最初の人類の話として、創世記にエデンの園にてアダムとエバが禁じられていた木の実を食べてしまったという記述があるのは、たいていの人が何らかの形で知っていることでしょう。私もよく知っている話と思っていたのですが、細部の記憶がおぼろげだったのでこのたび読み直してみたら、「えっ、そんな話だったっけ。」という有様でした。おさらいしてみると・・・
エデンの園には食べるに良いあらゆる木があり、中央には命の木と善悪の知識の木があるのですが、神は善悪の木から実をとって食べることを禁じました。理由は食べれば必ず死ぬからということでした。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 (創世記2章9節)
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主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章16~ 17節)
「善悪を知る木」の実というのが、なぜか私の頭の中では「知恵の実」となっていたのですが、これはひょっとすると蛇とのやり取りからの連想だったのかもしれません。つまり、「神のように善悪を知る」→「賢くなる」→「知恵を得る」という類推です。
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3章 4~6節)
善悪を知るというと、なんとなく倫理的なことを思い浮かべてしまうのですが、やはりこれは高度な知恵に関わるものなのかもしれません。しかし普通に考えれば、食べたら必ず死ぬものとは毒物であり、知恵とは毒物なのだと聞けばなるほどと思わぬわけでもありません。
こんなことにくどくどこだわっているわけは、盲学校で出会った一人の生徒を思い出すからです。15歳は過ぎていましたが、体は小学生くらいで重度の知的障害がありました。一緒に授業をしていて感じたのは、本当に天使のような生徒さんだということでした。心がきれいというのはこういうことを言うのだろうといつも思わされました。日本語で「知恵がつく」とか「入れ知恵」とかいう言葉が決していいことを表さないように、人間の知恵は悪へまっしぐらに向かうものかもしれないと思ったものでした。
先日兄から聞いた話で、善悪を知ることから無縁のはずの動物の方が、よほど知恵があると思った出来事がありました。疲れて帰宅しりくと散歩に行った兄が、トイレもせずにだらだらふらふらしているりくに腹を立て、傘でバシッとたたいたところ、りくはびっくりしてそれから泣きながら「なんでいじめるの?」と抗議したそうです。りくは普段無駄吠えなどで叱られるときは自分でも悪いとわかっているので、頭を垂れてちゃんと叱られたままになっています。兄はりくに謝ったそうですが、りくはしつけで叱っているのと怒りに任せて叱っているのの違いがわかるのです。大人でもしつけと称して子供を折檻するということがあり、自分では気づかない、もしくは気づきたくないということがよくあるのは痛ましい事件となってから知らされることです。子供は何が何だかわからない怒りの爆発を受け入れるしかありませんが、動物にはそれは違うとわかるというのは、いったいどっちが賢いのでしょうか。善悪と無関係に生きている動物の方が善悪を知っているという逆転が起きているのです。
創世記の話の続きは、蛇の誘惑に乗って始めにエバそれからアダムが善悪の知識の木の実をとって食べますがなぜか二人は死ぬことはなく、ただ自分たちが裸であることを知りいちじくの葉をつづり合わせて腰に巻き、神の来られる音を聞いて木の間に身を隠します。神の戒めを破った人間は、それまで許されていた命の木から実をとって食べることのないように、すなわち永遠に生きることのないようにエデンの園から追放されるのです。
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(創世記3章 22節)
食べたら必ず死ぬというのはどうなったのかと考えると、体は生きていても死んでいるのと同じ状態という解釈は、こじつけではなくあり得ると思いました。そういう状態の人を見ることは結構ありますし、自分もそういう状態に陥ってしまったことが何度もあるからです。また、体にしても永遠に生きることはないのですから、別の言い方をすればいつか必ず死ぬということなのかもしれません。読めば読むほど不思議な話で、なんだか初めて聞く話のように感じました。