欲しいものがない時代になって久しくなります。今では「無くなって欲しいもの」の方が多いのです。直感的に言って、世界に飛び交うパソコン上のメールや電子情報、紙媒体も含め世の中の活字や画像、電波で運ばれるマスコミ情報の85%はおよそ無駄なものではないでしょうか。暇つぶしに書かれたこの文ももちろんそうですし、ニュースを聞こうとラジオを付け、民放のボタンを順に押したら、全局CMだったということもまれではありません。よほど物が売れないのでしょうが、本末転倒です。
私が困るのはインターネットで送られてくる不必要な情報です。セキュリティ・ソフトを入れているので、ひどいスパムが届くことはありませんが、迷うのはロゴはよく使う通販会社ながら、本当にそこから送られているのか怪しいものがあるのです。この迷う時間が無駄です。何かこちらに不具合があるようなことを言ってくるのですが、それが本当かどうか、送り主が確かなところかどうか、私は確かめる手立てを知りません。気分は決して良くないですが、そういうメールは無視して削除です。基本的にこちらから主体的に働きかけようとしてできない場合にのみ、どうするか考えることにしています。IT機器に疎い者が身を守るにはまずそこからです。
パソコンのソフトは、セキュリティの向上というお題目を唱えてよくバージョンアップしますが、これも迷惑この上なく、無駄です。企業にとっては売上アップの手段なのでしょうが、ユーザーにとって使いづらくなる場合が非常に多いので、本当にやめてほしい。とくに今まであったお気に入りの機能が無くなっている場合は「ふざけるな」という気になります。重要な機密事項を扱うような場合は別にそれ用のセキュリティを備えた製品を開発すればよいだけで、その他大勢の一般庶民にはこれまでのソフトを末永く使わせてほしい。普段使いの気晴らしで、毎回アカウントやパスワードを聞かれたのではたまったものではない、そう思っている人は相当数に上るでしょう。
バージョンアップにはお為ごかしのようなものもありますが、もう一つ見逃せないのは製品での事故や顧客からのクレームによるものです。例えば、使用時の洗濯機に自動で鍵がかかるようになったのはそのような経緯からでしょう。安全は大事です。子どもの事故を防ぐための対策は必要です。しかし、ここで考えなければならないのは、そこから一足飛びに、洗濯時に自動で鍵がかかる洗濯機をデフォルトにする必要はないということです。これによって不便になった人は、便利になった人の何百倍もいることでしょう。鍵のかかる仕様を別に作ればよいだけです。洗濯機を回し始めてから、「あ、あれもあったな」と、思い出して洗濯槽に投げ入れる私のようなずぼらな人間には、自動でロックされてしまう実家の洗濯機は本当に不便です。そのせいで二度目の洗濯をするのは水と電気の無駄。洗濯くらいぼーっとした状態でもできるようにさせてください。
新商品を開発される方に声を大にして言いたいのは、「この製品はこのままでいい」という本物のユーザーはまさに「このままがいい」がゆえに、製造者には感謝こそすれ、何も言わないのです。それなのに声の大きいクレーマーの言うことばかり聞いて、その対処法を一般消費者に広げていくのは間違っています。次々に新製品が出て市場であり余る物、配慮と忖度の過剰でどんどん不便になっていく物、誰の得にもならないこの状況を生み出している原因を考えてほしい。現状は余剰、過剰によって生み出された製品やサービスの不快さが、利便性という快適さを越えてしまっているのです。
欲しいものがない時代と言いましたが、それは損益分岐点を考慮して営まれるシステムでの話です。すなわちそれは、資本主義経済のもとでは完全に行き詰っているが、次のヴィジョンが全然見えないという、公然の事実を示すにすぎません。そのため、ものすごくニッチな市場で熾烈なアイディア競争が行われており、後代には経済民俗史的意味がありそうです。
私も一つ、欲しい物のアイディアを思いつきました。「食べごろバナナの宅配」です。冬はなかなか熟せず夏はすぐに傷んでしまうバナナの宅配は相当難易度が高そうです。昔うちでも取っていた朝の牛乳配達のように、ちょうど食べごろのバナナを毎日運んでくれたら試してみるかもしれないな。商品が生ものなので、これはただのサブスクではなく、人件費を考えるととても無理そう。以前東京駅の地下にバナナの自動販売機がありましたが、あれも消えたしな。明るい見通しではないけれど、半分遊び心、半分探求心(気候・気温とバナナの成熟度関数の研究)で、こぢんまりとやるのはあり得るかしら。何しろ恐ろしいことに、一番過剰なのは人間という時代が来ているのですから。