8月26日は体調不良でしたが、やはり行かねばなるまいと思い日比谷の野音に出かけました。日弁連、学者の会(創価大学有志の会も1500だったかの署名をもって参加、数字は記憶が定かではありませんが、この運動をするのは「勇気がいった」という言葉は記憶に残っています。)、ママの会、学生の会、市民、野党議員(辻元清美、福島瑞穂も参加。他には共産党議員が十数名でしょうか。)、雨模様にもかかわらず総勢4000人ほど集まったようです。「誰の子供も殺させない。」がスローガンのママの会のスピーチがものすごい迫力でした。シールズ(学生の会)からその日スピーチした方は、「もう疲れました。」と言ってはいましたが、話の中で次のようなことを述べていました。
「シールズがんばれっていわれるけど、これって僕たちだけの問題じゃないですよね。このようあんが通ったら、そのあとどうするんだと、まだ法案が通ってもいないのに心配されるんですよ。法案が通ったからといって終わりじゃない。僕たちにとってこの問題はずっとずっと続いていくんです。」と。
まさにそうなのです。この法案が通ったら、まさにその時こそもっと激しく抵抗しなければならないのです。それから彼は希望についての或る人の言葉を紹介しました。
「希望は逆説的である。(中略)希望は、うずくまった虎のようなもので、跳びかかるべき瞬間が来た時に初めて跳びかかるのだ。(中略)希望をもつということは、まだ生まれていないもののためにいつでも準備ができているということであり「たとえ一生のうちに何も生まれなかったとしても、絶望的にならないということなのである。(中略)弱い希望しか持てない人の落ち着くところは、太平楽か暴力である。」
「強い希望を持つ人は、新しい生命のあらゆる徴候をみつけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備を整えているのである。」
「希望を持つというのは一つの存在の状態である。それは心の準備である。はりつめているがまだ行動にあらわれてはいない能動性を備えた準備である。」
この或る人というのはあとで調べたところ、エーリッヒ・フロムの「希望の革命」よりの言葉と判明、知らなかった。フロムがこんなことを言っていたのか。私はこの言明に全面的に賛同したいと思います。それはまた、イザヤ書40章31節の言葉をも想起させます。
「主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
このスピーチをした学生さんは、お名前からしてもしやと思ったのですが、どうも父上が牧師さんのようです。今後もキリストの平和のうちに歩んでいってほしいと、神のご加護を祈らずにはおれません。
私にとっての3回目の集会は、8月30日の10万人国会行動でした。この日は日曜でしたので、礼拝とそのあと行われた年に一度の恒例行事に参加してから、国会へ向かいました。すでに3時近かったので、警察による規制のバリケードが張られており、永田町の駅出口の角の交差点から国会方面には一歩も動けない状態でした。雨の中、大勢の人が集まっているのはわかりましたが、その実態を知ったのは毎日新聞が飛ばしたヘリからの空撮写真によってでした。「こんなふうだったんだ・・・。」と、12万人集結のすごさを実感しました。安倍内閣はどうあっても法案を通すつもりですが、「国民の生命と平和な暮らしを守るのは政府の責任だ。」(8月31日の記者会見での菅官房長官の発言)というような、国民を出しに使ったおためごかしの口実だけは絶対に許さない。
安保法案が出てからずっとそのことで心を悩ませ、私も疲れました。主よ、いつまでなのですか。