最近ニュースを聞く気がなくなり、青空文庫で夏目漱石を読み返したりしています。かといってこれが楽しいというわけではありません。自分のことで手一杯なのに、何ゆえ他人の問題まで抱え込まねばならぬのかとげんなりしつつも、言ってみれば連続テレビ小説と同じで次を読まずにいることもできないのです。テレビのない時代、新聞の連続小説はまぎれもなく毎朝の日課的娯楽だったことでしょう。(それにしてはエンターテイメント性に欠けるが。)朝鮮や台湾、満州の話が普通に出てきてやはり時代だなあと思う一方、大学を出ても職がないという言葉があり(「彼岸過ぎ迄」)今と変わりません。この時代の学士さまは今とは比べようのないエリートですがそれでも就職難なのです。
本を読んでいてとても奇妙な感覚にとらわれたのは、とにかく話が全てお金の工面の問題と結婚への圧力の話から成り立っていることです。この時代お金が必要となれば家族・親族・知人に用立ててもらうしかありません。現在から見るとこの手間暇が尋常ではない。高等遊民というパラサイトな人たちが登場し、大学を出て職に就かず、資産家の親から当然のように仕送りしてもらいながら過ごしている・・・。そればかりでなく自活できていない子供に親がしきりに結婚を迫る・・・。非正規雇用で収入が少ないから結婚できない(この現実を肯定するわけではありません。)という主張の方がまだまっとうな感覚のように思え、「この人たちっていったい・・・。」と率直に感じます。しかしこの時代は結婚していなければ「人」ではなかったのですから、こうなるのもいたしかたないのでしょう。たぶんこれが嫌さにサラ金が発達し、家族・親族の解体が起き、現在があるのだと思います。
それとは別に、漱石が一貫して関心を抱いているのはやはり現代人の罪の意識だろうと思います。中期から後期の作品になるにつれてこの問題意識は顕著であり、友人への裏切りというテーマを執拗なまでに描いています。結婚以外生きる道のなかったこの時代の女性は家庭内でどんなに勢力をふるっていても所詮家の付属物です。小説の中で女性の存在は番外にあり、問題は男同士の間で先鋭化します。自分がしたことは自分が一番分かっており、罪を償うことも誰かに赦しを乞うこともできない以上、常に不安に苛まれそれが消えることはないのです。ようやく春が来たのに、「うん、しかしまたじき冬になるよ」(「門」)と答えなければならないこの終わりなき絶望感、つらいだろうなとお察しします。漱石はキリスト教的罪概念に接近しながら、その赦しについての奥義は受け入れられなかったようです。神が信仰心を強要することはないので、気の毒ですがどうすることもできません。漱石の描く人間の苦しみは日ごろ見聞する類の説得力のあるものですが、そこで終わってしまっているのが残念です。