水村美苗は、『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』の「七章―英語教育と日本語教育」において、3つの選択肢(英語を〈国語〉にするか、国民全員がバイリンガルになることを目指すか、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すか)を挙げ、三番目の選択を推し進めるべきだと述べていますが、これは当然のことでしょう。
「日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きでこと足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。日本語を〈母語〉とする人間がそこまでいくのは、並大抵のことではない。」
異論はありません。またその少し前で、「日本は国際会議にでかけられるだけの英語力をもった政治家さえ育っていない。国連や世界銀行で働く日本人の数も、日本の経済力を考えると、信じがたいほど少ない。」とも述べており、これも確かにその通りですが問題はどうやってそういう人材を育成するかということです。
(私は、国際会議にでかけられるだけの英語力をもった政治家が出現するのを期待していません。「良い人とだけつきあっていたら選挙落ちちゃうんですね。」と平然と口にする政治家が、国際社会相手にありもしないことや間違ったことをペラペラ話されることの方が心配です。東京オリンピック招致のスピーチで安倍首相はこう述べました。「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」 日本人が聞いて驚倒するような大嘘を英語で述べた実例です。もちろん政治家であれ誰であれ、相手に好印象を与える程度の普通の英語での身のこなしは身に着けてほしいですが。)
以前、卓越した英語の使い手である或る会社の社長さんが、商談では必ず通訳をつけると言っていたのを思い出します。国際舞台において、「一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材」を育てることはかくも至難の業だということです。ましてやそれを目指す一部の国民をどうやって選別するか・・・。思いつくのは2つだけです。
一つ目は、国際舞台において一人の日本人として意味のある発言をするということを、人にリスペクトされる仕事にすること。これが良識ある有為な日本人を最も駆動する要因となるでしょう。もちろん、給与や年金等の国家的保障も手厚くし、安心して働ける環境を整備する必要があります。
もう一つは、ここまできたらその人材は、「日本人」である必要はないのではないかということです。水村美苗が指摘するように、『ブリタニカ』において1万6千語近くを費やして「日本文学」という項目を書いたのは、ドナルド・キーンです。
「その質と量において、日本文学は世界のもっとも主要な文学(major literatures)の一つである。その発展のしかたこそ大いにちがったが、歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいては、英文学に匹敵する。現存する作品は、七世紀から現在までに至る文学の伝統によって成り立ち、この間、文学作品が書かれなかった「暗黒の時代」は一度もない…。」
涙が出るような記述です。これはアメリカ人だからこそ執筆しえたわけで、同じことを日本人が書いたとしても採用されはしなかったでしょう。言語によるものではありませんが、日本のラグビーを世界に知らしめたのはマイケル・リーチに率いられた日本代表です。お二人とも日本に帰化していますが、そこまでいかなくてもサポーター的マインドを持った外国人を増やし、母国語で発信してもらうのはいかがでしょう。この点で功績のあった外国人にはもう少し簡単に永住許可を与えるという道を開いてもよいように思います。
また、すぐにでもできる(あるいはもう行われているかもしれない)方法として、大学の日本学部で留学希望の学生を受け入れ、日本学の学びを手助けする方向を拡充し、さらにはその後の滞在について様々な整備をすることがあげられます。これは比較的容易にできることですが、現在、小学校から他の科目の授業時間をつぶしてまで行われている、実現見込みのない文科省のやみくもな英語政策よりは、はるかに弊害が少なく、また「一人の日本人として」の部分を「一人の日本サポーターとして」と読み替えるなら、英語で意味のある発言ができる人材を育てるという観点から、はるかに実効性が高いだろうと思います。