私はデジタル機器が苦手です。スマホは非常用に保持しているだけで、常にGPSは切って自宅に固定、帰省する時は持っていきますがそのまま机上に置いてあります。先日、友人から「テレビ通話できれば・・・」と話があったのですが、まずやり方がわかりません。機種によって簡便に使えるもの、アプリを入れて使うもの等さまざまあるようです。ラインはもう社会インフラになっているなどと言われて、これなら初心者でも簡単にテレビ通話ができるのだそうです。しかし、以前いろいろと問題になったように、使い始めると同時に電話帳が抜き取られたり、文字や通話の情報が漏れなく開発企業に送られて集積されたりするようなものを、よくみんな平気で使えるなと言うのが率直な感想です。いずれにせよ何らかの利便性を享受しようと思えば同様のことが起こるのですから、もはやどこのリトル・ビッグブラザーを選ぶかの違いしかないともいえるのですが・・・。テクノフォビアとしては少しでも安全そうなデジタル通信機器を用い、ごくごく必要な時しか使うまいと決めています。
そうは言っても、ありがたく使っている機能もあります。感染症の不安がある中、教会のオンライン礼拝が聴けることは以前には享受しえなかった恩恵です。もちろん会堂での本物の礼拝とは全く違いますが、とにかく同じ時間を共有することができるのは有難いことです。しかし、ZOOM等による双方向の会合には一度も参加したことがありません。どうしてもそういう気になれないのです。どうしてかなと考えても、感覚的に無理と言うほかない気がしていました。
先日、皮膚について研究されている傳田光洋氏の本を読んで、なるほどと思うことがありました。ちょっとうろ覚えですが、それによると、類人猿の中で人間だけ体毛がほとんどないという普段見過ごされがちな事実から、人間が体毛を失っていった時期と人間の脳が巨大化していった時期が同じであるということに注目して独自の理論を展開されています。それは皮膚から入る膨大な情報を処理するために大きな脳が必要になったという説です。なんとなく、人間の健康を左右するのは「腸」という臓器であると聞いた時と同じ既視感がありますが、傳田氏は皮膚を「思考する臓器」と考えておられるようです。また、「コンピュータが人間の意識を持つことはない。なぜなら電脳空間には皮膚がないからだ」という趣旨のことも述べておられましたが、私がZOOMを使う気になれない理由としてこれほど腑に落ちた説明はありません。画像や音声は伝わっても、今のところ触ることはできない。中枢としての脳とは違い身体のあらゆるところを覆う皮膚が、人間史上では脳に先行するものであるという指摘には考えさせられるものがあります。