先日実家の片づけに再び着手する機会がありました。兄とは「捨てる」「捨てない」でしばしばけんかが勃発、うっかりしていると全て捨てられてしまうので気が抜けませんでした。すでに母が残していた布製品をだいぶ処分されてしまい、物置にあったちゃぶ台も捨てられるところだったのを死守しました。父と母の所帯はこのちゃぶ台1つから始まったと何回か聞いていたのでこれはすてられない。客間にあったテーブルも捨てるというのでやめてもらいました。兄の考えはとにかく今の時点でいらないものは捨て、必要に応じて買えばいいというものですが、私の考えは今あるものを現在の必要に応じて工夫して使うというものです。年をとると畳に座るのがつらくなるのでテーブルに椅子掛けは楽です。粗大ごみに電話までされていたところを引き取り、私は和室に絨毯を敷いて置くことにしました。今まであった座卓とちゃぶ台を並べて置くスペースもあり、こちらはベッド代わりです。やってみると快適この上ない。確かに和室にテーブルとベッドは合わないかもしれませんが、何不自由ない部屋になりました。そういえば、「何か書いたりするのは明るい部屋でやれよ。」ってお父さん言ってたな。お父さん、お母さん、ヘルベルトの写真が見える場所に置いたテーブル席に腰かけて、今これを書いています。
2015年11月30日月曜日
2015年11月25日水曜日
「マイナンバー以前の問題」
マイナンバーの送付時期は自治体ごとに差があるようですが、先日報道されたところでは北海道ではすでに10万通が郵便局の保管期間を過ぎて自治体に戻ってきているとのこと、そうだろうなあと思いました。10月5日時点での住民票の住所に配達されるのですが、配達開始がそこから40日も経っている場合も多いようです。死亡、引っ越し、旅行などの短期不在等、受け取れなかった人には様々なケースが考えられますが、世帯ごとの配達なので亡くなった人でも同居家族がいれば返送されることはないはずです。自治体から送付される選挙のはがきなどと根本的に違うのは簡易書留なので本人確認が必要なこと。ピンポーンと鳴らして出てきた人に名前を確認して渡せればそれで終了でしょうが、不在の場合は持ち帰り郵便局保管。簡易書留は1週間のみの預かりだそうでこれはかなりタイトな日程です。詳細未確認ですが、引っ越しの転送手続きをしていても、どうもまず10月5日の住所に郵送されるようです。
考えてみれば「国民全員に本人確認して何かを手渡す」ということ自体が初めてのことではないでしょうか。マイナンバーの中身以前にこれ自体が壮大な実験のようなもので、よほど郵便事情に自信がないとこんなことをやろうとする国さえまずないでしょう。学生などで住民票を移してはいないが実家の家族に受け取ってもらえる人はよいですが、単身者に限らず世帯ごとの引っ越しの際何らかの理由で住民票を移していない人わどれくらいいるものか・・・。例えば集合住宅で部屋番号しか表示していない場合、次に入った人が前の方の書類を受け取ってしまうケースもありうるのではないでしょうか。別に悪意がなくても耳が遠いとか認知症の症状があるなどのケースです。そこまで心配したらキリがありませんが、制度が始まる前段ですでに大変そうです。
中身については税と社会保障のためとしか知りませんが、1月から必要なのは児童手当と雇用保険らしいので当面私は必要ありません。そうでなくても区から送られてきたお知らせには、住民基本台帳カードがある人は次の更新までマイナンバーについては何もしなくてもよいとはっきり書いてありました。マイナンバーはゆくゆくは銀行と連携して国民の銀行預金を丸ごと掌握しようという企みらしく、別に不正をしていなくてもそんなことはされたくないと思います。とにかく必要がなければ急がないのがなによりです。今回のプロジェクトでは、はからずも国民の家族構成や高齢化率、流動性、几帳面さ、あるいは生活困窮率といったことがあぶりだされるのではないか、そしてそのことの意義は非常に大きいと言えるでしょう。まさかこれが織り込み済みということはないでしょうね。
2015年11月21日土曜日
「紅春 75」
先日はりくが二階に上がることより大変なことがありました。いつものように朝の散歩から帰って外につないでいたのですが、小一時間たつころ雨が降ってきたのでりくを入れようとしたところ、いない。目を疑う感じで名前を呼びましたがやっぱりいない。外の杭につないだひもが切れている。リードは付いたままの状態でりくがいなくなったのです。あの子のことですからあまり遠くへ行くとは考えられない。が、最近二階へ行くという冒険の楽しさも味わってしまったから、もしかしたら・・・という懸念がないでもない。
「りく~、りく~」
大声で呼んでみましたが姿は見えない。大変なことになったと、私がすぐ土手に駆け上がろうとしたところ、土手を歩いていた人が
「犬を捜しているんですか。橋のところに犬がつながれていますよ。」
と教えてくれました。橋は家からすぐなのですが、気ばかり焦ってなかなか脚が前に進みません。こけつ転びつという感じで土手に上がって
「りく~」
と叫ぶと、りくも
「姉ちゃん、ここ~。」
とワンワンなきます。やっと橋にたどり着いてみると、りくはそのたもとにゆるくつながれていました。遠くに行かないようにとの配慮なのかもしれませんが、これでは戻って来られないではありませんか。
とにかくすぐほどいて連れ帰りました。帰りはゆっくりでもよかったのですが、なぜだか二人して家まで走りました。心の中で
「りく、こめんね。姉ちゃんが悪かった。」
と繰り返しながら。家に入れ、床に倒れこむようにしてようやく落ち着きました。
「りくを無事救出。」
外のひもは二度と取れないようなものにしなければ。危ないところでした。たまたま雨が降ったから早く気づけてよかったようなものの、時間が長引けばどうなったかわかりません。橋はたくさん人が通るので悪い人がいたら危害を加えられていたかもしれないし、「ああ、かわいい子だ。」と連れ去られてしまったかもしれません。大いに反省です。
2015年11月19日木曜日
「運のいい日」
通院の日、たまたま1つ前のバスに乗れてしまい、受診受付開始2分前に病院に着きました。地下の診察受け付き機の前に直行したところすでに数名の患者が待っていました。機械は3台あるので私の受付番号はなんと3番。いつのは1階の受付機を通るのですが、たくさん並んでいるのでこれまで最も早かった時でも17番でした。「1ケタの人っていったい何時に来てるのか。」と疑問でしたが受付機の場所によるのかもしれません。
その日地下の受付機を通ったのには訳があります。血液検査の場所が地下なのです。私もようやくわかってきたところなのですが、ここの血液検査の順番取りには厳格な不文律があります。窓口の前にある長椅子(番号が振ってある)に座って、採血の受付時間まで待つのです。ですから、受付後最短時間で長椅子にたどり着くには地下の受付機を通るのが一番です。受付機は1階にしかないと思っていたのですが、先日地下にもあるのを見つけたのでこの日試して正解でした。そしてこの日長椅子に行ってみると、驚いたことにそこには一人しかいませんでした。(あと30分もするとあっという間に80番台くらいになります。)私が2番の席に座ると、しばらくしてなぜか1番の人が立ち上がって「ここどうぞ。」と言って行ってしまいました。こうして私はなんと1番に繰り上がってしまいました。もう二度とないことでしょうが、血液採取が早く済み、いつも1時間くらい遅れる診察も時間通りであっという間に終わりました。一日がかりの通院がこうして時間短縮できることがわかり得した気分です。たまたま幸運が重なっただけかもしれませんが。
その日地下の受付機を通ったのには訳があります。血液検査の場所が地下なのです。私もようやくわかってきたところなのですが、ここの血液検査の順番取りには厳格な不文律があります。窓口の前にある長椅子(番号が振ってある)に座って、採血の受付時間まで待つのです。ですから、受付後最短時間で長椅子にたどり着くには地下の受付機を通るのが一番です。受付機は1階にしかないと思っていたのですが、先日地下にもあるのを見つけたのでこの日試して正解でした。そしてこの日長椅子に行ってみると、驚いたことにそこには一人しかいませんでした。(あと30分もするとあっという間に80番台くらいになります。)私が2番の席に座ると、しばらくしてなぜか1番の人が立ち上がって「ここどうぞ。」と言って行ってしまいました。こうして私はなんと1番に繰り上がってしまいました。もう二度とないことでしょうが、血液採取が早く済み、いつも1時間くらい遅れる診察も時間通りであっという間に終わりました。一日がかりの通院がこうして時間短縮できることがわかり得した気分です。たまたま幸運が重なっただけかもしれませんが。
2015年11月17日火曜日
「聖母教会 Liebfrauenkirche 」
先日久しぶりにブログ「柴犬とオランダ人と」を開いたところ、11月16日のところに街中の修道院の話があり、もしやと思って見るとあまりに懐かしい画像とともに聖母教会 Liebfrauenkircheのことが紹介されていました(教会名は書いてませんが)。数年来フランクフルトに住んでいる著者でさえ初めて気づいたというこの教会は確かに修道院が付属していますが、画像の多くは聖母教会そのものでした。カトリック教会なので内も外も聖画や像で満ちており最初違和感を感じましたが、何度も訪れるうちにとても落ち着ける教会となりました。以前私はこの教会のことを「祈りの場」というタイトルでこう書いています。
ヨーロッパを旅していて気づくのは、どんな騒々しい繁華街でも、ほぼ無音といってもいいような空間が存在することです。フランクフルト Frankfurt で言えば、最も観光客の多い市庁舎のある丘 Römerberg のすぐそばに、聖母教会 Liebfrauen があります。ヘルベルトの母教会でしたから渡独するたびに訪れましたが、一歩入ると市街の雑踏がうそのように静かな場所でした。(今、念のため、愛用していた「地球の歩き方」を見たところ、市街地図に載っておらず、何かの間違いではないかと思ったのですが、「そっとしておいてほしい」という市民の気持ちの表れなのかもしれません。)
マリア像の前のろうそくはいつ行っても画像の通り、置き場がないくらい灯されていました。またこのすぐわきに祈りのための小部屋があるのですが、ひざまずいて一心に祈っている方(一般人)がいるので気軽には入れない雰囲気でした。詳細はわかりませんが、祈ってほしい人の名前を事前に届けると祈祷会で祈ってもらえるらしく、母が亡くなった時ヘルベルトが頼んで祈ってもらったようなのです。祈られた人のリストに母の名前も書かれた週報が届いたのを覚えています。今ならパリ同時多発テロの被害者のために追悼を行っているかもしれません。
ヨーロッパを旅していて気づくのは、どんな騒々しい繁華街でも、ほぼ無音といってもいいような空間が存在することです。フランクフルト Frankfurt で言えば、最も観光客の多い市庁舎のある丘 Römerberg のすぐそばに、聖母教会 Liebfrauen があります。ヘルベルトの母教会でしたから渡独するたびに訪れましたが、一歩入ると市街の雑踏がうそのように静かな場所でした。(今、念のため、愛用していた「地球の歩き方」を見たところ、市街地図に載っておらず、何かの間違いではないかと思ったのですが、「そっとしておいてほしい」という市民の気持ちの表れなのかもしれません。)
マリア像の前のろうそくはいつ行っても画像の通り、置き場がないくらい灯されていました。またこのすぐわきに祈りのための小部屋があるのですが、ひざまずいて一心に祈っている方(一般人)がいるので気軽には入れない雰囲気でした。詳細はわかりませんが、祈ってほしい人の名前を事前に届けると祈祷会で祈ってもらえるらしく、母が亡くなった時ヘルベルトが頼んで祈ってもらったようなのです。祈られた人のリストに母の名前も書かれた週報が届いたのを覚えています。今ならパリ同時多発テロの被害者のために追悼を行っているかもしれません。
2015年11月14日土曜日
「アクション映画の秀作」
最近テレビで「るろうに剣心」3部作の映画を放映したのを機に、少しは世間で流行っているものも知っておいた方がいいかなと思い、あまり期待もせずに見たところ、何年か前に若い女性が急に「かたじけない」とか「拙者は・・・」とか言い出したわけがわかりました。アクション映画というのはほとんど見ないのですが、以前機内であまりに暇なので見た「300 (スリーハンドレッド)」以来の見ごたえのある作品でした。(「300」はその名の通り300人の鍛え上げられた戦士と共に100万ともいわれるペルシャ軍と戦った(テルモピュライの戦い)スパルタのレオニダスの雄姿を描いたものです。暴力満載で野蛮極まりないおどろおどろしい映画ですが、ほとんど男子新体操のような一糸乱れぬ動きの部分があまりにすごかったので、戦闘シーンをつい2回も見てしまったのを思い出します。この戦闘ではスパルタ軍300名は敗死しますが、その後最終的にペルシャ軍はギリシャから撤退するのですから、ヨーロッパをアジアの侵略から守る礎となったこの戦いはヨーロッパ人の心に深く刻まれているのでしょう。この映画を見ればどんなに経済危機がひどくても簡単にギリシャを切り捨てられないEUのジレンマがよくわかります。
私が最初に意識したアクション映画は言うまでもなくブルース・リーのものです。今回見た「るろうに剣心」の1作目は大業なスペクタクルと明らかな悪役の存在からしてそれを彷彿とさせるものでしたが、ストーリーの繊細さは日本の方が優っています。そしてやはりチャンバラは日本人のDNAに染みついたものなのか、カンフーよりしっくりくるのは確かです。やっぱり拳法よりは剣術です。
この映画を見てあらためて認識させられたのが、明治初期というのはまさにチャンバラすなわち内乱の時代であったこと(西南戦争は明治10年のこと)、おそらく廃刀令など始めはまったく笑うべきもので誰も守っていなかったこと、薄氷を踏むような綱渡り的展開の中で、ひょっとしたら幕府側が政権を手中にする可能性もあったこと、その場合欧米列強の植民地化を阻止できたかどうか何とも言えないが逆に自らの立場を勘違いせずに国際社会でもう少しましな世渡りができていたかもしれないこと、いずれにしても幕藩体制を支えた武士たちが新時代を担ったこと、斎藤一の転身に見られるような、大量に失業した武士がいかにして食い扶持を稼ぐかという実際的な問題が大きく存在していたこと、国の統一と引き換えに実際に多くの者が血を流す思いで平和を選び取ったのだということ(この点、アメリカとは比べものにならない長い間、武器を携帯していた日本人が自ら武装解除したことの意味は大きいと言わざるを得ない。)、これらはこれからの日本を考える手立てになるでしょう。
何はともあれ、この映画の成功の大半は演じた俳優の魅力に帰せられてしかるべきでしょう。主役を演じる俳優に、ピュアでありながら健全すぎてはならない、ちょっと陰がなくてはならないがありすぎてもいけない、おっとりしすぎてはいけないがある種の高貴さがなくてはならない(美男ではあってもアラン・ドロン的労働者階級の顔立ちではならず、この点でちょっと顔立ちの似ているジャニーズの某とは一線を画している)、佐藤健を起用した監督はさすがです。
主人公は新しい時代を来たらせるため討幕側に立って幕末に相当な人斬りをしたのですが、今ではそれを悔いて「殺さずの誓い」をたてています。だから携帯する刀は「逆刃刀(さかばとう)」という、相手に向く刃が峰になっている(つまり刃が自分の方を向いている)刀なのです。剣で生きてきた人が明治新時代になって十年、半生を振り返りつつ償いをしていくというのが主眼の話なのでなかなか考えさせられるのです。主人公にとって生きていくということがそのまま償いなのです。普段は物静かな人ですが、平和な世が乱されそうになると逆刃刀を取って戦う、その戦い方が見どころです。相手は皆この世の犠牲になったような人ばかりで、気の毒な境遇なのですが倒さざるを得ない、殺さずに倒すのです。そしてその時に、これからどう生きるべきかは各々が生きる中で考えていくしかないことを告げるのです。
独りよがりな勘違いではないと思うのですが、この主人公は日本という国を体現しているのだろうと思います。「殺さずの誓い」と「逆刃刀」は日本国憲法そのものです。第3作の最後で憎悪と暴力の権化であっ人物、志々雄を倒した後、静かな日常に戻って終わりになります。庭の美しいもみじ葉を薫殿(町道場、神谷活心流の跡取り娘で、モデルは北辰一刀流免許皆伝の千葉佐那らしい)に手渡すシーンです。
「その葉が一番美しい。・・・・こうやって生きていくでござるよ。」
「生きて。新しい時代を。」
「薫殿、ともに見守ってくださらぬか。」
「えっ。」
薫殿の驚いた顔と剣心のはにかんだ顔で幕となる。
やられたという感じでした。これが今の若い日本女性にとっての(そしておそらく若い男性にとっても)理想の幸福であるといって過言ではないのだろうと思います。大事な人と退屈ではあっても静かに穏やかな日々を過ごしたい、ただそれだけ。これが映画が大ヒットした理由でしょう。アクション映画の完結シーンはやっぱりこうでなくちゃ。世間で流行る作品にはそれなりのわけがあるのですから、少しは関心をもって触れてみるものだなあと思ったことでした。
私が最初に意識したアクション映画は言うまでもなくブルース・リーのものです。今回見た「るろうに剣心」の1作目は大業なスペクタクルと明らかな悪役の存在からしてそれを彷彿とさせるものでしたが、ストーリーの繊細さは日本の方が優っています。そしてやはりチャンバラは日本人のDNAに染みついたものなのか、カンフーよりしっくりくるのは確かです。やっぱり拳法よりは剣術です。
この映画を見てあらためて認識させられたのが、明治初期というのはまさにチャンバラすなわち内乱の時代であったこと(西南戦争は明治10年のこと)、おそらく廃刀令など始めはまったく笑うべきもので誰も守っていなかったこと、薄氷を踏むような綱渡り的展開の中で、ひょっとしたら幕府側が政権を手中にする可能性もあったこと、その場合欧米列強の植民地化を阻止できたかどうか何とも言えないが逆に自らの立場を勘違いせずに国際社会でもう少しましな世渡りができていたかもしれないこと、いずれにしても幕藩体制を支えた武士たちが新時代を担ったこと、斎藤一の転身に見られるような、大量に失業した武士がいかにして食い扶持を稼ぐかという実際的な問題が大きく存在していたこと、国の統一と引き換えに実際に多くの者が血を流す思いで平和を選び取ったのだということ(この点、アメリカとは比べものにならない長い間、武器を携帯していた日本人が自ら武装解除したことの意味は大きいと言わざるを得ない。)、これらはこれからの日本を考える手立てになるでしょう。
何はともあれ、この映画の成功の大半は演じた俳優の魅力に帰せられてしかるべきでしょう。主役を演じる俳優に、ピュアでありながら健全すぎてはならない、ちょっと陰がなくてはならないがありすぎてもいけない、おっとりしすぎてはいけないがある種の高貴さがなくてはならない(美男ではあってもアラン・ドロン的労働者階級の顔立ちではならず、この点でちょっと顔立ちの似ているジャニーズの某とは一線を画している)、佐藤健を起用した監督はさすがです。
主人公は新しい時代を来たらせるため討幕側に立って幕末に相当な人斬りをしたのですが、今ではそれを悔いて「殺さずの誓い」をたてています。だから携帯する刀は「逆刃刀(さかばとう)」という、相手に向く刃が峰になっている(つまり刃が自分の方を向いている)刀なのです。剣で生きてきた人が明治新時代になって十年、半生を振り返りつつ償いをしていくというのが主眼の話なのでなかなか考えさせられるのです。主人公にとって生きていくということがそのまま償いなのです。普段は物静かな人ですが、平和な世が乱されそうになると逆刃刀を取って戦う、その戦い方が見どころです。相手は皆この世の犠牲になったような人ばかりで、気の毒な境遇なのですが倒さざるを得ない、殺さずに倒すのです。そしてその時に、これからどう生きるべきかは各々が生きる中で考えていくしかないことを告げるのです。
独りよがりな勘違いではないと思うのですが、この主人公は日本という国を体現しているのだろうと思います。「殺さずの誓い」と「逆刃刀」は日本国憲法そのものです。第3作の最後で憎悪と暴力の権化であっ人物、志々雄を倒した後、静かな日常に戻って終わりになります。庭の美しいもみじ葉を薫殿(町道場、神谷活心流の跡取り娘で、モデルは北辰一刀流免許皆伝の千葉佐那らしい)に手渡すシーンです。
「その葉が一番美しい。・・・・こうやって生きていくでござるよ。」
「生きて。新しい時代を。」
「薫殿、ともに見守ってくださらぬか。」
「えっ。」
薫殿の驚いた顔と剣心のはにかんだ顔で幕となる。
やられたという感じでした。これが今の若い日本女性にとっての(そしておそらく若い男性にとっても)理想の幸福であるといって過言ではないのだろうと思います。大事な人と退屈ではあっても静かに穏やかな日々を過ごしたい、ただそれだけ。これが映画が大ヒットした理由でしょう。アクション映画の完結シーンはやっぱりこうでなくちゃ。世間で流行る作品にはそれなりのわけがあるのですから、少しは関心をもって触れてみるものだなあと思ったことでした。
2015年11月12日木曜日
「紅春 74」
私が東京にいる間にりくは少しずつ二階への階段の上り降りに慣れてきたようです。特に今まで自分でできなかった降りがゆっくりですができるようになりました。元々土手の急な階段を降りられていたのですからできないはずはなかったのです。ただ、この階段が途中から向こう側の見えるスリット式の階段なので恐いのかもしれません。これでまずは安心ですが、やはり長時間家を空けるときは二階に行かないよう上り口の柵を閉めて出かけます。
先日半日ほど出かけて帰宅しましたが、りくが出てこないし声もしないのでちょっとぎょっとしました。二階への柵は閉まっているから階下にいるはず。りくの名前を呼びながら家中探しましたが出てこない。どこかでひっくり返っているのではないかと青くなりました。
「りく~。」
大声で呼ぶと二階でコトッと音がし、りくが何事もなかったかのように降りてきました。柵を越えたのか?助走をつければできるだろうが階段前にそんなスペースはない。その日、帰宅した兄に話すと、「欄干のすきまから入ったのだろう。」とのこと。ともかくそこに厚紙を張って入れないようにしました。
この柵に関しては他にも兄に聞いたエピソードがあります。夜中にガタッと音がして降りてみると柵が取れて下に落ちていた。りくが茶の間から首を出してこちらを見ていたので、「大きな音してごめんな。」と言ってとりあえずまた寝た。しかし考えてみると、石膏ボードとはいえ3本のネジ鋲で留めてある蝶つがいが自然落下するはずがない。りくが乗り越えようとして体重をかけた可能性が高いだろう・・・。とすると、柵が落ちて驚いたりくは急いで茶の間に舞い戻り、兄が降りてきたときには何食わぬ顔で様子をうかがっていたということになります。まったくりくときたら・・・。まあ無事でよかったけど。
先日半日ほど出かけて帰宅しましたが、りくが出てこないし声もしないのでちょっとぎょっとしました。二階への柵は閉まっているから階下にいるはず。りくの名前を呼びながら家中探しましたが出てこない。どこかでひっくり返っているのではないかと青くなりました。
「りく~。」
大声で呼ぶと二階でコトッと音がし、りくが何事もなかったかのように降りてきました。柵を越えたのか?助走をつければできるだろうが階段前にそんなスペースはない。その日、帰宅した兄に話すと、「欄干のすきまから入ったのだろう。」とのこと。ともかくそこに厚紙を張って入れないようにしました。
この柵に関しては他にも兄に聞いたエピソードがあります。夜中にガタッと音がして降りてみると柵が取れて下に落ちていた。りくが茶の間から首を出してこちらを見ていたので、「大きな音してごめんな。」と言ってとりあえずまた寝た。しかし考えてみると、石膏ボードとはいえ3本のネジ鋲で留めてある蝶つがいが自然落下するはずがない。りくが乗り越えようとして体重をかけた可能性が高いだろう・・・。とすると、柵が落ちて驚いたりくは急いで茶の間に舞い戻り、兄が降りてきたときには何食わぬ顔で様子をうかがっていたということになります。まったくりくときたら・・・。まあ無事でよかったけど。
2015年11月9日月曜日
「漱石の時代」
最近ニュースを聞く気がなくなり、青空文庫で夏目漱石を読み返したりしています。かといってこれが楽しいというわけではありません。自分のことで手一杯なのに、何ゆえ他人の問題まで抱え込まねばならぬのかとげんなりしつつも、言ってみれば連続テレビ小説と同じで次を読まずにいることもできないのです。テレビのない時代、新聞の連続小説はまぎれもなく毎朝の日課的娯楽だったことでしょう。(それにしてはエンターテイメント性に欠けるが。)朝鮮や台湾、満州の話が普通に出てきてやはり時代だなあと思う一方、大学を出ても職がないという言葉があり(「彼岸過ぎ迄」)今と変わりません。この時代の学士さまは今とは比べようのないエリートですがそれでも就職難なのです。
本を読んでいてとても奇妙な感覚にとらわれたのは、とにかく話が全てお金の工面の問題と結婚への圧力の話から成り立っていることです。この時代お金が必要となれば家族・親族・知人に用立ててもらうしかありません。現在から見るとこの手間暇が尋常ではない。高等遊民というパラサイトな人たちが登場し、大学を出て職に就かず、資産家の親から当然のように仕送りしてもらいながら過ごしている・・・。そればかりでなく自活できていない子供に親がしきりに結婚を迫る・・・。非正規雇用で収入が少ないから結婚できない(この現実を肯定するわけではありません。)という主張の方がまだまっとうな感覚のように思え、「この人たちっていったい・・・。」と率直に感じます。しかしこの時代は結婚していなければ「人」ではなかったのですから、こうなるのもいたしかたないのでしょう。たぶんこれが嫌さにサラ金が発達し、家族・親族の解体が起き、現在があるのだと思います。
それとは別に、漱石が一貫して関心を抱いているのはやはり現代人の罪の意識だろうと思います。中期から後期の作品になるにつれてこの問題意識は顕著であり、友人への裏切りというテーマを執拗なまでに描いています。結婚以外生きる道のなかったこの時代の女性は家庭内でどんなに勢力をふるっていても所詮家の付属物です。小説の中で女性の存在は番外にあり、問題は男同士の間で先鋭化します。自分がしたことは自分が一番分かっており、罪を償うことも誰かに赦しを乞うこともできない以上、常に不安に苛まれそれが消えることはないのです。ようやく春が来たのに、「うん、しかしまたじき冬になるよ」(「門」)と答えなければならないこの終わりなき絶望感、つらいだろうなとお察しします。漱石はキリスト教的罪概念に接近しながら、その赦しについての奥義は受け入れられなかったようです。神が信仰心を強要することはないので、気の毒ですがどうすることもできません。漱石の描く人間の苦しみは日ごろ見聞する類の説得力のあるものですが、そこで終わってしまっているのが残念です。
本を読んでいてとても奇妙な感覚にとらわれたのは、とにかく話が全てお金の工面の問題と結婚への圧力の話から成り立っていることです。この時代お金が必要となれば家族・親族・知人に用立ててもらうしかありません。現在から見るとこの手間暇が尋常ではない。高等遊民というパラサイトな人たちが登場し、大学を出て職に就かず、資産家の親から当然のように仕送りしてもらいながら過ごしている・・・。そればかりでなく自活できていない子供に親がしきりに結婚を迫る・・・。非正規雇用で収入が少ないから結婚できない(この現実を肯定するわけではありません。)という主張の方がまだまっとうな感覚のように思え、「この人たちっていったい・・・。」と率直に感じます。しかしこの時代は結婚していなければ「人」ではなかったのですから、こうなるのもいたしかたないのでしょう。たぶんこれが嫌さにサラ金が発達し、家族・親族の解体が起き、現在があるのだと思います。
それとは別に、漱石が一貫して関心を抱いているのはやはり現代人の罪の意識だろうと思います。中期から後期の作品になるにつれてこの問題意識は顕著であり、友人への裏切りというテーマを執拗なまでに描いています。結婚以外生きる道のなかったこの時代の女性は家庭内でどんなに勢力をふるっていても所詮家の付属物です。小説の中で女性の存在は番外にあり、問題は男同士の間で先鋭化します。自分がしたことは自分が一番分かっており、罪を償うことも誰かに赦しを乞うこともできない以上、常に不安に苛まれそれが消えることはないのです。ようやく春が来たのに、「うん、しかしまたじき冬になるよ」(「門」)と答えなければならないこの終わりなき絶望感、つらいだろうなとお察しします。漱石はキリスト教的罪概念に接近しながら、その赦しについての奥義は受け入れられなかったようです。神が信仰心を強要することはないので、気の毒ですがどうすることもできません。漱石の描く人間の苦しみは日ごろ見聞する類の説得力のあるものですが、そこで終わってしまっているのが残念です。
2015年11月6日金曜日
「メサイアの練習」
今年のクリスマス・イヴは教会で「メサイア」をうたうことになりました。歌われたことのある方はおわかりでしょうが、聞きなれたメロディとは裏腹にちゃんと歌うのはかなり難しい曲です。パートごとの旋律の入ったCDを受け取り、それをICレコーダに入れていつも聴いています。難しいのはパートごとに旋律がずれるためで、だいたいずれるのだが時々一緒になるというところでしょう。詳しく知らない方には、楽譜通り歌われているのかずれているのかわからないかもしれません。
私は歌が苦手で高い声もでないのですが、かといって主旋律しか覚えられそうにないのでソプラノを歌います。前半の山場手前の、早口言葉のような掛け合いは覚えるのに相当時間がかかりましたがなんとかついていけるようになりました。他のパートにつられなくなるにはもう少し時間が必要です。最近は礼拝や祈祷会のあとに残れる人は残って皆で練習しています。牧師先生が音楽に堪能な方なので丁寧に指導してくださっています。「メサイア」のよいところは、歌っているときも歌った後もグングン力が湧いてくるところです。歌詞がほどんと「ハレルヤ」(主をほめたたえよ)なのですから。これはくせになるな~と思っています。クリスマスまであとあと一か月半、練習も佳境に入ります。
私は歌が苦手で高い声もでないのですが、かといって主旋律しか覚えられそうにないのでソプラノを歌います。前半の山場手前の、早口言葉のような掛け合いは覚えるのに相当時間がかかりましたがなんとかついていけるようになりました。他のパートにつられなくなるにはもう少し時間が必要です。最近は礼拝や祈祷会のあとに残れる人は残って皆で練習しています。牧師先生が音楽に堪能な方なので丁寧に指導してくださっています。「メサイア」のよいところは、歌っているときも歌った後もグングン力が湧いてくるところです。歌詞がほどんと「ハレルヤ」(主をほめたたえよ)なのですから。これはくせになるな~と思っています。クリスマスまであとあと一か月半、練習も佳境に入ります。
2015年11月5日木曜日
「パソコンに負けないもん」
ハードディスクを交換して設定しなおし更新プログラムのインストールも終わったところで、一見うまくいったように思ったのですが、結局Windowsのアップデートに失敗していることがわかりました。修理工場に電話して話をすると、
「普通はしないのですが、それではWindowsのアップデートが済んだ状態にしてお渡ししましょう。」
とのこと。大変ありがたいお申し出でしたがそうするとまたパソコンを送り返さなければならない、つまり相当しばらく使えなくなります。それは不都合なので、なんとか電話でやり方をお聞きしやってみて、それでもダメな場合に送り返すことにしました。リカバリなのでまたまっさらな状態になるとのことですがしかたありません。
「電源を入れた瞬間にF12を乱打してください。」
に始まる指示に従ってリカバリを始めました。ポイントはまずMicrosoft Officeをインストールすること、次にインターネットにつないでコントロールパネルからWindows Updateを行うことでした。
「お客様の場合は3年も前のパソコンですから、相当長い時間がかかることが予想されます。」
パソコンの世界では3年前でももう化石のような扱いなのか。時間がかかることはすでに体験したので身に染みている・・・。私は2日がかりも覚悟しましした。
さてコントロールパネルから入って更新のボタンを押すと197個の更新プログラムが始まりました。それから本格的に睡眠をとり夜中に見てみると、「195個の更新に成功しました。2個の更新に失敗しました。」の表示。やっぱりだめかと思いつつ、ほかの選択肢はなかったので再起動のボタンを押しました。その後プログラムの構成が始まり、なんだか目が離せないのでパソコンの傍のこたつでうとうとしながら様子を見守りました。そのうちパソコンも私と同じスリープ状態になり・・・もう一度電源を入れてみると、しばらくなにがしかの働きがあってそのうち完全にシャットダウンしました。それから恐る恐るもう一度電源を入れると今度はきちんと立ち上がりました。もう駄目だと思っていただけに、「えっ、これって全ての更新プログラムのインストールに成功したってこと?」と信じられない感じでした。メールの設定も問題なくでき、とりあえず最低限の設定は終わったかなと思っているのですが、まだ何日か使っているうちに不具合がでるかもしれません。縁起でもないですが、次回またリカバリしなければならない事態になったとしたらいったい何百の更新プログラムのインストールが必要なのか、そして私がそれに耐えられるのかどうかかは自信がありません。
「普通はしないのですが、それではWindowsのアップデートが済んだ状態にしてお渡ししましょう。」
とのこと。大変ありがたいお申し出でしたがそうするとまたパソコンを送り返さなければならない、つまり相当しばらく使えなくなります。それは不都合なので、なんとか電話でやり方をお聞きしやってみて、それでもダメな場合に送り返すことにしました。リカバリなのでまたまっさらな状態になるとのことですがしかたありません。
「電源を入れた瞬間にF12を乱打してください。」
に始まる指示に従ってリカバリを始めました。ポイントはまずMicrosoft Officeをインストールすること、次にインターネットにつないでコントロールパネルからWindows Updateを行うことでした。
「お客様の場合は3年も前のパソコンですから、相当長い時間がかかることが予想されます。」
パソコンの世界では3年前でももう化石のような扱いなのか。時間がかかることはすでに体験したので身に染みている・・・。私は2日がかりも覚悟しましした。
さてコントロールパネルから入って更新のボタンを押すと197個の更新プログラムが始まりました。それから本格的に睡眠をとり夜中に見てみると、「195個の更新に成功しました。2個の更新に失敗しました。」の表示。やっぱりだめかと思いつつ、ほかの選択肢はなかったので再起動のボタンを押しました。その後プログラムの構成が始まり、なんだか目が離せないのでパソコンの傍のこたつでうとうとしながら様子を見守りました。そのうちパソコンも私と同じスリープ状態になり・・・もう一度電源を入れてみると、しばらくなにがしかの働きがあってそのうち完全にシャットダウンしました。それから恐る恐るもう一度電源を入れると今度はきちんと立ち上がりました。もう駄目だと思っていただけに、「えっ、これって全ての更新プログラムのインストールに成功したってこと?」と信じられない感じでした。メールの設定も問題なくでき、とりあえず最低限の設定は終わったかなと思っているのですが、まだ何日か使っているうちに不具合がでるかもしれません。縁起でもないですが、次回またリカバリしなければならない事態になったとしたらいったい何百の更新プログラムのインストールが必要なのか、そして私がそれに耐えられるのかどうかかは自信がありません。
2015年11月3日火曜日
「飼い主を呼ぶ犬のように」
りくには見習わなければなららいことがたくさんありますが、その第一は信頼心です。二階に上がって降りられない時もそうですが、その他用事のある時、りくはワンワンないて家族を呼びます。これは相手がやって来るまで続きます。呼んでも来てくれないのではないかなどどいう不安感はみじんもなく、呼べば必ず来ると思っていつまでも呼ぶのです。つくづくすごいことだと思います。
「散歩に連れてってください。」などのお願い事をする時のお座りも同様です。必ず顔の方向にやってきてきちんと座り、目を合わせて待つのです。「今忙しいから。」と言って目をそらすと、またその方向にきて目を合わせてきます。前足でトントンが出る時もあります。その顔ときたら、「ね、ちゃんと聞いてる?」と問うようなかば不満げ、なかば悲しげな表情なのです。つぶらな瞳で見つめられ、前足でトントンされると願いを聞いてあげざるを得ません。
カリスちゃんという犬を飼っている女性の牧師さんがいます。家を長時間空ける時は置いておけないので一緒にやってきます。ゴールデンリトリバーのおとなしい子です。教会での地区集会の間などは外につながれていますが、先日は自転車置き場の近くにいたので集会後にちょっとかまってしまいました。(飼い主は近くにあるもう一つの教会に寄ってから戻ることになっていました。)そんなことは知らないカリスちゃんは、ずっと一人だったので遊ぶ気満々で、私は帽子を取られてしまい返してくれません。その場にいた人からは、「やっぱり遊んでくれる人はわかるのね。」などど言われましたが、しばらく遊んでそろそろ帰ろうと思い、帽子を取り戻すのに一策を講じました。
「あ、○○先生。」
と叫んで適当な方向に首を向けると、カリスちゃんはハッっとした様子でそちらを見て口を開けました。その瞬間を狙って帽子を抜き取り作戦成功です。(カリスちゃん、だましてごめんね。) このように、犬は飼い主の名が出ると意識が一挙にそちらに集中し他のことを忘れてしまうのですから偉いものです。
聖書では犬は散々な扱いを受けていて残念ですが、もし当時の某所に柴犬やゴールデンレトリバーが存在していたなら扱いは一変したことでしょう。彼らが主人に向けるような思いを、人間が神様に対して向けられるなら、神様はどれほどお喜びになることでしょうか。そしてそういう場合には、神様はきっとその人の願いをきき届けてくださるであろうと、これまでの経験から私は思うのです。
「散歩に連れてってください。」などのお願い事をする時のお座りも同様です。必ず顔の方向にやってきてきちんと座り、目を合わせて待つのです。「今忙しいから。」と言って目をそらすと、またその方向にきて目を合わせてきます。前足でトントンが出る時もあります。その顔ときたら、「ね、ちゃんと聞いてる?」と問うようなかば不満げ、なかば悲しげな表情なのです。つぶらな瞳で見つめられ、前足でトントンされると願いを聞いてあげざるを得ません。
カリスちゃんという犬を飼っている女性の牧師さんがいます。家を長時間空ける時は置いておけないので一緒にやってきます。ゴールデンリトリバーのおとなしい子です。教会での地区集会の間などは外につながれていますが、先日は自転車置き場の近くにいたので集会後にちょっとかまってしまいました。(飼い主は近くにあるもう一つの教会に寄ってから戻ることになっていました。)そんなことは知らないカリスちゃんは、ずっと一人だったので遊ぶ気満々で、私は帽子を取られてしまい返してくれません。その場にいた人からは、「やっぱり遊んでくれる人はわかるのね。」などど言われましたが、しばらく遊んでそろそろ帰ろうと思い、帽子を取り戻すのに一策を講じました。
「あ、○○先生。」
と叫んで適当な方向に首を向けると、カリスちゃんはハッっとした様子でそちらを見て口を開けました。その瞬間を狙って帽子を抜き取り作戦成功です。(カリスちゃん、だましてごめんね。) このように、犬は飼い主の名が出ると意識が一挙にそちらに集中し他のことを忘れてしまうのですから偉いものです。
聖書では犬は散々な扱いを受けていて残念ですが、もし当時の某所に柴犬やゴールデンレトリバーが存在していたなら扱いは一変したことでしょう。彼らが主人に向けるような思いを、人間が神様に対して向けられるなら、神様はどれほどお喜びになることでしょうか。そしてそういう場合には、神様はきっとその人の願いをきき届けてくださるであろうと、これまでの経験から私は思うのです。
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