あと10年から20年で今ある人間の仕事の約半分が人工頭脳に取って代わられると聞いて考え込んでしまいました。人間にしかできない仕事がなくなっていくのですから、雇用がなくなるのは避けられません。そのこと自体が大問題なのもさることながら、仕事があろうとなかろうと人は生きていくわけですから、仕事をしたくてもできない人が過半を占める社会がどのようなものになるかと想像すると、めまいを感じるのは私だけではないでしょう。
仕事をしていようといまいと国から給付金をもらえるベーシックインカムという制度について、すでにスイスではなにがしかの議論がされつつあるようですが、失業給付金や生活保護の拡大であろうと、規模と理念の違うベーシックインカム制度であろうと、要するに働かないのが普通の社会になるということです。ちょっと考えるとあまりよい未来が描けず悪い予想ばかり浮かびます。学校に行く意味を見いだせない子供はますます増えて巷にニートがあふれ治安が悪くなったり、早くから教育を放棄して最低限必要な教養を身に着けられない人々で構成される社会の崩壊などです。
「働いても働かなくても国から給付金が出るなら、だれが働くものですか。」という人がいる一方で、まだ働いている半分の人は優秀な人か奇特な人ということになってしまうかもしれません。しかしこれは、考えようによっては労働するということの理想的な状態かもしれないと思います。以前どこかのIT関係の会社で仕事のノルマを一切与えず有り余る時間から生み出されるアイディアを商品にするというような手法を用いていた会社がった記憶があります。働く人がそのような余裕を与えられたらこれは案外いいかもしれない。煩瑣な就業規則で妨げられてきた労働意欲を解放したら、上機嫌でとんでもなく働き、途轍もない達成をしてしまう人が出てくるかもしれません。
「えっ、あなたは働いているんですか。すごいですね。」
「もう毎日楽しくて、申し訳ないくらいです。」
などという会話が将来普通になり、労働者は羨望のまなざしで見られる社会が到来するかも。
また、生活の心配なく自由に使える時間ができれば、もう行き詰ってしまった学校に代わる学費無料の私塾がそこここにできて、学びの再生が起こってくる可能性等、ちょっと明るい想像もまんざら理由なきことではないのかもしれません。