2015年7月27日月曜日

「国立大学の人文社会学系学部の廃止について」

 このことはすでにインターネット上ではだいぶ前から取り沙汰されていたようですが、私は知らずにいました。うかつと言えばうかつだったのですが、新聞報道等が少なかったこともさることながら、文科省がここまで狂っていたとは想像していなかったことにもその原因はあります。これはもうすでに2014年9月に文科省が国立大の組織改革案として「教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換」を各大学に通達したことに端を発しているのですが、ほとんど報道されなかったのは、経済効率至上主義が産業界だけでなくメディアにも国民全体にも浸透しきっていたためでしょう。

 官僚というものは何か新たな制度を作ったり改革案を立てたりしないと、業績にならないのでしょうが、国立大学の文学部、法学部、経済学部等を廃止してどうしようというのでしょう。目先の目的は国民の税金を、理系や医療系のいわゆる稼げる学問に集中させることなのでしょうが、一連の流れを見るとその先の目標はもはや国民国家の解体なのだと思わざるを得ません。すでに小中高校と国語をなおざりにしてまで異常な英語重視教育をさせていること、従来の講義型の授業をしりぞけ教室でのアクティブラーニングを推し進めてきたこと等考え合わせると、国民から知性や思考力を奪いつつあたかも自分で考えているかのように思わせる愚民化に成功しているようです。この上、大学の人文社会学系学部を廃止すれば、膨らみすぎた大学進学率を減らすことができ、同時に黙って働く「安価で良質な」労働力を得ることができるようになります。産業界の要請に合致する改革なのでしょうが浅薄な考えです。

 今回の通達の代償は計り知れないほど大きなものとなるでしょう。一度失われたものはもう取り戻せないからです。アカデミズムが崩壊すれば、人文社会科学系、理系・医療系に関わらず真に先見性のある知的活動は日本では生まれなくなります。もうそうなりつつあるのだと思います。文科省の指導に従っていたら日本の教育は滅ぶ。せめて何もしないでほしい、「学校に手を出さないで」と叫びたい気持ちです。

 海外に目を向けた時、この対極にあるのは例えばユダヤ人の教育方法でしょう。ユダヤ人をユダヤ人たらしめている即ちこれをやめたらユダヤ人はもうユダヤ人ではなくなる教育とは、旧約聖書の学びです。詩編全150編の暗唱そのものは受け身の学びのように見えますが、その中身は飽くことなき神との対話であり、神こそ恐るべき唯一のお方という悟りと賛美です。ノーベル賞レベルの知性の核心にあるのはおそらくこれなのです。それは我が国がつい最近経験したスタップ細胞のような事件が起こりようのない土壌なのだと思います。