2020年6月27日土曜日

「困難な時代の処方箋」

 或る書類を書いていて、社会はどんな人々で成り立っているのかとふと考える機会がありました。というのは、その書類に書かれた一つの項目の選択肢の中で私が選ぶとすれば「無職」しかないのですが、一言で無職と言ってもいろいろな場合があるだろうと思ったからです。私の場合、いくらでも引きこもっていてよい今は人生の中でも一番いい時期かもしれないと感じています。人間の歴史の中で、大多数の人が好きなことを思う存分できた時代があったのかどうかわかりません。もちろん個人単位ではそれができた人は山ほどいるでしょうが、ひょっとするとそれは案外幸運な人だけだったかもしれません。せめて死ぬ前くらいは好きなことをさせてくれと言って実行した人の話は時々聞くことがあります。

 義務教育が始まるのは6歳、退職の年齢は変化しつつありますが、とりあえず60歳として、この間の54年間のうち就学、就業の期間があります。この期間は人によって長さがまちまちですが、身分というか肩書きは明確です。今それ以外の期間を送っている人、つまり、学校に通っている人と職に就いている人を除いて考えてみます。すると残るのは、専業主婦(もしくは専業主夫)、家事手伝い、浪人生がまずあり、その他に病気や家族の介護等で働けなくなるケース、また何らかの理由で就学・就業ができないケースが考えられます。どれも昔からある形態なのでしょうが、高齢化社会が進むとともに介護離職が増えたり、社会の複雑化に伴い不登校やひきこもりなどその他のケースが注目されるようになってもう随分経ちます。

 戦後の75年だけを考えても、社会は想像を絶するほど変わりました。かつては定年退職後は10年ほどで人の一生は終わりましたが、今では定年後に20年~40年ほども生きるようになりました。終身雇用は崩壊し、短期業績が重視され、非正規雇用が増大、正社員になることさえ簡単ではなくなりました。学歴の選択も、かつて約束されていた職業に必ずつながるものではなくなりました。今ある職業の半分は将来AIに取って代わられると言われていますし、職に就くことが問題ではなくなる時代が来るのでしょう。実際、今自分が十代の若者だったら本当につらいと思います。なぜなら、今問われているのはどんな職業に就けばよいのかというよりずっと根源的な問いだからです。やがて職に就くことが強いられない時代が来るでしょう。その社会でこそ、人は一生の間にやるべきことが問われてきます。「あなたは何者か」という存在に関わる問題なのです。

  現在自分が楽しく引きこもっていられるのは、時代的なものも含めてただ幸運だったとしか言えません。この狂騒的な競争社会で最も忘れられているのはおそらく学ぶことの愉悦でしょう。これは速さを競う世の中では探求しにくい喜びであり、我慢や待つという忍耐を必要とする大事業だからです。しかし人が60歳までに知るべきことがあるとしたら、この学びの愉悦と最低限の社会性だろうと思います。学校という集団内で普通に生活する中で社会性を身に付けることがいつから化け物じみた困難を伴うものとなってしまったのか・・・。学校というシステムの制度疲労、これは全く由々しき問題です。別に学校でなくてもよいのですが、社会の中で生きていける人間関係のスキルはどこへ行っても必要です。生まれつき外向的な人と内向的な人がいるのは厳然とした事実ですから、無理して装わなくてよい場所を見つけてほしい、少しずつ自分の周りを住みやすい場にしていってほしいと切に願うばかりですが、それは難しいのでしょうか。諦めずに通じる言葉を見つける努力はできないものでしょうか。それは致命的に大事なことのように私には思えます。集団が苦手な人でも社会的存在として課題に対応する力がついていること、そして自分なりの楽しさを感じながら技術なり知識なりの探究ができれば、もうそれはよい人生ではないでしょうか。


2020年6月20日土曜日

「紅春 160」


 5月に受けたりくの定期健診の結果が来ました。いつも「特に異常ありません」というコメントとともに送られてきていたので今年もそのつもりでいたのですが、今回は「赤」がつきました。それもギリギリの数値ではなく、はっきりと「赤」です。



 初めての赤点の通知表を前に家族会議。腎機能の機能低下については思い当たることがありました。昨年10月末に初めて家の中でのりくのお漏らしが起きましたが、りくももう歳ですし、叱ることなく「家でしてもいいんだよ」と言ってきました。しかし、りく自身が家の中でトイレをすることがイヤで、我慢していたようなのです。8か月経ってそれが体に来たのではないかと思ったのです。

 相談のためりくを連れてクリニックに行ってきました。三密を防ぐため私は診察室の外にいましたが、兄が獣医さんに聞いた話では
①おしっこを我慢して膀胱炎になることはあるが、腎機能自体に問題が起こることは考えなくてよい。
②塩分は腎機能に問題がある場合控えた方がよいが、塩辛い物を食べて腎機能障害になることは考えなくてよい。
③「水をがぶがぶ飲みますか」と聞かれ、それほどではないと答えると、それほどひどい腎臓病ではないとのこと。
③一番の原因は加齢である。

というわけで、とりあえず「お薬を飲んで様子を見ましょう。また1か月後に来てください」ということで診察が終わりました。ついでに狂犬病の注射をしていただき、お薬をもらって帰ってきました。お薬は小さい錠剤でさらにそれを半分に割ったお薬でした。これを毎日飲む。クリニックに行って診てもらい安心しました。加齢はどうしようもありません。りくは先ごろ亡くなったワサオと同い年ですから、もう90歳なのです。帰ってきて様子を見ていましたが、りくはとても元気にしています。行ってきてよかったです。


2020年6月13日土曜日

「紅春 159」 

朝、りくが起こしに来て、何度かやり取りした後、「そろそろ起きるか」という頃になると、「ああ今日も神様は新しい一日を与えてくださった」と、感謝でいっぱいになります。福島での生活は判で押したように、りくの散歩、草むしり、日常の家事、余裕があればパソコン作業をしてだいたい午前中が終わり、昼食後の休憩をはさんで、りくの散歩、りくの遊び相手、夕飯、余裕があればパソコン作業をし、一日が終わります。この間、パソコンに向かうとき以外はだいたいイヤホンをして読書(聴書)をしています。本さえ読めればご機嫌な私には、聴く読書ができるのは本当に幸せです。

 りくは特に何するでもなくおとなしく傍にいますが、何といっても一番好きなのは散歩で、「隙あらば・・・」とさりげなく私の様子をチェックし、ここぞという時に「隙あり!」とモーションを掛けてきます。気候さえよければりくとの散歩は清々しく気分がよいものです。りくはただ歩いているだけで楽しいのだろうかと思うのですが、これがとても楽しそうなのです。「ただ歩いているだけ」ではないのです。散歩中りくは無我夢中であちこちクンクンしています。真剣そのものです。あの様子は私の読書と同じで、りくにとって散歩は新聞を読んだり、本を読んだりする情報収集の時間なのです。私もイヤホンをしながらの散歩ですから、「りく、お互い楽しいね」と優しい気持ちになれるのは何とありがたいことでしょうか。

 りくは、というか、犬は人間の最高の友です。邪気がなく、思いやりがあり、遊んでいると意外な面白い発見があるので楽しいです。疲れていても、ついついりくの無茶なリクエストにも応えてしまうのです。しかしこれも、時間に余裕があるからできるのであって、勤めていた時のことはもう思い出せません。今は責任ある仕事はないので本当に気が楽です。たとえ不愉快なことがあってもその場限りで終わり、後を引くことがないというのは、精神衛生上理想的です。一日の終わり、茶の間で「あ~、今日もいい日でした」と我知らず口に出したところ、「へえ」と兄に驚かれてしまいましたが、その後すぐに「それはよかったね」との言葉がありました。私もそう思います。



2020年6月12日金曜日

「マックス・ウェーバーと内村鑑三」

 先日いただいた『官僚制の思想史』という本の中で、キリスト教に関するコラムを読む機会がありました。内村鑑三について知るにつれ、久しぶりにマックス・ウェーバーを読み返し、気づいた点を記しておきます。これはおそらく内村鑑三とマックス・ウェーバーが全くの同時代人であることと無関係ではありません。

 マックス・ウェーバーによって1904年~1905年に書かれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』と略します)は、かつて私にはどうも眉唾物に感じられる書物でした。しかし40年後の今読むと、読めた気がする、即ち、何だかサクサクと分かる、しっくりと心になじむことに気づき、自分でも驚きました。この間に起こったことは明白で、それは最初に詠んだ時は学生だったのに対し、その後自分が「教職を天職として」(すなわち職務に関する働きのすべてを神に献げるものとして)働いてしまったという現実を経たことに尽きます。退職して初めて、自分が全く教師に向いていなかったことを知りましたが、在職中は教職を「天職だ」と思っていたのです。この幸いな勘違い(思い込み=信仰)がなければ、三十年近く働くことはできなかっただろうと思います。

 M.ウェーバーが『プロ倫』を著したのは、まず出発点として「近代資本主義がなぜ他の地域(中国、インド、バビロン等)では起きず、西ヨーロッパおよびアメリカでのみ起こったのか」を問うことから始め、考察を進める中で「近代資本主義を可能にした精神を、西欧に固有のエートス、とりわけカトリックではなくほかならぬプロテスタントの倫理に求める」という経過をたどったのではないかと思います。プロテスタントといえばカルヴァンの「予定説」に触れざるを得ませんが、「予定説」とは自分が救われるかどうかは予めきまっているという、或る意味無茶苦茶な説です。この説によれば、人は善行と悪行を前にして、「救われることに決まっている」なら悪行を行っても救われるのであり、「救われないことに決まっている」ならいくら善行をしても救われないということになってしまいます。この場合、功利主義者なら悪行を選ぶことにためらいを感じないでしょう。しかし、この問題を考えるにあたって考慮しなければならないのは、「全知全能の神様は『私がどちらを選ぶか』をあらかじめ御存じで或る」という大前提があることです。すると、プロテスタントはおそらくこう考えるでしょう。「神様は『私が善行を選ぶ』ことを御存じのうえで私の救いに関する決定をなさったはずだ」と。かくして「予定説」は、ともすれば低きに流れがちな人間を常に緊張のうちに宙吊りにすることになります。「善行をすれば救われ、悪行をすれば救われない」という単純な説のもとでは人は惰性に流れ、腐敗が生じてしまうのです。人間は欲せずして悪行を行ってしまう存在ですから、社会の腐敗は徐々に進行していきます。事実、悪行の罰の赦しを金で買う贖宥状に対して、プロテストするところから新教が始まったのです。ウェーバーはこの論理の運びを「我々は神が決定をなしたもうとの知識と、真の信仰から生ずるキリストへの堅忍な信頼をもって満足しなければならない」という言葉でごくあっさり説明しています。つまり、「救い」は神がなした決定であり、人はキリストを信じてお任せすればよいのだということです。カルヴァンの「予定説」は、救いに関する神の答えを人の行動から推し量るという臆見を許さないのです。

 日本では何故か「予定説」が強く意識されることはないように思います。少なくとも私はそうでした。その理由を考えてみて、はたと思い当たることがあり、同時に私がかつて『プロ倫』を読んだ時になんだかピンとこなかった訳もわかりました。それは端的にキリスト教国における信徒の人数と日本における信徒の人数の差に由来するのです。キリスト教国では宗教は古くからの慣習であり、国の制度そのものに組み込まれていますが、日本ではキリスト者は極めて少数にすぎません。日本のキリスト者にとっては信仰告白をした時点で、意識するとしないとにかかわらず、「自分が神に選ばれていること、すなわち救われていることは自明」なのです。その点、日本のキリスト者には迷いがありません。その観点からすれば(イエス・キリストの言動からは外れるのですが)日本のキリスト者の多くが自分の就く職業を「どんな職でもよい」と思っているとは考えにくいのです。職業選択の際、多くのキリスト者の念頭にあるのは(内村鑑三ならずとも)おそらく「神と人とに仕えることができる仕事」であり、「できる限り汚いこと(悪)に手を染めずに済む仕事」なのではないでしょうか。明治初期の気合の入ったキリスト者とすればなおさらで、「職業に貴賤はない」という言葉をそのまま我が身に引き付けて考えることは難しかったことでしょう。職業、天職とは、『プロ倫』の中で何度か述べられているように、「(神に)呼ばれる」という意味を明確に含む言葉だからです。独語のberufen (呼ばれる、~に任命する)からのBerufでも、ラテン語vocare (呼ぶ)から派生した英語のvocation、やそのものズバリのcalling など、全て同様です。

 ちなみに、内村鑑三が『日本国の天職』(1892年)で用いたmission という語は「(神に)送られる」という意味を含む、もう一段踏み込んだ言葉です。渡米により内村鑑三がキリスト教国アメリカの実態に触れ、義憤や幻滅を感じたのはその通りですが、そこから「自分の天職」を越えてさらに「日本国の天職」を考えたのが明治という時代でした。この時期の日本の知識階級は自国が欧米に比べて著しく劣っているという強い危機意識があったのは間違いありませんが、事実は、未開・劣等と自分を見下している欧米の国へ学びに行ったところが、異教徒も真っ青の、倫理上あり得べからざる現実を突きつけられ、劣等意識に変化が生じ、強い自国意識に目覚めたという人が多かったのです。例えば、弘前出身でホーリネスの中田重治は、渡米してムーディ聖書学校で学んでいますが、後に日猶同祖論という不思議な説を唱え『聖書より見た日本民族の使命』と題する講演をしています。経緯は知りませんが、これなども自民族意識の覚醒が日本をユダヤ民族という選ばれた民に重ねた結果なのではないでしょうか。

 キリスト教国の歴史と現実は、実のところ、反キリスト的なものに満ち満ちており、とても手本にはならない不健康で不穏なナショナリズムに駆動されています。明治期に新しい国家を模索していた日本人は、このように劣等感と優越感の入り混じった複雑な心性をもっていたため、国家の構築を裏打ちするはずのナショナリズムは掴みどころのないものとなりました。それゆえ日本は歴史の様々な局面で時に迷走しながら、国家の歩みとともにナショナリズムも変容していったのではないでしょうか。

 「キリスト教」ではなく、「キリスト」を信じるという姿勢をとことん追求したのが内村鑑三であったと思います。内村の念頭にあったのはおそらく、和魂洋才といったアマルガムとしての日本ではなく、「西洋的なるもの」と「日本固有のもの」を「キリスト信仰」によって止揚し、新たな日本という国を作ることだったように思えます。マックス・ウェーバーは『プロ倫』の中で、「宗教改革は合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から引き出して、世俗の宗教生活のうちに持ち込んだ」と述べていますが、これを内村鑑三の言葉で言えば、「西洋的合理主義と日本的精神を西洋および日本から引き出して、キリスト信仰を土台とする生活のうちに持ち込む」ということであり、明治維新のこの時が千載一遇の機会に思われたのでしょう。

 「国粋」という言葉はもともとNationalityの訳語として「国(あるいは国民)の精粋(本質)」というほどの意味で、現在いわゆる「国粋主義」という言葉で表されるような意味を含んでいませんでした。「国粋」という語を最初に使ったと言われる志賀重昂は、札幌農学校において内村鑑三及び新渡戸稲造の二年下の四期生です。W.S.クラークの感化を受けて一期生は全員キリスト者になっており、上級生の圧に屈する形で内村鑑三が入信した経緯は『余は如何にして基督信徒となりし乎』に記されています。一読すると驚くような経緯ですが、人を本当に成長させるのはいつもこういった「厄介な贈り物」なのです。W.S.クラークというカリスマ的個性が去った後はどうだったのでしょう。志賀重昂がキリスト者であったという話は聞きません。彼のその後の人生は、常に絶対他者と向き合わねばならなかった内村鑑三とは違う歩みになったことでしょう。それは、変化という点では、「国粋」という言葉が時代の中で辿った変遷と少し似ているかもしれません。

 内村鑑三の場合、渡米の経験を抜きにその後の思考や活動、つまるところ人生の軌跡を考えることはできません。しかしそれは「日本人としての覚醒」をもたらしたという意味であって、「天職」思想そのものはまさしくプロテスタンティズムそのものに内在する考え方です。そう確言できるのは、私自身、在職中は毎朝、「今日の働きの全てをあなたに献げるものとして行うことができますように」と神に祈っていたからです。内村鑑三(1861-1930)とマックス・ウェーバー(1864-1920)はほぼ全くの同時代人と言ってよく、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』はまさに『プロ倫』と同時期(1904年)にドイツ語訳もされてヨーロッパで評判になってもいるので、M.ウェーバーが読んだ可能性は高いと私は推測しています。その場合、M.ウェーバーはこの日本人回心者がその思考、心的態度、行動様式という点で、あまりにもプロテスタント的であるのに目を見張り、或る異教徒の回心者(a heathen convert)の記録を喜んで自説の例証に加えただろうと思います。

 或る民族が圧倒的な力の存在を認めた相手国の宗教を、喜んで受け入れる現象は、戦後の日本でも見られたことですが、これは例えば、旧約時代のユダヤの民が一度も世界帝国になったことがない、それどころか長期にわたって強国としての地位を占めたことさえなかったにもかかわらず、ヤハウェ(神)を捨てなかったのと対照的です。ヤハウェへの信仰こそが彼らを彼らたらしめるものだったからです。その点では内村鑑三も「自分は何であって、何でないのか」という問いを常に自らに突きつけて生きたキリスト者であったということは、間違いなく言えるでしょう。

2020年6月6日土曜日

明治徒然話10  ― 漱石の道筋5 ―

10.先生

 その後も新聞の連載は続いたが、『三四郎』を書いたあたりで、家のごたごたやら大病やらに見舞われた。なんとか最初の三部作は書き終えたが、その後はもう体がボロボロだった。いつ死ぬかわからないと本気で思った。だが、まだ死ねない。書いていないことがある。胃潰瘍による中断もあったが、ようやく私にとって書かずには終われない一世一代の作品に辿り着いた。時はもう大正三年になっている。これが書けたらいつ命が尽きてもいい。私は「先生」をめぐる作品に取り掛かった。

 あれは何だったのだろう。あの桐の箱は福翁からのものだと思っていたが、考えてみれば何の確証もない。今となっては誰からのものでも構わない。とにかく面識も接点もない誰かから私に宛てられた書状だ。独白だから「ふ~ん」と読むだけでよかったのだが、読んでしまった後は何故か無視できないものになった。独白であろうと、それが私宛のメッセージであることだけはどうしても否定できなかったからだ。そしてその中身はたった一言、「成熟せよ」で間違いないかと思う。一人の天保の老人がほぼ一世代違う私に対して残したメッセージが「成熟せよ」なのだ。彼は「身の程知らずであろうとも、洋学者としてできることをするのが自分の使命」だと言っていた。私は文学の世界でこれに倣おうと思う。今、私は勝手に彼を「先生」と呼ぶ。いや、すでに私はずっとそうしてきたのだ。だからここまで来ることができた。だが、そろそろ私も私の桐の箱を誰かに送らなければならない頃合いだ。この作品を書くことによって、私は自分の務めを果たそうと思う。

 「私」は、或る日鎌倉の海水浴場で外国人をものともせずに泳ぐ人を見つけ、言葉を交わすうち、その人を「先生」と呼ぶようになる。「先生」は特に人より秀でたところがあるわけでもなく、立派な肩書があるわけでもない。それは「先生」自身が言う通りである。それにもかかわらずと言おうか、むしろそれだからこそと言うべきか、「先生」に対する「私」の弟子としての敬愛はいっそう強くなる。そして、「先生」とはいっても、その人が「私」に教えるべき具体的な知識や技術はほぼないのである。こう書けば「先生」がまるで空疎な人間で、「私」が求めているのは「空疎な存在としての先生」だということがいやでもはっきりするだろう。「先生」は張り子でよい。いや、張り子でなくてはならない。なぜなら、それにより「私」は自分が成長し、大人へと脱皮する道筋を自己決定できるからである。それ以外の方法で人が大人になることはあり得ない。人は自分でなした決定にはどこまでも責任を負うのだ。おそらく自分の決定に従って自分の責任を負って長いこと歩んだ後に、人はこのからくりにふと気づく。あの桐の箱に収められていたのはまるで荒唐無稽な戯言だったのだと知る。そして先生はもういないことに慄然とする。先生に恩を返せるとしたら、大人になったことを示す以外ない。空位となったその席に、黙ってすべてを飲み込んで自分が座れるかどうかだ。王の席を塞いでいる幻影を前にしたマクベスのようにうろたえてはならない。先生はもういない。幻影を押しのけてその席に座るのだ。

 私もようやくそれがわかる歳になった。この作品において私は、先生という存在の本質的な悲しさを暴露したつもりだが、果たして、正しく解読してくれるだろうか。いずれにしても私の務めは終わった。今頃になって二葉亭が『平凡』の中で残した言葉が身に染みる。なんと多くの贈り物をもらっていたことか。二葉亭は「浮世は夢の如しと気づくのに、皆判で捺したように十年遅れる」と書いたが、私はとても彼にはかなわない。この体ではもう何年ももつまいが、今、私を笑う青年たちに私は謎を掛けた。もしこれが解けなければ彼らは十年遅れて気づくどころか、後の青年たちに笑われて、青年のまま墓に入ることだろう。『こゝろ』はヤングメンに与えることのできる、私からの最上の贈り物である。最後に先生らしい言葉を残すとすれば、やはりこれだろう、「成熟した人間になって良き人生を送られるように。健闘と幸運を祈る」。                                (了)


明治徒然話9  ― 漱石の道筋4 ―

9.非自然主義

 それから何年もしないうち、訃報がもたらされた。長谷川二葉亭、いや長谷川辰之助が亡くなったのだ。私はショックを受けてしばらく茫然としていた。そこへいくと鷗外はさすがだ。彼は二葉亭四迷の死に際して、『長谷川辰之助』を著して彼への敬慕を捧げた。『浮雲』があの時代に書かれたことの意義も正当に評価していた。また、彼のことを「逢いたくて逢えないでいた人の一人であった」と言いながら、洋行前に彼が訪ねて来て、翻訳書や文学、また外国のことについて語り合った時の回想が記されていた。『舞姫』をロシア語に訳させてもらったお礼についての言及もあったが、彼らの結節点は他にも見つかった。二葉亭はロシアの作家アンドレーエフの『血笑記』という全く肌色の違う小説も訳しており、一方鷗外はエドガー・アラン・ポーの『うづしほ』や『病院横丁の殺人犯』(いわゆる『モルグ街の怪事件』)を訳していたのだから、やはり二人は趣味が合ったのであろう。鷗外は『長谷川辰之助』の中で、結果的に遺作となった作品『平凡』についても触れている。

 『平凡』は「私は今年三十九になる」で始まる作家が主人公の小説だから、一瞬、二葉亭四迷が内職として翻訳もこなすしがない作家としての日常や回想を基に小説を書いているのかと錯覚するのだが、実際の彼はその年四十四歳であり、私の『虞美人草』を挟んで『其面影』に続く二作目の連載をしているのである。だから、描かれるのは別な人物なのだ。「平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ」と書く彼は、もう『浮雲』で頼りなげだった筆遣いの二葉亭ではない。彼は自分の文体を手に入れたのだ。

 そしてその書き方は、最近の流行りである自然主義でいくと宣言する。ちょうどすぐ直前に田山君の何とも言いようのない作品が文壇を賑わせていたからだ。すなわち、二葉亭の言葉では「作者の経験した愚にも附かぬ事を、いささかも技巧を加えず、ありのままに、だらだらと、牛の涎のように書く」という書き方を真似てみると言うのだ。意地が悪い。私もここまではっきりはとても書けない。皮肉たっぷりに「自然主義」は「牛の涎」だとバッサリ切り捨てながら、「いい事が流行る。私も矢張りそれで行く」と二葉亭が書く時、ここで示唆しているのは「『小説を書く自然主義作家』というものを、私は書く」という形で、「次元を一つ上げる」という仕掛けなのだ。そうして、子供の頃からの回想文となり、祖母の死、異例な長さのポチの死、上京して住み込んだ叔父一家の娘・雪江さんとの出来事、文士となってからのお糸さんをめぐる出来事と田舎の父の死までを描いた後、不意に終わる。

 だが無論ただでは終わらない。二葉亭の残した二つの遊び、というか二重の言い逃れに私は思わずにんまりしてしまった。まず、文壇を去って役所に勤めるようになった「私」が書く言葉で「高尚な純正な文学でも、こればかりに溺れては人の子も戕(そこな)われる。況(いわ)やだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今の文壇のヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ」と、果てしなく続く繰り返しの後に(終)の文字を置いたことである。さらに、文壇批判を途中で「へへへっ」と飲み込む形でやめて、そのあとに、「二葉亭が申します。この稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は千切れてござりません。一寸お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません」と、最後のダメ押しをする。これで『平凡』全部をふざけた他愛もない話にしてしまい、「おあとがよろしいようで…」と舞台裏に消える格好である。自然主義の批判を「くだらない話ですから、目くじら立てないでくださいね」とかわしているのだ。この『平凡』が当たったということは、牛の涎のような個人的体験のダラダラを「別に知りたくないよ」と思っていた読者も多かったということだろう。

 鷗外が残した追悼は『長谷川辰之助』だけではない。よく考えると、その年に書かれた『ヰタ・セクスアリス』が『平凡』へのオマージュなのは間違いないだろう。彼はその年言文一致体を使い始めたが、たしか『ヰタ・セクスアリス』はその二作目ではなかったろうか。「金井湛君は哲学が職業である」と鷗外らしい簡潔な書き出しで始まり、彼はドイツから届いた報告書をもとに「性欲的教育」を自分が息子にできるかどうか、まず自分史を書くことにする。そして、自分の成長過程で日常生活の中で見聞した性的出来事を一つ一つ切り取ってサクサクとスクラップしたファイルを作成するのだが、最後の終わり方はこんなふうである。すなわち、出来上がったファイルを世間に出せるだろうか、また我が子に読ませられるだろうかと自問自答し、結局VITA SEXUALISと大書して、文庫の中へ投げ込んでしまうのだ。つまり、自分がスクラップしたものを最終的にそのままゴミ箱に捨てたも同然で、これは江戸の戯作を装った『平凡』の最後の終わらせ方と趣は違うものの、構造は全く同じだ。そうするわけを二葉亭は書かなかったが、鷗外は金井君に「人の皆行うことで人の皆言わないことがある」とはっきり言わせている。私もそれでよかろうと思う。

 軍医でもある彼が、官憲が顔をしかめること必定の書を書くからには、やはり自然主義に対して言うべきことを控えることはしないと腹を決めたのであろう。「出歯亀」事件のようなインパクトのある話を出して、「出歯亀主義という自然主義の別名が出来る」とまで書いているのだからやはりさすがだ。亀太郎には気の毒だが、「出っ歯の亀太郎」の短縮形は「出歯亀」で絶妙におかしな口調の言い回しだから、鷗外が書いた以上、この語はもう未来永劫日本語の語彙として残るだろう。鷗外が言いたいことは明らかに「一応自然主義と呼ばれるものを調べてみたけど、くだらんね」であり、「捨ておけ!」なのだ。この点私も同感だ。ただ彼のすごさの本質は、自分が知る性的出来事を一つ一つ標本化したことであり、この性行動の一覧化へ向かう力の存在を「自然主義と呼ばれる文学」へ人を駆り立てる要因として暴いたことなのである。実際、ついこの間まではこの世には性的なものが満ち満ちており、今ではちょっとした性的逸脱といった言葉で括られる類のことも何ら区別されずにそこにあったのだから、性は明治という時代になって初めて前景化してきたのだ。

 まあ、こういうことは個人差があるからあれこれ言ってもしかたない。ただ、このままいくと、何だかどれだけ衝撃的な内面を開示できるかが作家としてのランクを決めるという暗黙の了解ができそうな気もするし、性を中心に自分を語りたい人がその力を押しとどめるのは難しそうだ。私は別に構わないが。


明治徒然話8  ― 漱石の道筋3 ―

8.ゆずり葉

 私の初の連載はまあ好意的に迎えられた。それが終わりに近づいた頃、新聞社の廊下で長谷川二葉亭とすれ違った。私は思い切って声を掛けた。
「夏目です。今日お目にかかれてよかったです」
「前に一度会いましたね。『虞美人草』の打ち合わせでいらした時に」
覚えていてくれたのかと光栄な気持ちで、ちょっと言葉が出なかった。さらにうれしいお誘いを受けた。
「せっかくだからその辺で話しませんか。お忙しいと思うが」
「ええ、ぜひとも」
数分後、私たちは近くのカフェで向かい合っていた。私は率直に言った。
「実は連載があなたの後だったから、ずいぶん緊張しました」
「大阪の新聞社から移籍させてくれた池辺君のおかげで、私は助かったよ。やはり小説を書くのは私の性に合ってるな」
「今日は何の御用で…。もしかして次の連載ですか」
「ああ。そろそろ話があるかと待ってたんだが、やはりその話だった」
「何か月ですか」
「二か月。たぶんその後は君の連載だな。内緒だが『夏目君の連載、どう思う?』と訊かれたから、最高の答えをしておいたよ」
そんな話も出たのか、気になる…。
「よろしければ教えていただけませんか。何とお答えになったのか」
「『気に入った。どんな奴かと思っていたが、いいね。彼には哲学がある』とね」
「哲学?」
「君も、もう気づいているんじゃないか。我々は大人にならない限り、西洋文明と対抗することはできない。それとね、君は日本人に生まれつき内在する性質というか、そうだな、Nationalityをこの上なく大切に思っている。いや、読めばわかる。『虞美人草』の中で、小野が以前世話になった井上孤堂の娘で古式ゆかしいタイプの女小夜子を体よく振り切って、新しい時代の女藤尾を選ぼうとする場面があるだろう。その時、宗近のとる行動を描く君の筆致はいい。彼は小野君をこんこんと説いて、藤尾とののっぴきならない逢い引きを思いとどまらせる。宗近が繰り返す『真面目』というのは、別の言葉にすれば「人としてあるべき姿」ということなんだろうが、ここで野心家の明治の青年を前時代の範疇に押しとどめたのは、君の譲れないNationalityの発現だ。そうでなければ、小野に対して『僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た』と、宗近に言わせないだろう。違うかい?」
「ちょっと待ってください。Nationality…というと、私は初版のウェブスターの辞書で学んだので・…それだと、ええと、三つの項目が載っていましたね。一つ目は確か…『国民であるという本質』、それから…と、次が『或る国を区別する特質の総体』、そして三つめは、『共通の言語や特性によって決定されるような、一つの人種、すなわち国民』だから…あなたがおっしゃるのは、最初の二つを併せたような意味でしょうか」
「ひとつ君に話しておこう」
二葉亭はなんだかうれしそうに言った。
「もう二十年も前になるか、『日本人』の主筆の志賀君から、Nationalityの訳語を探しているという話があった。聞けば『日本人』の創刊祝賀会で、政教社を代表して挨拶するのだが、その時使うNationalityの訳語でインパクトのあるものはないかと言うんだ。こっちは翻訳というとうれしくなる質でね。でも英語なら、同じく政教社の棚橋君がいるだろう。彼がイーストレイキ先生とウェブスターの辞書を訳していることは知っていたから彼の名を出すと、彼がなぜだか僕を推薦してきたと言うのだ。棚橋君たちの訳語は『民情、愛国、民性、国風、本国、国体:人民、人種』といったところで、志賀君のお気に召さなかったらしい。『浮雲』が出たばかりで評判になってたから、僕にお声が掛かったようだ。」
「それで?」
私は興味を引かれて話を促した。
「翻訳者なら誰でも血が騒ぐだろ?」
「私は翻訳はやりません」
「その話も聞いてみたいがまあいい。志賀君とのやり取りはこんなふうだった」

  「Nationalityか…。それなら『国民の精粋』というのはどうだろう」
  「うーん、きれいな言葉だ。でも、ちょっと長いね」
  「では、『国の粋』では」
  「そうだね。語句の短縮パターンだと『国の精』だけど、ピンとこないしね」
  「いやそれならいっそ『国粋』はどうかな」
  「なるほど。『国精』だと『国政』と同音だからまずいし…『国粋』ならいいね。
  Nationality …国粋。うん、ありがとう。やはり君に訊いてよかった」

「そんなことがあったんですか」
「今では『国粋』は何やら別の色がついてしまったがね。ついでだから話しておく。僕は二十年書かずにきたから、もう書きたいように書かせてもらうつもりだが、次の連載には挿話の一つとして或る女性が歌う場面で『国民の精粋』という言葉を使おうと思う。さすがに今では『国粋』とは言えないしね。自分の作った言葉なのに、長い間放っておくと自分のものじゃなくなるね」
「あの、長谷川さん、どうしてそんな話を私にしてくださるのですか」
「ふふ、君は同類だから。英国なんかに行かされて神経を病んだのは気の毒だったが、これからの日本の文学は君の双肩にかかっている」
「ご冗談を」
私は二の句が継げなかった。彼は面白がるような笑いを浮かべると、話を終わらせた。
「さ、そろそろ行かないと。そうそう、池辺さんが君の連載の結末を気にしていたから教えておいたよ。『題名を見ろよ。藤尾の自殺で終わりだ』とね。合ってるだろ?  明治の女性にはまだ生きる場所が無い」


明治徒然話7  ― 漱石の道筋2 ―

7.主筆の人

 新年度はいつもと違うものになった。新聞社は多くの人が四六時中せわしなく出入りしている。連載の打ち合わせをするため部屋に向かうと、ちょうどそこから出てくる人がいた。顔を見て「あっ」と声にならない声が漏れた。その人は怪訝そうにこちらを見て、それから温顔で微笑んで出て行った。

「池辺さん、今のは…」
小部屋に入るとすぐに尋ねた。
「ああ、会ったかい。そう、あれが長谷川二葉亭君だよ。生まれは僕とひと月も変わらないのに、僕は文久生まれ、彼は元治生まれ。僕の方が年長というわけさ」
「つかぬことをお聞きしますが、彼は福翁と面識がありますか」
「さあ、どうかな。直接聞いてみれば。僕は一応あるよ、あの塾の出身だから。中退だけどね。なぜそんなことを?」
「いえ、たいしたことでは」
「彼の連載、なかなかでしょう。読者の評判もいい」
「そうですか。『浮雲』からもう何年になりますか。ずいぶん経ちますね」
「二十年。まさに復活、レサアレクシヨンだね。さて、今度はあなたの番ですが、どんな話になりますか」

 私は初の新聞連載となる小説のあらましを話し出した。
「私が書くのは三人の明治の青年たちの話です。彼らが書生の身から一人前の大人に成長していく、その最初の過程を描きたいと思います。一人は頭がよくて野心もあるが金が無い、典型的な明治の青年A・小野、もう一人は裕福な家の息子であるが神経衰弱的傾向があり現実離れした思弁を好む青年B・甲野、で、三人目が主人公と言うべき青年C・宗近で、快活で豪胆であるが、タブラ・ラサというか、あっけらかんとしたオープンな若者です。甲野の継母は彼が家督相続をしないのをいいことに実の娘の藤尾に婿をとらせて家督相続させようと目論んでいる節があります。この藤尾というのが、明治という時代に生まれた新しい考えを持つ女性で、美人。小野を手玉に取る感じで楽しんでいるような曲者です。小野は藤尾に恋心を抱いており、藤尾も出世しそうな小野に気持ちが傾いている…。しかし、小野には昔、師であった井上孤堂の世話になった恩があり、口約束ではありますが、その娘小夜子を将来妻にすることが双方の暗黙の了解になっています。娘の縁談を取りまとめるために、この恩師が娘と共に小野を頼って上京してきたから小野は板挟みとなり…と。宗近には仲の良い妹、糸子がいて、妹は外交官試験を目指す兄を温かく見守り、片や兄は甲野に思いを寄せる妹のために奔走したりということもあって…。そのうち進退窮まった小野が別の友人を使って、「小夜子との話はなかったことにしてほしい。生活の援助はします」という旨を恩師に伝えると、「人の娘を何だと思っているのか」と井上孤堂は激怒します。この辺りから大団円に入り…」
「わかった、わかった。とりあえずその辺までで。二葉亭君の連載の主人公は、学生時代に金銭面でお世話になった人の家に婿養子に入った青年だった。今回の、小野と恩師およびその娘小夜子の関係もちょっと似てるね。法律的な縛りはないようだけど。一方は家の存続、もう一方は教育にかかる金の工面というお互い切迫した願望を組み合わせることはよくある話だが、これが単なる金銭面での契約ではなく、当人や家族の気持ちを汲んだ制度となると、なかなか難しいね。交換したいものが完全に一致することは奇跡的な確率でしか起こらないから。学問をするためのお金は、本人が用意しなければならないんだろうかね。当たり前だと言われそうだが、国民が学問を修めてあらゆる分野の底上げができれば国力が増すのは間違いない。とすれば、必ずしも本人が自分でお金を工面しなくてもいいんじゃないか」
「あの、もし訊いてよろしければ、塾を中退なさったのはやはり学資の問題ですか」
「ああ、いろいろあったよ。私の父は熊本藩の武人で、西南戦争では熊本隊を率いて西郷軍と共に戦って処刑されたからね」
私は思わず絶句し、しばらくたっておずおずと口を開いた。
「もう十年ほども前になりますが、私は松山赴任の後、熊本の五高におりました。学生たちと俳句の結社を作り、そちらの活動は充実していましたが、家の方はいろいろありました」
「人生何もないなんてことはまずありませんな。よし、では連載をよろしくお願いします。楽しみに読ませていただきますよ」

 池辺さんとの打ち合わせは気分よく終了した。節度をわきまえた話しぶりでオープン・マインドな人だ。仕事がやりやすそうだと私は安堵した。



明治徒然話6  ― 漱石の道筋1 ―

6.お届けもの

 文面を読み終えて唸ってしまった。「雑記」と表書きされた用紙の束は、きれいに綴じられて桐の箱に収められていた。これは数年前に届いたらしいが、私が英国留学から帰国するまで、風呂敷に包まれて机上に置いてあった。今やっと読んだところだ。家人に訊いてみたが、ただ届いたものを受け取っただけで、それ以上、由来も訳もわからない。一応先方に問い合わせてみたが、向こうも福翁の遺品を整理していたら「夏目君へ」と書かれたものがあったのでお届けした次第である、という。「夏目姓でほかに思い当たる人がいないので…」と相手は申し訳なさそうに付け加えた。手元の風呂敷を見ながら「何か面倒だな」と思った。それで、冊子はそのまま机に置いてある。

 帰国後、一高と帝大で講師となったが、教職は私には不向きで、いろいろあって何だか参ってしまった。体調も思わしくなく悶々としていたが、そのうち何か書いてみようと思った。人間は嫌いだし書けそうにないので猫の話にした。すると面白がってくれる人もいて、なんだか少し楽しくなってきた。こんなに自由に書けるのはやはり新文体のおかげだと思うと、あの冊子のことが頭をかすめた。しかし瞬時にそれを振り払って、次に何を書こうかと考えた。猫は死なせてしまったし、もう動物は駄目だなと考えを巡らせていると、高等師範学校の英語教師の職を辞し、東京を離れて一年ほど松山の中学に赴任した時のことが思い出されてきた。嫌なこともあったが、それも含めてハチャメチャに楽しかった気がする。あれを書いてみようと思った。

 書いてみた。何もかもうまくいかないのは明治になったせいだという気がしていた。だから、赤シャツも野だいこも狸もこすい生徒たちも、みんなコテンパンにやっつけてやった。だがそれは本当か。やっつけられたのはこちらではないのか。自分を手放しで可愛がってくれたのは下女のキヨだけだ。もとは由緒ある家の出だった女だ。キヨはもういない。「おれ」はキヨに三円借りていた。返せないのではなく返さないのだと、自分に言い聞かせてきた。でも、もうキヨはいない。返さないのではなくもう返せないのだ。いや、なんとしても返さねばならない。でも、どうやって…?

 私は例の雑記帳を箱から取り出し、机に向かった。何度も読んだ。決断するのに一年かかった。自信がなかったからだ。「サベーレ・アウデ 知る勇気を持て」という声が頭の中で鳴り響いていた。私は一切の教職を辞し、新聞社に入社した。もう書いて生きていくしかなかった。


明治徒然話5  ― 諭吉の独り言5 ―

5.『アメリカン・デモクラシー』

 西洋の歴史は、領主たちが教皇から支配権をもぎ取っていった過程を記すが、やがて国民国家を形成していく転機は、やはりウェストファリア条約であろう。しかし、私の関心はそこにはない。私の問いは、ヨーロッパでは、各地域の村落共同体の集まりにすぎなかった社会集団を、いかにして国という概念にまで高めたのかということだ。戦争は大きなきっかけにはなるが、戦争を通じて自国意識を強化するだけでは足りない。一つ言えるのは、国という概念は不安を根底に形成されたということだ。生まれ育ったムラから出ることなく、そこで一生を終える人間が大半である場合には、近代的な意味での国は意識に上らない。江戸時代までの日本や領邦国家時代のドイツなどはそう言ってよかろう。カントは世界市民を構想していた。これは無論、理想的に過ぎることは本人が百も承知のはずだ。しかしそこまで考えて初めて、いくらかでも歪みの少ないネイションを形成できると考えたのだろうか。日本は文明化という点ではいまだ西洋に大きく遅れている。しばらくは西洋を目標にするしかあるまい。日本は島国だから、海岸線によっておおよその国土は地理的に確定できる。西洋に比べたら国を形成する歴史的な複雑さも少ない。私は「賢い国民になりなさい」と穏やかに語りかけるか、もしくは少し厳しく、「無学で文字も知らず、飲み食いと寝ることしか能がなくて、我が子の教育もできぬ馬鹿者には、不本意ながら力づくで対するしかない」と、泣く泣く説教することで、なんとか生きるための学力をつけさせ、国民の自覚と国力の向上が少しでも進めばと願った。国民という意識が基層民にまで浸透しなければ、国家は容易に瓦解する。急ごしらえでもそこは手が抜けなかった。

 私がはっとさせられたのは、旧賊軍から陸軍中佐に進級し清国公使館附となっているあの男だ。会津魂の権化のような人間、あのような人材はもう二度と生まれぬかもしれぬ。義和団の武力抗争に端を発する八か国連合の北京籠城の最中、この窮状で指揮を執る者として、日本ばかりか関係欧米各国公使の信頼を一身に集めているという。それは陸軍幼年学校以来、どんなに劣悪な環境でも腐らずに勉励し、文字通り血と汗と涙の末にフランス語や英語に熟達していたからこその達成なのだ。もし賊軍から陸軍大将になる人物が出るとしたらあの男以外あるまい。私は以前「華族ヲ武辺ニ導ク之説」を建言したことがあるが、それは名望のある者による軍の統率が望ましいと思ったからだけではない。西洋において、下層民の中で明晰な頭脳と明確な野心をもつ子どもたちが皆、教区の教会組織に吸い寄せられたように、旧賊軍を主とする、いやそれに限らぬが、下級武士もしくは基層民の子弟で出世欲のある者が、己が才覚によって文官ではなく武官すなわち軍の頂点に立つ回路があるなら、そしてそれが何らかの手段で文民の上に立つ方法を見出すとしたなら…その先が私には恐ろしいのだ。どう転んでも禽獣世界では破壊と殺戮はまぬがれないであろう。だが今は、会津の希望を背負った男が小さな体で奮闘している。国のためではない。国家への馬鹿らしき忠義立てなどとうに捨て去っているのだから。彼が闘っているのは根本的にはただ故郷の名誉のためなのだ。故郷もしくは郷里はどんなに拡大しても国家という概念には重ならない。それどころか時には反対概念でさえあるのだ。しかし今、世界の注目は柴君の一挙手一投足に注がれている。ひょっとすると彼が国家の明日を決める突破口になるかもしれぬ。ヨーロッパ諸国のうち日本を対等なパートナーと認める国が出ないとは言えぬのではないか。夢物語だろうか。

 会津人のことを考えているのに、なぜだかもう一人の男の顔が頭に浮かぶ。敵同士だったはずの薩摩の男だ。西南戦争で生涯を終えたのは惜しいことだった。彼にしかできぬ仕事がまだまだあっただろうに。そうか、薩摩のこの男も会津のあの男も、カントの言うところの「理性の公的な利用」ができた数少ない人間だったのだ。幕藩体制下のもとでは「理性の私的な利用」しかできず、立場上はどうあっても敵対するしかなかった二人だ。だが、二人ともいったんは地獄を見て何かを突き抜けたような…。地獄といって悪ければ、そうだ、一人は奄美大島・沖永良部島への二度の流罪、もう一人は悲惨な会津戦争の末路と陸奥国斗南への流刑のごとき暮らしによって…。二人とも大切な同士や家族を亡くしていた。彼らはそれぞれの地でどこにでもいる普通の民に出会い、その姿のうちに民の原像を見出したのだ。そこは死者と生者が交錯する異界であったかもしれない。彼らが立派にこの世を生きられるようになったのは、生きている者への義理立てから自由になってからなのだ。

 最初に述べたように、カントも私も「学者として、すなわちいかなる制約も受けずに自由に考えることが理性を公的に使うということだ」という点では完全に一致する。そしてまた、「世界の永遠平和のためには、『自由・平等・博愛』ではなく、『自由・平等・自立』の理念が不可欠である」という点でも、私はカントと完全に一致するのである。個人が自由に考え、平等に機会が与えられ、自立した存在とならなければ、自由かつ平等な独立国家とは言えない。世界がそのような独立国家で形成されない限り、永遠平和は訪れない。私がカントと違うのは、理性の公的利用を可能にする方法に到達する手段だけである。カント氏は知識階級のために書き、私は民衆のために書いたということだ。してみると、日本において地域共同体をネイションの形に仕上げたのは、なんと私だったかも知れぬのだ。

 現実には、この世に全くの平等社会などあり得るはずがない。ギゾーはフランス革命を書かなかった。だから、私も『ヨーロッパ文明史』を訳すことができたのだ。サン・バルテルミの虐殺は三百年も前のことだから気兼ねなく訳せたが、百年ばかり前に起こったフランス革命とは実は何だったのか、生々しすぎて彼には書けなかったし、私も本当の事はとても書けない。その数十年後の二月革命では、ギゾーは打倒される当事者側にいたのだから書けるわけがない。さらに二十年して達成されたパリ・コミューンは、打ち上げ花火のようにはかなく消えた。あれは史上最初の労働者による政権だったし、正しい革命だった。だが、到底無理な革命であった。元来、コミューンとは最小の行政単位、顔の見えるサイズの共同体ではなかろうか。パリはコミューンで治めるには大きくなり過ぎた。こう言ってよければ、もし彼らが本当に持続する政権を作るつもりだったのなら、清く正しく美しく仕上げることを目指すべきではなかったのだ。彼らは多数派だったのだから、もっと汚く、もっと徹底的に反対勢力を弾圧することに、誰も口実を求めなかっただろうに。たとえ薄汚くとも、それまでの官僚組織を使わずにどうするつもりだったのか。丸き水晶玉になら何か見えたのだろうか。いずれにせよ、今後パリ・コミューンを手本とする革命政権がないことは確かだろう。重ねて言うが、理想的な社会などどこにもない。国の有り様は、どこよりはマシかという相対的なものにすぎない。現在の全てを捨て去って新しい社会を作ることはできない。全く新しい社会を目指すならば、身の毛もよだつ流血を免れないだろう。いつも私の念頭にあるのは、最初の革命、アンシャン・レジームを廃して新しい体制を目指し猛進したフランス革命なのである。暴動の連鎖、流血に次ぐ流血、それが「自由・平等・博愛」という錦の御旗のもとに行われたのだ。どんな大義を振りかざそうと、あれほど文明から遠いことはあるまい。それにも関わらず、「人権」なる概念を生み出したのは事実であるから、おそらくこれに続く改革、革命を目指す国が続々と現れるのであろうな。だが理想の社会を目指すその努力の結末に関して、私はかなり悲観的である。人間の善性は時にすばらしい結果を生むが、不意に人間に悪が宿る瞬間がある限り、そして人間が愚かで弱いものである限り、欲望や嫉妬が人をとんでもない化け物に変えてしまうのだ。人間の歴史を振り返ると、私はいつも絶望的な気持ちになる。例証には、時勢を見抜けなかったがゆえに行われたテロル、たとえば攘夷運動を一つ挙げれば十分だろう。

 今のところ最もマシと思えるのは、アメリカのようなデモクラシーの社会だろう。あの若いフランス青年がヨーロッパ人の目で見た分析の書は小幡君がずいぶん尽力して解き明かしてくれた。アメリカはまさしく新世界。移住民が原住民に対して為した蛮行の暗黒史はどう言い繕っても消し去ることはできないが、彼らは確かに民主主義国家を形成した。これも文明の一段階かもしれぬ。英国で刑務所の弊風を一掃し、囚人の待遇改善に努めたのはジョン・ハワードであり、奴隷制反対を唱えたのはトーマス・クラークソンであった。アメリカではリンカーンが奴隷解放宣言を、ロシアでは皇帝アレキサンドル二世が農奴解放令を出した。これらは皆、人間の長い歴史から見ればつい最近のことなのだ。文明が進歩するものかどうかわからぬが、人権という概念は昔はなかったのだ。

 アメリカは一人の専制君主による統治ではなく、少数の階級上位者による統治でもなく、対等な国民の多数意見による統治を選んだ。このシステムの良い点は、絶対的な権力を半永久的に持つ者が現れないことである。国の最高統治者に選ばれた者が国民の多数意見に反することをすれば、次の選挙でその首をすげ替えることができるので、国民は被害を短期間で終わらせることが可能である。そしてここが肝要だが、国の最高権力者の意思が国民のそれと同程度のレベルに保たれることが意味するのは、アメリカのデモクラシーとは、国家が破局的事態を免れ得るように前もって制度設計された統治形態であるということである。これはジャクソン大統領という好例がある。彼のような凡庸で、またほとんど戦争犯罪に近いようなことをした指導者を最高権力者の地位につけてしまった場合でも、民衆が気に入らない政策を施行する統治者を選んだ間違いに気づけば、すぐに交代させられるシステムなのだ。たいした見識である。だから、この統治形態が実効性を持つための条件はただ一つ、国民が一様に或る程度のレベルまで成熟している必要があるということだ。

 もちろん短所はある。トクヴィル氏の指摘するところでは、民衆は多数の声を自分の声と錯覚している場合が多々あって、それゆえ自由の国であるはずなのに、実際にはヨーロッパにおける以上に個人的な主張を控えるように見えるという。多数の意思と異なる意見表明はごく少なく、こうして実は孤独な群衆が生まれていると、彼は旅人ならではの視点で述べている。

 アメリカは今や国家隆盛の時、そもそも東海岸に渡来したヨーロッパ人が西へ西へと開拓を続け、西海岸まで到達し、さらに西へと赴いて日本にも来たのだから、おそらく一周してヨーロッパに行きつくまでその動きを止めないのではないか。これはハリケーンが聖書と斧と新聞を伴って通過するようなものだから、途上の国々は大きな影響を被ることになる。

 それにしてもアメリカは広い。アメリカは全土に鉄道網を張り巡らすには広すぎる。別な乗り物が発明されるだろう。それはどの国でも通用する乗り物のはずだから、アメリカはそれを地球上に売りまくることになろう。どこでどんな国が衝突するかわかったものではない。外国交際が話し合いで解決すればよいが、外交そのものを戦争の一形態と見る見方もあるのだから、もう地球上戦争だらけになるというわけだ。制服組の戦争なら見通しも立とうが、それが通用しない形態の戦争だって起こり得る。胃の痛いことだ。

 明治という時代が来ていいことなぞ何もない。だが、来てしまった以上は立ち向かわねばならないのだ。遠い未来を見据えて、「来るなら来い。カム、ゲット・ミー」との構えで背筋を伸ばすのである。いや、一つくらい、いいことが無いとは言えない。遠い将来にはひょっとすると女には今よりだいぶマシな社会がくるかもしれぬ。家庭に入らぬ場合でも妾にならずに済み、一人でぼんやり生きても何とかなるくらいの幸せな世の中なら、まああるかもしれん。そして結局のところ、習俗をつくるのは女なのだから、それもやはり文明の進歩というべきか。いや、結論は遠い先の世の人々に任せよう。文明化に縁遠い未開の地に住む人々が何を考え、どんな幸せを感じているか、我々は何も知らないのだから。

 私も歳をとった。いずれこの世から退場する。皆そうだ。ヤングメンに席を譲る時が来る。そして寿命が尽きる時にならねばわからないことが必ずあるのだ。これまでとにもかくにも、私は一日一日を懸命に生きて、考えるべきことは皆考えた。すべきことは皆やった。誠に愉快とはいかぬが、後悔は何もない。


明治徒然話4  ― 諭吉の独り言4 ―

4.『浮雲』

 話し言葉と乖離していた書き言葉の文体を根本から変えたのは、長谷川二葉亭君であった。彼がまずもって翻訳者であったことがそれを可能ならしめたのだ。文語文はもう完成体として存在するのだから、翻訳者が用いる日本語にはあまり自由に訳せる余地がない。ましてや外国語の音調を含めての翻訳には不向きであった。従って、これまで知られていなかった外国文学を日本に紹介するなら、いまだ存在しない新しい文体を必要としたのだ。その後に試された言文一致体の翻訳小説は、最初はまだ未熟ながら、訳者の力量によって表現できる広がりと深みにおいて、かつてない可能性を示した。『あひゞき』は、日本の読者にはやや刺激的すぎたのではなかろうか。なにやらあれを若い時読んだ読者が、文学の隆盛に伴ってもっとえぐい小説なんぞを書きそうな気がするのだ。新文体で自由に書けるとしたら、なんだか自分しかいない話になりそうではないか。自分の探求にはここまでという限界が無いから、これはどんどん過激にならざるを得ない。それは西洋でも同じだろう。常に常に西洋の後追いをしようとする輩は必ずいると思うと、なんだか頭が痛い。いずれにせよ放っておくしかないのだが。

 話が逸れた。言文一致体を用いることで、自分の思い通りに自在に翻訳できるとすれば、ましてや日本語による文芸作品の創作はどれほど従来と違う新しい地平を見せることかと、二葉亭君は考えたのだろう。彼はそのための時代の申し子だった。これは彼自身認めていることだからそう言っても差し支えないと思うが、彼はどちらかというとロシア語の方が母国語より堪能と言えるバイリンガルだ。音調も含めて原文よりざっくりこなれた日本語にすることは得意ではない。それを言えば英国留学の夏目君などはいっそう翻訳には慎重だろう。彼は漢詩の達人だから、英詩の音韻を研究して、日本語訳は無理だと思えば、翻訳に手をつけないかもしれぬ。「必要は発明の母」とはよく言ったものだ。結局、皆、必死に新しい国語と格闘した二葉亭君のあとに続くだろう。

 ともあれ、二葉亭最初の小説『浮雲』第一篇が刊行された。いや待てよ、『浮雲』が出たのは『あひゞき』より先だったか。この辺があやふやなのは『あひゞき』のインパクトに比べて、『浮雲』はぼんやりした印象しかないからだ。これは作者にも若干の責任があるだろう。思うに、小説を書くのに坪内君に助言を仰いだのは如何なものかという気がする。坪内君はシェークスピアの紹介者。シェークスピアは戯曲の作者であるし、彼がアドバイスとして例に挙げた円朝の落語も基本はト書きなしの会話形式による一人芸だ。話し言葉の抜き書きだけならともかく、それだけでは小説にならない、一番問題なのは地の文なのだ。この点が坪内君のもとに赴いた二葉亭君の誤算だったのではないだろうか。まあ、あの時代、ほかに助言を求めるべき人がいなかったのは事実だ。まさか『佳人の奇遇』を書いた柴君の兄を頼るわけにもいくまいし。だが、文学論の中で『南総里見八犬伝』を前時代のものとして批判的に評した当の本人が、『当世書生気質』のような戯作文学風の小説を書いてしまうのだからなあ。それに加えて、あの当時、二葉亭君には書きたい主題が特になかった。文体を試したかったのだ。だから、落語の円朝と言えば「芝浜」というわけであったかどうか、なんとなくそんな舞台の小説ができた。特に第三編では話の筋に動きがなくなって、最終的にあれは未完に終わった。だが、彼はあの一作で終わる人ではない。たぶん、いずれまた何か書くだろう。世間をあっと言わせる作品を。

 それにしても、森君と長谷川君は全くタイプが違うのに、何だか似ている気がするのはどうしてだろう。旺盛な翻訳者だからか、それとも森君もドイツ語のバイリンガルだからだろうか。森君を追ってドイツから来たという女性は小説の中で永遠にその姿を刻んだ。『あひゞき』に似た悲恋ものだからか、二葉亭君は『舞姫』をロシア語訳したとも聞いた。あの二人には何か通い合うものがあるのだろう。森君が新しい文体で書くのを読みたいものだな。今のところ、最も優れた新文体の作品は、『国民之友』に載った独歩君の『武蔵野』であろう。誠に美しい日本の自然を優しく描いている。思わず、この優しさの正体は何だろうと考えた。新文体が武蔵野の自然の中で作者の心と完全に溶け合ったのだとしか思えない。その中で独歩君自身が『あひゞき』の冒頭部分を引いて、自分が落葉林の趣を解するに至った由来を述べているのだから、彼には二葉亭君の直系という自覚があったであろう。他の作家たちがこぞって新文体で書き出すにはまだもう少し時間がかかろう。最初の一作から一世代で新文体が定着するなら、むしろそれは作家たちによる長足の達成と言うべきだ。文学界はこれからどんなふうになるのか、これはなかなか楽しみだ。天保の老人にはちと寂しい気もするが。

明治徒然話3  ― 諭吉の独り言3 ―

3.『国富論』

 西洋の科学、あるいは科学的思考は大いに尊重せねばなるまい。我々がようやく武士の世に移行しつつあった頃、西洋にはもう大学なる学問を究める場所があったのだから、これはかなわない。ベーコン氏のいう観察と実験が科学の基本だ。蘭語の書物を参考に、若い頃塾で実験もしたな。アンモニアが発生して騒ぎになったこともあった。だが、初めて咸臨丸でアメリカに行った時、向こうの人が「珍しかろう」と、工業の製作所を案内していろいろと説明してくれたことは、何のことはない、既に蘭学を通して知っていることばかりだった。当たり前だが、科学はどこでも通用する。逆に私が度肝を抜かれたのは、馬に引かせる乗り物だとか、部屋いっぱいに敷き詰めた絨毯を土足のまま歩くことだとか、家に招待されてみれば接待に奔走するのは夫の役目で、専ら夫人が座ってお客と対応をするとか、あの時は子豚の丸煮にもびっくりだったが…まあ、驚かされたのは生活習慣の類いが主だったな。

 日本でも西洋でもまず最初に学問をしたのは坊さんだ。修道院なり寺なりが学問の最高峰だった。西洋ではキリスト教は支配体制そのものだったから、やがて世俗の王様が教皇から権力を奪い取っていく闘いは激烈であり、科学が神と決別するにはずいぶんと時間がかかった。ヨーロッパの知識階級の間で意思疎通に使われたラテン語は、漢字文化圏における漢語のようなものであろう。だから、母語たるフランス語で書いたデカルト氏の書が西洋近代の幕開けを告げたと言うことになるだろう。その時代でもまだ、学問で神の存在証明ができると考えられていたのだから、神を科学とすり合わせるのに多くのエネルギーが注がれたのだ。それは無理だと始めから割り切っていたパスカルは賢明だったと言えるだろう。それにしても彼らとスピノザ、ライプニッツが一緒に生きていた時代とは、なんと凄まじい時代か。そしてヨーロッパとはなんと恐るべき場所だろう。いや、その前にルターがいた。今しもグシャッと押しつぶされそうだった小さな柔らかい卵が堅固な壁にぶつかり、やがて壁に穴をあけたのだ。民衆から遠ざけられていた聖書をドイツ語に訳したことが、あれほどの破壊力を生み出すことになるとは。おっと、ガリレオ、ニュートンも忘れちゃいけない。他にも数えきれないほどの頭脳が連綿と束になって存在したのだ。そしてその後の最も画期的な成果はワットの蒸気機関であり、スティーブンソンの鉄道であり、アダム・スミスの経済学だった。自然科学と同様に、経済にも定則があったとはもう仰天であった。なんと面白いことを思いつくものか。十八世紀の女性が書いた小説『ミドルマーチ』には、知識階級は田舎でも誰もがアダム・スミスの著作に夢中だと書いてある。

 分業によって製品を作るようになれば、多くの働き手が必要になり、一日に作れる製品の量が何十倍にもなる。機械を用いればさらに大量生産が可能になり、生産された製品を格安の値段で売れば爆発的に売れる。それにより手工業者が従来の方法で製作した手作り品は売れなくなり、生計が立ち行かなくなる。ほぼ同じ製品なら誰もが安い方を買うからだ。昔ながらの手工業者が駆逐されれば、その製品を製造する業者の独擅場となり、さらに人々が製造工場に駆り集められ労働者が増大する。製品の需要が多ければ供給を増大せねばならず、さらに大量生産するために新たな工場が作られる。そのための資金が必要となるが、いつでもすぐに切り詰められるのは労働者に支払う賃金である。論理的には、賃金は労働者がなんとか生活を維持し労働を続けられる最低額まで下げることができる。生かさぬよう、殺さぬようとはどこかで聞いた話だが、労働者が多少死んでも実は困らないから、とにかく利益を増大させることが目指すべき最優先事項となる。資本とは端的に労働の蓄積された形態なのだ。低賃金・長時間労働・労働環境の悪化等は労働者の寿命を縮めるが、むしろこれは仕事を求める他の労働者には好都合である。彼らは自らの労働力を売る以外、生きるすべを持たないからだ。かくして、労働する機械と成り果てた人間が創出される。製品が国内だけでなく諸外国にもどんどん輸出されるようになれば、それによって国富は増大するが、その時こそ労働者が最低の賃金で働き、最も困窮する時なのである。さらに諸外国における別の国とのシェアの争奪が苛烈になれば、必ずや争いに発展し、戦争の可能性も避けられなくなる。

 理論的にはそうなる、と経済学は告げている。この輪の中に入りたくはないと誰もが思うであろう。が、我々はもうこの円環の端に位置しているのだ。正直・勤勉・倹約という点では、近江商人もプロテスタントも同列だが、所詮それだけでは話にならない。もはや国の中でだけ通用するやり方で済ませることはできない。鼓腹撃壌の幸せな時代は終わったのだ。国の経済を発展させるためには経済の法則を理解して、産業を興さなければならない。まずは民間の実業家がどうしても必要だ…。しかし改めて確認するが、我々が目指すものは、あくまで日本が西洋に追いつき並ぶことではない。それだけでは意味がないのだ。イギリスでは、下層階級の子どもたちが穴倉のようなところで長時間労働させられていると聞く。子どもは大人より一層安い賃金で使うことができるのだ。昔ながらの生業の手段を失って下層に転落した者たちも同様で、彼らはいかなる労働環境の悪化も受け入れざるを得ない。そこに縛り付けられるほか生活の手立てがないのだ。誠に戦慄すべき社会である。その先に来るものは…。やはりヨーロッパを徘徊している妖怪の出番となるか。留学生からの情報では、彼らは国をまたいだ結社を形成しつつあるようだ。

 メアリー・シェリーが小説の中で一人の科学者に作らせた怪物は、深い孤独と疎外感から創造者にさえ制御できないものとなったが、こちらの妖怪も、やがて自分を生み出した者の手を離れ、そう遠くない将来、必ずや世界を揺るがすことになろう。この妖怪はいずれ日本にも現れずには済むまいが、その生みの親は実に切れ味の良いナイフのごときペンを持っている。どの国の政府をも震撼させること必定の彼らの書は、読むだけで身に危険が及ぶ時代も来るに違いない。彼らの名は『学問のすゝめ』の最後の編に忍ばせておいた。「円(まる)き水晶の玉…ガラスのようなもの」とは「マルクス…エンゲルス」であり、「甲州」ならぬ「欧州」産である、と。

 私がヨーロッパ諸国と日本の違いを肌で感じるのは、それぞれの人民における階級差である。階級の差が激しい社会とは、不幸な社会ではないだろうか。私は旧士族にも農民にも、鉄鎖のほか失うべき何ものもない人間になってほしくはないのだ。どうすればいいだろう。私は敢えて彼らを労働者とは呼ばない。日本においては労働は必ずしも苦役ではない。日本人は、労働において自分の務めをできる範囲で楽しんでしまうところがあるのではないか。いわゆる遊び心である。「日本人の労働観は我々と違う」と言った西洋人にはたくさん会った。それに江戸時代でさえ、「日本では下層民でも文字が読めない者がいない」と西洋人が驚いたという話は枚挙にいとまがない。うろ覚えだが、英国の小説の中に、夫人が夫の読んでいる新聞をふと見たら上下が逆さまだったというエピソードがあったから、全くの誇張ではないのだ。それらは確かに大きな強みになるだろう。粘り強さ、几帳面さ、こういったことも利点だ。階級格差が西洋程際立つことがないようにするには、国民の大多数が自分をミドル・クラスと錯覚できるほどに、生活の平等化を目指すのはどうか。今はまだ夢のような話だが。

 さらにその先はどうなるか。そもそも外国が日本に開国を迫ってきたのは、日本と交易をするためだ。日本の国に点在する貴重な品が欲しいからではない。それもあるが、何より日本に自国のものを売るためなのだ。だから、将来日本が諸外国の欲しがる産業品を作って売り、万一売れに売れて交易にアンバランスを生じたら、諸外国は必ずや日本がいらないものまで買わせようとするだろう。力づくでも押し付けてくるに違いない。それが外国と交易するということなのだ。その時、「いらないものをなぜ買わねばならないのでしょう。不均衡がお気に召さないのなら、我が国のものをお売りするのは控えます」と言えるだろうか。論理的には言えるはずだが、そこまで腹の据わった決断ができる人材がいるかどうか…。いや諸外国も負けてはおるまい。是が非でも日本人が欲しいと思うものを作るはずではないか。外国とお付き合いする限り、この戦いに終わりは見えない。ひょっとすると、西洋諸国がもう工業製品を作らないという選択をすることはないのか。わからない。もっと安く作れる地域に生産を任せてしまう国が出てくれば、その国は何を売るつもりなのか。いずれまた無理難題を言ってくるのだろう。そこまで考えたらきりがない。今はともかく一にも二にも国の富を増大させなければならない。そうだ、百年先には、他の国民が休んでいる間も働いて、世界で一番裕福になることもひょっとしたら可能かもしれない。アメリカ合衆国憲法の起草者の一人、ベンジャミン・フランクリンは「タイム・イズ・マネー」と言っていたではないか。人間の労働時間以外は刻々と無駄な時間としてカウントされる恐ろしい時代が来るのだ。アメリカは「労働の目的は貨幣を得ること、人生の目的は富を得ること」と言い切る人間が国家を主導する国である。その価値観に倣う国はどういう国になるだろうと想像すると気が滅入る。今でさえ何でも金で買えるのだ。医者の位も学位も爵位も。

 そうそう、最近興味を引かれたのは、統計学という何やら新しい学問、まるで人には自由意志というものがないかのように思えてくる不思議な科学だ。人間の活動をマスとして巨視的に見ると、全く違ったものが見えてくる。自分の考え、自分の決断と思っていることでも、事実は、人が自分で決めて行動することなどほとんどないということなのかもしれない。それこそまるで神の見えざる手による予定調和ででもあるかのようだ。面白いものだ。あれは何といったか、アメリカ文学の偉大な最初の一冊…『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いたトウェイン氏によれば、世の中には三つの嘘があるらしい。「嘘と真っ赤な嘘と統計である」と。おそらく彼の言う通りだろう。

明治徒然話2  ― 諭吉の独り言2 ―

2.『愚管抄』

 私にとって第二の転機は、故郷のために為した一つの貢献だった。中津に洋学校を建てたのだ。その学校のために書いた設立趣意書が評判になって、三田の印刷所から出版してみたところ、国中で売れに売れ、ベストセラーになった。これほど多くの民が新たな時代に自分の生き方を模索していたことに、私は大いに驚きまた畏れた。無論、期待はあった。自分なりの工夫と思惑もあった。手本となったのは、かつて時代の移行期に、知識階級に向かってやんわりと気を吐いた大僧正である。「おほけなく浮世の民におほふかな我が立つ杣に墨染めの袖」と詠まれたお気持ちは私も同じ、痛いほどわかるのだ。身の程知らずであろうとも、洋学者としてできることはやらねばならない。それは私に課せられた使命だった。西洋列強が迫る中、まず国の独立を保たねばならぬ。だが、それは目的ではない。文明世界に貢献できる国であることが大事なのだ。長い道のりだが、私が浮世を生きる民のために何かできるとしたら、まずは「勉強して力をつけ、良い国民になれ」と告げ知らせることしかない。

 あの書の中で私は、もともと人民と政府との間柄は、職分が違うだけの同一体であって、政府が人民に代わって法を作り、人民は必ずこの法を守ると固く約束したのだと書いたが、無論実際は、人民は政府と約束を取り結んだりしてはいない。しかし、こういう社会契約の概念を所与のものとして前提した方が、そうでない場合より住みやすい社会を作るに有益なら、そう考えるに差し障りはない。万人が上下の別なく平等の権利があることを天賦のものと考えるのと同様である。万人が万人に対して敵対的に向き合って争うより、法律を仲立ちにして互いに契約を結ぶ方がずっといいに決まっている。私は無秩序が大嫌いであるが、それは単に人命と時間と活力の無駄という至極現実的な理由からである。国が四分五裂して戦った幕末にいいことがあっただろうか。争いは論争だけでいい。もっとも、奴隷問題からアメリカで国を二分して戦う内戦があったおかげで、日本は破局的事態を免れたのではあるが。

 それにしても、『愚管抄』には度肝を抜かれた。知的世界の頂点に君臨する比叡山延暦寺の天台座主ともあろう方が、カタカナを用いて書くなどあり得ぬことだ。その当時、学問する家柄に生まれた者でさえ、漢文で書かれた書物を読まない、読めないというのがもし本当なら、それは文字通り末期的状況である。平安貴族から鎌倉武士へと権力が移りゆく時代、慈円は間違いなく体で乱世を感じ取っており、それゆえ、何とか歴史に目を向けさせようとしたのであろう。しかし、乱世というなら今こそその時ではないか。平安から鎌倉への移行など国の在り方そのものには何ら変化を及ぼさない。だが今は、日本の治世が他国民の手に渡るかもしれないという瀬戸際なのだ。インドを見よ。英国留学の馬場君からの報告では、自国民による治世の可能性は法律に則って巧妙に排除されている。中国を見よ。アヘン戦争以来この方、国中が野獣に食い荒らされているような様相だ。それも正当な手続きに則ってである。我が国だって、思わぬファクターのちょっとした作用で中国の二の舞になり得るのだ。それだけは何が何でも避けなければならない。民が賢くならない限り、国の指導者が民を導くだけでは駄目なのだ。だが、後々のことを考えて優れた采配のできる指導者もなくてはならない。そのことを理解するには会津という地を見れば十分だ。会津戦争とその戦後処理はあまりに過酷だった。最終的には下北へ移住の沙汰となり、辛酸の限りを味わった会津の者たちは、死者も生者も彼らの仕打ちを忘れないだろう。せめて鳥羽・伏見の戦いの引金となった庄内藩に対して、西郷が示したような寛大な措置があったなら、これほどのしこりは残らなかっただろうと思わずにはおれない。しかし、そんな泥水の中からでも美しい花は咲く。人間というのは計り知れないものだ。

 話が逸れた。惻隠の情はいつも私を熱くしてしまう。私は慈円の手法に倣った。ただしカタカナではなく、学者にあるまじきひらがなを用いて書いたのだ。本当に新しい時代の文体が出来上がるには、さらに十数年かかった。表記法以外にもう一つ私が考慮したのは、フランス語で何といったか、そうそうエクリチュールだ。それまで国中の民に向かって「教師のエクリチュール」で語りかけた者はいなかった。私のあの説き勧めが「教師のエクリチュール」を用いて書かれた日本で最初の書である。私はそれを意識的に行い、確立できたといっても言い過ぎではあるまい。教師が揺るがぬ信念を自分の言葉で述べる時、そしてここが大事なのだが、教師自身がその言葉のままに生きている時、教師の言葉はほとんど無敵である。事実でないことを言おうが、論理に飛躍があろうが、関係ないのだ。『学問のすゝめ』は啓蒙文学と呼ぶべき書なのである。私は相当きつい言葉を用いたが、それにもかかわらず、無為に過ごしていた人々に「勉強したい」という彼ら自身思いもかけなかった欲望を起動させてしまった。あれから全国津々浦々の地域で沸き上がった上京熱はすごかったな。

 さて、『学問のすゝめ』はもともと初編のみで完結するはずだったのだが、そうもいかない事情が出てきた。それは明六社なるソサエチーに誘われた事だった。あのような新政府の官吏の集まりみたいに見える結社に名を連ねるなどまっぴらだ。何より発起人が「国語を英語にしろ」などという大馬鹿者なのだから、これは困った。そして、彼らが政府の中枢に食い込んでいるとなれば、座視するわけにはいかなかった。それで明治六年の十一月から毎月のように続編を刊行することにした。政府のお役人がいくら増えてもミドル・クラスは育たない。民間による産業の勃興こそが今必要なのだ。官に取り込まれないためにも、私は続編の四編で洋学者の職分の何たるかを示した。思った通り反論が出て大議論になり世間の耳目も集めたし、私が徹頭徹尾「民」に依拠することが満天下に知られたから、目的は果たせた。

 まずは然るべき立場の指導者が民を導く方がよいと考える洋学者もいるが、何様のつもりだ。後見人にでもなったつもりだろうか。こういう考えは、この際言っておくが、次善の策などではなく、はっきりと有害なのだ。理由は簡単、民の成熟を妨げるからである。カントも言っていたではないか、「自ら招いた未成年の状態、すなわち、他人の指示なしに自分の理性を使うことができないのは、理性が無いからではなく、自分の理性を使う勇気が持てないからなのだ」と。結局のところ、人は考えない方が楽なので、他人の指示に従う選択を自らするのであり、それが「蒙」の状態にあるということなのだ。「蒙」を「啓く」呪文の言葉は、一言「サベーレ・アウデ 知る勇気を持て」だ。ホラティウスの格言では「知る勇気を持て。始めよ。正しく生活すべき時間を先延ばしする人は、川の流れが止まるのを待つ田舎者と同じだ」である。別の言い方をするなら、そうだな、‟Stay hungry. Stay foolish.”とでも言おうか。聡明であるために愚かにならなくてはならないとは、不思議なものである。だが、真実はその通りなのだ。そうして私の後に続いてくれた者が出たから、この国は今現在生き残れているのではないだろうか。

 明六社に連なった人々に関してもう一つ許し難かったのは、日本語の扱い方についての根本的な倒錯だった。国語に関する私の考えは、すでに私の起こした私塾に関する明治三年の『学校の説』に書いた通りだが、何しろ『明六雑誌』の創刊号は西先生と西村先生による国語のローマ字表記論だというのだから、放っておくわけにはいかなかった。馬鹿げた喧嘩を売られたものだ。私は決意した。手始めに、『明六雑誌』が出る前に先手を打って、続編の五編で「原書をどんどん翻訳して日本国中に流通させるのが洋学者の責任である」と表明した。それは「できるだけ早くこの結社を解散させなければならない」との判断によるものだった。もちろん、穏やかに、全ては状況の変化に見えるようにして…。福地君は文久の遣欧使節で洋行を共にした仲だから、私の意図を察してくれた。そうそう、福地君と言えば、昔私が江戸に来て旗本のようなものになって幕府に出仕していた時、こんなことがあった。江戸では将軍にお目見えが適わぬ御家人を「旦那」、お目見えができる旗本を「殿様」と呼ぶのだが、かようなことは家の者は知らぬから、福地君が「殿様はご在宅か」と言ってうちに来た時、「いーえ、そんな者は居ません」と下女と押し問答になったっけ。私は幕臣になって手柄を立てようという気なぞさらさらなかったが、福地君も出世欲のない男だった。大蔵官僚から新聞界に転身したのは彼の進取の気性のなせる業だが、多少は勇気が要ったことだろう。「知る勇気を持て」という内なる声に従ったのだ。『東京日日新聞』での読者とのやり取りはちとやりすぎの感もあったが、ジャーナリストとしての彼の感覚は的中した。政府が取り締まりに乗り出してきたのだから。「高上なるソサエチー」とは明六社のことだとすぐわかったが、ソサエチーに「社会」という語を当てたのは福地君のクリーン・ヒットだ。ピンときた、私が続編の五編で用いた「社中会同」を縮めたものだということは。それ以来、私は自分の訳語「人間交際」を捨て、「社会」に乗り換えた。「社中会同」略して「社会」、うむ、簡潔でわかりやすい。昔から「椀屋久右衛門」は「椀久」であったし、日本語のフレーズの短縮パターンは決まっている。「紅葉露伴」は「紅露」、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」は「デカンショ」、同様に、「社中会同」は「社会」というわけだ。そして、あの「ペルソナルアタック」やら、「ペルソナルプロテスト」やらのカタカナ語の乱れ打ちは、はっきり一人の人物を彷彿とさせる。彼の漢語力、国語力はどれほどのものか、これは興味ある案件だ。最後の続編十七編でこのことは書いておいた。嫌味だったかもしれないが、あんまり腹に据えかねたんでね。「日本の言語は文章も演説もできぬ不便な言語だから、英語を使い英文を使え」とは、日本語に対して失礼だ。そんなことを口にするのは、日本に生まれていまだ十分に日本語を使えない男だ。国の言語というものは新しい事物を飲み込んで消化し、新たな言葉を作り出し、何不自由なく使えるはずのものではないか。だから私は、ちゃんと日本語を勉強しなさいと忠告したまでである。まあ、二十歳前に渡英し、英語は自在に操れるようになったものの、優れた翻訳者なら身に着けているはずの漢語力、国語力がないからそんな戯言を言うのだ。気の毒と言えば気の毒だが、西洋と対抗して並び立つために日本の課題を乗り越えるには、国語しかないのだ。私は民の力を信じる。

 ここでどんなに高く評価してもしきれないのは、やはり二葉亭君の達成なのである。彼は一般大衆が自由に使える新しい文体を創ってくれた。それまでの漢語は誰でも自在に使いこなせるものではなかったから、これでやっと全国民に対して啓蒙可能な条件が整ったのである。カントの論理で検証しよう。最初に置くのは「『理性の公的な利用』だけが、人間に啓蒙をもたらすことができる」という命題である。

 次に、以下の三つの命題を考える。
  一、「学者だけが、『理性の公的な利用』を行える」
  一、「学者とは、何からも制約を受けずに思考でき、それを文章で表明できる者の
   ことである」
  一、「国民全員が自分の自由な考えを文章で表明できる」
 この三つの命題が各々真であると仮定して、そこから導かれるのは次の命題である。
 「国民全員が『理性の公的な利用』を行える」
 これを最初の命題に代入して得られる結論は
 「国民全員に啓蒙をもたらすことができる」
である。これは、最初の命題が真である限り、真である。最初の命題はカントが提出した命題であるから、否定するのは容易ではない。とすれば、「国民全員が自分の自由な考えを文章で表明できる」、を達成できさえすれば、全国民を啓蒙できることになる。こう考えると、日本語における自由自在な表現を可能にする新しい文体を生み出した二葉亭君の貢献が、どれほどすごいものだったか分かるだろう。事実、言文一致体が書き言葉として日本語に定着しなければ、全国民の啓蒙は難しかったであろう。「こうすれば、こうなる」という理論上の仮定が実現するのは、現実的方策によってそれが支えられたときだけである。そして、この「理論を可能にする方策」なるものは、他人には「何をやっているのかわからない」と思われながらも、自分の心と直感に従って努力し続ける人間から、不意に与えられる無償の贈り物なのである。

明治徒然話1  ― 諭吉の独り言1 ―

1.『ヅーフ・ハルマ』

 今になってみると、結局、新しい日本語の文体を創出したのは、長谷川二葉亭君であった。ロシア語の使い手がこれを成し遂げるとは思っていなかった。森君あたりがやるかと思っていたのだが、いや、同じ翻訳者でも森君は筆が立ちすぎる。あれほどの漢語の使い手では新たな文体を作る必要が無い。そこへいくと二葉亭君は自分は思うように文章が書けないと言っていた人だから。『浮雲』から十幾年になるか。ま、傑作とはいかなかったが、全てはあの作品から始まったのだ。おかげで私も自伝は新文体を使って書いた。

 人生の転機はいつ訪れるかわからない。私の場合、何と言っても、大阪に移って緒方先生のあの塾で学び始めたことだろう。今でもありありと目に浮かぶ、試験前の塾生でごった返していたヅーフ部屋が。人いきれにやられて難儀した。ずいぶんやんちゃもしたが、目的もなく一心不乱に学んでいたあの頃ほど楽しかったことはない。蘭語はたった一つ、世界に開いた窓だった。不思議な、途方もない世界を感知して、見たこともない言語体系の美しさとこの世のものとは思えない文明の有様に、すっかり魅了されたのだ。思えば蒲団に枕して寝ることも忘れるほど激しく学んだ。世間では悪く言われるばかりの貧乏書生だったが、今となってはただただ懐かしい。若い日に、良き師、良き友と学べたことは私の生涯の喜びであった。

 だが、あの頃の我々の苦労など取るに足りない、我々には辞書があったのだから。玄白先生らの解剖学書の解読作業のご苦労は、涙なしには読めない。洋行の折にとにかく辞書を買い漁ったのは、それさえあればどんな言語にも通ずるチャンネルが開けるからなのだ。横浜では読める文字も通じる言葉もなくて、もう英語の時代だと思い知らされたが、失望している時間はなかった。あの時出会ったドイツ人商人と筆談ができたのは、蘭語とドイツ語が兄弟言語のようなものだったからだ。結局、ヨーロッパの言語は皆どこかで繋がっているのだから、無駄な勉強などない。無論、『ヅーフ・ハルマ』はもとは仏蘭辞書であって独蘭辞書ではない。それは誰でも知っている。このヒントに気づくだろうか。ただの書き間違えと思うだろうか…まあ、試してみよう。

 独蘭辞書を使って最初に読んだのはカントである。その書は『アウフ・エアクレールンクとは何か』以外ではあり得ない。アウフ・エアクレールンクとは英語でエンライトゥンメント、「照らす、蒙を啓く」ということだ。『啓蒙とは何か』を読んで、私はいささか驚いた。システムと成り果てた西洋の宗教支配体制と、長年の支配で硬直化した幕藩体制との違いがあるものの、私の考えと同じだったのだ。カント自身、「さまざまな人の思想がどこまで偶然に一致するかを試したい」と述べているのだから、その実例として私の考えを残してもよいだろう。その後、次々と他の著作を読んでみたが、これほど考えが一致する人物がこの世にいようとは思わなかった。私の課題は理論と実践を同期させることだ。理論上は正しいかも知れないが、実践には役に立たないと言わせてはならない。まあ、私は著作の中で繰り返し「官途…、官途…」と書いたのだから、ひとつカントを読もうかという気になる者もいるやも知れぬ。

 それにしても、『ヅーフ・ハルマ』を一年で二冊も筆写した男がいたのだ。江戸っ子にしては骨のある奴だと思った。江戸城明け渡しについて西郷と交渉した男でもあった。それができたのは、決死の覚悟で駿府に赴いた山岡の下準備があったればこそなのだが…。旧幕臣として期待をかけていたのに、維新後は新政府に出仕しおって…がっかりだ。通り一遍の凡人ならばともかく、あのように傑出した人物が痩せ我慢の気風を捨てたのでは、先が思いやられる…万世どころかもう百年もすれば誰も痩せ我慢などしなくなる。だが、それができる人が一定数いなければ社会はもたない。国の存立は保てないのだ。つい、自伝の中であの男の胆力の弱さを随分こき下ろしてしまったが、ちょっと狭量だったかな。

 国という概念も私的なもの、一つのアイディアにすぎないというのは確かなことだ。「立国は私なり、公に非ざるなり」である。この点でも私はカントと同意見だ。人が立場上行う発言は、実は理性の私的な行使に過ぎない。一方、学者としての理性の表明は公的なものである。不思議に思われるかもしれないが、その逆ではない。人が市民としての或る地位において、または官職にある者として、実行する理性の行使は、立場上配慮して行わなければならない相手がいるのだから、自分の言論・行動が制限されてしまう。立場上する発言は、十全には本人の自由意思に基づかないからである。人間に啓蒙をもたらすことができるのは「理性の公的な利用」だけだとカントが言う時、それができるのは学者だけだと彼は考える。彼が学者と呼ぶのは「何からも制約を受けずに思考でき、それを文字を用いて表明できる者」という意味なのだ。しかしこういう理路が理解できて、ここ一番という正念場にそのように振る舞える人間であるためには、その人はどうしても或る程度成熟していなければならない。ここ一番とは、国家存亡の危機にあたってという意味である。平穏な時には痩せ我慢などいらない。だが、国が生き残れるかどうかの瀬戸際で、この国家という想像の共同体が成り立ち得るのは、自分の使命を自覚した者が黙って踏ん張り、己がなすべきことを遂行した時だけなのだ。この世には生半な哲学などでは計り知れないものがある。ヤングメンにはそれが思いもよらないことなのは分かるが、あれほどの男がと思うと、何やら情けなく失望を禁じ得ないのである。こういった人としての務め、世の中における役割を、皆に分かってもらうのは無理なのだろうか。もし分かってもらえるとしたら、どのようにして…? これが私の最初のそして最大の課題であった。