2013年5月17日金曜日
「スパルタ教育」
私が中学時代を過ごした頃のことを表現する言葉があるとしたら、ただ一言「ラディカル」でしょう。時代的なものなのか、風土的なものなのか、あの中学特有の伝統なのか、今の感覚では考えられないようなことが普通に行われていました。生徒たちは休日にも徒党を組んで、先生に無断で勝手な活動をしていました。荒川河川敷の通称「夢の島」で早起き野球や球技大会の練習をしたり、夏休みに摺上川流域のキャンプ場でキャンプをしたり・・・。それを知っていたはずの先生は気の休まる時はなかったでしょう。晩秋の阿武隈川沿いのサイクリングロードを走るマラソン大会にしても、男子13キロ、女子10.5キロもあり、いまどき高校でも走らせない距離だと思います。
3年生になると、地元の二大新聞社による中3生対象の模試を受けるのですが、これは県下のほぼ全ての中学生が受けるテストでした。そして、その結果の成績上位者何百名だかが新聞紙上で発表され、その新聞をとっている家庭に自動的に配達されるという、プライバシーもへったくれもない制度がまかり通っていて、誰もそれを不思議に思っていなかったのです。親達には自分の子供だけでなく、他人の子供の成績まで一目瞭然であり、何かの用事で電話するときなど、「新聞でお子さんの名前見ましたよ」という台詞が挨拶の枕詞として使われていたほどです。生徒たちも新聞発表を内心楽しみにしており、成績上位の先輩は話題になったし、逆に他校にトップを奪われたりすると、心底へこんだものでした。
別なテストだったかもしれませんが、一度真冬に全員が机と椅子を体育館に持ち込んで、体育館でオーバーコートを着たまま受験するということがありました。吾妻おろしで底冷えのする体育館の気温は5度くらいだったのではないでしょうか。5教科受け終わった時には手はかじかんで動きませんでした。「あれってなんだったんだろうねえ。」と友達と話しましたが、考えられることは先生の人手減らしです。体育館で4クラス全員が受けられ、私語やカンニングの心配のない生徒たちなら、教員は2名配置すれば十分だからです。いずれにしてもすごい発想で、今日なら虐待と言われかねません。
おおらかな時代でした。生徒は生徒の考えで動いており、学校には学校の方針がありました。時代によって常識とはこれほど変わるものなのかと思う出来事ばかり、懐かしく思い出されます。全てを肯定するものではありませんが、学校が何から何まで抱え込み、事故を恐れて行動を制限すること、逆に言えばあらゆる責任を学校に押し付けることで失われたものは大きいと感じます。