家族を成り立たせるには相応の自己犠牲が必要ですが、おそらくこれは成員の誰もが「自分が一番犠牲になっている」と感じるものなのでしょう。客観的事実とは別にその感情があまりに積もってしまうのはなんとかしたいものです。自己実現と自己犠牲のほどよいバランスが幸福感をもたらすのだと思います。
教会で出会う方々はどうして惚けないのだろうと思うことがあります。年齢を伺う機会があった時などは、思わずのけぞるくらい若々しいのです。忙しく立ち働いているので60代後半かなと思っていた方がそれよりずっと前に後期高齢者になられた方だったりして、本当に驚かされます。また、穏やかな老後を送られている方のこれまでの人生をたまたま知る機会があった時、想像を絶する苦難の連続に言葉を失ったこともあります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章 16~18節)
私にはとてもできそうにない気がしますが、その通りの人生を生きて来られた方なのでしょう。
自己実現と幸福感は必ずしも一致するものではないでしょうし、自己実現と認知症はさらに無関係かもしれません。慰められたのは、施設で暮らしている高齢の女性が、ある日娘さんの付き添いで自宅に帰られても「ここはどこ?あなたは誰?」という状態だったのに、教会に連れていったらそこはわかったというのです。神様のことはちゃんとわかるという、そんな幼子のような信仰に戻れるなら惚けるのも悪くないかなと思います。