2014年4月30日水曜日

「コピペ問題」


 STAP細胞騒動で学生諸君はコピペがどれほどの災厄をもたらすか身に染みて思い知ったことと思います。例の件ではあまりにわかりやすいお粗末さが、インターネットの集中砲火を浴びてあっという間にあらわにされてしまいましたが、この問題はそれほど簡単ではないなという気がします。

 まず、言葉で述べられる以上、言葉自体をオリジナルなものにするわけにはいきません。日々女子高校生が生み出しているような言葉で書けば誰も理解することができないのは言うまでもありません。また、書かれる論文はこれまでの先人の研究成果の上になされるのですから、少なくともそこまでは独創性に出番はありません。ニュートンでさえ、「私はガリレオという巨人の肩に乗っていたから遠くまで見渡せた。」というようなことを言っていたはずです。ですからこの部分は手際よく自分の言葉でまとめるか、すでにまとまっているものを引用と明記して使うしかないことになります。学生ならこれも勉強になるかもしれませんが、この部分にあまり力を割きたくはないでしょう。

 問題はそこから先ですが、何百何千という研究者がしのぎを削っている中でそうそうオリジナリティに富んだ大発見があるわけではないだろうし、或る現象から全く違った結論が引き出されることもそんなにはないだろうから似たり寄ったりの結論になるのではないでしょうか。つまり真に書かれる価値のある論文はそれほど多くはないだろうということです。

 文科系の学問ならいっそうその傾向は高まるのではないかと思います。私などは、「あ、これこそまさに私が書きたかったことを、私以上に的確に書いてくれている。」と思うことが(ごくまれにですが)あります。これが高じると、「自分で書く以上に自分の書きたいことを代弁してくれているのだから、自分の文章と同じではないか。」まであと一歩、コピペに走る気持ちもわからないではないのです。各大学では学生のレポートの「コピペ率を測定する」ソフトを導入していると聞きますが、たぶんその上をいく「単語を差し替える」ソフトやら「文章の構成を換える」ソフトだってあっても不思議はありませんから、そうなるともう「自分の文とは何なのか」ということは自明のことではないように思うのです。