2016年3月5日土曜日

「静かに縮むしかないのでは」

 テレビを見る、CMが多すぎる、よほど物が売れないのだろうと思います。無理もありません。先日知ってちょっとびっくりだったのは日本の人口です。明治5年(1972)に3500万人弱、昭和11年(1936))に7000万人弱、昭和31年(1956)でも9000万人。「本当か?」と思わず再チェックしたほどです。1億人を超えたのは昭和42年(1967)だそうで、今は1億2700万人弱・・・。どう見ても急激に増えすぎたのです。そしてこの短期間に人口のおおかたが、「ま、こんなもんだろう。」と思う程度には物が行き渡ってしまったのですから、戦後の経済発展は奇跡ではない、ちゃんと種のある手品でした。そしてその反動として今があるのです。人口が縮む社会で物が売れるわけがない、デフレからの脱却など無理だと本当は誰も知っているはずです。

 グローバル資本主義はもう限界だといい加減みな感じているし、死活的に必要な物といったらもはやカネではなくて「水と食べ物とエネルギー」だと、日本人は震災を通して身をもって知らされました。本来ならば、「里山資本主義的サブシステムはあった方がいいよね、あとはゆっくり国土を整えながら人口が適度に縮むまで地味にしのいでいくしかないんじゃない。」となりそうですが、政府はそんなことは口が裂けても言えないのです。できるだけ多くの人がマネーゲームに興じてくれないと困る人たちの味方なのですから。最近は政府も余裕がなくなったせいか、様々なことがとみにわかりやすくなりました。政府ほか日本の主流に属している方々がやっきになって進めることと逆のことをしていれば間違いない、というところまで行きついてしまったのです。その結果、何もしないで静かにしているのが一番賢いということになりました。

 それにしてもテレビの現状は断末魔の様相を呈していると思うのは私だけではないでしょう。広告が多い、長いを通り越して番組自体がCMと化している、十把一絡げと言っていいほど大勢の出演者が内輪受けするネタで興じている、話題を出演者たちに振り分けながら司会者が喋りまくっている、いくらなんでもここまでと思うほど視聴者に配慮した子供だましの解説がなされている・・・・。それなら見なきゃいいでしょうと思われるかもしれませんが、この媒体の末路は定期的に確認する価値のあるほどのはっきりした劣化が見て取れます。テレビはマス・メディアというその言葉の定義からしてゆっくり縮むことができないので、気の毒といえば気の毒です。おかげで「メディアの終わりの一形態はこんなふうになるんだな。」と観察できるのです。社会学的視点で見ると歴史に立ち会っている気分で、これはこれで感慨深いです。

 熱帯や砂漠の植物を温室に置くようになってわかったのですが、これらの植物は、「お、つぼみが出たな。」「膨らんできた。」「ああ、花が咲いた。」というようなダイナミックな変化はないのですが、いつ見てもほぼ同じ状態で、ゆえに非常に長く咲いています。生物が変化するには多くのエネルギーを必要とするのですから、同じ状態を保てる限りそのままでいた方が長持ちするのだということは間違いないでしょう。ジタバタせずにおとなしく3割くらい縮むしかないと思うんですけど。