2013年6月7日金曜日

「学校の終焉」


 教育関係者と話をする機会があっても、言葉少なであまり話に花が咲きません。ため息交じりに「学校は終わったね。」と言えばそれで済んでしまうのです。それがあまりに自明なことのように思えるので、その中身を詳しく考えたことがありませんでしたが、実際どういうことなのか整理しておいた方がいいなと感じています。

 校内暴力、いじめ、学級崩壊などの現象が起こる都度、これまでも何度か「学校は終わった」と言われてきましたが、それと今とはどう違うのでしょう。もちろん、それら全ての現象が末期的であり、現代社会の広範囲で根深い問題から生じているという意味では、即効性のある解決法は何もありませんが、個々の事態に対して昔も今も教員は痛々しいほど全力で取り組んでいます。

 違う点があるとすれば、教育を受ける側がその相対的優位性を憚ることなくあからさまに語るようになったこと、また教育する側が最適化へのオブセッションというべき成果主義の呪縛を受けていることだと思います。生徒は「授業評価」により、一段高い視点から教師を評価することができるようになり、教師は「自己申告書」により、数値目標を設定し達成できたかどうか自己評価を行うようになりました。

 「授業評価」が最悪なのは、生徒が教師を評価できる対象と思った途端に本来の学びが起動しなくなり、自分の不調を教師のせいできたとしてもそれがなんら本人に益をもたらさない点にあります。「自己評価」が最悪なのは、本来数値化できない教育の成果を数値化することによって、表面的に効率的な最適解にたどりつこうとするようになることです。これはまさにチェスタトンの言う「理性以外のあらゆるものを失った狂気の世界」です。

 この2つの事態が同時に並行して起きるとどうなるかというと、それは学校教育が商品になったということです。そう言われても何が問題なのかわからないという人が多いかもしれません。それほどもう教育は商品なのです。それほど、致命的に学校教育は損なわれたのです。「学校は終わった」というのはそういう意味です。