イソップ寓話の中に、ロドス島でならオリンピアの優勝者にも負けないジャンプができたと自慢した陸上選手が、「ここがロドスだ、ここで跳べ。」と突っ込まれたという話があります。「今」でない時間、「ここ」でない場所はないのです。いにしえの賢人は「いつかできることはすべて今日でもできる」と言っています。
先日、安保関連法案が衆議院を通過しましたが、私が感じた一番大きなことは、マス・メディアの完全な死でした。その日国会中継をしなかったNHKは無論のこと、他の民放も国会周辺のこれに反対する人々の様子をほとんど伝えることがなく、これによりもはやテレビには報道媒体としての資格がないことを自ら表明しましたし、政府はすでにそれらを御用媒体として掌握していることを認めざるを得ませんでした。
安保法案の代りに衆目をひくため持ち出されたのは、新国立競技場の問題でした。この二つの報道のされ方はどう考えてもバランスを欠いていました。しかしこの新国立競技場白紙撤回により明らかになったことこそ、安保法案をめぐる危険とダブるものなのです。
責任者がいない →(戦争責任をとる人がいない、みんな自分は巻き込まれただけ。)
始めは小さった予算が手におえないほど膨大になる →(ちょっとのはずだった武力行動範囲を際限もなく拡大する。)
計画がずさんで選手の希望は二の次 →(初めから問題解決の多様なシミュレーションが皆無で、あるのはアメリカ従属の軍事行動のみ。国民の命や生活は蹂躙してもよい。)
先日、信頼できる方からのメールで安保法案反対のサイトの紹介がありました。民主党に親和性のあるサイトなのかもしれませんがとにかくメッセージを送りました。福島にいるとあまり伝わってこないのですが、国会周辺の地下鉄の駅でどう見ても政治性のない若い女性が、「デモに行こう」という手作りのプレートをもっていたりする・・・という現象も起きているようです。皆できる範囲でできることをすればよいのだと思います。あとになって「私は反対だったのに。」などと言っても意味がないのです。
率直に言って、戦後の民主主義が本物だったかどうか、今試されているのだと思います。生存権を脅かし戦争に巻き込もうとするのが他ならぬ自国の政府なのです。平和を守り二度と戦争をしないということは、慰霊碑を建てたり記念碑の前で不戦の誓いをしたりすることではないとあえて言いたいと思います。二度と戦争をしない平和な国であり続けるということは、端的に政治と無縁の自分が、自分にできる範囲で今ここで声を上げ行動するということなのです。
「ここがロドスだ、ここで跳べ。」