2015年7月28日火曜日

「パロディの傑作」

 自民党制作のアニメ動画「教えてヒゲの隊長」をもじった「教えてあげるヒゲの隊長」がネットで本家本元を上回る再生回数で話題を呼んでいます。試しに見てみたら抱腹絶倒でした。

「あれ、あかりちゃん?」
「いや、知らないし、電車で急に話しかけないでほしいんだけど。」
に始まる会話で、あかりちゃんはまず、おっさんが若い女の子に教えるシチュエーションそのものを批判します。作成者不明とのことですが、これを作ったのは女性でしょうか。ヒゲの隊長こと佐藤正久元自衛官の福島なまりの話しっぷりが、あかりちゃんのクールな口調と対比され、なんともいえないおかしさを醸し出しています。
元版の隊長の言葉、「そりゃ大変だ」「そんなことない」「おかしいよね」「そんなに簡単じゃないんだ」等をそのまま切り取って、あかりちゃんとの会話に埋め込んで、話を逆転させているのも笑えます。You Tubeを見ていない方のために部分的に引用します。出だしから圧巻。

「どっかの与党がわけわかんない法案、強行採決しようとしてるわけよ、知ってた?」
「そりゃ大変だ。」
「じゃズバリ言うけど、今回の安保法制、憲法違反だよね。」
「そりゃ大変だ。」
「チョー大変だよ。この時代に立憲主義の否定なんて。どこの独裁国家って感じ。ありえない。恥ずかしすぎて国際国家に顔向けできないんだけど。」
「そんなことない。」

あかりちゃんは一つ一つ安保法案のおかしな点を指摘していきます。
「国民の8割が説明不足、6割が反対って言ってるのに、理解が得られなくても決めるって、首相も高村さんも言ってたよね。」
「国民に面と向かって説明し、改憲したいならしたいで堂々と筋通せよ。」
「ミサイルの照準が向けられてるのは冷戦の時から変わってないんだけど、何のために危機感あおってるの。」
「現実にミサイル撃ってきたら、個別的自衛権で対応できるでしょ。あんたたちが無理やり押し通そうとしてる集団的自衛権の話とは関係ないよね。それにミサイルを撃たせないようにするのが政治なんじゃないの?」
という感じで、自衛隊の飛行機の緊急発進回数が10年前の7倍といっても冷戦期にはそれ以上の回数だったこと、安倍政権になってスクランブル回数水増し疑惑さえあること、尖閣諸島付近の船に先制攻撃をしたら国際法上相手に正当防衛権が与えられることなどを述べながら、バッサバッサと隊長を論破していきます。このあたりからが第二の山場。

「北朝鮮も核実験を繰り返しているし、最近はテロもサイバー攻撃もほんとに深刻なんだ。」
「サイバー攻撃とか言ってるヒマあったら、まずは年金の情報流出の件なんとかしてくんない?っていうか、テロって戦争に参加するから狙われるんだけど、あんたたちは戦争に参加できるようにしたいんだよね。自分の言ってることが矛盾してるのわかってる?」
「私たち日本人もいろんな脅威にさらされているんだ。」
「狂った政権が一番の脅威だってのは、私もビックリだけど。」
「そこで問題なのはね、今ある法律ではね、いくつかスキマがあって、万が一の事態に対応できないということなんだ。」
「その前に政府の答弁のスキマもなんとかしてくんないかな。」
その後、アメリカの軍艦で邦人避難時や、ミサイルでの日本攻撃時に応戦するアメリカの軍艦を守れないとか、その設定がいかにおかしいかを説いていきます。
「いやだからさ、日本が狙われてるんだったら個別的自衛権じゃん。このかなり無理ある設定をなんで集団的自衛権を説明しようとしてるの、おかしくない?」
「おかしいよね。」
「あんたの言ってることがね。」

大爆笑、腹を抱えて笑えます。いよいよさらにこの問題の核心に迫っていきます。
「日本人の安全を守るため、いろいろな法律を点検してスキマを防ぐこと、そして協力し合って日本を守ることが大事。」
「そうね、それ自体否定しないよ。」
「そうすることで抑止力がさらに高まり、戦争を未然に防ぐ、それが平和安全法制の目的なんだ。」
「直前までいいこと言ってんのにね、なぜそのための安保法制って説明には全くなってないのが、マジ怖い。むしろ、つけいるスキマを増やすことになるだろうね。」
「抑止力が高まれば戦争が起きにくくなる。」
「抑止力って言葉、ほんと好きだよね。対テロ戦争にそんな抑止力なんて利かないし、アメリカ見てみなよ。日本は今まで戦争しない国として様々な平和貢献をしてきた。特に紛争地域、貧困地域における民間レベルの活動はほんとに大きな信頼を得てる。それこそが一番の抑止力でしょ。なのにそんなことも無視して、無駄なマッチョイズムを政治に持ち込むわ、そのために憲法違反まで犯して突っ走っちゃうわ・・・。あんたんとこのボスに一言伝えてあげてよ、『狂ってますよ』って。簡単でしょ。」
「そんなに簡単じゃないんだ。」
「でしょうね。」
「でも、何重にも備えることは大事。」(ここで隊長の姿が増殖する。)
「増えてんじゃねえよ、キモいな。」

そして、積極的に国際社会の責任を果たすことを強調する隊長に対し、あかりちゃんはそれを肯定しながらそれは戦争に参加することとは別物だと言い返します。そして人道的な貢献の幅を増やす(戦争参加)ことの重要性を説く隊長に、今現在現地で働く日本人NGOや医師たちがこの改悪法案に猛反対していることを告げます。最後に、政府が狙っているのは経済的徴兵制、貧困に陥った若者が自発的に自衛隊に入隊するよう仕向けることであること、選挙権を18歳に引き下げたのもそのためであるとあかりちゃんは指摘します。(そうか、国立大学の人文社会学系学部の廃止もここにつながってくるわけか。)

「絶対にあり得ない。だって、だって、だって・・・」
と繰り返す隊長は、破綻している論理を壊れたレコードのように繰り返す安倍首相を髣髴とさせます。
「ほらね、その先言えないでしょ。図星だもんね。あんたたちが間抜けなことばっか言ってる間に、国会前は法案に反対する人であふれかえるよ。もし来てくれたら、主権在民っていう中学で習う単語について教えてあげるね。待ってますよ、佐藤正久議員。」
「ははっ、お手柔らかに。」
See you.

お見事です。これほど秀逸なパロディはめったにありません。細部に通じており全体もよく見えており、問題の争点をスキマなくカバーしています。冷静にここまでできるのは政治学者でしょうか。そしてユーモアがあって女性?そんな人いたかしら。

2015年7月27日月曜日

「国立大学の人文社会学系学部の廃止について」

 このことはすでにインターネット上ではだいぶ前から取り沙汰されていたようですが、私は知らずにいました。うかつと言えばうかつだったのですが、新聞報道等が少なかったこともさることながら、文科省がここまで狂っていたとは想像していなかったことにもその原因はあります。これはもうすでに2014年9月に文科省が国立大の組織改革案として「教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換」を各大学に通達したことに端を発しているのですが、ほとんど報道されなかったのは、経済効率至上主義が産業界だけでなくメディアにも国民全体にも浸透しきっていたためでしょう。

 官僚というものは何か新たな制度を作ったり改革案を立てたりしないと、業績にならないのでしょうが、国立大学の文学部、法学部、経済学部等を廃止してどうしようというのでしょう。目先の目的は国民の税金を、理系や医療系のいわゆる稼げる学問に集中させることなのでしょうが、一連の流れを見るとその先の目標はもはや国民国家の解体なのだと思わざるを得ません。すでに小中高校と国語をなおざりにしてまで異常な英語重視教育をさせていること、従来の講義型の授業をしりぞけ教室でのアクティブラーニングを推し進めてきたこと等考え合わせると、国民から知性や思考力を奪いつつあたかも自分で考えているかのように思わせる愚民化に成功しているようです。この上、大学の人文社会学系学部を廃止すれば、膨らみすぎた大学進学率を減らすことができ、同時に黙って働く「安価で良質な」労働力を得ることができるようになります。産業界の要請に合致する改革なのでしょうが浅薄な考えです。

 今回の通達の代償は計り知れないほど大きなものとなるでしょう。一度失われたものはもう取り戻せないからです。アカデミズムが崩壊すれば、人文社会科学系、理系・医療系に関わらず真に先見性のある知的活動は日本では生まれなくなります。もうそうなりつつあるのだと思います。文科省の指導に従っていたら日本の教育は滅ぶ。せめて何もしないでほしい、「学校に手を出さないで」と叫びたい気持ちです。

 海外に目を向けた時、この対極にあるのは例えばユダヤ人の教育方法でしょう。ユダヤ人をユダヤ人たらしめている即ちこれをやめたらユダヤ人はもうユダヤ人ではなくなる教育とは、旧約聖書の学びです。詩編全150編の暗唱そのものは受け身の学びのように見えますが、その中身は飽くことなき神との対話であり、神こそ恐るべき唯一のお方という悟りと賛美です。ノーベル賞レベルの知性の核心にあるのはおそらくこれなのです。それは我が国がつい最近経験したスタップ細胞のような事件が起こりようのない土壌なのだと思います。

2015年7月24日金曜日

「高学歴ワーキングプア問題」

 高学歴ワーキングプアの問題が明らかになってきていますが、これは以前から存在したオーバードクターとどう違うのだろうかと疑問をもっています。学問と職業についてこれまで個人的に見聞きしたことをずっと昔からたどってみました。

高校の時、先生がフランス文学科の大学院を出た卒業生の就職先がないとぼやいていたこと。
大学院を目指す人が「ちょっと計算すると、就職するまですぐ35歳か40歳になってしまう」と言っていたこと。
大学院を目指すような人は能力的に優れており学問的探究心も旺盛だったこと。
大学院修士課程を出て外資系会社に入りその後転職した友人に、「あなたが学卒で都立高教師になったのは大正解だった。」と言われたこと。
大学院を出たあとに専任として大学にポストを得た人は、ある意味世渡りがうまく外向性を必要な時に発揮できること。
高名な学者の中には、研究者として生活費を稼げない間、養ってくれる連れ合いがいたこと。

 こうしてみると、40年も昔から高学歴になるほど専門を生かした就職は狭き門であり、ポストを得られるかどうかは性格や運に左右される部分もあるということがわかります。現在の状況が問題視されているのは、基本的には以前のオーバードクター問題と本質的なところは違わないのですが、周辺部の状況が大いに変わり、それらが積み重なって質的変容を遂げたように見えるためです。

大学進学率が飛躍的に上昇し、また1990年代の大学院重点化政策により、学部卒で就職せずに大学院に進学する学生数が増加したこと。
大学院の定員を満たすため受け入れた(あるいは誘導された)学生の中には、以前ならそこで学ぶレベルに達していない者もいたが、博士号取得後、専任としての就職口が増えたわけではないので正規雇用にあぶれた人が大量に出たこと。
他方、ポスドクと呼ばれる博士研究生の職が創出されたが、絶対数が足りず、3年程度の期限付きであり、かつ概ね35歳が上限という制約のため、いつまでも継続できる職ではないこと。
2007年4月施行の学校教育法から、助教(以前の助手にあたる職階)の採用が場合によっては期限付きの任用制になり、任期内に業績をあげないとクビになる可能性が出てきたこと。
昔と違って、返済義務のない奨学金が無くなり、ほぼ強制労働付学生ローンとなり果てたこと。(これは学生の身分を失った途端、返済義務が生じることを意味する。)
グローバリゼーションがそれこそ世界中に広がり、一分一秒を争って国境を越えて昼夜休みなく動き続けるため、社会全体が経済的にも時間的にも余裕がない状態となったこと。
グローバリゼーションに対応するため、効率最優先、成果主義、短期的業績評価、数値目標至上主義といったものが、まるで何かにとりつかれたかのように急速に社会を席巻したこと。
 
 こんなふうにちょっと思いつくことを書くだけでも、本当に気が重く憂鬱になります。非常勤講師を掛け持ちしながらなんとかギリギリの生活をしている方々を思い、胸が痛くなります。大学の千人枠の採用が一見公募であっても実はコネであるという指摘もあります。思うにこれはとても難しい問題です。求職者に対しこれほどポストが少ない中で、まっさらな公募ということはあり得ないだろう、無理からぬことだと部外者でも想像できてしまうのです。そういえば、10年前くらいから高校にも高学歴者が職を求めるようになってきたのですが、覚えているのは、候補として来た二人のうち一人は語学で有名な大学の大学院を出られた方、もう一人はアメリカの大学を卒業した方だったこと(二人とも女性)。迎え入れる側の言葉は、「もっと普通の人いないの?」でした。高校は研究機関ではありませんから、こういった場合最も優先されるのは「一緒に気持ちよく仕事ができるかどうか」ですが、大学だってそう変わらないのではないでしょうか。能力や将来性などより、快活な性格や礼儀正しさだといったら言い過ぎでしょうか。

 あらためて考えると、自分が曲がりなりにも定職に就けたのは偶然の産物に過ぎなかったことがよくわかります。能力に恵まれず知的好奇心もなかったこと、実社会で働きたいという思いが強かったこと、それまで教師に恵まれてその職によい印象をもっていたこと、金もうけに興味がなかったので会社は眼中になかったこと、キャリア教育のない時代で他の職業について無知だったこと。ありがたいのは、公平に見ればマイナス要因と見えることが結果的にプラスに作用したことで、「禍福はあざなえる縄の如し」です。もちろん時代的な幸運も大きかったと思います。今ならきっと非正規雇用だったでしょう。

反戦活動家 Antiwar Activists



 平和を愛する種族です。70年間平和を守ってきました。一度も戦争をせず、他国の兵士を一人も殺さずにきました。「普通」じゃなくて、「変だけど平和な種族」でいいのです。
安保法案に強く反対します。

  We, Japanese dogs and people, are the tribes that love peace.  We have lived together in peace with other countries for 70 years.  Never did we have one war, nor did we kill one soldier in any countries in 70 years.  We are definitely strange tribes but, what is more important is, we love peace.  There is no advantage in war, that’s for sure.
  We are strongly against the security bills forced through the lower house by Abe.


2015年7月18日土曜日

「ここがロドスだ、ここで跳べ -今ここで行動するー」

 イソップ寓話の中に、ロドス島でならオリンピアの優勝者にも負けないジャンプができたと自慢した陸上選手が、「ここがロドスだ、ここで跳べ。」と突っ込まれたという話があります。「今」でない時間、「ここ」でない場所はないのです。いにしえの賢人は「いつかできることはすべて今日でもできる」と言っています。

 先日、安保関連法案が衆議院を通過しましたが、私が感じた一番大きなことは、マス・メディアの完全な死でした。その日国会中継をしなかったNHKは無論のこと、他の民放も国会周辺のこれに反対する人々の様子をほとんど伝えることがなく、これによりもはやテレビには報道媒体としての資格がないことを自ら表明しましたし、政府はすでにそれらを御用媒体として掌握していることを認めざるを得ませんでした。

 安保法案の代りに衆目をひくため持ち出されたのは、新国立競技場の問題でした。この二つの報道のされ方はどう考えてもバランスを欠いていました。しかしこの新国立競技場白紙撤回により明らかになったことこそ、安保法案をめぐる危険とダブるものなのです。
責任者がいない →(戦争責任をとる人がいない、みんな自分は巻き込まれただけ。)
始めは小さった予算が手におえないほど膨大になる →(ちょっとのはずだった武力行動範囲を際限もなく拡大する。)
計画がずさんで選手の希望は二の次 →(初めから問題解決の多様なシミュレーションが皆無で、あるのはアメリカ従属の軍事行動のみ。国民の命や生活は蹂躙してもよい。)

 先日、信頼できる方からのメールで安保法案反対のサイトの紹介がありました。民主党に親和性のあるサイトなのかもしれませんがとにかくメッセージを送りました。福島にいるとあまり伝わってこないのですが、国会周辺の地下鉄の駅でどう見ても政治性のない若い女性が、「デモに行こう」という手作りのプレートをもっていたりする・・・という現象も起きているようです。皆できる範囲でできることをすればよいのだと思います。あとになって「私は反対だったのに。」などと言っても意味がないのです。

 率直に言って、戦後の民主主義が本物だったかどうか、今試されているのだと思います。生存権を脅かし戦争に巻き込もうとするのが他ならぬ自国の政府なのです。平和を守り二度と戦争をしないということは、慰霊碑を建てたり記念碑の前で不戦の誓いをしたりすることではないとあえて言いたいと思います。二度と戦争をしない平和な国であり続けるということは、端的に政治と無縁の自分が、自分にできる範囲で今ここで声を上げ行動するということなのです。
「ここがロドスだ、ここで跳べ。」

2015年7月15日水曜日

「紅春 67」

 先日、入院先で7か月ぶりに愛犬と会った方のご様子を聞きましたが、犬によって相当違うものだなと考えさせられました。欣喜雀躍して跳びついたのかと思いきや、ごく平静でしかも「おすわり」などの指示を出しても全く言うことをきかなくなっていたというのです。それまでは必ず命令に従い、リードを離して散歩できるすなわち呼べば必ず駆けてくるのは家族の中でその方だけだったというのですが。このような反応は犬種によるのか、それぞれの犬の個性によるのかわかりませんが、洋犬と日本犬では若干違うのかもしれません。

  例えば縄文の昔から人間と一緒に暮らしてきた柴犬は、そのお墓も人間の隣りに丁重に葬られた跡があるそうですが、言うことをきかせる対象というより家族の一員という位置づけになっているように思います。うちではりくに何かを教えるということをほとんどしておらず、また必要もありませんでした。教えても自分の意志でお手はしないということがわかってから、父はそういう芸(人間に対する卑屈な行為)を一切させなくなりました。りくにはりくの考えがあるのです。りくは家族が帰ってきた気配があると、うれしくてたまらないというふうに食事中でも戸口にダッシュして待っていますし、私が年に2回しか帰省できなかった時も、うれしさをどう表現していいかわからないような歓待ぶりでした。
 
 りくは愛情深いだけでなく本当に賢い犬です。
おもちゃとそうでないものの区別ができる。これは何でもないことのようですがすごい能力だと思います。与えられたおもちゃは遊んでかじってぼろぼろにしますが、置いてある靴下等にそのようなことをすることはありません。
体がぬれている時は布団に上がらない。これはお風呂に入れた後に気づいたのですが、普段はすました顔で私の布団に乗っているのに体がぬれている時はその手前にあるラグの上にいます。
土手の車止めポールをうまく抜けられる。これも教えたことはないのですが、散歩してくれる人と一緒に抜けないと、首が「オエッ」となることをわかっています。
トイレを知らせることができる。りくが居住まい正して10分ほどもおすわりをやめずじっとこちらを見ている時、もしかしてと思って連れ出すとたいていトイレなのです。粗相をしないようにりくはちゃんと気をつけているのです。(たまにただ外で遊びたいだけということもありますが・・・)
「りく、えらいね。りくはおりこうさんだ。」
といつも褒めます。人間より賢くてこわいくらいです。

2015年7月14日火曜日

「安保法制反対緊急アピール」

 先日、大学時代の同級生から、母校で安保法案緊急抗議集会があるので、さしつかえなければ賛同署名とメッセージを送ってもらえないかという旨のメールが来ました。ネットでこの企画を開いたところ、呼びかけ人の名前からすると学生・教員合同の実行委員会のようで、OBやOGにも参加を呼び掛けていました。集会自体はもう終わっていたのですがそれでもよいとのことでブログに書いていることを簡単にまとめて送りました。前に書いたことがほとんどですが再録します。ちなみに署名・メッセージを送った人は、7月13日18:00現在631人になっています。

 安保法案、これほどはっきり戦争がしたいという表明も珍しい。このところ安保法制の審議があるので見るともなしに国会中継を見ていたが、現政権下で行われていることはあまりにもひどい。1つだけあげると、いつのまにか無断で英語版から ”on Japan” をはずし、武力攻撃を受ける対象を日本だけではなくしている、という指摘があり(太田和美 維新 6月26日国会質問)、英語版だけ読む限り、もうすでに世界中どこでもアメリカの関わる戦争に巻き込まれることになっているようである。国会中継が見られるうちはまだいい。5月末に集団的自衛権の行使容認などを含む安全保障関連法案の国会審議が開始された時には、この審議をNHKが中継していなかった。それまで中継してきた重要な法案の国会審議をNHKが流さなかったのは異例の事態で、ここまで状況は切羽詰まっている。
 7月7日の自民党のネット番組「集団的自衛権って何?アメリカの言いなりに戦争するの?」で、安倍首相の解説に守るべきお友達として出てきた「アソウさん」は、「ナチスの手口に学んだらどうかね。」と言って問題になった財務大臣であり、もう一人のお友達「スガさん」は、憲法学者が三人とも安保法案を違憲であると述べておおもめにもめた時、「違憲かどうかを決めるのは学者ではない。最高裁判所だ」と言った人である。しかもその時持ち出したのが、最高裁が高度に政治的な問題として判断を停止した砂川判決。最高裁が安保法案を合憲と言うなら、もう遅いかもしれないが、次の総選挙の国民審査で全員罷免するしかないのではないか。
 首相はこの法案を打ち出した時、「米国の戦争に巻き込まれるという不安を持っている方もいるかもしれない。そのようなことは絶対ない。」と述べた。法案が通りさえすれば手段を択ばないのは東京オリンピック招致の時と同じである。「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている。」、「(福島第一原発の)状況はコントロールされている。」と、国民が誰ひとり信じていないことを全世界に向けて発信しものにしたのが、成功体験として残ったのであろう。
   They more readily fall victims to the big lie than the small lie, since they themselves often tell small lies in little matters but would be ashamed to resort to large-scale falsehoods. (Hitler A 「Mein Kampf」(James Murphy訳))
「彼ら(大衆)は小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲者になりやすい。なぜなら彼らは、しばしば些細なことで小さな嘘をつくが、大がかりな欺瞞に頼ることを潔しとしないからだ。」 (「わが闘争」 (1925)
 安保法案に関連する内閣総理大臣安倍晋三の発言は、アメリカと密約しながら「非核三原則」を声高に唱えてノーベル賞までもらった政治家で大叔父の佐藤栄作と同じレベルの大嘘である。

 率直に言って、この法案の今国会での成立を阻止するのは難しいかもしれない。しかし重要なのはあきらめないことだ。まだ打つ手はあるだろうし、不幸にして法案が通ってしまったとしてもそれで終わりではない。かつて人が手にしていなかったネットというツールは大きな力になるかもしれない。私自身ITに疎く、このような緊急企画があったことを知らず遅れてしまったが、最後に昔駒場の立て看にも書かれていたというヤセンスキーの「無関心な人々の共謀」の一節と、1937の年頭の新聞に野上弥生子が書いた分を紹介してメッセージとします。

「敵を恐れることはない……敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
友を恐れることはない……友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
無関心な人びとを恐れよ……かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、無関心な人びとの沈黙の同意があればこそ、
地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。」 

「…たったひとつお願い事をしたい。今年は豊年でございましょうか。凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、…コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように」

2015年7月13日月曜日

「長靴の復活」


 ここ数年、大雨、ゲリラ豪雨、洪水等が普通のことになりつつあります。もう日本の南半分は亜熱帯の気候なのです。そのせいかどうか、雨の日の女性のファッションに変化が起きています。
「こんな妙齢の御嬢さんが、魚釣りに行くみたいな長靴はいて街中を・・・」
と、目を丸くしたのが一昨年あたり。私はもう何十年も一目で長靴とわかる履物をもっていませんでした。福島に帰ると父の長靴があったのでりくの散歩の時に履いたりしていましたが、東京では雨でも普通の短靴か、せいぜい丈の低いブーツしか履いたことがなかったのです。
「東京で長靴履いてもいいんだ・・・・。」
力を得てさっそく膝下まであるデザイナーズブランドの長靴を履いてみました。こうなると雨が待ち遠しく梅雨の季節がうれしいくらいです。実際試してみると、大雨で小さな滝のようになっている道でもジャブジャブ歩いていけて豪快な気分になってきます。何にしても憂鬱な時期をちょっとでも楽しく過ごせるのはありがたい。やはりこれはあの歌を歌いながら歩きたいものです。
「雨 雨 ふれふれ 母さんが 蛇の目でお迎え 嬉しいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」

2015年7月9日木曜日

「紅春 66」

  今年は5月に暑くなり、まだ下毛のとれていなかったりくはバテ気味でしたが、毛の抜け替りは6月くらいまで続き、その間りくは気の毒なほど見るも無残な感じでした。下毛がごっそり抜けたところは円形脱毛症のようになっていて、次に抜けそうなところから下毛がポッポッととび出ている状態だったのです。(写真はこの頃のもの) 

 羊のようにバリカンで刈れたらどんなにいいかと思ったほどです。下毛の量は半端なく毎日ブラッシングで際限もなく取れるので、何かの病気ではと怖くなったくらいです。6月も半ばにやっと落ち着いて、厚手のセーターを脱ぎ捨てたりくは今とても涼しそうです。ただ、「あっ」と驚いたのはりくのしっぽ。お風呂に入れたあと判明したのですが、ふさふさでくるんと巻いたトレードマークのしっぽがほとんどごぼうに毛が生えたくらいの細さになっていました。ああ、可哀そうなりく、んな貧相なしっぽになってしまって・・・。これまでも夏は毛が抜けていたのですから、やはりこのみじめなしっぽの主因は加齢と考えるべきでしょう。こんなところにも年齢が表われるとは。

2015年7月8日水曜日

「国籍とお国柄」

 7月5日の「柴犬とオランダ人と」(というブログ)にギリシャの国民投票のことが載っていました。日本での報道のされ方でもモラル崩壊的なギリシャの現状にあきれ、うんざりしている雰囲気がありありとわかりましたが、このブログを見るとさらに一歩進んで、EUの中心メンバーたる国がギリシャをどうみているかよくわかり、まさに思った通りの反応でした。

 筆者のご夫君のオランダ人が、「カオスだね」と他人事のように語っておりましたが、あの態度はヘルベルトでもまったく同じだったでしょう。ヨーロッパは一つといっても北と南では民族が違うし、気質が全然合わないのです。公には口にできないことですが、北の人たちは腹の底で南の人たちをばかにしきっているのを言葉の端々に感じます。本国の一大事にあたって500ユーロの飛行機代をかけて投票のためにギリシャに帰った同僚の話が出てきましたが、北の合理的な社会生活になじんでしまうと、もう一人の同僚のようにギリシャ人やめてドイツ国籍をとる人がでてくるのも無理からぬこととうなずけます。

 もう一つ面白かったのが、これに関連して筆者が父親から最近聞かれたという言葉、「ミユキは何人(なにじん)なの?」 この場面に柴犬のセナが、「あなたの娘は今も変わらず日本人です」と答え、ご本人も、「何があろうと日本国籍死守しますよ!」とコメント。そうです、そうあるべきです。どこのことだったか記憶があいまいなのですが、昔列車でヨーロッパ大陸を移動していた時のこと、「国境を越えるってどんな感じかな。」と思っていたら、車掌がパスポートを確かめに来ただけで拍子抜けしました。その時、たまたま同じ座席に乗り合わせたバックパッカーのイタリア人と台湾人の女の子のうち、台湾の女の子の方が車掌に連れて行かれてしまいました。彼女のパスポートでは入れなかったのです。

  パスポートに厳然たる価値の差があることを目の前で見たのはこれが初めてでした。その点では日本のパスポートはほぼ最強です。パスポートは国籍のある国で発行されるものですが、どこで生まれたかで待遇が天地の差ほども違ってしまうこれほど理不尽なものもないでしょう。これに関してはただただ日本人に生まれた幸運を感謝するしかありません。国の先人たちが明治以来営々と努力し、国際社会に築き上げてきた地位を象徴するものなのです。ありがたいことです。

2015年7月4日土曜日

「ブリティッシュ・フィルムズの時代」

 私は音楽や映画にはめっぽう疎い。iPodなどを手放せない人は多いようですし、よく宣伝している有料多チャンネル放送を利用している方もいるでしょう。しかし私はそのようなものが無くなっても全く困らない人間です。今までずっとそうだったと思っていたのですが、若いころのごく短い期間、映画にはまっていた時期があったことを最近ふと思い出しました。

 おそらく30年ほど前のこと、何をとち狂ってしまったのか確か年に百本近く映画を、レンタルではなく映画館で見ていた時期がありました。ハリウッド映画は娯楽的側面が強くそれはそれで気晴らしにはなったのですが、イギリス映画が急に流行った時期があったと記憶しています。映画史的にブリティッシュ・フィルムズの時代というものがあったのかどうか知りませんが、私の中では間違いなくそういう時代がありました。たぶん全部が全部イギリス資本の映画ではなかったのだろうし、また監督も英国人ばかりではなかったのかもしれません。ただひたすら、美しい英国の風景の中で、こちらは間違いなく英国生まれ英国育ちのただひたすら美しい俳優さん、女優さんを描くという映画だった・・・。あれは何だったんだろう。ああ、懐かしいなあ。

 あのマイ・ブームはたぶん2年と続かず、すうっと潮が引くように終わったんだっけ。あの頃の映画に出演していた面々は今どうしておられるのでしょう。イギリスの俳優さんといえども積み重なっていく年齢が無残な痕跡を残さない方は少ないだろうと思うと、現在の姿は知りたくない気もします。サー・ジョン・ギールグッドとかデンホルム・エリオットとかイアン・ホルムとか、どこから見ても英国でしか存在しえない生え抜きの方々は、その点では稀有な俳優さんなのでしょうね。