人間の寿命は本人にはあずかり知らないものですが、ずっと心の重荷になっていたのは死んだ後の葬りと生前の居住空間の処理についてです。以前、やはり子供がいない友人とこの話になった時、「葬儀はいらない」および「死後何日も発見されないのは困る」という2点が一致した点でした。団塊の世代から後は高齢者施設に入れずあぶれる人が東京だけでも100万人とも言われているし、そうでなくても集団生活が無理な私には施設暮らしは耐えられそうにありません。この時は見つからなかった解決方法を先日叔母から教えていただきました。
それは東京都の外郭団体がやっている「あんしん居住制度」です。東京に住んでいることが条件なのですが、「見守り」、「葬儀」(葬式ではなくご遺体の火葬を指す用語)、「残存家財の片づけ」の中から契約(複数可)を結んでおくと、それぞれ安否の確認や緊急通報、なくなった場合のご遺体の搬送と火葬の実施、居住空間の家財の片づけをしてくれるというサービスです。これぞまさしく私が望んでいた解決でした。他の都道府県でもすでにあるかこれから整備されるか、いずれにしても必ず必要になる制度なのは確かでしょう。なかば公的な団体が行っているので安心ですし、何歳からでも契約できるというので、さっそく「見守り」以外の契約を済ませました。見守りは必要を感じたら契約に加えればよいし、友人同士でもある程度見守りし合えるだろうと思います。5年ごとに更新手数料はかかりますが、安心料と思えば安いものです。これで死ぬまで好きなものに囲まれた住まいで暮らせると思うと、逆説的ですが、安心してあと20年は生きられそうです。しかし、普通に歩いていても車が突っ込んできていつ死ぬかわからない時代です。離れたところに住んでいる兄になるべく迷惑をかけないようにできると思うとほっとします。唯一心配があるとすれば、必ず兄より先に死ななければということだけです。
2016年4月30日土曜日
2016年4月26日火曜日
「無欲の運試し」
なかなか手に入らない列車やコンサートのチケットの販売において、人々がそれを手に入れようとしのぎを削る話を聞きます。旅行会社ではパソコンの前で担当者がスタンバイし、発売開始と同時にキーボードをたたくという、零コンマ何秒かの戦いです。中には過去の実績から抜擢されるその道の達人が配置されることもあるようです。しかし、全国で何百、何千、何万という人が同じことをするのですから、成功するかどうかはほとんど運任せということになるはずです。
病院の受付番号取りに関して、今回似たようなことがありました。私の知る限りその病院の受付機は十数台あるのですが、ある時たまたま早く着いて私もその一台の前に立っていました。すでに診察券を挿入口に差し込んで開始に備えている人も見受けられましたが、私は診察時間がすでに予約で決まっているので、何の気なしに「もうそろそろかな」と思う頃、おもむろに券を差し込んでみました。するとちょうど開始時間だったようで、周囲の受付機で一斉に機械が動き出し、診察券はスルスルと飲み込まれていきました。何か検査や診察予約確認の画面がでましたが、読まずに完了ボタンにタッチ。表示された予約が違っているはずはなく、間違っているとしたらそれは私の記憶の方に相違ないからです。すぐにすうっと確認票が出てきて、見たらなんと1番! この間2秒くらいだったでしょうか。おそらくもう二度とない事ですが、ちょっと記念になりそうです。
病院の受付番号取りに関して、今回似たようなことがありました。私の知る限りその病院の受付機は十数台あるのですが、ある時たまたま早く着いて私もその一台の前に立っていました。すでに診察券を挿入口に差し込んで開始に備えている人も見受けられましたが、私は診察時間がすでに予約で決まっているので、何の気なしに「もうそろそろかな」と思う頃、おもむろに券を差し込んでみました。するとちょうど開始時間だったようで、周囲の受付機で一斉に機械が動き出し、診察券はスルスルと飲み込まれていきました。何か検査や診察予約確認の画面がでましたが、読まずに完了ボタンにタッチ。表示された予約が違っているはずはなく、間違っているとしたらそれは私の記憶の方に相違ないからです。すぐにすうっと確認票が出てきて、見たらなんと1番! この間2秒くらいだったでしょうか。おそらくもう二度とない事ですが、ちょっと記念になりそうです。
2016年4月23日土曜日
「熊本地震から」
阪神淡路大震災から16年後に起きた東日本大震災は、津波の破壊力とその規模の大きさ、放射能汚染という特殊性において最悪のものと思われました。しかしその5年後に起きたこのたびの熊本地震では、地震がいつまでも収束しないという、また別な問題の深刻さを知らされることになりました。この間にあった千葉の地震が東日本大震災の余震だというのですから、見通しのつかなさもほどが知れようというものです。考えさせられることがいろいろありました。
1.地震についてはほとんど何もわかっていない。
最初の地震よりさらに大きな地震が起きたのは初めての経験であり、その点で日本列島の住人は大きな衝撃を受けました。この地震に関しては学者によって見解が分かれており、それぞれの学説の正否が不明なだけでなく、それがわかっても一般人には何の益にもならないのです。なおかつ地震学者の言うことが感覚的にしっくりこないので、あまり真面目に聞こうとする気になれません。一連の地震がそれぞれ無関係って言われてもね。
2.大地震は日本全国いつ起こっても不思議ではない。
したがって首都直下型地震が明日来ることも覚悟しなければならない。雑談の中でこの話をしていた時、或るご年配の方が「私はもうすべて神様にお任せしていますから。」と穏やかな笑顔で話されました。もちろんこの方は災害時用にすべき備えはしてあるのです。私もそれに近い心境ではありますが・・・。
3.このような日本列島に原発を置くのは狂気の沙汰である。
そう思わない人もいるというのがどうしても理解できない。フクシマの事故が一向に終結しない中、現在稼働中の川内原発からそう遠くない熊本で大地震が起きたという事実を、最後の警告と受け取るべきではないのでしょうか。「鎮魂せよ。過ちを繰り返すな」ということでしょう。政府や関係官庁の役人、電力会社の方々には、冷静に考えて責任のとれないことはやめていただきたいです。自己保身ょり大事なことがあると目を覚ましてください。この国に住む子供たちには未来があるのですから。
人間の身体にとって必要なのは、カネではなく、水と食料とエネルギーです。質素でもおいしいご飯があり、ゆっくりお風呂につかることができ、ふかふかの布団でゆったり眠れる、それ以上のことを身体が求めるでしょうか。
私たちはすでにこれまでの震災から、それがもたらす理不尽な結末とその後の生活について若干の見通しをもっています。自然災害は誰のせいでもなく、全く意味なく不平等で、ちょっとした運不運が幸不幸に雲泥の差をもたらします。多くの場合、ほぼ暗い見通しです。年を重ねた人にとっては、来し方と行く末、そして生命を失う可能性と生活の困難さを秤にかけることもあるだろうと思います。これまでの生活スタイルからして避難所にいることはつらく、かといって地震が続く中とりあえず無事なようでも家に戻るのは怖い、またエコノミークラス症候群の危険が広くアナウンスされているため車で過ごすのも怖い・・・。しかし親類や知人のもとに身を寄せることができる人は別にして、当面このどれかを選択しなければならないのです。これがどれくらい長く続くのでしょう。
自然災害で被災するのはまったくゆえなきことです。しかし一方で、おそらく多くの人が自分や社会の進む方向性に不安を抱いており、このような災厄の到来にどこかで有責感を覚えているはずです。国の進むべき方向性を一挙に転換することは困難ですが、まずは身近なところから自分の生活のあり方や、別なサブシステムを持つ社会や地域共同体の可能性について真剣に考えるべき時ではないでしょうか。
1.地震についてはほとんど何もわかっていない。
最初の地震よりさらに大きな地震が起きたのは初めての経験であり、その点で日本列島の住人は大きな衝撃を受けました。この地震に関しては学者によって見解が分かれており、それぞれの学説の正否が不明なだけでなく、それがわかっても一般人には何の益にもならないのです。なおかつ地震学者の言うことが感覚的にしっくりこないので、あまり真面目に聞こうとする気になれません。一連の地震がそれぞれ無関係って言われてもね。
2.大地震は日本全国いつ起こっても不思議ではない。
したがって首都直下型地震が明日来ることも覚悟しなければならない。雑談の中でこの話をしていた時、或るご年配の方が「私はもうすべて神様にお任せしていますから。」と穏やかな笑顔で話されました。もちろんこの方は災害時用にすべき備えはしてあるのです。私もそれに近い心境ではありますが・・・。
3.このような日本列島に原発を置くのは狂気の沙汰である。
そう思わない人もいるというのがどうしても理解できない。フクシマの事故が一向に終結しない中、現在稼働中の川内原発からそう遠くない熊本で大地震が起きたという事実を、最後の警告と受け取るべきではないのでしょうか。「鎮魂せよ。過ちを繰り返すな」ということでしょう。政府や関係官庁の役人、電力会社の方々には、冷静に考えて責任のとれないことはやめていただきたいです。自己保身ょり大事なことがあると目を覚ましてください。この国に住む子供たちには未来があるのですから。
人間の身体にとって必要なのは、カネではなく、水と食料とエネルギーです。質素でもおいしいご飯があり、ゆっくりお風呂につかることができ、ふかふかの布団でゆったり眠れる、それ以上のことを身体が求めるでしょうか。
私たちはすでにこれまでの震災から、それがもたらす理不尽な結末とその後の生活について若干の見通しをもっています。自然災害は誰のせいでもなく、全く意味なく不平等で、ちょっとした運不運が幸不幸に雲泥の差をもたらします。多くの場合、ほぼ暗い見通しです。年を重ねた人にとっては、来し方と行く末、そして生命を失う可能性と生活の困難さを秤にかけることもあるだろうと思います。これまでの生活スタイルからして避難所にいることはつらく、かといって地震が続く中とりあえず無事なようでも家に戻るのは怖い、またエコノミークラス症候群の危険が広くアナウンスされているため車で過ごすのも怖い・・・。しかし親類や知人のもとに身を寄せることができる人は別にして、当面このどれかを選択しなければならないのです。これがどれくらい長く続くのでしょう。
自然災害で被災するのはまったくゆえなきことです。しかし一方で、おそらく多くの人が自分や社会の進む方向性に不安を抱いており、このような災厄の到来にどこかで有責感を覚えているはずです。国の進むべき方向性を一挙に転換することは困難ですが、まずは身近なところから自分の生活のあり方や、別なサブシステムを持つ社会や地域共同体の可能性について真剣に考えるべき時ではないでしょうか。
2016年4月19日火曜日
「イースターの朝」
福島教会ではイースターの礼拝前に、信夫山の教会墓地で墓前礼拝をします。冬が去って日が長くなっていることを体感するこの時、イエス様の復活と相まって本当に希望にあふれた時期です。ここ二、三年天気が悪く会堂での礼拝になることが続いたのですが、今年のイースターは天気予報によれば晴れが約束されていました。
この朝私は4時半ごろ目が覚めて布団の中で次第に白んでいく外の気配を感じていました。
「きっとこんな朝だったのだ…。」
薄明の中を女がひとり墓へ急いでいる。そこへもう一人の女が、さらにまたもう一人が合流する。三人で連れ立って墓へ向かう。お互いに言葉は交わさない。同じ思いを理解しあって急ぎ足で墓に着く。入口をふさぐ石は取りのけてあり、見知らぬ男から「イエス様は復活されてここにはおられない」と告げられる。女たちの顔に驚愕した表情が浮かび、三人はあわてふためいて町へと戻る・・・。
イースターは何度も迎えているのに、こんな映画のような光景がありありと目に浮かんだのは初めてでした。
「きっとこんな朝だったのだ…。」
もうかなり明るくなってきたので、起きて私もお墓へ行く準備をしました。その日は近年なかったほど穏やかな好天に恵まれたイースターでした。小鳥のさえずる声が聞こえる朝の信夫山の教会墓地で、ヨハネ福音書が読まれ、「すべての民よ、よろこべ」を歌って礼拝しました。足元にはタンポポの小さな花がいくつか咲き始めており、生命の息吹が満ち溢れていました。
ふと、ヨハネの福音書で墓に行ったとされているのはマグダラのマリアだけであることに気づきました。この部分の私の記憶はどの福音書とも微妙に違いますが、どうもマルコによる福音書に少しルカによる福音書を加えて構成されていたようです。
この朝私は4時半ごろ目が覚めて布団の中で次第に白んでいく外の気配を感じていました。
「きっとこんな朝だったのだ…。」
薄明の中を女がひとり墓へ急いでいる。そこへもう一人の女が、さらにまたもう一人が合流する。三人で連れ立って墓へ向かう。お互いに言葉は交わさない。同じ思いを理解しあって急ぎ足で墓に着く。入口をふさぐ石は取りのけてあり、見知らぬ男から「イエス様は復活されてここにはおられない」と告げられる。女たちの顔に驚愕した表情が浮かび、三人はあわてふためいて町へと戻る・・・。
イースターは何度も迎えているのに、こんな映画のような光景がありありと目に浮かんだのは初めてでした。
「きっとこんな朝だったのだ…。」
もうかなり明るくなってきたので、起きて私もお墓へ行く準備をしました。その日は近年なかったほど穏やかな好天に恵まれたイースターでした。小鳥のさえずる声が聞こえる朝の信夫山の教会墓地で、ヨハネ福音書が読まれ、「すべての民よ、よろこべ」を歌って礼拝しました。足元にはタンポポの小さな花がいくつか咲き始めており、生命の息吹が満ち溢れていました。
ふと、ヨハネの福音書で墓に行ったとされているのはマグダラのマリアだけであることに気づきました。この部分の私の記憶はどの福音書とも微妙に違いますが、どうもマルコによる福音書に少しルカによる福音書を加えて構成されていたようです。
2016年4月17日日曜日
「紅春 84」
先日私の調子が良くなかったときに、兄はりくに食事を作ってやると言って調理を始めたのですが、ふと見ると私が買っておいた国産牛肉を使おうとしているではありませんか。思わず「それはダメ~、こっちにして。」と鶏肉にしてもらいました。危ないところでした。アメリカ産、オーストラリア産ならともかく、もう少しでめったに買わない国産牛をりくに食べられるところでした。翌日肉じゃがにして、りくにもおすそわけしてあげましたが、狭量だったかしら。
2016年4月16日土曜日
「労働のなくなった世界」
あと10年から20年で今ある人間の仕事の約半分が人工頭脳に取って代わられると聞いて考え込んでしまいました。人間にしかできない仕事がなくなっていくのですから、雇用がなくなるのは避けられません。そのこと自体が大問題なのもさることながら、仕事があろうとなかろうと人は生きていくわけですから、仕事をしたくてもできない人が過半を占める社会がどのようなものになるかと想像すると、めまいを感じるのは私だけではないでしょう。
仕事をしていようといまいと国から給付金をもらえるベーシックインカムという制度について、すでにスイスではなにがしかの議論がされつつあるようですが、失業給付金や生活保護の拡大であろうと、規模と理念の違うベーシックインカム制度であろうと、要するに働かないのが普通の社会になるということです。ちょっと考えるとあまりよい未来が描けず悪い予想ばかり浮かびます。学校に行く意味を見いだせない子供はますます増えて巷にニートがあふれ治安が悪くなったり、早くから教育を放棄して最低限必要な教養を身に着けられない人々で構成される社会の崩壊などです。
「働いても働かなくても国から給付金が出るなら、だれが働くものですか。」という人がいる一方で、まだ働いている半分の人は優秀な人か奇特な人ということになってしまうかもしれません。しかしこれは、考えようによっては労働するということの理想的な状態かもしれないと思います。以前どこかのIT関係の会社で仕事のノルマを一切与えず有り余る時間から生み出されるアイディアを商品にするというような手法を用いていた会社がった記憶があります。働く人がそのような余裕を与えられたらこれは案外いいかもしれない。煩瑣な就業規則で妨げられてきた労働意欲を解放したら、上機嫌でとんでもなく働き、途轍もない達成をしてしまう人が出てくるかもしれません。
「えっ、あなたは働いているんですか。すごいですね。」
「もう毎日楽しくて、申し訳ないくらいです。」
などという会話が将来普通になり、労働者は羨望のまなざしで見られる社会が到来するかも。
また、生活の心配なく自由に使える時間ができれば、もう行き詰ってしまった学校に代わる学費無料の私塾がそこここにできて、学びの再生が起こってくる可能性等、ちょっと明るい想像もまんざら理由なきことではないのかもしれません。
2016年4月15日金曜日
「お金と時間のバランス感覚」
当時は当たり前のことと思っていましたが、今振り返ると勤めている間は勤務時間以外の時間も、毎日時間に追われていました。自分で自由に使える時間はほとんどなく、やることが次から次へと湧いてくるようでした。働き方の上手な人はそういう時間管理をちゃんとできるのでしょうが私は全く駄目で、いきおいお金で済むことはお金で解決するという方法をとっていました。時間をかけずにできる物事や生活を楽にしてくれる事柄への出費は必要経費、その時はそれでよかったのです。
退職して自分のペースで暮らせるようになり、また身の丈に合った生活費で暮らすことも全く苦にならず、本当によかったと思っています。よく一度膨らんだ生活費を縮小し生活レベルを下げるのは難しいと言いますが、実際やってみて、あれは経済活動を低下させたくない産業界のプロパガンダに過ぎなかったことがはっきりしました。今あるお金と時間をやりくりしながら、足るを知る生活をすることはとてもすがすがしく、気分よく過ごせます。不思議なのはこれでも決して暇と言える時間はないことです。ゆっくり一日読書したいということは何でもなくできそうに思っていましたが、そうでもない。作りやすくなったとはいうものの時間はやっぱり作らなければできないものです。でもこれくらいがちょうどいいのです。人間は純粋に自分のためにだけ生きることはできない生物です。できるかもしれませんがきっと全然面白くないし、次第に気力がやせ細っていくことでしょう。時間に関してはこの微妙なバランスをとりながら過ごしていくのが生活を楽しむ勘所です。
退職して自分のペースで暮らせるようになり、また身の丈に合った生活費で暮らすことも全く苦にならず、本当によかったと思っています。よく一度膨らんだ生活費を縮小し生活レベルを下げるのは難しいと言いますが、実際やってみて、あれは経済活動を低下させたくない産業界のプロパガンダに過ぎなかったことがはっきりしました。今あるお金と時間をやりくりしながら、足るを知る生活をすることはとてもすがすがしく、気分よく過ごせます。不思議なのはこれでも決して暇と言える時間はないことです。ゆっくり一日読書したいということは何でもなくできそうに思っていましたが、そうでもない。作りやすくなったとはいうものの時間はやっぱり作らなければできないものです。でもこれくらいがちょうどいいのです。人間は純粋に自分のためにだけ生きることはできない生物です。できるかもしれませんがきっと全然面白くないし、次第に気力がやせ細っていくことでしょう。時間に関してはこの微妙なバランスをとりながら過ごしていくのが生活を楽しむ勘所です。
2016年4月11日月曜日
「人格詐称」
このところ、芸能人やスポーツ選手がプライバシーを暴かれて、公衆の面前で謝罪する場面を目にすることが異常に多いように思います。政治家を含めこのような方々は一般人とは違いますが、記者会見をひらいて国中に放映されるというのがこう続くと、うんざりしてしまいます。誰の目にも明らかなのは「叩いて埃が出ない人はいない」ということでしょう。「義人はいない。一人もいない。」という真実を踏まえて、記者はスキャンダルを追うのでしょうし、世間の人も飽きるに任せて次の話題を暇つぶしの種にするのでしょう。
ヴァーチャルな世界と現実の境がわからなくなってしまっているかのような病的な人格詐称が見受けられるのが近年の傾向でしょうか。とはいえ、あのゴーストライター事件を越えるものはありませんが、自分を大きく見せたい、よく見せたいという人がそんなに多いのか。最初のハードルを越えるとどんどん自分を糊塗していくのが楽しいのかも知れませんが、仮面を脱ぐことができないとわかって怖くなかったでしょうか。何より疲れるだろうなと思うのですが。
だからといって、人のプライバシーを次々と暴いて血祭りに挙げるというのはどうなのか。その攻撃は短期集中型で、その人の一生を完全に破壊するに足るほどのものです。ヴァーチャルな幻影がただの生身の身体になり、もう見向きもされません。ご本人は生活は大変になったかもしれませんが、案外ほっとしているなんてことないでしょうか。
2016年4月9日土曜日
「紅春 83」
朝起きた時、私が目にするりくの姿はだいたい三つのパターンがあります。まずよくあるのが茶の間のこたつの中の奥深く、ほとんど洞窟で眠るかのように丸くなって寝ている姿。安心してよく眠れたのであろうとうれしくなります。この状態の時は私が洗面している間にむっくり起きて、廊下や台所をうろうろしながら散歩に行く準備をします。
家では自然に目が覚めるので目覚ましをかけることはほとんどありませんが、たとえ寝坊してもりくが起こしに来るからという安心感もあります。りくの体内時計の起床時間が過ぎると、タッタッタと足音をさせてやってきて、「ちょっと遅いんじゃないですか。」というふうに手を出してきたり布団に体をすり寄せてきたりします。この状態の時は、私が洗面するのも待ちきれない様子で、速足で行ったり来たりして私をせかします。
起きてこたつの洞穴にりくの姿が見えない時は、たいてい茶の間から台所へ通じる入口でびしっとお座りしています。朝のこの姿は写真に撮れないのですが、本当にハッとするくらい良い姿勢で、「お待ちしておりました。」という風情です。なんとなく古武士が正座しているような趣があり、こちらも背筋を伸ばして急いで洗面を済ませなければならない気になります。起きて一番気分がいいのは、りくがこの姿勢の時です。「では参ろうか。」と声掛けして二人でさわやかな朝の散歩に出かけます。
家では自然に目が覚めるので目覚ましをかけることはほとんどありませんが、たとえ寝坊してもりくが起こしに来るからという安心感もあります。りくの体内時計の起床時間が過ぎると、タッタッタと足音をさせてやってきて、「ちょっと遅いんじゃないですか。」というふうに手を出してきたり布団に体をすり寄せてきたりします。この状態の時は、私が洗面するのも待ちきれない様子で、速足で行ったり来たりして私をせかします。
起きてこたつの洞穴にりくの姿が見えない時は、たいてい茶の間から台所へ通じる入口でびしっとお座りしています。朝のこの姿は写真に撮れないのですが、本当にハッとするくらい良い姿勢で、「お待ちしておりました。」という風情です。なんとなく古武士が正座しているような趣があり、こちらも背筋を伸ばして急いで洗面を済ませなければならない気になります。起きて一番気分がいいのは、りくがこの姿勢の時です。「では参ろうか。」と声掛けして二人でさわやかな朝の散歩に出かけます。
2016年4月7日木曜日
「ゲームを降りる若者たち」
現在報道される様々な事故や事件は、人々があらゆる分野で悲鳴をあげていることを指し示しています。仕事量に関しては、過去数十年を見渡して10年ごとに倍になると言えば、おそらく実感と一致するでしょう。しかもグローバル化のあおりを食って無意味なペーパーワークが過半を占めるのですから、やろうとする意欲が削がれてしまいます。毎日のルーティンに組み込まれた無意味な雑用による疲労の蓄積は、やがて心身に取り返しのつかないダメージを与えてしまうでしょう。
デスクワークを主とする仕事の疲弊もさることながら、常に時間に追われスピードと正確さを競うような仕事の大変さは想像に余りあります。たとえコンビニや飲食店でのアルバイトであったも、全く賃金に見合わないような責任を負わされ、場合によっては辞めることもままならないブラックな会社もあり、時に悲劇を生んでいます。旅客や物資の運搬に関わる業界での事故が目につくのは、仕事量とスピードが身体感覚を越えてしまったためでしょう。効率至上主義による短期的業績評価が限界まで進んだ結果、運悪くそのしわ寄せを受けた人々は身体と精神を深く病むようにもなり、最悪の場合命を落とすケースもあります。金儲けにひた走ってきた人にも、本当にこれでいいのだろうかとの疑念が生まれています。そもそも企業が事業を行う資金を調達するために必要だった株式制度は、今では投機的なゲームです。金融業界では、市場はいつも参加するプレーヤーの増大をを求めていますが、株式市場の取引はもはや機械によって自動的に行われており、一般の人が太刀打ちできるものではありません。そしてまた、インターネットの時代になったため、資金を集めたいと思えば別な方法も可能になっています。
そして今、お金に踊らされることを拒否して、「もう、そういうの、いいですから。まともな生活がしたいのです。」という若者が出ています。若者に限りませんが、「お金は必要なだけあればよい、愛する人々と穏やかに暮らしながら家族や社会のためになることをしたい。」と考える人々が本当に増えてきた気がします。この点では、潮目が変わったなと思うのは私だけではないでしょう。個人差はありますが、ホモ・サピエンスの身体でできることには自ずから限界があり、それは種の固有性においてそれほど違わないはずです。
デスクワークを主とする仕事の疲弊もさることながら、常に時間に追われスピードと正確さを競うような仕事の大変さは想像に余りあります。たとえコンビニや飲食店でのアルバイトであったも、全く賃金に見合わないような責任を負わされ、場合によっては辞めることもままならないブラックな会社もあり、時に悲劇を生んでいます。旅客や物資の運搬に関わる業界での事故が目につくのは、仕事量とスピードが身体感覚を越えてしまったためでしょう。効率至上主義による短期的業績評価が限界まで進んだ結果、運悪くそのしわ寄せを受けた人々は身体と精神を深く病むようにもなり、最悪の場合命を落とすケースもあります。金儲けにひた走ってきた人にも、本当にこれでいいのだろうかとの疑念が生まれています。そもそも企業が事業を行う資金を調達するために必要だった株式制度は、今では投機的なゲームです。金融業界では、市場はいつも参加するプレーヤーの増大をを求めていますが、株式市場の取引はもはや機械によって自動的に行われており、一般の人が太刀打ちできるものではありません。そしてまた、インターネットの時代になったため、資金を集めたいと思えば別な方法も可能になっています。
そして今、お金に踊らされることを拒否して、「もう、そういうの、いいですから。まともな生活がしたいのです。」という若者が出ています。若者に限りませんが、「お金は必要なだけあればよい、愛する人々と穏やかに暮らしながら家族や社会のためになることをしたい。」と考える人々が本当に増えてきた気がします。この点では、潮目が変わったなと思うのは私だけではないでしょう。個人差はありますが、ホモ・サピエンスの身体でできることには自ずから限界があり、それは種の固有性においてそれほど違わないはずです。
2016年4月4日月曜日
「ネットスーパー」
私は買い物がわりと好きです。気晴らしになるし、日によって結構値段が変動する食材を見て市場の動きを感じたり、季節の変わり目にお値打ち品となった衣料品を思わず買ってしまうのも楽しいものです。しかし、これはお店が近くにある場合の話です。東京に住んでいて本当にありがたいのは様々なスーパーやコンビニ、小売店が歩いて行ける距離にたくさんあることです。買い物リストを見ながら今日の最適仕入れ店を決め、時にははしごする時間と道順を決め・・・ということができるのはありがたいものです。
地方都市ではなかなかそうはいきません。うちの場合、家から歩いて数分以内には一軒も店はなく、自転車を使わなければなりませんがこれは大いに天候に左右されます。また、移動日は疲れているのでほしい食材を買い出しに行くのは大変です。そこではたと思い当たったのがネットスーパーです。うまくいかなくて元々と思いつつ一度利用してみることにしました。移動日の前日、多種多様の品目の中から、家には絶対にないであろう食材やすぐ使う食材、冷凍やチルドにすれば日持ちするもの、飲料品やお菓子などを選んで、翌日家に到着する時間帯以降に福島の住所宛に配送をお願いしました。曜日によっては結構配達手配がすでに埋まっている時間帯もあり、利用している人は多いのだろうと感じました。
さてその当日、ちゃんと配達時間内に食材が届き、拍子抜けするくらい簡単でした。当たり前ですが重いものを運ぶ必要がないので本当に楽で、またたくさんの食料品が一挙に届くととても豊かな気持ちにもなり、なぜもっと早く利用しなかったかと悔やまれました。その後数日は買い物の心配をすることなく過ごせ、時間が大幅に節約できるようになりました。その後、迷わず二回目も利用しましたが、従来と買い物の仕方も若干変わってきました。今までは買いたいものは決まっているので、必要な物をさっさとかごに入れていきお会計に進んでいましたが、ネット注文となると限られた中からとはいえじっくり商品を選ぶことができ、普段は買わない食材でも「ちょっと試してみようかな。」という気にもなったりします。洗剤等の日用品も頼めるので便利この上ありません。値段はというと、プライベートブランドの商品はどこで買っても同じ値段ですし、若干他より高いものでも届けられるものの品質はとてもよいです。地域によって配送無料になる合計金額は違うようですが、福島では5000円以上お買い上げで配送料無料。届けられた品を見ると、5000円でこんなに買えるのかと感動するほどです。注意することは、配達手配受付が埋まってしまわないうちに注文することと、配達時間に忘れずに在宅することだけです。本当に便利なサービスで大満足です。
地方都市ではなかなかそうはいきません。うちの場合、家から歩いて数分以内には一軒も店はなく、自転車を使わなければなりませんがこれは大いに天候に左右されます。また、移動日は疲れているのでほしい食材を買い出しに行くのは大変です。そこではたと思い当たったのがネットスーパーです。うまくいかなくて元々と思いつつ一度利用してみることにしました。移動日の前日、多種多様の品目の中から、家には絶対にないであろう食材やすぐ使う食材、冷凍やチルドにすれば日持ちするもの、飲料品やお菓子などを選んで、翌日家に到着する時間帯以降に福島の住所宛に配送をお願いしました。曜日によっては結構配達手配がすでに埋まっている時間帯もあり、利用している人は多いのだろうと感じました。
さてその当日、ちゃんと配達時間内に食材が届き、拍子抜けするくらい簡単でした。当たり前ですが重いものを運ぶ必要がないので本当に楽で、またたくさんの食料品が一挙に届くととても豊かな気持ちにもなり、なぜもっと早く利用しなかったかと悔やまれました。その後数日は買い物の心配をすることなく過ごせ、時間が大幅に節約できるようになりました。その後、迷わず二回目も利用しましたが、従来と買い物の仕方も若干変わってきました。今までは買いたいものは決まっているので、必要な物をさっさとかごに入れていきお会計に進んでいましたが、ネット注文となると限られた中からとはいえじっくり商品を選ぶことができ、普段は買わない食材でも「ちょっと試してみようかな。」という気にもなったりします。洗剤等の日用品も頼めるので便利この上ありません。値段はというと、プライベートブランドの商品はどこで買っても同じ値段ですし、若干他より高いものでも届けられるものの品質はとてもよいです。地域によって配送無料になる合計金額は違うようですが、福島では5000円以上お買い上げで配送料無料。届けられた品を見ると、5000円でこんなに買えるのかと感動するほどです。注意することは、配達手配受付が埋まってしまわないうちに注文することと、配達時間に忘れずに在宅することだけです。本当に便利なサービスで大満足です。
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