2016年3月1日火曜日

「献金にまつわる思い出」

  教会で献金のことが話題になることは少なく、私は会員同士で献金について話したことが一度もありません。献金と聞くと、私が思い出すのは母のことです。私は受洗が早かったこともあり献金については早くから意識していました。おこづかいから出していたと思うのですが、勤めるまでは結局親がかりでした。母は、「献金は楽に出せる額ではいけない。2か月たまったらこれは結構きついなと思うくらいの額でなければいけない。」と子供たちに言っていました。 ある日、たぶん高校生にはなっていたと思うのですが、母がとても興奮して聖書の箇所を示しました。

 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。   (マラキ書3章10節 口語訳)

母は「見つけた!」というように、「ほらここにこう書いてある。やっぱりそうなんだ。献金をもって神様を試みてよいのだ。」というようなことを話したのですが、私は何も応えることができませんでした。意味がわからなかったのです。イエス様はレプタ二つでも祝されたのではなかったか・・・。
若い頃はほしいものがたくさんあり、何かと物入りで、十分の一献金などとてもできませんでした。しかしこの頃、あの時の母のうれしそうな様子をよく思い出します。

 福島教会を献堂してまもなく1年になります。この間は本当にあふれる恵みをいただいた時間でした。私たちは全国から多くの献金をいただきました。クリスマスにも大きな支援金をいただき、まことにありがたく、今後の借入金の返済見通しについて安堵したことでした。きっとこれは私たちが自分たちで会堂を再建したかのような思い違いをしないためなのだと思います。

 母の言っていたことは全部本当だったと今はわかります。これから心からの献げものをもって神様を試み、神様が天の窓を開いて、福島教会だけでなく、とりわけ教区の教会、またキリストの名のもとにあるすべての働きの上に、あふれる恵みを注がれるのを見せていただきたいと思います。