2015年9月30日水曜日

「アンスリューム」

 夏の過酷な暑さの中、温室での2週間の耐久テストを生き抜いたのは、やはりベゴニアだけでした。これさえ瀕死の状態でしたが、その後息を吹き返し小さな花を咲かせました。これだけでは少し寂しいなと思い、やっと暑さがひいた頃また花を買いに街の花屋さんに行ってみました。初めて入るお店でしたが、季節柄お供え用のお花や彼岸用のお花を求めるご婦人方で結構込み合っていました。お店の人が他の人の相手をしている間、じっくり店の花を見ましたがあまりピンとくるものがありませんでした。私の番が来ました。
「お客さんは?」
「鉢物で少し長持ちするのがいいのですが・・・」
それでは、というので薦められたのがアンスリュームでした。一見して苦手なタイプでしたが、今朝入ったばかりという新鮮さにひかれて、物は試しと買ってきました。指示通り、バケツにつけるくらい十分水を与えてからよく水切りし、家の中に入れました。温室に入れてみると、あ~ら不思議、これほど映える鉢もない。もともと熱帯のジャングルの木の根元に生える植物なので、多湿に強く葉からも水分を取り込むとわかり、これはいいかもと期待を寄せています。なんでも試してみるものです。

2015年9月28日月曜日

「同年代の問題」

 最近、今の基準からすると十分若い芸能人が癌でなくなったり手術を受けたりということが続けて起きました。長く生きていれば二人に一人が癌になる時代ですし、驚くことではないのですが、やはり同年代ですとこたえるものがあります。これまでも知り合いや知人の姉妹で、ずいぶん早いなと思う歳で同じことがありましたが、この年頃は注意が必要な年代なのかもしれません。もう少し上の年代の方でしたが、「もう約束ができなくなってしまって・・・。」と話されているのを聞き、これは私にもわかる気がしました。予定していても当日元気とは限らない、何回かキャンセルするうち、約束するのが億劫になってくるということなのです。

 これまで病気に縁のなかった人が突然倒れるとか、健康に人一倍気を配った食生活をしていた人が急に病を発症するとか、毎年検診を受けていたのになぜといったケースも多いので、病気になるのに理由はないのだというのが本当のところかもしれません。だからというわけではありませんが、もうこのくらいの年になって許されるのならば、好きなものだけ食べたり、好きなことだけして過ごしたりしてもいいのではないかなあと思うのです。その方が免疫力も高まって病を遠ざけることになるかもしれません。今から思うと仕事というのは最大の中毒、本人が気づかなくても見る人が見れば危険な状態ということもあるに違いありません。同年代の「働き盛り」と呼ばれる世代の方には十分注意していただきたいと思います。


2015年9月26日土曜日

「W杯バレー」

 私の子供時代はとにかくプロ野球の時代でした。相撲はあったもののそれほどの人気ではなく、サッカーJリーグもなかったのでプロ野球の独壇場でした。大人も子供も男は野球の話ができなくては人にあらずといった状況で、女子は同じ試合を毎日見て何が面白いのだろうといつも思っていたはずです。試合を見て薀蓄を垂れながらだらだらしていたら他のことは何もできない。実際2時間以上試合を観戦する代わりに、「プロ野球ニュースで済ます。これなら45分で済むから。」と言っていた人もいたほどです。

 女子のスポーツと言えば、まずバレーボール、少し遅れてテニス、他には思いつきません。「アタックNo.1」「サインはV」「エースをねらえ!」は当時多大な影響を与えた漫画およびテレビ番組です。バレーもテニスも私が集中して観戦できる数少ないスポーツですが、チームプレーの分だけバレーの方が見ごたえがあります。4年に一度なので毎回新鮮な気持ちで見られるのもとてもよいです。この時ばかりはプロ野球ファンの気持ちがわかる。同じ人が出ていても決して同じ試合ではない。ファン心理というのは理屈ではないのです。でもこれが毎年あったのではやはり他のことが手につかないだろうから、これくらいでいいと思っています。

 女子はロンドンオリンピックで銅メダルに返り咲き久々の快挙でしたが、このところ男子バレーは特に低迷していてもうバレーなどする子はいないのではないかと思っておりました。ところがとんでもなかったのです。日本の男子バレー史上最高の逸材と評される選手(まだ19歳、ついこの間まで高校生といった感じ)やバレー歴7年目という選手(普通これでワールドカップレベルになるものだろうか)、慶応から社会人に入ったプリンスも出てきて実に多彩、最終戦まで十一戦も闘う体力はあるのかとの懸念も払拭する出来で、今後に向けて希望のもてるものでした。ただ外国人と比べるとやはり体格、特に骨格がまるで違う。身長差もさることながら「こんなに華奢ではボールを受けた時コートに叩きつけられるのでは。」と心配なほど体が細い。体格は変わらないのでこの差を何かで埋めるには、速さやうまさ、粘りや狡猾さも磨かなければならないでしょう。しかし、自分たちよりはるかに実力が上のチームにもひるまず向かっていく気力が前面に出ていたので、試合ごとに観客が増していく盛り上がりを見せたのは当然のことでした。何であれ若い人が鍛錬し、一生懸命物事に取り組んでいるのを見るのは本当にうれしいものです。でも1か月間集中して観戦したのでやっぱり疲れたな。

2015年9月23日水曜日

「治水」

 鬼怒川の反乱による災害はあらためて大洪水の恐ろしさを見せつけました。この前後の数日間は、都心でもまた東北南部でも怖いくらい雨が降りました。以前水害を経験した関西の友人から安否を問うメールをもらい、返信するうちいろいろと思い出すことがありました。

 ここ何年もかけて裏の河川敷の工事が済んでいたので、今回の大雨は安心して過ごせたのですが、子供の頃は本当に恐かった。昔はもっと川幅も狭かったし、大雨の時は土手下まで濁流が押し寄せ、実際歩行者のための木製の小さな橋は何度か流されたことを思い出します。この、人しか通れない橋は時代と共にだんだん立派になっていき、今でこそ鉄筋に名ていますが、私の記憶にある最初の橋には欄干がなかったのです。まさかと思われるでしょうが、戦場にかける橋そのままに欄干がなかった。ですから、吾妻おろしのひどい時は吹き飛ばされないよう慎重に歩かなければなりませんでしたし、母は油断した中学生が自転車ごと橋から転落するのを見たことがあると言っていました。

 昔は集中豪雨があっても避難勧告など出た記憶がありません。判断は各個人に任されていたのでしょう。何を手掛かりにどういうタイミングで避難するつもりだったのか不明ですが、母は子供たちにもそれぞれ小さなリュックサックに必需品を詰めさせ、それを枕元に置いて皆一緒に床についたのを覚えています。なぜかこういう時に限って父は出張で不在、母はさぞ心細かったことと思います。

 以前は科学技術が発達すれば治水が可能になると考えていましたが、昨今、日本列島が亜熱帯化していることがあるにせよ、どんなに文明が進んでも所詮人間が水を治めることなどできないのではないかと思うようになりました。大雨、洪水だけでなく津波も含めればもうこれは明らかでしょう。

日本の民話「大工と鬼六」を思い出します。川の氾濫で何度も橋を流された人々が、頑丈な橋を架けることを大工に依頼します。川の中から現れた赤鬼は希望通りの橋を架ける代わりに、大工の目玉を要求します。恐くなって山に逃げ込んだ大工は鬼たちの集会を目撃し、赤鬼の名が鬼六であることを知ります。再び川へ戻った大工は鬼と対峙し、自分の名前を言い当てたら目玉は取らずに見逃してやるという赤鬼に対して、「お前は鬼六だろう。」と答えると赤鬼は川の中に姿を消し、その後は赤鬼が現れることも橋が流されることもなくなったという話です。子供心にも示唆深い物語でしたが、つい最近放送された、サイバーテロと闘う日本のトップ・プロによる、「攻撃を止めるには相手を突きとめて、”I know you”を突きつけることだ。」という言葉と照らし合わせて、今も昔も、どんな事象でも、それをおさめるには相手が何者であるかを知ること以外ないということを知らされます。

詩編69編2~3節
神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。
わたしは深い沼にはまり込み
足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み
奔流がわたしを押し流します。

詩編77編17節
大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし
深淵はおののいた。
詩編77編20節
あなたの道は海の中にあり
あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。


2015年9月18日金曜日

「詩編の詩人の言葉から」

 人が孤立するとどれほど危険な存在となるかは、JRの架線切断事件や熊谷での強盗殺人事件を待つまでもありません。自分以外に心の思いを打ち明けて話せる人がいないとなれば、自分が神にならざるを得ないのです。自分の思いをぶつける相手がおらず、不満をため込み募らせていくことがどれほど深い闇に人間を追いやることか。

 詩編を読む時、まず圧倒されるのが神とのあまりの近さです。こんなに何でも話してよいのかと、いぶかしくもありうらやましくもあるほどです。えげつないほどに敵の殲滅を願う気持ちなども包み隠さず話しています。詩編を読んでいると、わだかまりを心に持つよりは何でも話した方がよほどよいのだとわかってきます。なぜなら、彼らにはそこに話すべき唯一の神がいるからです。彼らはどれほど一人であっても孤独ではないのです。

詩編46編(新共同訳)
46:1 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
46:9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

11節の「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」は、文語訳では「汝ら静まりて我の神たるを知れ」でした。これもまたすばらしい訳です。口語訳も捨てがたい。1章1節は、
「悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」

もう初っ端からすごい。安保法案を強行採決した国会の大混乱を見ても、私の心は騒ぐことがありませんでした。「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。」

2015年9月12日土曜日

「平和をつくり出す者」

 今ほど日本の未来が揺らいでいる時はないでしょう。平和憲法は今や風前の灯です。このところの報道や国会中継を聞いていると、偽りの言葉をもって人々の危機感をあおり、戦争への道のりを突っ走ろうとしている方々がいることがはっきりわかります。もはや、恐ろしいはかりごとを隠すことなく、底知れぬ戦争とテロの連鎖に国民を引きずり込もうとしているのです。

詩篇35編17節~28節
主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から
わたしの魂を取り返してください。多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。
優れた会衆の中であなたに感謝をささげ
偉大な民の中であなたを賛美できますように。
敵が不当に喜ぶことがありませんように。無実なわたしを憎む者が
侮りの目で見ることがありませんように。
彼らは平和を語ることなく
この地の穏やかな人々を欺こうとしています。
わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い
「この目で見た」と言います。
主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください。
わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし
起き上がり、わたしのために裁きに臨み
わたしに代わって争ってください。
主よ、わたしの神よ
あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで
「うまく行った」と心の中で言いませんように。「ひと呑みにした」と言いませんように。
苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が
共に恥と嘲りを受け
わたしに対して尊大にふるまう者が
恥と辱めを衣としますように。
わたしが正しいとされることを望む人々が
喜び歌い、喜び祝い
絶えることなく唱えますように
「主をあがめよ
御自分の僕の平和を望む方を」と。
わたしの舌があなたの正しさを歌い
絶えることなくあなたを賛美しますように。

 先日、4度目の安保関連法案の反対集会に行きました。新宿伊勢丹前の歩行者天国道路です。時折激しく降る雨の中、新宿駅に向かって先が見えないくらい大勢の人が集まっており、傘が開いたり閉じたりしていました。考えてみればあらゆる世代の老若男女がこのように集まる集会は稀有と言ってよいでしょう。

  思いは一つ、「戦争やめろ」、「憲法守れ」、本当に願いはこれだけなのです。(この日スピーチされた京都大学名誉教授で「朝日歌壇」選者の永田和宏さんが紹介された歌に、「「総理大臣からその国を守らねばならないといふこの国の危機」というものがありました。どれほど情けないことか、他の何よりも総理大臣から自国をまもらなければならないとは。この問題はすでに政治問題であり、そうであればシュプレヒコールに安倍はやめろ」「集団的自衛権はいらない」も加わります。) 雨の中、全員でこれをコールする、強く、強く、強く、思いを込めて。

 「自分の将来が不安」という若者より「日本の将来が不安」という若者の方が多いといいます。無理もないです。戦争したくてたまらない大人がこれだけいて、ごまかしだらけの法案を通し、もういつどこでも米軍の戦争に加担しようとしているのですから。大人の多くが「せめて自分が生きているうちには戦争が起こらないでほしい。」と思っていたり、株が何十年ぶりの上げ幅だとかいうようなことばかりを大々的に放送する安倍様のNHKとなり果てた公共放送を聞いたり、他局にしても消費税アップ時の軽減税率(これも還付金方式という全くデタラメなもの、マイナンバーと抱き合わせで実施しようとしている、けしからん話である。)について、「安保法案でもあれだけ反対があったのですから、もっと身近なこの問題はどれだけ反対があるでしょうか。」などとあきれ果てたコメントをするキャスターがいるこの国の将来が不安にならないわけがないでしょう。(安保法案に関してはテレビ局でかろうじてがんばっていたのはTBSだけだと思う。) 鬼怒川流域の大洪水で濁流に飲み込まれそうな家の屋根から、家人の災難救助にあたる自衛隊員を見て、これこそ私たちが切望する自衛隊の活動なのだとどなたも思ったことでしょう。安倍首相は「人命第一」と言っておりましたが、それにはまず安保関連法案を撤回することしかないとなぜわからないのでしょうか。さっそくイスラム国が、日本を米国が主導する軍事作戦に参加する「連合国」の一員として非難し、日本の在外公館への攻撃を呼び掛けていることが報道されました。ここで明確に言っておきたいのは、「やがて必ずや国内で起こるテロに関して安倍首相、あなたは200%責任がある」ということです。戦争とテロをもたらすあなたは国にとっての災いです。平和的に安保法案に反対してきた全ての人が決してあなたを許さないでしょう。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節)

2015年9月11日金曜日

「紅春 71」

 りくの発作が起きてから初めて福島に帰る時が来ました。ドキドキでした。扉を開けた瞬間、フラッシュバックが起きて大変なことになったらどうしようと頭の中で考えていました。普段は家に近づくと侵入者を察知してワンワンが始まるのですが、この日は扉を開けるまで何の音沙汰もなかったのでやはりまだ治っていないのかと不安でした。しかし扉を開けて少しするとりくがとことこやってきていつもの挨拶をしました。「姉ちゃんお帰り。どこ行ってたの、ワンワン」と。私の足音が降り続く雨にかき消されて聞こえなかったようでした。

 それから、りく最優先で様子を見ながら、遊ばせたり寝かせたりしましたが、すっかり元のりくに戻っているようでほっとしました。「ゆうれい手っこ」(うらめしやのポーズ)で「お腹をなでて」というのも前と同じです。一番心配だった散歩は、「行きたい」といった時に雨でも行きましたが(大雨の時は本人が行きたがらないので小雨の中です。)、なるべく行きたいように行かせ、あまり歩くと足に疲労が出るかと短めにしました。引き返す時ちょっとドキドキ、前にちょっと綱を引いたらパニックを起こしたから。でももう大丈夫。本当によかったです。あの時、頭の中の恐怖回路が確立してしまっていたら、一生治らない危ないところでした。兄が極力いつもの生活に戻して過ごしてくれていたおかげで治ったのだと思います。兄には本当に感謝です。


2015年9月7日月曜日

「紅春 70」

この写真は8月なかばに「りくにも夏休みを」ということで、茂庭のダムを見に行った時の写真です。この時はよかった。この日に帰れたらどんなんにいいことか。りくに未曾有の事態が起きたのは翌々日でした。午前3時頃、「キャン」という聞いたことのないりくの鳴き声が聞こえ、「どうしたの。」と声をかけると、けたたましい「キャンキャン」が始まったのです。どこか痛いのか、何があったのかまったくわからず、ただならぬ発作という感じでずっと止まりませんでした。兄もすぐ降りてきて小一時間ほどあやしながら過ごしました。夜が明けて、その日はお盆真っただ中の日曜でしたが、やっている動物病院をさがして連れて行きました。あれからずっと鳴き声は「キャン」で「ワン」が一度も出ていません。獣医の先生はとてもよい方で、どこが痛むのか丁寧に診てくださいましたが、診察室ではりくに異常は見られず、とりあえず痛み止めを打ってもらい家に帰りました。

 しかし、翌日も翌々日も発作がたびたび出るようになり、どうもパニック症状のようなものではないかと思うようになりました。何かでスイッチが入ると、キャン鳴き、動悸、体の震えなどが止まらなくなるのです。散歩中にこれが起きた時は生きた心地がしませんでした。原因として思い当たるのは、というよりもいつもと違うことをしたのはそれだけなのでそう考えるしかないのですが、前日に連れて行った盆踊り見学です。前にも行ったことはあったのですが、今回何らかの理由で怖い体験として残ったのではないかと思うのです。土手下の会場までは降りず、上から眺めただけで花火の始まる前に帰ってきたのですが、少し遠かったし夜だったし結構な人出だったのがいけなかったのではないか。りくにも夏らしい体験をと思ったのがあだになりました。りくも歳をとってきているので、少し長めの散歩とかいつもと違う体験とかに対応できなくなってきているのかもしれません。行かなきゃよかったと心底悔やみました。りくには本当に申し訳ないことをしました。

 発作が始まる原因はわかりませんが、散歩から家に帰ろうとしたり、外から家に入れようとしたり、家の中で一緒にいる時その場をちょっと離れようとしたり、りくにとって何かいやだと感じることが引き金になるのかもしれません。兄にはべったり甘えていますが、恐怖体験をしたとき一緒にいた私にはちょっと距離を置いている時があります。記憶がよみがえるのかもしれません。そのことでかなりへこみましたが、私の具合が悪い時などはちゃんとわかって一緒にいてくれたりします。

 数日後私は東京に戻らなくてはなりませんでしたが、りくが怖い記憶を忘れるにはその方がいいかと思いました。私とともにフラッシュバックが起きないとも限らないからです。しかしその夜、発作がひどく出て再びりくを病院に連れて行ったと兄からメールが来ました。レントゲン、血液検査異常なし。やはり精神的なものなのか。獣医さんの話では、「発作は出る時には出る」ということなので、兄は発作以来下の別室でりくと一緒に寝ていたのですが、これまで通り二階に戻り別々に寝ることにしたそうです。東京で私は臨戦態勢でいつヘルプの要請がきてもいいように荷造りしたままでした。メールでりくの様子を尋ねると、本当に少しずつではありますが回復してきているようで、ワン鳴きも復活し、猫や郵便屋さんにも反応するようになってきたとのことでした。

 この三週間は悪夢のようでした。心の中でずっと、「りく、ごめんな。姉ちゃんが悪かった。」を繰り返していました。兄は、長めの散歩などで筋肉痛や関節痛が起きている可能性も捨てきれないと思っているようですが、いずれにしてもりくの加齢は侮れないということを痛感しました。人間で言えばもう還暦なのですから、やはり心身ともに思いもしなかったことが生じるのでしょう。私の感触では、パニック症状は圧倒的に「雄」に起きやすいのではないかと思います。繊細な柴男の中でもりくは特に繊細な方だと思います。あっという間に壊れてしまうさまを見て震撼しました。ドイツに住む例の柴女だったらこうはなっていなかったでしょう。目新しいことをするより毎日の習慣を淡々と行いゆっくり過ごさせてやりたいと思います。再発の可能性を考えるとまだまだ安心できません。






2015年9月2日水曜日

「安保法案反対集会 その2とその3」


8月26日は体調不良でしたが、やはり行かねばなるまいと思い日比谷の野音に出かけました。日弁連、学者の会(創価大学有志の会も1500だったかの署名をもって参加、数字は記憶が定かではありませんが、この運動をするのは「勇気がいった」という言葉は記憶に残っています。)、ママの会、学生の会、市民、野党議員(辻元清美、福島瑞穂も参加。他には共産党議員が十数名でしょうか。)、雨模様にもかかわらず総勢4000人ほど集まったようです。「誰の子供も殺させない。」がスローガンのママの会のスピーチがものすごい迫力でした。シールズ(学生の会)からその日スピーチした方は、「もう疲れました。」と言ってはいましたが、話の中で次のようなことを述べていました。

「シールズがんばれっていわれるけど、これって僕たちだけの問題じゃないですよね。このようあんが通ったら、そのあとどうするんだと、まだ法案が通ってもいないのに心配されるんですよ。法案が通ったからといって終わりじゃない。僕たちにとってこの問題はずっとずっと続いていくんです。」と。
まさにそうなのです。この法案が通ったら、まさにその時こそもっと激しく抵抗しなければならないのです。それから彼は希望についての或る人の言葉を紹介しました。

「希望は逆説的である。(中略)希望は、うずくまった虎のようなもので、跳びかかるべき瞬間が来た時に初めて跳びかかるのだ。(中略)希望をもつということは、まだ生まれていないもののためにいつでも準備ができているということであり「たとえ一生のうちに何も生まれなかったとしても、絶望的にならないということなのである。(中略)弱い希望しか持てない人の落ち着くところは、太平楽か暴力である。」
「強い希望を持つ人は、新しい生命のあらゆる徴候をみつけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備を整えているのである
 「希望を持つというのは一つの存在の状態である。それは心の準備である。はりつめているがまだ行動にあらわれてはいない能動性を備えた準備である。」 

 この或る人というのはあとで調べたところ、エーリッヒ・フロムの「希望の革命」よりの言葉と判明、知らなかった。フロムがこんなことを言っていたのか。私はこの言明に全面的に賛同したいと思います。それはまた、イザヤ書4031節の言葉をも想起させます。
「主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
このスピーチをした学生さんは、名前からしてもしやと思ったのですが、どうも父上が牧師さんのようです。今後もキリストの平和のうちに歩んでいってほしいと、神のご加護を祈らずにはおれません。

私にとっての3回目の集会は、8月30日の10万人国会行動でした。この日は日曜でしたので、礼拝とそのあと行われた年に一度の恒例行事に参加してから、国会へ向かいました。すでに3時近かったので、警察による規制のバリケードが張られており、永田町の駅出口の角の交差点から国会方面には一歩も動けない状態でした。雨の中、大勢の人が集まっているのはわかりましたが、その実態を知ったのは毎日新聞が飛ばしたヘリからの空撮写真によってでした。「こんなふうだったんだ・・・。」と、12万人集結のすごさを実感しました。安倍内閣はどうあっても法案を通すつもりですが、「国民の生命と平和な暮らしを守るのは政府の責任だ。」(8月31日の記者会見での菅官房長官の発言)というような、国民を出しに使ったおためごかしの口実だけは絶対に許さない。

 安保法案が出てからずっとそのことで心を悩ませ、私も疲れました。主よ、いつまでなのですか。

 


2015年9月1日火曜日

「要約すると」

 一読して次の文が何を言いたいのか分かる方は、どのくらいいるのでしょうか。

戦後七十年にあたり、今こそ先の大戦への道のり、戦後の歩みを振り返り、未来への知恵を学ぶ時です。
かつて西洋諸国による帝国主義時代には植民地支配があり、その危機感が日本を近代化させたことは事実です。アジアで初の立憲政治国家となり独立を守り、日露戦争はアジア・アフリカの人々に勇気を与える快挙でした。
死者一千万人を出した最初の世界大戦後、民族自決の動きが進むと同時に、平和を願って国際連盟が創られ、不戦という国際社会の潮流が生まれました。
当初その流れに加わった日本も、その後の世界恐慌と欧米諸国の経済ブロック化によって経済が立ち行かなくなり、軍事力による問題解決へと動き出しました。政治システムはそれを止めることができず、満州事変、国際連盟からの脱退を経て、戦争への道を歩んでいき、ついに敗戦を迎えました。七十年前のことです。
国内外のすべての犠牲者に痛惜の念と、世々限りない哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦で亡くなった三百万余の同胞の中には、酷寒あるいは灼熱の戦地にあった人々、広島、長崎の原爆の犠牲者、東京ほか各都市で空爆にあった方々、沖縄の地上戦での犠牲者等があります。
戦場となった中国、東南アジア、太平洋の島々などの地域では、多数の若者の命が失われただけでなく、一般市民の犠牲や尊厳を深く傷つけられた女性の存在を忘れてはなりません。
夢も家族もあった無辜の人々に、我が国が計り知れない損害と苦痛を与えたという取り返しのつかない歴史をかみしめる時、断腸の念を禁じ得ません。
 現在の平和は、このような尊い犠牲の上に成っているのです。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。すべての民族の自決の権利が尊重される、植民地支配のない世界にしなければならない。深い悔悟の念と共に我が国はそう誓って、戦後我、不戦を貫く自由で民主的な国家を創ってきました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みをこれからも貫いていきます。
我が国は先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。そして実際の行動として、東南アジアや近隣諸国の人々の平和と繁栄のために尽力してきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものですが、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族の喪失、戦禍の苦しみを被った方々の記憶は癒えることがないでしょう。
ですから、六百万人を超える引揚者が戦後日本の原動力となったこと、三千人近い中国残留孤児が成長して祖国に戻れたこと、米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の方々が訪日し相互慰霊を続けている事実を忘れてはなりません。
それは、幾多の葛藤と努力を経たのちに示された寛容さに他なりません。
寛容の心で和解のために尽力し、日本が国際社会へ復帰を果たす手助けをしてくださったすべての国々、すべての人々に心から感謝します。
 戦後生まれの世代が八割を超える現在、あの戦争には何ら関わりのない世代および未来の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりませんが、一方で、世代を超えて過去の歴史を直視し、謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
戦後の焼け野原からの復興ができたのは、先人の努力と共にかつての敵国から善意と支援をいただいたおかげであり、そのことを私たちは語り継ぐ必要があります。歴史の教訓を忘れず、アジアと世界の平和と繁栄に尽力する責任があります。
 我が国はいかなる紛争も平和的・外交的に解決すべく、世界の国々に働きかけ、また核兵器の不拡散と廃絶を目指し、国際社会で責任を果たしていきます。
 私たちは戦時下において尊厳や名誉を傷つけられた女性たちの過去を忘れず、二十一世紀こそ女性の人権が守られるよう、世界をリードしていきます。
経済のブロック化が紛争につながった過去から学び、我が国は自由で公正な国際経済システムを発展させ、発展途上国を支援してきました。今後も暴力の温床ともなる貧困をなくし、世界に医療、教育、自立の機会を提供していきます。
 我が国は過去の歴史を忘れず、自由、民主主義、人権といった同様の基本的価値を堅持する国々と共に、「積極的平和主義」のもと世界への貢献を推し進めていく、そう決意しています。

 以上は、1784字ほどの文ですが、「安倍談話」の原文をやっとのことで半分程度に縮めたものなのです。もっと短く大意要約したかったのですができませんでした。たとえ林先生でも頭を抱えるのではないでしょうか。要約できなかったのは難しい文だからでも拙い文だからでもなく、要約されないことを目指して書かれた文だからです。その理由は要約されたら大変なことになるからでしょう。

唯一わかるのは、どうあっても謝りたくないということです。確かに4つのキーワードのうち、「痛切な反省」と「心からのお詫び」は出てきます。これまで繰り返しその気持ちを表明してきましたよという形で。「植民地支配」という言葉は原文では3度出てきますが、そのうち2度はそもそも西洋諸国が始めたものだという文脈で使われており、なぜか体言止めで登場する「侵略」というキーワードとともに、日本がそれを行ったという明確な言及がないのです。(ただし、西洋諸国に対する微妙な配慮のためか、帝国主義という言葉は用いられていません。) また、戦後深い悔悟の念で不戦を誓ったのは我が国であり、ご本人ではありません。

 一番わからなかったのは、まん中あたりに出てくる「ですから」という接続詞です。「アジア、近隣諸国の平和と繁栄のためにどんなに尽くしても、戦争によって味わった苦しみは癒えない」、ことがなぜ、「引揚者の帰還、残留孤児の帰還、欧米系戦争捕虜による訪日相互慰霊といった事実を忘れてはいけない」ことにつながるのか、その理路がさっぱりわからないのです。(しかも原文は倒置による体言止めになっており、これがわかりにくさを一層深めています。この表明文では、言いにくいことや言いたくないことを述べる時のくせが体言止めとして表れているようです。) これはもしかして、村山談話には一度も出て来なかった「寛容」という言葉と関係があるのでしょうか。(ちなみに、原文を半分以下の約500字に要約した村山談話は文末にあります。こちらは趣旨が明確に理解できました。) 安倍談話の原文では、2度「寛容」という言葉が出てくるのが特徴的で、その心をもって日本の国際社会への復帰に尽くしてくれた国と人に謝意を示しています。裏返せば、寛容の心を欠き、事あるごとに反日をもちだす国と人に、それとなくジャブを放っているのです。

 信じられなかったのは、前半にある「尊い犠牲」という言葉の使い方でした。アジアにおける戦争のあらゆる犠牲者は尊い犠牲のはずがありません。彼らは悲惨なただの被害者です。これには戦争で亡くなった方は全て英霊であるというような感覚が働いていることは間違いないでしょう。はしなくも露呈した首相の歴史認識に愕然とし、だからこそ夢も家族もあった無辜の人々に計り知れない損害と苦痛を与えたとしても、断腸の念すなわち「悲しくつらい」と感じるだけなのでしょう。安倍談話のわずか三分の一あまりの字数で書かれた村山談話に2度使われた「反省」という言葉は、安倍談話では1度、それも村山談話の引用という形で出てくるだけです。いうまでもなく、「痛惜の念」も「哀悼の誠」も「断腸の念」も、「反省」とは違うものです。

 これまでなかった点として目を引くのは、8割を超えた戦後世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」というくだりです。村山談話では、「私たち」という言葉は日本国民という意味で使われていますが、安倍談話の場合、場合によっては「戦後を生きてきた世代」に限定して使ってもいるのです。このいわば「もう謝りませんよ」宣言は、近年の近隣諸国、殊に韓国の対日姿勢に対する答えに相違ないと思いますが、これが通るのならどんなに楽かと思いつつ、その場合やはり国民国家は崩壊せざるを得ないだろうと思います。

 また、村山談話では一度も使われなかった女性という言葉が3度使われていますが、これは安倍首相が目指す「女性が活躍する社会」へのアピールに結び付けられており、日本が「女性の人権が守られるよう、世界をリードしていく」であろうということを、よもや信じる人はいないでしょう。

安倍首相は決意の締めの部分で、日本は自由で公正な国際経済システム(これはすなわちグローバル経済のこと)を発展させ、自由、民主主義、人権といった基本的価値を共有する国々とは、ともに「積極的平和主義」のもと、世界の平和と繁栄に貢献したいと述べています。言い換えれば、価値観を共有できない国と手を携えて進む道を模索する気はないということです。このような中で達成される平和と繁栄がどのようなものになるか、想像がつくというものです。積極的平和主義とはその地ならしをするためのものであり、そのような日本を今後戦後百年に向けて創り上げていく決意だというのです。

こうして、安倍談話をよくよく読んでみるとぞっとする決意表明文です。安倍首相が知ってか知らずか遂行している国民国家の解体が進んで、「私は除けといて。」と言えたらどんなにいいだろうと思うほどです。人間にとって一番難しいこと、人間が一番したくないことは、「自らの非を認めて謝罪すること」と「相手の非を赦すこと」だと思うのですが、安倍首相は自分は回避し続けていることを相手には要求するという態度ですから、国際社会でまともな評価をされるはずがありません。村山談話の最後の言葉にあるように、政治家に最も必要な信義が彼には全く欠けているからです。

おまけ
  以下は、「安倍談話を500字以内で要約し、書かれていない結論を推測して50字以内で述べなさい。」というテスト問題が出た時の、私の解答です。

戦後七十年、今こそ先の大戦への道のり、戦後の歩みを振り返り、未来への知恵を学ぶ時です。
かつて西洋諸国による帝国主義時代には植民地支配があり、その危機感が日本を近代化させ、日本はアジアで初の立憲政治国家となりました。最初の世界大戦後の平和の潮流を壊したのは、世界恐慌と欧米諸国の経済ブロック化です。軍事力による問題解決を図った日本は戦争に敗れました。国内外の全ての尊い犠牲者に深い哀悼を捧げます。
戦後我が国は、繰り返し痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明しており、実際に東南アジアや近隣諸国の人々の平和と繁栄のために尽力してきました。しかし、どんなことをしても戦争の惨禍を被った方々の記憶が癒えることはなく、それができるのはただ寛容の心だけです。寛容の心で日本の国際社会への復帰を助けてくださった国々や人々には心から感謝致しますが、戦後世代の人たちにこれ以上謝罪を求めないでください。
我が国は過去の歴史を忘れず、グローバル経済を発展させ、自由、民主主義、人権といった基本的価値を同じくする国々とは、「積極的平和主義」のもと世界への貢献を推し進めていこうと決意しています。 (486字)


結論:ですから、基本的価値を共有しない国々の脅威に対抗するためには、集団的自衛権が不可欠なのです。 (46字)




村山談話要約
戦後50年、内外の多くの犠牲者を思い胸が痛みます。
戦後の復興は国民一人一人の努力の賜物であり、またこれまで寄せられた世界の国々の支援と協力に感謝します。また、アジア太平洋諸国・米国・欧州との間に友好関係が築かれたことは大きな喜びです。
私たちは過去の過ちを繰り返すことのないよう、平和な日本において若い世代に戦争の悲惨さを語り伝え、世界においては諸国との間に理解と信頼を築くため平和交流事業をしています。また、戦後処理問題にも引き続き誠実に取り組みます。
今心に銘記すべきは、歴史を学び未来への道を誤らないことに尽きます。
我が国は先の大戦で、国民を存亡の危機に陥れ、またアジア諸国の人々に植民地支配と侵略による多大の損害と苦痛をあたえました。痛切な反省と心からのお詫びを表明し、内外の犠牲者に深い哀悼を捧げます。
この深い反省から、我が国は独善的ナショナリズムではなく国際協調に立って、平和と民主主義を推進する責任を負っています。同時に被爆国として核兵器の廃絶、核の不拡散など国際的軍縮の推進を担うこと、これこそが犠牲者に対するつぐない、鎮魂でありましょう。
政治はなによりも信義の問題なのです。 (494字)