高学歴ワーキングプアの問題が明らかになってきていますが、これは以前から存在したオーバードクターとどう違うのだろうかと疑問をもっています。学問と職業についてこれまで個人的に見聞きしたことをずっと昔からたどってみました。
高校の時、先生がフランス文学科の大学院を出た卒業生の就職先がないとぼやいていたこと。
大学院を目指す人が「ちょっと計算すると、就職するまですぐ35歳か40歳になってしまう」と言っていたこと。
大学院を目指すような人は能力的に優れており学問的探究心も旺盛だったこと。
大学院修士課程を出て外資系会社に入りその後転職した友人に、「あなたが学卒で都立高教師になったのは大正解だった。」と言われたこと。
大学院を出たあとに専任として大学にポストを得た人は、ある意味世渡りがうまく外向性を必要な時に発揮できること。
高名な学者の中には、研究者として生活費を稼げない間、養ってくれる連れ合いがいたこと。
こうしてみると、40年も昔から高学歴になるほど専門を生かした就職は狭き門であり、ポストを得られるかどうかは性格や運に左右される部分もあるということがわかります。現在の状況が問題視されているのは、基本的には以前のオーバードクター問題と本質的なところは違わないのですが、周辺部の状況が大いに変わり、それらが積み重なって質的変容を遂げたように見えるためです。
大学進学率が飛躍的に上昇し、また1990年代の大学院重点化政策により、学部卒で就職せずに大学院に進学する学生数が増加したこと。
大学院の定員を満たすため受け入れた(あるいは誘導された)学生の中には、以前ならそこで学ぶレベルに達していない者もいたが、博士号取得後、専任としての就職口が増えたわけではないので正規雇用にあぶれた人が大量に出たこと。
他方、ポスドクと呼ばれる博士研究生の職が創出されたが、絶対数が足りず、3年程度の期限付きであり、かつ概ね35歳が上限という制約のため、いつまでも継続できる職ではないこと。
2007年4月施行の学校教育法から、助教(以前の助手にあたる職階)の採用が場合によっては期限付きの任用制になり、任期内に業績をあげないとクビになる可能性が出てきたこと。
昔と違って、返済義務のない奨学金が無くなり、ほぼ強制労働付学生ローンとなり果てたこと。(これは学生の身分を失った途端、返済義務が生じることを意味する。)
グローバリゼーションがそれこそ世界中に広がり、一分一秒を争って国境を越えて昼夜休みなく動き続けるため、社会全体が経済的にも時間的にも余裕がない状態となったこと。
グローバリゼーションに対応するため、効率最優先、成果主義、短期的業績評価、数値目標至上主義といったものが、まるで何かにとりつかれたかのように急速に社会を席巻したこと。
こんなふうにちょっと思いつくことを書くだけでも、本当に気が重く憂鬱になります。非常勤講師を掛け持ちしながらなんとかギリギリの生活をしている方々を思い、胸が痛くなります。大学の千人枠の採用が一見公募であっても実はコネであるという指摘もあります。思うにこれはとても難しい問題です。求職者に対しこれほどポストが少ない中で、まっさらな公募ということはあり得ないだろう、無理からぬことだと部外者でも想像できてしまうのです。そういえば、10年前くらいから高校にも高学歴者が職を求めるようになってきたのですが、覚えているのは、候補として来た二人のうち一人は語学で有名な大学の大学院を出られた方、もう一人はアメリカの大学を卒業した方だったこと(二人とも女性)。迎え入れる側の言葉は、「もっと普通の人いないの?」でした。高校は研究機関ではありませんから、こういった場合最も優先されるのは「一緒に気持ちよく仕事ができるかどうか」ですが、大学だってそう変わらないのではないでしょうか。能力や将来性などより、快活な性格や礼儀正しさだといったら言い過ぎでしょうか。
あらためて考えると、自分が曲がりなりにも定職に就けたのは偶然の産物に過ぎなかったことがよくわかります。能力に恵まれず知的好奇心もなかったこと、実社会で働きたいという思いが強かったこと、それまで教師に恵まれてその職によい印象をもっていたこと、金もうけに興味がなかったので会社は眼中になかったこと、キャリア教育のない時代で他の職業について無知だったこと。ありがたいのは、公平に見ればマイナス要因と見えることが結果的にプラスに作用したことで、「禍福はあざなえる縄の如し」です。もちろん時代的な幸運も大きかったと思います。今ならきっと非正規雇用だったでしょう。