2015年11月3日火曜日

「飼い主を呼ぶ犬のように」

 りくには見習わなければなららいことがたくさんありますが、その第一は信頼心です。二階に上がって降りられない時もそうですが、その他用事のある時、りくはワンワンないて家族を呼びます。これは相手がやって来るまで続きます。呼んでも来てくれないのではないかなどどいう不安感はみじんもなく、呼べば必ず来ると思っていつまでも呼ぶのです。つくづくすごいことだと思います。

 「散歩に連れてってください。」などのお願い事をする時のお座りも同様です。必ず顔の方向にやってきてきちんと座り、目を合わせて待つのです。「今忙しいから。」と言って目をそらすと、またその方向にきて目を合わせてきます。前足でトントンが出る時もあります。その顔ときたら、「ね、ちゃんと聞いてる?」と問うようなかば不満げ、なかば悲しげな表情なのです。つぶらな瞳で見つめられ、前足でトントンされると願いを聞いてあげざるを得ません。

 カリスちゃんという犬を飼っている女性の牧師さんがいます。家を長時間空ける時は置いておけないので一緒にやってきます。ゴールデンリトリバーのおとなしい子です。教会での地区集会の間などは外につながれていますが、先日は自転車置き場の近くにいたので集会後にちょっとかまってしまいました。(飼い主は近くにあるもう一つの教会に寄ってから戻ることになっていました。)そんなことは知らないカリスちゃんは、ずっと一人だったので遊ぶ気満々で、私は帽子を取られてしまい返してくれません。その場にいた人からは、「やっぱり遊んでくれる人はわかるのね。」などど言われましたが、しばらく遊んでそろそろ帰ろうと思い、帽子を取り戻すのに一策を講じました。
「あ、○○先生。」
と叫んで適当な方向に首を向けると、カリスちゃんはハッっとした様子でそちらを見て口を開けました。その瞬間を狙って帽子を抜き取り作戦成功です。(カリスちゃん、だましてごめんね。) このように、犬は飼い主の名が出ると意識が一挙にそちらに集中し他のことを忘れてしまうのですから偉いものです。

 聖書では犬は散々な扱いを受けていて残念ですが、もし当時の某所に柴犬やゴールデンレトリバーが存在していたなら扱いは一変したことでしょう。彼らが主人に向けるような思いを、人間が神様に対して向けられるなら、神様はどれほどお喜びになることでしょうか。そしてそういう場合には、神様はきっとその人の願いをきき届けてくださるであろうと、これまでの経験から私は思うのです。