2013年7月29日月曜日
「富士登山」
世界遺産となってから富士山人気が沸騰しています。富士登山をする人も多く、映像で見る限り、海ではなく山でもあんな芋洗い的な状況が起こるのかと驚かされます。
「昔登っておいてよかった・・・。」
あれはもう25年以上前のことです。私が週末ごとに奥多摩の山歩きをしていた頃ですが、やはり一度くらいは日本最高峰の富士山に登っておかなければと思ったのです。夏休みに職場の同僚と3人で行くことになりましたが、一人は奥多摩山岳会のリーダーなので安心でした。前日はその方の家に泊り、奥様の手料理をいただいたりして翌朝早く出かけました。
五合目まで車で行き、山頂まで登って一泊。お米は持って行ったように思いますが、おおかたは忘却の彼方です。ただ寒かったこと、風が強くほとんど砂嵐のような状況で、帽子で隠れなかったところは髪がジャリジャリになったことは覚えています。登山そのものはそう大変なことはなく、翌朝御来光も見ることができましたが、私は一晩中頭痛でそれどころではありませんでした。下山するにつれて消えていったところを見ると、あれが高山病だったのだと思いました。慣れもあるのかもしれませんが、三千メートル級の山でもこうなのですから、もっと高い山はとても無理だなと観念しました。結論としては、「富士山は登る山ではなく、見る山である」ということに全面的に賛成です。
2013年7月24日水曜日
「思いやり過剰?」
用事を済ませた帰りに、めったに行かないスーパーに自転車で寄った時のことです。途中から霧雨のような天候だったので、駐輪する時サドルにビニールをかけるかどうか少し迷いましたが、10分ほどで済みそうだったのでそのまま店に入りました。他のスーパーの駐輪場は屋根のあるところもあるのですが、ここは全くの平置きで屋根はありませんでした。
買い物が終わって自転車に戻ると、サドルにビニール袋がかけてありました。生鮮食料品などを入れる透明のビニールです。しかも、そのあたりに置かれた自転車(30台ほどもあったでしょうか)のサドル全てに同じようにビニールがかけられていたのです。
「え~、ここまでやるのか・・・」
客へのサービスであることは確かでしょう。お尻をぬらさずに自転車に乗れるのはありがたいことです。とはいえ、ちょっと複雑な気分になり、どういう事情でこのようなサービスが行われるようになったのか考えてしまいました。「自転車置き場に屋根がない。」という客からの苦情があったのか、まったく思いやりの気持ちからなのか・・・。いずれにしても行き過ぎという気もします。このくらいは個人が自分の考えで対応しないとしかたないでしょう。それにしても驚いた。最近一番びっくりした社会現象です。
2013年7月22日月曜日
「グラーツの城山ホテル Schlossberghotel in Graz」
ハンガリーからドイツに抜ける道筋にグラーツというオーストリア第2の都市があります。一度車で通ったときにここにある立派なホテルで一休みすることにしました。正確なホテル名はわかりませんが、城山ホテルとしかいいようのない場所に建っていました。グラーツには城山があるのですが、ホテルはその斜面に城山と一体化するように建っているのです。
「あとでウィナー・メランジェいただきますよ。」
フロントでいきなりコーヒーを頼むのも変だとは思ったのですが、
「始めに少し市街散策をする予定です。」
とヘルベルトがフロントの人に話しました。
「よろしかったらそこの傘をお使いください。」
ちょっと空模様が怪しかったからでしょう、フロントの人がそう言ったので、傘を1本借り、とりあえず市街を少し歩いてからホテルに戻って、城山に登って展望することにしました。
どこから登るのかと思っていたら、ホテルのエレベーターで上れるのです。何階だったでしょうか、一番上で降りて外へ出ると、丘の中腹で、すでに美しい市街が眼前に広がっていました。あとは数段ずつの階段がところどころにつながっていて、テラス席がいくつかある本当に気持ちのよい場所でした。テラス席に座って景色を堪能していると、上ってくる人がいてヘルベルトが手を挙げて合図しました。ウェイターがコーヒーを運んできたのです。なんというタイミングでしょう。「あとでコーヒーを」とはこのことだったのです。こんなところでお茶できるとは。心地よいことこの上ない、本当に素敵な一日でした。
2013年7月19日金曜日
「働く人を応援します」
高速バスに乗るためにバス停にいた時のことです。私の前に一人女性がおり、後ろにも数名乗客が並んでいました。バスが来て、前の女性が身分証らしきものを見せながら、運転手さんに言いました。
「切符はないんですが・・・」
インターネットで切符を購入すると、自分で切符をプリントアウトしなければならないので、私も以前うっかり忘れそうになったことがあり、その事情はわかると思いました。驚いたのは次の言葉でした。
「席は9Aで・・・」
私はとっさに自分の切符を見返し言いました。
「9Aは私です。」
運転手さんの座席表にも私の名が書かれています。なにか手違いがあったようで、違う日か違う時間のバスを予約してしまった可能性が高いでしょう。
他の人が全部乗ったあとも、運転手さんと彼女はバスの外でやり取りしており、すでに15分以上遅れています。それが20分になったところで、別の乗客が「スケジュールを組んでいるので、予定通りに進めてほしい。」と話しに行きました。件の女性は予約の確認ができなかったのでしょう、結局、その場で料金を払って乗るしかありませんでした。
運転手さんは、出発が遅れたことを乗客全員に何度も詫び、とくに出発を促した乗客のところへ来て、ひざまずかんばかりに平謝りして出発となりました。それぞれの立場でもっともな主張でもあり、仕事するのは大変だなあと思いました。道路が空いていたこともあり、バスは快適に飛ばしていきました。
私はサービスエリアでの休憩のときに、
「お仕事大変ですが、頑張ってください。安全に着きさえしたら、もうすべてオッケーですから。」
と声を掛けました。遅れは少しずつ解消されていきました。終点の福島駅東口で降りる時、運転手さんから「先ほどは心強かったです。」と言われました。
働いているといろいろな問題が起きます。大抵の場合、声なき民衆が何を考えているかわからないので、声をあげた人の主張が優先されますが、民衆の大方が同じ意見とは限りません。この場合だと、皆「遅れて困るなあ。」という気持ちはあるものの、「あのお客さん、はやく納得してくれるといいなあ。運転手さん、気の毒だな。」と思っている人も多かったでしょう。でもそれは思っているだけでは伝わらず、運転手さんからすれば、全員が「早く出発しろ。」と言っているように感じられるものです。しかし、一人でも自分の立場をわかってくれている人がいれば孤立感を味わうことはありません。ですからそれはできれば伝えた方がいいと思うのです。それだけで、仕事のモチベーションが全然違うということを私は誰よりも知っているつもりです。
2013年7月17日水曜日
「悪人だけど」
フランス革命にはまっていた頃、「フーシェってすごいよね。」と口をすべらせたのが原因で、友達からしばらく口をきいてもらえなかったことがあります。なにしろフーシェです、天下堂々の悪人です。常に多数派につく男、職業的な変節漢、サン・クルーの風見・・・普通なら絶対誉めちゃいけない奴です。しかしこのタフさ加減をすごいと言わずして何と言いましょう。
王制から革命を経て共和制へ、そしてジャコバンの恐怖政治、さらに総裁政府からナポレオンの時代へと続くこの嵐のような時代を最後まで生き抜いた人間は他にいません。なぜかいつも歴史の決定権を握る場所にいて、ルイ十六世の処刑を事実上決定し、政敵ロベスピエールを土壇場に土俵ぎわで断頭台送りにしたのみならず、旧敵タレイランとも微笑みをもって手を握り警察長官に迎えられ、遠征中のナポレオンを顔色なからしめました。(ナポレオンじゃなくても、この組合せだけは避けたいよね。)その手法はなんといっても、自分に一朝事あらば国家のあらゆる機能がダウンするようにシステムを作り上げたことでしょう。
ナポレオンとルイ十八世の間で二人を手玉に取ったフーシェですが、彼の泣き所はキャリアの初期にあったのです。ルイ十六世への処刑宣告とリヨンの大虐殺、あれは(特に後者は)まずかった。一度でも人道的にやってはならないことをやってしまうと、もう平穏に暮らすことが不可能であることの好例です。どのみち、平穏に暮らすことなど無理な時代ではあったのだけれど。彼はいつもこの事実に脅かされていたし、結局リヨンの亡霊たちに殺されたも同然でした。若い人がこんな奴に惹かれることはないでしょうが、正真正銘のリアリストの人生を知っておくのも悪くないです。
2013年7月12日金曜日
「心に残る話」
ちょっといい話を見つけました。福島あたりのことではないかと思うので、原文とともに収録します。
戦前のある日のことだが、私は東京から仙台へ帰る汽車に乗っていた。その汽車では私は唯一のアメリカ人だった。汽車はひどく混んでおり、各駅停車で非常に小さな駅にも止まった。当時のすべての汽車と同様、その汽車ものろく、煙をたくさん吐いた。
ある駅で(名前を忘れてしまったのだが)、私はポット一杯の熱いお茶を買いに汽車を降りた。当時、ポット一杯のお茶の値段はわずか5銭だった。私はポケットに5銭硬貨を持っていなかったので、売り子に10銭渡した。ちょうどその時、汽車が出発するベルが鳴り出した。お茶売りはおつりの5銭を私に返そうとしていた。私は、急がねばならなかったので、その手からつり銭を取る時にそれを落としてしまった。硬貨はプラットフォームに落ち、その端までころがり汽車の下に落ちた。それを拾う時間はなかった。私は売り子に気にしないように言った。私は汽車に乗り込み、確かに金持ちではなかったが、それきりなくした5銭のことは考えなかった。
私は座ってお茶を味わった。窓の外を見ている間、私は家族のことを考えていた。また家族が私のことを待っていることも知っていた。十分ぐらい過ぎて汽車がつぎの駅に止まった時、鉄道の制服を着た人が私の車両に入ってきて、まっすぐ私に近づくと私に5銭よこした。私はとても驚いてしまい、その人が去る前に「ありがとう」と言うことさえできなかった。この小さな出来事は私の心に非常に深く印象づけられたので、私はそのことを決して忘れなかった。どんなに昔のことかおわかりでしょう。最初、私は別の駅でどうして5銭返せたのかわからなかった。それについて少し考えたあとで、私はすぐに、誰かが最初の駅から次の駅へ電話をかけ、5銭をその汽車に乗っているアメリカ人に返すように頼んだのだとわかった。私は次の駅の職員に「ありがとう」を言うことさえ思いつきもしなかったのが悔やまれてならなかった。私は幾度も再び彼に会えるようにと願ってきたがついに会えていない。
私は「なぜ鉄道の人達はわざわざ私に5銭を返してくれたのだろう」と自問した。5銭は当時としても高額の金ではない。おそらく私にお金を返してくれるのには5銭よりはるかに多くの手間暇がかかったであろう。私は、旅行者がどこか他の国でそれほど少額のお金をなくしたあとで、私が体験したのと同じくらい気持ちの良い驚くべき体験をもてる者かしらと思った。私の国でなら、公共の場で5セントなくした外国の旅行者が、なくした硬貨をあとで返してもらえないだろうことはまず確かだと思う。あれから何年もたってしまったが、私は時がたってもこの国の国民が変わっていないことを願う。
One day before the war, I was on a train returning to Sendai from Tokyo. I was the only American on the train. It was very crowded and stopped at every station, even the smallest. Like all trains in those days, it was slow, and it made lots of smoke.
At one station (I have forgotten its name) I stepped out of the train to buy a pot of hot tea. The price of a pot of tea was only five sen at that time. I didn't have a five sen piece in my pocket, and I gave the tea seller ten sen. Just then the bell began to ring for the train to start. The tea seller was just giving me a five sen piece in change; I had to hurry and so, in taking the coin from his hand, I happened to drop it. It fell to the station platform, rolled to the edge of the platform, and dropped under the train. There was no time to get it. I told the tea seller not to bother about it. I stepped in to the train and thought no more of the lost five sen, though I was certainly not rich.
I sat down and enjoyed my tea. While looking out of the window, I thought about my family, and I knew they were waiting for me. When the train stopped at the next station about ten minutes or so later, a man in a railroad uniform entered my car, walked straight up to me, and gave me five sen. I was too surprised even to say “Thank you" to him before he left me.
This little incident impressed me so deeply that I've never forgotten it. You know how long ago that was. At first I couldn't understand how it was possible to return the five sen to me at another station. After thinking about it a little, I soon saw that someone called by telephone from the first station to the second and asked that a five sen piece should be returned to the American on the train. I felt very sorry that I didn't even think of saying“Thank you" to the man at the second station. I have wished many times that I could meet him again, but I never have.
I asked myself, "Why did the railroad people go to the trouble of returning the five sen to me?" Five sen wasn't a lot of money, even in those days. It probably took much more than five sen in time and trouble to get the money back to me. I wondered if a traveler in some other country could have an experience as pleasant as mine after losing so small sum of money. I felt pretty sure that the foreign traveler in my own country who lost five cents in a public place would not get the lost coin back to him later. Many years have passed, but I hope that time has not changed the people of this country.
2013年7月10日水曜日
「紅春 30」
近所に外で飼われている犬がいるのですが(昔はあたりまえのことでした。)、そちらの方はあまり通らないようにしています。なんだか可哀想なのです。1年中北側のあまり陽の当たらない場所につながれていて(もちろん散歩はしています。)、その前をこれ見よがしにりくが通ったりすると、険しい顔で歯をむいたりすることがあります。無理もないよなあと思います。この上、りくが内犬で家じゅう自由に歩き回れて寒い冬にはストーブの前でぬくぬくしているなどと知ったらどうなってしまうのでしょうか。
普段通るルートはだいたい決まっていますが、時々りくが「今日はこっちに行きたい。」と主張することがあります。行けるときはつきあいます。また猛吹雪でとても土手は歩けない時でもりくは行こうとするので、「今日は無理」と言って民家の方のルートに変えます。
犬なら本性で散歩は自然とできるのかと思っていたのですが、そうではありません。最初は外に連れていっても散歩になりませんでした。どっちに行っていいかわからず、右往左往、ちょっと進んだかと思うとまた逆方向に行こうとし・・・ああ、そんな時期もありました。今は毎日寄る場所もあってなにかりくなりにチェックすることがあるらしく、自信をもって自分のペースで散歩しています。立派な犬になりました。
「大型家電」
あれは去年の10月頃だったでしょうか、その日はお仕事会に行く日だったのですが、朝どういうわけか、冷蔵庫の裏を掃除しなければならないような気がして、奥まった場所から引き出したところ火花が散りました。なぜかコードの一部がむき出しになっていたためで、仰天してすぐ電源を抜きました。気づいてよかった、知らずにいたら火事になっていたかも。呆然としながらも神のご加護に感謝し、中の食材で冷蔵が必要なものだけ発泡スチロールの箱に保冷剤とともに詰め込み、とにかく出かけました。
帰ってきてまずしたのは、食材全部を使っての料理。無駄にしたらもったいない。この時点ですでに夜8時。それからおもむろに家電量販店でもらってきたパンフレットに目を通しました。それまで使っていた冷蔵庫は18年前のもので(中東の或る国で「家電は日本製に限る。20年は壊れない。」と言われていたのは本当だったのです。この冷蔵庫にしたって本体には問題がないのですから。)、当時の省エネ大賞受賞の製品でしたが今のレベルとは違うだろうと、買い替えることにしました。
「今から買って20年もつとすると、冷蔵庫を買うのもひょっとしたらこれが最後かも。」
と妙な感慨にふけりながら、パンフレットを見ると、めったに買わないものだけに進化の度合いがすごい。思わず「おおっ」という感じで、大型の白もの家電を選ぶことくらいわくわくするものはありません。「ナノイー搭載」で、「まんなか野菜室」で、「きれちゃう瞬冷凍」があり、「どっちもドア」の冷蔵庫があれば一人勝ちなのでしょうが、各社各様に独自色を出してがんばっているなと感心しました。パンフレットを熟読するのにかなり時間がかかりましたが、台所に入る幅が決まっているので候補を選ぶのは意外に簡単でした。それでも各社から1つずつ購入候補を選び終わった時には、もう真夜中を過ぎていました。こんな時間まで物事に集中したのはいつ以来でしょう。翌日いざ家電量販店へ。
「きれちゃう瞬冷凍」は新しい機能で魅力を感じましたが、問題は在庫でした。取り寄せになるので10日「かかるとのこと。10日間冷蔵庫なしで過ごせるかと自問し、過ごせないと結論し、別の選択肢へ。そもそも冷蔵庫などは突然壊れるものなのであって、10日も余裕がある場合など少ないのではないでしょうか。台所とリビングの部屋の作りからいって、「どっちもドア」は便利そう、これは翌日配送可。他の機能を見てみると、「プラズマクラスターで除菌と脱臭」「冷蔵室内のミスト冷却」「シャキッと野菜室」などよくできた製品で、節電機能も他社と遜色がありません。これがこの時点での最適な答えだろうと判断し購入しました。
結果としてすべてに大満足でした。驚いたのは冷蔵庫自体の大きさは前とあまり変わらないのに、今まであった中身を収納していくと前のよりかなり大容量だったことです。昔のはいろんな出っ張りとかじゃまな部分があり収まりが悪かったのですが、現在のはすっきりとたくさん入り、特に扉部分の飲み物・調味料部分の収納勝手がすばらしくよいので、うれしくなりました。要するに18年間に冷蔵庫の基本的水準が大幅に上がったということで、メーカーの努力には敬意を表したいと思います。
2013年7月8日月曜日
「自画像」
中高生の頃、私は「ど」が付くくらい真面目な生徒でした。中学では特におとなしくて目立たなかったけれども、なんとか華やかな女子のグループの末席に連なり、楽しく過ごすことができました。先日、中学卒業の時に作った分厚い文集をパラパラめくっていたら、クラスメートの1人が一人一人の得意分野や目立った特徴、その頃夢中になっていたものなどをうまくとらえて、全員の未来予想を書いているのが見つかりました。K君―数学教師「関数・放物線」専攻、T君―警視庁「麻薬取締り係」、Kさん―2代目キャンディーズ、Kさん―とんぼ鉛筆K.K.社長、Sさん―M.ポルナレフファンクラブ会長、Nさん―笑い袋製作隊長などなど、「ああ、そんなことに夢中になってたなあ」と微笑ましく思い出しました。
ところが私の将来は的外れなのです。「漫画家(本人も希望)」とあり、「まさかね、なんだろうこれ、意外性の受け狙い?」と思いました。もう一人のクラスメートのページには「3年3組いろはがるた」が載っていて、一人一人の特徴をとらえて詠み込んでありました。その中で私は「た」で始まるところに、「たちよみ得意はかわべのさん」と詠まれ、ご丁寧に注までついていました。「かわべのさんは西沢と岩瀬(市内の二大書店)をあらしている。『ドカベン』の一巻から十数巻までたちよみで読んだ。」 いや、これはあり得ない。確かに『ドカベン』は読んだが、そんなに入れ込んだ記憶はないし、十数巻も立ち読みをするはずがない。
しかし、次第に私の心に不穏な影が差してきました。不安に駆られ自分のページをめくってみると、驚くなかれその半分が漫画の模写で埋め尽くされていました。天を仰いで嘆息するほかありません。イラストならともかく、自分はこういう文集に漫画を描く人間ではないと固く信じていましたし、こういうものに漫画を描くような人を軽蔑してきたのです。あの頃、少しはおバカなことしてたよなあと思ってはいたものの、これほどの大馬鹿だったとは。もう取り返しがつかない。恥ずかしくてのた打ち回り、全員の文集を回収して燃やしたくなりました。どんなに普段真面目でも、後世に残るのは文字になったもの、あるいは書かれたものだけなのです。
この日、最も驚いたのは奥付というか編集後記を見た時でした。自分が編集委員に名を連ねていたのです。しかも編集後記の名前の配置からすると、どうも私は学級委員副委員長を務めていたようなのです。文集作成という実務(この文集は全くの手作りです。)をした記憶も、その当時学級委員をしていた記憶もありません。身を入れてやった仕事なら必ず覚えているはずです。ですから、みんなでわいわい印刷なんかをしているところに一緒にいただけという可能性が高いのです。「書かれたものとして残っている私」と「当時の記憶の中の私」は別人です。それはもう書かれたものが絶対です。人はこれほどまでにセルフイメージを美化してしまうものなのでしょうか。恐ろしいことです。
2013年7月5日金曜日
「国産農産物」
口に入れる物の安全性にはつい気を遣います。福島の農産物は放射線量の基準をクリアしないと市場に出ないのでこれはこれで安心です。近所の直売所でも、参加している全農家の全販売品目を定期的に調べているので、私は安心して買っています。
むしろ県外の農産物の安全性に確信がもてないことがあります。近県の農産物はどうなのか、いや、それ以前に産地表示が信頼できるのかという問題です。例えば四国産・九州産の農産物でも、そこで作られているとは限りません。調べたわけではありませんが、たとえば中国から輸入される大量の農産物は、高松港なり高知港に入ったあと、ちょっとした「加工」(茄子のへたを一部とるとか)が施されればその土地の作物として流通するはずです。食品に関しての見解は幻想の部分も大きいと自覚していますが、だからこそ困ったことに食欲というのは理屈ではない、大気と水に不安がある場所で作られた食品を食べることができないのです。
また、料理用のワインを購入しようとしてわかったのは、日本には他の国にあるようなワインを定義する法がなく、任意団体ワイナリー協会の自主基準があるのみということでした。ですから、日本で国産ワインというのは「原料が日本産、外国産に関わらず、日本で製造・販売される一部または全部がぶどうで作られた果汁」らしいのです。つまり、輸入濃縮果汁に砂糖を加え発酵させても国産ワインとして流通するのです。これなら、きちんとしたワイン法のある国で作られた輸入ワインの方が安心です。
ましてや食肉となれば、一般人にははかり知ることのできない深い闇がありそうです。これに手をつけたらおそらく食べるものがなくなるという予感がするのでやめておきましょう。毎日の生活を続けていくにはほどほども大事です。
2013年7月3日水曜日
「ボルツナーさんの猫」
ヘルベルトが住んでいた家はフランクフルトの住宅街の3階にありました。1・2階は大家のボルツナーさん Frau Bolznerが住んでおり、当時もう90歳というご高齢でした。ドイツに行くたびご挨拶すると、いつも手を握って歓迎してくれました。3階の窓からは広くて美しく手入れされた緑のお庭が見え、結婚して近くに住んでいる娘さん(といっても当時60歳を過ぎておられました)が庭仕事をしたり、お庭を通って母親の自宅へやってくる姿が見えると手を振ったりしました。彼女は毎日母親のところにみえましたし、昼間はポーランド人の若い娘がボルツナーさんの介護に雇われて、身の回りのお世話をしていました。
ボルツナーさんはこれまた高齢の猫を飼っていました。名前はあるのでしょうが、みなモッペル Moppel (太っちょさん)と呼んでいました。加齢と運動不足でかなり大きく重たそうな猫で、家具の上やお庭でうずくまっている姿がよく見られました。もう少しでお腹が床につくくらいの様子でした。なにしろ十歳をゆうに超える年齢で、みな案じてもいました。ヘルベルトはモッペルを外で見かけると、「やあ、モッペル、また脚が縮んだんじゃないかい。」などと声を掛けていました。「『また太ったんじゃないかい。』って言うよりいいかと思って。」と言っていましたが、どうなんでしょう。
あまり愛想のある猫ではありませんでしたが、時おり言葉の端にのぼるほどかわいがられており、なんとなく心にかかる猫でした。何年かして、ボルツナーさんが亡くなったという知らせを受け、私はお悔みをお送りしました。モッペルが亡くなったという知らせが来たのはそれからしばらく後でした。
2013年7月1日月曜日
「マンション点検日」
よそのお宅にお邪魔すると、皆さんきれいに住まわれていてすごいなと思います。年に一度の配水管清掃と火災報知器点検の日は私にとって憂鬱な日です。業者とはいえ人様が来るのですからそのままというわけにはいきません。何日か前から掃除・片づけをしていくのですが、その時点ですでに気分が沈んでいきます。普段が普段なので一挙にとはいかず、場所を限定して毎日ちょっとずつ掃除・片付けをし、当日に備えます。
当日は、ベランダの非常ベルの点検があることを思い出し、窓のシェード(室内にある鉢植えの日よけです。)をはずしたり、絨毯部屋の家具の脚の下まで掃除機をかけたり(フィルターの取り替えが必要なほど埃を吸い込みました。)、流しの周りのものを作業の邪魔にならぬように離れた場所に移したり、半端な時間では済みません。年末の大掃除より大変な日なのです。
客人の場合は一室だけきれいにすればいいのでまだ楽なのですが、点検日の場合、火災報知器は各部屋にあるので、片づかないものを一室に押し込むという通常の安易な解決法を採れないのがつらいところです。しかし、この日がなければ年に一度も掃除されない場所があることも確か。ものは考えよう、この日を我が家の大掃除の日として、きれいになったことをよしとしよう。
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