保険調査の方との対面の後、保険についてつらつらと考えていた。考えてみれば、今まで入院時に生命保険の請求をしたことがあるが、建物に関する火災保険の請求は初めてである。手順に則って事実をありのままに報告し、復旧に必要な費用を請求する・・・あとはレッセ・フェール、為すに任せるほかはないと思っていた。
ところが。どうも保険請求というものは、保険会社と被保険者の金額を巡る攻防を前提に成り立っているものらしいのである。保険屋は少しでも支払いを減額する材料をいつも探しているらしい。こういった世事に疎い私であるが、先日の保険鑑定人・調査員による聴き取りを受けて、嫌でも状況が分かってきた。もともと管理人さんから報告のあったマナー違反(無許可の写真撮影)については一言保険会社に言わねばなるまいと思ってはいたが、よくよく考えるとそんなのんきな事態ではなかった。聴き取りに同席してくれたリフォーム会社の担当者によると、今までの経験からしても「あの面談は異常、抗議すべき」という話だった。身分証の提示要求、重要な役割を果たした除湿器の現認、第三者による写真の日付の確認要求・・・どれをとっても、そして何度考えても、行き着く結論は「私は保険金詐欺の企図者と思われている」である。愕然とした。ショックであり、情けなかった。あろうことかニュースや推理小説でしか知らない保険金詐欺を行う輩と思われたのである。
気持ちはず~んと沈み、丸一日そのことを考えていた。元来気が弱く、こういったことについて物言いをつけるのは私の最も苦手とするところである。しかし、事は私の人格に関わる。テレフォビア(電話恐怖症)の私は、意を決して震える手で受話器を持ち、保険会社に電話した。努めて抑制した口調でお話しする。私はクレーマーを忌み嫌っているのだが、正当な抗議はしておかなければならない。無事話し終え、担当の方は「不愉快な思いをされたのなら申し訳ありません。確認します」とのことだった。確かに、保険会社から保険調査員が派遣されたのには訳がある。事故と被害の間に時間があるからだが、それは建物の構造上そうなったのである。保険というものは思いがけない被害にあった人を助けるためにあるはずではないのか。もしその人の置かれた窮状を我が事として想像してみることができないのであれば、保険の社会的意義は著しく損なわれる。私のケースは保険会社の存在意義が問われる事例になるであろう。
わたしは二つのことをあなたに求めます、/わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、/貧しくもなく、また富みもせず、/ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、/「主とはだれか」と言うことのないため、/また貧しくて盗みをし、/わたしの神の名を汚すことのないためです。
(箴言30章7~9節 口語訳)
私の願いも本当はただそれだけなのである。