阪神淡路大震災から16年後に起きた東日本大震災は、津波の破壊力とその規模の大きさ、放射能汚染という特殊性において最悪のものと思われました。しかしその5年後に起きたこのたびの熊本地震では、地震がいつまでも収束しないという、また別な問題の深刻さを知らされることになりました。この間にあった千葉の地震が東日本大震災の余震だというのですから、見通しのつかなさもほどが知れようというものです。考えさせられることがいろいろありました。
1.地震についてはほとんど何もわかっていない。
最初の地震よりさらに大きな地震が起きたのは初めての経験であり、その点で日本列島の住人は大きな衝撃を受けました。この地震に関しては学者によって見解が分かれており、それぞれの学説の正否が不明なだけでなく、それがわかっても一般人には何の益にもならないのです。なおかつ地震学者の言うことが感覚的にしっくりこないので、あまり真面目に聞こうとする気になれません。一連の地震がそれぞれ無関係って言われてもね。
2.大地震は日本全国いつ起こっても不思議ではない。
したがって首都直下型地震が明日来ることも覚悟しなければならない。雑談の中でこの話をしていた時、或るご年配の方が「私はもうすべて神様にお任せしていますから。」と穏やかな笑顔で話されました。もちろんこの方は災害時用にすべき備えはしてあるのです。私もそれに近い心境ではありますが・・・。
3.このような日本列島に原発を置くのは狂気の沙汰である。
そう思わない人もいるというのがどうしても理解できない。フクシマの事故が一向に終結しない中、現在稼働中の川内原発からそう遠くない熊本で大地震が起きたという事実を、最後の警告と受け取るべきではないのでしょうか。「鎮魂せよ。過ちを繰り返すな」ということでしょう。政府や関係官庁の役人、電力会社の方々には、冷静に考えて責任のとれないことはやめていただきたいです。自己保身ょり大事なことがあると目を覚ましてください。この国に住む子供たちには未来があるのですから。
人間の身体にとって必要なのは、カネではなく、水と食料とエネルギーです。質素でもおいしいご飯があり、ゆっくりお風呂につかることができ、ふかふかの布団でゆったり眠れる、それ以上のことを身体が求めるでしょうか。
私たちはすでにこれまでの震災から、それがもたらす理不尽な結末とその後の生活について若干の見通しをもっています。自然災害は誰のせいでもなく、全く意味なく不平等で、ちょっとした運不運が幸不幸に雲泥の差をもたらします。多くの場合、ほぼ暗い見通しです。年を重ねた人にとっては、来し方と行く末、そして生命を失う可能性と生活の困難さを秤にかけることもあるだろうと思います。これまでの生活スタイルからして避難所にいることはつらく、かといって地震が続く中とりあえず無事なようでも家に戻るのは怖い、またエコノミークラス症候群の危険が広くアナウンスされているため車で過ごすのも怖い・・・。しかし親類や知人のもとに身を寄せることができる人は別にして、当面このどれかを選択しなければならないのです。これがどれくらい長く続くのでしょう。
自然災害で被災するのはまったくゆえなきことです。しかし一方で、おそらく多くの人が自分や社会の進む方向性に不安を抱いており、このような災厄の到来にどこかで有責感を覚えているはずです。国の進むべき方向性を一挙に転換することは困難ですが、まずは身近なところから自分の生活のあり方や、別なサブシステムを持つ社会や地域共同体の可能性について真剣に考えるべき時ではないでしょうか。