2013年9月28日土曜日

「紅春 35」


 帰省したら父がいなかったので、変だなとは思ったのです。りくが大喜びで迎えてくれましたが、こちらもいつもとちょっと違う感じ。なんだかびっくりして戸惑っているようでした。

 理由がわかったのは一週間ほどして、来月の予定を壁に掛かったカレンダーに書き込もうとした時でした。いつも父にわかるように、到着日と出発日を赤ペンで書いておいたのですが、今月のカレンダーは真っ白でした。書き忘れたのです。何日か前に電話でも知らせておいたのですが、父は耳が遠くて伝わっていなかったようです。
「カレンダーに書き込むの忘れてた。」
と言うと、父が
「そうだよ。だから、りくには、『今月は姉ちゃん来れないんだよ。』と言い聞かせておいた。」と。

 それでか・・・。だから玄関を開けた時、りくはふいを突かれていつもと対応がちがったのです。いつもは私が帰る日の3日前から、父はりくに
「いい子にしてたら、姉ちゃん帰ってくるかもしれないよ。」
と話し、当日は玄関にスリッパを出しておくので、りくは私の帰宅を確信し、期待でいっぱいになって待っているのです。うっかりしてたな、りくも調子が狂ったろうね。

「企業人の資質」


 一般人には不可解な事件が2つありました。JR北海道の相次ぐ列車事故とカネボウの白斑問題です。利用者が列車に求めるものは何より安全であり、化粧品は美しさという夢を売る商売です。一般の顧客からみたら、「他のことはともかく、そこは御宅の本丸でしょう。」という部分が大きく毀損されたのです。

 内部の事情は知りませんが、JR北海道の方は、あれだけの広大で人がまばらな土地に鉄道を走らせて収益をあげるのは困難であろうと容易に想像できます。赤字会社に人員整理はつきもの、路線の保守・点検も慢性的な人手不足だったのでしょう。さらなる人口減少、過疎化が予想される中で収益をあげるという、誰がやっても至難の業である事業を背負うのは並大抵のことではありません。社長が「戦線(業務改善命令に対する対応のこと)を離脱することをお詫びします。」との言葉を残して自殺したのはお気の毒でやりきれませんが、他に方法がなかったのでしょうか。トップが消えてしまったのではどうすることもできません。

 カネボウの方は、2年も前から白斑問題が報告されていたというのに放置されており、これを「事なかれ主義」と呼ぶのは言葉の使い方が違うでしょう。「病気だと思っていた。」と言うのが本当なら、企業のトップとしてあまりに鈍く不適格であり、本当は問題があるのではないかと思っていたのなら、良心のかけらもなかったと言わざるを得ません。専門機関に調査を頼むとか、同じ症状が出た社員に事情を聴くとかいくらでもやりようはあったはずです。役員報酬を一部返上という解決で済ます感覚にも唖然とさせられます。ここには、結果があまりにも致命的であるために問題をなかったことにしたい、起きてはならないことは起きるはずのないことにしたいという、いわば東電と同じ心性が見られます。

 この二つの企業は正反対に見えるトップのありようですが、実は同じ人間性の限界を示しているのだろうと思います。前者は負いきれぬ責任の重さに自らの命を絶ったのであり、後者はここまで良心を麻痺させないと精神が責任の重さに耐えられなかったのでしょう。もうタフな企業人はいないのかもしれません。

2013年9月25日水曜日

「食堂車」


 人は閉じた移動空間の中でどんなことをして過ごすでしょうか。音楽を聴く、本を読む、パソコンや携帯があればどこにいても同じ過ごし方ができるかもしれません。車窓を眺めるというのも楽しみの一つでしょう。移動中に食事時を迎えるなら、何か食べることも楽しみになります。

 私は子供の頃、東京の祖父母の家に母に連れられてよく行きましたが、当時急行で3時間半かかったと記憶しています。特急で2時間半の時代でした。この3時間半というのは移動するのに実に絶妙な時間だったと今さらながら思います。乗ってわいわいしているとあっと言う間に1時間やそこらはたち、それからおもむろに駅で買ったお弁当を食べ、ゆっくりしていると、もう降りた後のことを考え準備をする時間になります。気持ちが切り替わるのです。

 東海道新幹線を使う地域ならいざ知らず、私は写真でしか食堂車を見たことがありませんでした。20年ほど前のある暑い夏、ザルツブルクからウィーンまで列車で移動した時のことです。ちょうど3時間半くらいかかったでしょうか。乗ってしばらくしてヘルベルトが「食堂車に行こう。」と言いました。おなかは空いていなかったのですが、私の目は輝きました。ああ、憧れの食堂車!

 行ってみるときれいな真っ白のテーブルクロスがかかったテーブルが何席かあり、とてもいい感じというか、普通のレストランと比べても遜色がありません。スープを頼みましたが美味。それから、流れゆく車窓の美しい景色を楽しみながらコーヒーとケーキでお茶にし、すっかりくつろげました。ヘルベルトが「食堂車に行こう」と言った理由もわかりました。この頃、ヨーロッパの列車にはほとんどエアコンがついていなかったのですが、ここだけ冷房が入っていて快適なのです。ここなら一等も二等もないし、それほど混んでもおらず、時間も有効に使えて大満足でした。

 リニア新幹線は東京ー名古屋間を40分で結ぶという報道があり、いよいよ超高速鉄道が現実化してきました。時間の観念が変われば生活全般が想像もできないほど変わるでしょう。一度くらい乗って驚異的な速さを体感してみたいものですが、一度でいいなと思います。気持ちの切り替えができないし、・・・駅弁が食べられませんものね。

2013年9月23日月曜日

「早朝エクササイズ」


 今まで念頭になかったのですが、住んでいる区内にかなり大きな公園があります。都心に向かう方向とは真逆の位置にあるので、これまで私の中の検索にかからなかったのです。

 この公園に関心を持ったのは自分でもわかるくらい「体がなまってきた」からです。ウォーキングは健康の基本ですが、それより少しジョギングしたいほどになってきたのです。こんなことは初めてかもしれません。ジョギングとなるとどこでもいいというわけには行きません。それで近辺を見渡してみたらこの公園が目についたのです。家からとても遠いというイメージがあったのですが、たまにいく図書館のちょっと先、自転車で15分くらいのところとわかりました。別な方向にならそのくらいいくらでも行っていたのに、灯台下暗しでした。

 気候もよくなってきたので、ある朝6時半頃家を出て行ってみました。道はほとんど車の通りもなく、朝の空気が心地よく快適でした。着いてみると広い、広い。歩いている人、集団で体操している人たち、池に釣り糸をたれている太公望もたくさんいました。

 公園はそれぞれ使用ルールがあるので様子をうかがうと、犬はつないであればOK、自転車もOKで思い思いの場所にとめています。あまり広いのではじめに自転車で回ってみましたが、私の好きな広葉樹、椎の木・楢・、楠・桜・欅などが多く、それも樹齢何百年かと思われる深々とした緑の公園でとても気に入りました。なにしろ代々木公園より広大なのですから、ちゃんと歩いて回れば半日がかりでしょう。

 この時間にここに来られるのは地元民の特権、日陰をちょこちょこっと走ってみると久しぶりで気持ちよく、とにかく人口密度が低いので誰にも心おきなく走れます。池にはカモもいて、ああ、この情景はどこかで見たような・・・と思ったら、ロンドンのセント・ジェームズ・パーク・・・? そう思えば思えないこともありません。

 行き帰りで30分、ウォーキングとジョギングとラジオ体操で30分、帰ってきてもまだ7時半、なんと爽快なことでしょう。いい季節、いい天候の時にはやみつきになりそうです。

2013年9月20日金曜日

「盗難考」


 刑事ドラマといえばほぼ殺人事件の犯人捜しですが、最近は窃盗に関するドラマもあるようです。この盗難というものは、殺人とはまた違った深い絶望を感じさせられるものです。個人が所有する物にはそれぞれ歴史があり、それに付随する感情が詰まっているからです。以前、ヨーロッパでカメラを盗まれたバックパッカーの若者が、
「カメラはあげるから中のフィルムだけ返してほしい。」
と、誰とも知れぬ窃盗犯に対して一人叫んでいたのを見たことがあります。旅行中に写したものが全部ないというのは大きな喪失感でしょう。盗難の一番の問題はまさにこの点、すなわち、被害者の深い失望感、そしてそこから来る犯人への恨みが、犯人の耳に届くことがほとんどないことにあると思います。

 これについて思い出すことがあります。勤めていた学校で一度使っていたカセットデッキがなくなったことがありました。英語科準備室の外にデッキを出しておくと英語係が教室まで運んでくれることになっていたのですが、或る時それが紛失しました。「探しています」の張り紙を出したところ、「返してほしくば3万円・・・」といたずら書きがされていました。ここに至って盗難とわかり、
「盗んだだけでは飽き足らず、無くなって困っている人を愚弄するとは。」
と私は完全に切れました。
「いやしくも学校という場でこんな蛮行を許してはならない。」
と心に誓い、犯人探しではなく盗難品を取り戻すことに目標を定めました。

 少し調査をすると時間割の関係からほぼクラスが特定されましたが、困ったのはそれが持ちクラスではない、それどころか全く接点のない学年だったことです。逆に言うと、そうでなければおそらく盗難自体起きなかったとも考えられるのですが。
そこで、そのクラスの授業を持っている先生に、
「わけは聞かずに授業時間のうち10分ください。それから申し訳ありませんが、廊下にいて話は聞かないでください。」
と頼みました。

 教室に入りここに至る事情を話し盗難の件を告げると、反発の声が上がりました。無理もありません、その場にいるほとんどの生徒は無関係なのですから。しかし、私はその声を一喝し、無くなった物がどんなに大切なものかを話し、物を盗られた人間の怒りをぶつけました。怒っていたのは事実ですが、それよりなにより、人間の生の怒りをわからせるためおおげさな演技をしました。最後は、
「こんなことをしていたら将来決していいことはない。人の恨みはなんらかの形で必ずその身に降りかかる。今回のことは返してくれればそれでよし、それ以上は問わない。でも返さなかったら、一生絶対許さないからな~。」
と絶叫して教室を出ました。

 2日後のことです。同僚がカセットデッキを持って現れました。
「これ、川辺野さんのじゃありませんか。」
「ど、どこにあったんです?」
「職員室前の廊下にありましたよ。」
戻ってきたのです。犯人が反省したのかどうかはわかりませんが、少なくとも私が本気で怒っていたことはわかった証です。日本では落し物がかなりの確率で交番に届けられ落とし主に戻って来るというのは、おそらく「誰も見ていないからといって不当な利得を得れば、いつかきっと天罰が下る」という言い習わしが心のどこかにあるためだろうと思います。私の行動は教員としての指導ではありませんでしたが、人間としての対応の仕方としてはこれでよかったと思います。キリスト者としては・・・最後の一言が失格ですね。

2013年9月18日水曜日

「心に残る話 2」


 私はいつも弟のロビィが自慢だった。彼は容姿端麗で、私たちの高校の陸上チームの花形だった。母がロビィは白血病だと私に告げた時は、彼も私も高校生だった。それは長くつらい闘いになるだろうから私たちは力を合わせなければならないと母は言った。母は、私と、家を離れて大学に行っている兄のエドに、できるだけ普通通りの生活を送ることを望み、同時に起こりつつあるすべてのことを私たちに知っていてほしいと望んだのだった。

 私の家庭に起こりつつある恐ろしい事態にもかかわらず、母は私の生活を不安定にならないようにしていた。学校の課外活動は続けるべきだと母は私に言った。春のダンスに招かれた時、私は後ろめたさを感じた。 ロビィが苦しんで死んでいくというのに、私は行くべきなのだろうか。
「そうよ」と母は言い、そんなこんなの最中にも、服を買いに街に私を連れていった。

 ロビィは私が高校を卒業するほんの少し前に亡くなった。私は卒業したら芝居の勉強をしにニューヨークへ行こうとずっと計画していた。今となっては行けないと私は思った。ロビィは死んでしまい、エドは遠くの大学へ行っているのだから、母は私にいっしょに家にいてもらいたいと思うだろう。家庭で子供が死んだときには、残っている子供はなおさら大事なのだということを私は知っていた。 母はこう言うこともできたのだ。
「そばにいてちょうだい。母さんは1人子供を亡くしてしまったし、もう一人の子供の姿も見られないなんていやだわ。」
しかし母は女優としてやっていきたいという私の夢を常に知っていたのだ。
「お前はニューヨークへ行くのよ。」とある朝母は私に言った。「人生は生きるためのものなのだから。」
母はまだロビィのことで悲しんでいて、私がいないのはひどくつらいことだったろうに、私を行かせた。母は、私が世の中にでてゆき、充実した意義深い人生の機会を得ることを望んだのだ。母は死をいかに受け入れるかを私に示したばかりではない。いかに生を受け入れるかをも示したのだった。

     I'd always adored my brother, Robby.  He was handsome and the star of the track team in our high school.  We were both in high school when my mother told me Robby had blood cancer.  It was going to be a long, hard battle, she said, and we had to stick together.  1) She wanted me and my older brother, Ed, who lived away from home at college, to lead as normal a life as we could,  yet she wanted us to know everything that was going on.
     In spite of the horrible thing that was happening to my family, my mother kept my life stable.  She insisted that I keep up with the activities in school.  When I was invited to the spring dance I felt guilty.  Should I go, with Robby in pain and dying?  Yes, said my mother, and in the midst of everything, she took me to town to buy me a dress.
     Robby had been dead only a short while when I graduated from high school.  I'd always planned to go to New York after graduation to study acting.  I can't go now, I thought.  Robby's gone, Ed is away at college and mother will want me to be at home with her.  How could I leave her now?  I knew that when there is a death of a child in a family, the remaining child at home is all the more precious.   My mother could have said, "Stay by my side.  I lost one child and I don't want to lose sight of another."  But she'd always known of my dream to pursue a stage career.  "You're going to New York," she told me one morning.  "Life is meant to be lived."  She let me go even though she was still grieving over Robby and would miss me terribly.  She wanted me to go out into the world and have a chance at a full, meaningful life.  My mother not only showed me how to accept death.  She showed me how to accept life.

2013年9月16日月曜日

「紅春 34」

 りくを見ていると毎日ヒマだろうなと思います。朝、家人を起こし兄を見送った後は、郵便や宅配の対応以外はとくにすることがありません。他の家人は出かける用事や買い物があるのでその見送りやお出迎えくらいはしますが、あとは寝そべってうとうとしていたり、念入りに身づくろいをしたりしています。犬の睡眠時間は12~15時間と言いますから、まあいいのでしょう。

 そのかわり、兄が帰ってきた時の喜びようは大変なものです。車が帰ってきたことを他の家人に知らせる時、吠えるだけでなく声を絞り出すようにして明らかに何か話しているのです。感極まった訴えがあまりに真剣なので、「ああ、一日中待ってたんだな。」と思います。これが毎日の出来事なのです。

 兄が姿を現すまで、また洗面や着替えをしてりくを相手にできるまで結構時間がかかるので、その間、りくはうれしくてどうしていいかわからないようです。父にかかっていったり、大好きな「弟くん」という名のぬいぐるみを振り回したりしています。やっと兄と遊べるようになると、頭をつけてピョンピョン跳ねたり、お腹を出してあおむけになったり(この時前足は完全に脱力し、まるで「うらめしやー」というような格好になっています。) まったく甘えきっているのです。

 りくはまもなく七つになります。犬の年齢は七掛けといいますから、人間でいえばもう「天命を知る」歳に近いのです。こんな甘えっ子でいいのでしょうか。

 
 

2013年9月13日金曜日

「東京オリンピック招致」


 オリンピック招致合戦の報道があまりに過熱して辟易したので、しばらく見ないでいたらある朝東京に決まったことを知りました。「へえー。」と思いましたが、別に悪い気はしませんでした。思うに今世界中でそこはかとない日本ブームが起きているのが勝因ではないでしょうか。世界の通常の観光地が人を引き寄せる要因が名所・旧跡であるとするなら、日本は全く別なもので人々を引きつけているのです。

 「食文化」(しかも高級な料理だけでなく、ラーメン、たこ焼き、餃子といったB級グルメも含む)や様々な「かわいい」もの(キティちゃん、アニメのキャラクター、そしてゆるきゃら)、それに大震災で明らかになった「自然発生的な秩序」「思いやり」「おもてなし」の文化というものに、IOCの委員をはじめ世界中の人が惹かれ、「なんだかよくわからないけどちょっと行ってみたい国」に大手を振って行けるチャンスを作ったのだろうと思います。

 ところが実際の計画というか、競技や選手村の予定地を見た時、「こんな臨海部で大丈夫かな。」とまず思いました。何もないとは言い切れないので何かあれば被害が大きいのではないかと思ったのです。次に招致決定までのプレゼンを見ているうち安倍首相の言葉にびっくり仰天しました。
「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている。」
「(福島第一原発の)状況はコントロールされている。」
こんな国民の誰一人信じていないことを全世界に向けて言ってしまうとは。小さな嘘はすぐ見破られるけれども大きな嘘は通ってしまうというのはこういうことでしょうか。これはアメリカと密約しながら「非核三原則」を声高に唱えてノーベル賞までもらった政治家と同じレベルの大嘘です。あれは祖父の岸信介ではなく、大叔父の佐藤栄作でしたね。

 またそれより前の記者会見だったか、招致委員会の竹田理事長が汚染水問題を問い詰められて、「東京は福島から250キロも離れているから安全」と発言しているのを聞き、
「あー、それを言うか。福島は危険だけど東京は安全だと・・・。」
と気持ちが沈み悲しくなりました。もちろん、一義的には福島を思って気が沈んだのですが、もっと大きくはこの国を思って気が沈んだのです。経験的に言うと、自らの弱い部分を切り捨てた組織は生き残れないからです。その時はよくても、長い間に取り返しのつかない大きなダメージとなって返ってくるのです。

 安倍首相がついたような嘘は諸外国であればよくあることです。19世紀にイギリスの外相から「文明世界最悪の嘘つき」呼ばわりされたメッテルニヒも、「言葉は嘘をつくためにある」と言って恬として恥じない古狸タレイランにはまんまと乗せられました。残念ながら外交は、ある国にその気がなくても相手国にとってはだまし以外の何ものでもないという場合が往々にしてあり、そういう面を抜きには語れません。日本の外交下手の理由の一つは、生真面目で正攻法過ぎる点にあると思います。(もちろん、他に200くらい理由があるでしょうが。) 血筋ということでもないでしょうが、日本でも堂々と嘘がつける世界基準の総理が出てくるようになったのです。ですが、私はやはり日本は目先の国益にかなわなくても本当のことを言ってくれる世にもまれな国であってほしいと思うのです。

2013年9月11日水曜日

「シエナのかけっこ」


 イタリア旅行をした時のことです。イタリアに行く目的のほとんどは美術館での絵画鑑賞です。フィレンツェ Firenzeといえばなんといってもまずウフィツィ Galleria degli Uffizi。記憶が定かでないのですが、確か当時(20年くらい前)は入館券があれば一度退館しても当日ならまた入れるようになっていました。スケジュール的にあまり余裕がなかったのですが、シモーネ・マルティネ Simone Martiniの『受胎告知』 Annunciazione tra i santi Ansano e Margheritaを見た途端、私はどうしてもシエナ Sienaに行きたくなってしまったのでした。 

 フィレンツェからシエナにはバスがでており、午後4時半頃帰って来れれば閉館までまだ2時間ほどウフィツィで鑑賞できる計算です。ヘルベルトはさほど絵画に関心はないのですが、こういうとき私の希望をいつも全力でかなえてくれるのです。

 シエナに行き、壮麗な市庁舎の「世界地図の間」にあるフレスコ画、『グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像』 Guidoriccio da Fogliano all'assedio di Montemassiを堪能し、やはり来てよかったと満足しました。2時間ほど滞在し帰りのバスの時刻チェックも怠らなかったのですが、問題はバスの乗り場でした。てっきり降車したところと同じだと思っていたのですがそうではなかったのです。

 出発時間は近づいており、バス乗り場は『地球の歩き方』を見ると(こういう時本当に役立ちます。)、ゆうに400~500メートルは離れています。ヘルベルトは、
「次のバスにしよう。」
と言いました。次のバスは2時間後、お茶をするのにいい時間。普段なら一も二もなく賛成するのですが、この日はウフィツィの絵画の残りを見たい一心でした。
「それはだめ~っ。」
と言って、私は駆け出しました。ヘルベルトはついてくるしかありません。走りに走り、途中私も「やっぱり無理かな、間に合わないかな。」と思いましたが、ぜいぜい息を切らして駆けて行くとまだバスは出発していませんでした。

 席に座り噴き出す汗をぬぐっていると、ヘルベルトが
「君は決してあきらめないんだね。君と僕が駆けているところを傍から見たら、どうみても東洋人の女の子を追いかけてる大男の図にしか見えなかっただろうな。」
と言うので苦笑いしました。

 この時のことをヘルベルトは時々思い出していたようで、似たようなことがあると、
「君があきらめないのは知っているよ。」
と、なかばあきらめ顔で言うのでした。

2013年9月9日月曜日

「心の速度」


 いつの頃からか、「生きづらい」とか「心が折れる」という言葉を聞くようになりました。少なくとも20年前は使わなかった言葉ではないかと思います。これは別に20年前と比べて現代人の心が弱くなっているということではありますまい。そういう言葉を使わねばならないほどの猛烈な社会環境になってきたということでしょう。

夏目漱石は「とかくに人の世は住みにくい」とは言いましたが、この言葉にはある種温かみのある諦観があります。

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」(『草枕』)

「生きづらい」というのはまさにこの「人でなしの国」に行ったかのような心持ちではないでしょうか。その一番の原因は、普段「なんでも速いことはいいこと」という社会常識が一般化しているため指摘されることが少ないですが、通信の高速化にあると思います。手紙しかなかった時代はやり取りに最低数日かかったのですから、その間心の中に温めるということができました。また、毎日会う人が相手でも一度帰宅し家族との日常に返ると、今日あったことも吹っ飛んで、翌日言葉を自制したり、寛大な気持ちで仕切り直したりする心の余裕ができたのです。しかし今は、多くの人が自分への情報や通信にとらわれています。或る母親が、学校から帰ってきた娘がメールで友達とけんかの続きをしているのを見てぞっとしたと言っていましたが、これでは生きにくいのも当然です。就職活動などでも通信手段はメールが必須ということも多く、いくつもエントリーしては不採用の通知が来るのでは心も折れてしまうでしょう。大変な時代になったものです。

漱石の答えは単純明快です。

 「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」

世界の文学や絵画に囲まれた生活はやはり必要なのです。あとは音楽が抜けていますね。

2013年9月5日木曜日

「オラクル」


 子供の頃からちょっと疑問に思っていたのは、特に旧約聖書で神と人が対話する場面です。やりとりの展開はお話としてはおもしろいのですが、どうしてそれが自分の思い込みや妄想ではなく、「神様からの言葉だとわかるのか」が不思議だったのです。「これはいわば神話だから。」「神様の言葉を預かる特別な人だから。」と解釈していました。

 今回、福島教会の会堂建築にあたりひょんなことから「ベジがま」という野菜調理器具を思いつき、建築献金をしようと思ったのですが、これはとても不思議な過程でした。自分がやったことに違いはないのに、自分でやった感じがしない、自分からは遊離したものをどこかで眺めているような感覚でした。自分にできるはずのないことが自分にできるはずのないスピードでできて進んでいく、我ならぬ我になっていたのです。

 志はよくても納税の義務等世間のルールをはずれて志を汚すようなことになってはいけない、これを続けるには事業化するしかない、というところまでわかった時、そこまですべきかどうかちょっと迷いました。しばらくあれこれ考えていると、その答えはある日の礼拝後に出ました。神がよしとするものであるなら祝福があるだろうし、事業化してうまくいかなければそれはやらなくていいことという答えでした。その答えを聞いて「なるほど明快だ。」とすっきりしました。その時、神様の声というのはただはっきりわかるものだと知りました。それはただ端的にわかるのです。

 中学・高校時代一緒に教会に通いその後長らく年賀状だけのやりとりになっていた友が、所属教会でベジがまを扱ってくれることになり、それどころか注文された100個の袋詰めや送金等のこまごまとした面倒を引き受けてくれることになりました。これはもう関西に営業所ができたのと同じで本当に願ってもないことです。他のところからも2個、3個、5個、10個、20個、50個と注文が舞い込み、私の工場(こうばと読んでください。)はフル稼動です。時折、材料の発注で「メーカー欠品」が出てぎょっとすることもありますが、「神様が何とかしてくださる」と大船に乗った気持ちです。

 この事業は思いもしない仕方で始まったように、いつか予測もしない形でその使命を終える気がします。今からその日が楽しみでもあります。その日まで、御心ならばこの事業は続くのです。

2013年9月4日水曜日

「刺繍の終わり、編み物の始まり」


 テーブルセンターのレース編みは無事終わり、最後に別糸でレースに模様を入れるという画竜点睛の部分は先生にお願いいたしました。これはこれで満足で達成感がありましたが、レース編みのかぎ針を探しているうち、段ボール箱に入った編み物用品一式が出てきました。しかも編み物の本数冊とともに20数年前に編もうと思って購入したらしい毛糸玉十数玉も一緒です。これはもったいない。毛糸の色から何を編もうとしていたのかも思い出し、20数年ぶりに編み始めました。編み方は手が覚えていましたが、編み図の記号は忘れています。引き返し編みや身頃の剥ぎ方などはおぼろげな記憶しかありませんが、表から見て変でなければよしとしました。

 取り組んだ課題は首の部分にボタンの付いたセーターですが、4段ごとに引き上げ編みのある模様でした。これは間違わなければ難しくありませんが、間違えに気づいた時、メリヤス編みのように部分的にほどいてかぎ針でチョコチョコっと直すことが私にはできません。また、袖ぐりの部分で減らし目をしているうち、模様の合わせ方がなんだかわからなくなってメチャクチャになってしまいました。何度も編み直しし苦労しましたが、まあ許せる状態に編み上がり、20数年ぶりで眠っていた毛糸が息を吹き返しました。

 難しい課題にあえて挑戦しようとは思わないのですが、編んでみたいと思うのはすべからく素敵な編み込み模様や絵柄なので、やはり一筋縄ではいかないようです。まもなくバザーの季節がやってきます。子供用のセーター一着くらい編みたいのですが間に合うでしょうか。

2013年9月2日月曜日

「子供と本」


 『はだしのゲン』が過激な描写を理由に、子供への閲覧制限措置が取られたという問題が明るみに出ました。私はあの劇画のタッチにどうしてもなじめずその漫画を読んだことがないのですが、書物の閲覧制限は全く意味がないと思います。その措置を考えた人は、子供の心を傷つけたくない配慮からなのでしょうし、それはわからないでもないのですが、どこまで子供の成長に責任を持てるつもりでいるのか考えると、独りよがりのある種傲慢な考えだと思います。

 確かに本というものは、出会う時期、年齢やその時々の個人的な状況が決定的に重要な場合が多々あります。しかしそれは、前もってうまく慮ることなど到底できないものです。人生にはどうしたって残虐な面があり、その全てを避けて通れる人などいないはずです。描写どころか、子供でも暴力的な現実と接しながら過ごしているのが日々の生活なのです。過激な描写が子供に悪影響を与えることはあるでしょうが、それは人間存在を考える手がかりとして心にとどまり、子供は長い時間をかけて人間の暴虐性について自分なりの結論をだすでしょう。

 私が子供の頃読んで、衝撃を受けた本は、メリメの『マテオ・ファルコネ』でした。これは確か、学研の「科学と学習」の付録で読んだものです。まさに子供に読ませるものとして取り扱われていたのです。父親が乾草の中にかくまったお尋ね者の居場所を、銀時計に目がくらんだまだ子供と言ってよい息子が官憲に売り渡してしまう話で、赦しを求める子供に対し、お祈りをさせた後、父親が「神様に赦してもらえ。」と言って打ち殺す結末は、息もできないくらい衝撃的でした。信義を守ることの峻厳さを思い知らされた作品でしたが、 あまり驚いたのでこの話を母にした覚えがあります。母は納得できないようで顔を曇らせました。
「それはどうかなあ。子供が心から『ごめんなさい』と赦しを求めるなら、神様は必ずお赦しになるでしょう。」
と言ったので少し安心しました。一方でそれではやはり甘い気もして落ち着かない気持ちでした。この話は何かの折に心の奥底から浮かび上がってくることがあり、長いこと小さなとげのように心の片隅にぶら下がっていたのだなと思います。

 今回またこの話を思い出し考えたのですが、メリメの意図も学研の編集者の意図もわかりませんが、やはりこれは「人への裏切りは死に価する。」というような教訓を与えるというものではない気がします。神がお赦しになるものを、独善的な正義感で息子を裁いた父親の罪の問題が一番大きいテーマだと思えました。こんなふうに子供は暴力性をも時間をかけて熟成させ、なんらかの考えを沈潜させているものです。だから、リスクはあっても一方的に閲覧を妨げてはいけないし、それは結局無意味なことなのです。