が取りのけられているのを見て、ペトロともう一人(イエスが愛しておられた弟子)のところに知らせに行く。

2. ペトロともう一人が墓に走って行き、もう一人の方が先に着いたが、追いついて到着したペトロがまず墓穴に入り、体を包んでいた亜麻布と頭の覆いを発見した。「それから先に墓に着いていたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた。(ヨハネ20:8)」

3. 彼らは「イエスが復活される」という聖書の言葉をまだ理解しておらず、家に帰っていった。

4. 墓の外でマリアが泣きながら中をのぞくと、遺体の置いてあった場所の頭のところと足のところに、それぞれ一人ずつ天使が座っているのが見えた。

5. 「女よ、なぜ泣いているのか」と問われたマリアが「誰かが私の主を取り去り、どこに置いたのか分かりません」と言って、後ろを振り向くと、

6. イエスがおられるのが見えたが、それがイエスだとは分からなかった。

7. 園の番人だと思ったマリアは、「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と問われ、自分がご遺体を引き取るので、「どこに置いたのか、どうぞおっしゃってください」と言った。

8. イエスが「マリア」と言うと、彼女は振り向いて「ラボに(先生)」と言った。

9. イエスは、まだ父のもとに上っていないから自分に触れぬよう、また、「私の父でありあなた方の父である方、私の神でありあなた方の神である方のもとに私は上る」ことを兄弟たちに伝えるよう、マリアに言う。

10. マリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


 初めにお断りすると、先に到着していながらペトロが先に墓穴に入るまで待っていたもう一人の弟子、しかも「イエスが愛しておられた」という枕詞の付く、名前が明示されない弟子とは誰かについては、「ヨハネによる福音書」21章20~24節の記述から、古代においてはこの福音書を書いたとされていたヨハネということになる。これについては今立ち入らない。ただ、十字架上でイエスが息を引き取る前の場面から、ペテロとこの弟子の関係は創成期のキリスト教とユダヤ教の関係を暗示する存在ではないかと解する読み方があることを述べておく。

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『女よ、見なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』 その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネによる福音書19:26~27)

 さて、マグダラのマリアとは十字架上のイエスの臨終を看取った三人のマリアのうちの一人である。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。(ヨハネ19:25)」 つまり、この時ほかの弟子たちはどこかへ逃げ去って散り散りになっている。そして、週の初めの朝、葬られたイエスの墓を見に行ったマグダラのマリアに最初に復活の主イエスは現れたのである。

 この時のマリアの動作を不思議だと思うのはわたしだけだろうか。墓穴に入り天使を見た時、体は墓の奥を向いていたはずで、なぜ泣いているのか」という天使の問いに答えて後ろをり向いた時、体は墓の入口の方を向いたはずである。墓の入口に見えた人を園の番人だと思ったマリアはご遺体の在り処を問う。そして「マリア」と言う声を聞いて、彼女は再び振り向いて「ラボに(先生)」と口にするのだが、こうなると体は墓の奥、すなわちイエスの体が置かれていた方を向いていたことになる。園の番人だと思っていた相手が誰だかわかって、目の前にいる相手に「ラボに(先生)」と呼びかけたわけではないのである。

 私はこれが記憶というものの本質ではないかと思う。マリアは主イエスのお体があった場所を見、今はそこに無いものを見て、共に歩んできた主イエスのお姿をありありと思い浮かべたに違いない。そしてそのご生涯の意味を少しずつ悟ったに違いないと思う。目の前にいても誰だかわからなかった人を、「振り向く(思い出す」)ことでその正体が分かったということだろうと思う。そしてこれは、地上の生を主イエスと共に過ごしていてもそれが誰なのか分からなかった弟子たちに子の後共通して起きた現象である。のみならず、この現象はこれまで生きた、あるいは今生きている、そしてこれから生きる全ての信仰者に起きる「信じる」という過程であると思う。歴史上知らない人物に人は出会うことができる。人は聖書に示されたイエスの生涯や御言葉を説く説教によって、主イエスに出会い信仰者となる。

 マグダラのマリアが弟子たちに「私は主を見ました」と告げた後、同じこと(即ち、主エスが生きていると信じること)が弟子たちにも起こる。ちなみに上記「2」において、「それから先に墓に着いていたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた(ヨハネ20:8)」という言葉において、この時点で「信じた」の意味するところは単に「イエスのご遺体がなくなっている」ことを認めたということであろう。

 マリアの告白の後、主イエスは三度にわたって弟子たちに現れる。①ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家に閉じこもっていた週の初めの夕方、②それから八日後、「私たちは主を見た」という他の弟子の言葉を信じなかったトマスの在宅時に、③その後、ペテロをはじめ7人の弟子たちがティベリアス湖で一晩中漁をして何も捕れなかった明け方に、の3回である。詳述しないが、最初の2回の弟子たちの様子は、まるでイエスを見捨てて逃げ去ったり、イエスの存在を疑ったことがないかのような喜びに満ちている。ここには裏切った相手に出くわした恐れや不信感を持った気まずさなどがまるで無い。相手が主イエスであると分かった瞬間にそんなものは吹き飛んだとしか思えぬ姿である。弟子たちはただかつて共に歩んだ主イエスに会えてうれしいのである。「我が主」が今確かにここにいる、という喜び以外の感情が彼らには無い。これが信仰の本質であろうと思う。イエスの十字架の死と復活を経て、もう彼らは主イエスが全ての罪を赦す権能をお持ちであると知っているからである。

 イエスを我が主として信じたいと思っているほどの人は信じたい理由があるはずで、それは自分の人生の節目節目を振り返ることで感知できるのではないかと思う。「そういえばあの時、何故だか…だった(でなかった)」とか「もしあの時…だったら(でなかったら)」と、何か引っ掛かって来る記憶があればそれをヒントにゆっくり思い出してみてはどうだろう。「信じたい」と思うのはもう信じていることになるのではないかとも思う。自分の人生に何が起きたか、ごくありふれたものに思えた過去が一挙につながって来るということがあるかもしれない。結局記憶こそが未来を創るのである。